No.405 大晦日、もっと残酷に
二〇二〇年、大みそかの午前六時半すぎ。
窓を開けると、もう早朝の気配だ。
ごみ収集車が駆動しているらしいエンジン音と、どこかのシャッターが押し上げられる音、台車が押し運ばれる音がしている。
早朝の東横線が走り抜けていく音が聞こえる。
わたしは今年も石油ストーブを過剰に焚いて、大きな薬缶に湯を沸かし、部屋に水蒸気を満たしている。
先ほど、例年のことだが、昨年の大みそかに書いた、自分のコラムを読んだ。
かくもまあ、うつくしい文章を書くものだと自分でびっくりした。
毎年、大みそかには大慌てで文章を書くようにしているが、何について書くかは前もって決まっていないため、この当日になって書き始め、書き始めてから考える。
この日にならないとこの日に湧いてくるものはわからないからだ。
どういう内容にするべきか、どういう内容になるべきか、どういうタイトルがつくべきか。
今、「もっと残酷に」というフレーズが湧いてきている。
それを仮題にして進めていくが、タイトルはそのままになるかもしれないし、変更されるかもしれない。
(外はすごい冷え込みだ、寒いので窓を閉めよう)
誰でも一度は、大みそかなどに、一年のことについて、この日に湧き上がってくる何かを書き留めてみようと思ったことがあるかもしれないが、そのように思ってわたしと同じことをしても、そこにはたいへん残念な、見るに堪えないものしか出てこないだろう。
おれは今、わざと、サイテーな文章になるように、内容のない、ちぐはぐで散逸した文章を書いている。
一人称がころころ入れ替わるのなんて、一般的には文章作法として最低の部類だが、おれの場合は例外だ。
おれのように極まっているものは、文章作法を必要としない。
おれの場合は、極まっているというか、正確にはその向こう側まで行ってしまったので、文章作法など必要ないのだ。
文章作法というのは、基本的に書けない奴が守るべき、涙ぐましい秩序でしかない。
そして、その秩序は、涙ぐましいまま、きっちり守るべきだ。
それは、お前らみたいなモンは、実際に涙ぐましい奴らだからだ。
突破していない奴が作法を破ることほど見苦しいことはない。
おれは、オステルリーでバカ食いして、フィンガーボールなしに手づかみで食ったとしても、「この人にはすべてが許されているので問題ない、うつくしいことだ」と視認されるのみで、そうして向こう側に至っている者以外は、ちゃんと作法を守る必要がある。
オステルリーで実際にフィンガーボールが出てくることなんてほとんどないよな……
この一年間は、すさまじい一年間だった。
と、同じようなことを毎年言っているような気がしないでもないが、それはまあおれが生きた一年間なんてどの年でもすさまじいに決まっているにせよ、今年は特にという感が強い。
コロナ騒ぎがどうこうということではない。
コロナ騒ぎがすさまじかったのは、基本的に諸外国であって、日本はびっくりするぐらいの優遇と留保を享けている。
諸外国のコロナ騒ぎを見ると、ここでタイトルに「もっと残酷に」とつけるのは気が引けるが、まあしょうがない、だからこその「もっと残酷に」なのかもしれない。
今年の一年間がすさまじかった理由は、単純には、おれが「リミッターを外したから」ということになるだろう。
さまざまな証言から、また状況証拠から、さらには学門から、入念に審議して勘案した結論として、おれが一般的に必要とされている節度や常識を、一般ていどに尊重しておくことは、あまり意味がなく、さらには巨大な不利益だと判断されたのだ。
それでおれはリミッターを外して活動し始めた。
すると、おれの周囲の人々は、素直になり、呼吸を安らがせるようになった。
おれに教わり習う者は、とんでもない成長や飛躍を得るようになった。
ふつう、人ってそんなふうには変われないだろうというところを、努力うんぬんではなく、いきなり突破して飛び越えてしまうということが次々に起こった。
それを飛び越えた当人には、飛び越えたという自覚すらないのだ。
気づいたときには、飛び越えたあとの地点に立っているので、「えっ別に変わっていないつもりですけど」と当人は思っている。
ところで、今見返してみたら、この一年間は、コラムはなんと三本しか書いていないじゃないか。これはさすがに少なすぎるよなあ。
毎日、無理やりブログ記事に詰め込んで書いてしまっているので、コラムに書くということが減ってしまったのだ。
さらに正確に言えば、正直、楽しくコラムに書いている余裕はまったくなかったということになる。
余裕がなかったのだ。この余裕のなさは、この一年間のこととして特筆すべきことにあたると思う。
コロナ騒ぎで、逆に激烈に忙しくなったというのは、きっとかなり例外的なことだろう。
リミッターを外したせいで、忙しくなったというか、いつもフル出力で、ビビるぐらい余裕がなくなったということを、この一年間のこととして確認しておきたい。
そのフル出力と余裕のなさは、今この瞬間にふと思い出しても、心底ゾッとするほど、キツいものだった。
以前は一定の節度や常識をリミッターとして課し、それがおれの障害になっているという状況だったのだが、それは同時に、あるていどおれを安らげている装置でもあったようだ。
おれはこの一年間、特にコロナ騒ぎで状況が変わった九か月間、とにかく追い立てられ、追い立てられることで、これまで「いくらなんでも無理だろ」と思われていたものを、やすやす突破していくという能力を得た。
やすやすとは言っても、実際にはやすやすでもないし、能力といっても、もはや能力なのか何なのかよくわからない。
明らかに無理、ということは変わっていないのだが、それが明らかに無理なまま、結果だけ見ると突破できてしまっているのだ。
毎回、明らかに無理でありながら、なぜか毎回、突破してしまっている。
それが明らかに無理ということは、つまりそんな能力はないということなのだが、そんな能力はないまま突破しているので、何のこっちゃわからんのだった。
今も、でたらめに書きながら、こんな散り散りになった文章をひとつにまとめるのは無理だとしみじみ感じている。
明らかに無理なのだが、これが突破されるのだ。突破されるということだけがなぜか先に知られている。
突破する能力があるのかというと、そんな能力はないので、どうやって突破しようかと、すでに考えることさえしていない。
おれは今、なぜこんなものを書いているのかわからないし、読んでいる奴だって、今なぜこれを読んでいるのかわからないのだ。
何について書いてあり、何について読んでいるのか、お互いにまったくわからないまま、この明らかに無理なものが突破される。
この現象は、相当激しくてハードなものであるらしく、これは少しでもやりすぎると、頭痛になってブッ倒れるということが、経験というより、今この瞬間の感覚としてすでに分かっている。
脳みそが頭蓋骨の外側に出ようというような勢いになるのだ。
そのあたり、なんとか頭痛にブッ倒れるとか、キツいことにならないように、やりきれるようになればいいなと、来る新年に向けて希望を抱いているところだ。
おれは目的でないものに向かっている。
目的でないものに向かうということは、ふつうの人のまともな感覚では決してできない。
目的でないものに向かうと、おれが「ギャーン」と呼んでいる、ちょっとまともでない現象が起こる。
これはまともでない現象でありながら、おれが唯一、まともで素敵だと思う現象だ。
おれはどうやら、若いころ、このギャーンの現象だけを追ってきたようだ。それが最近になっていろいろ人の役に立つように、偉大なるおれさまとして人にわかりやすい表示や教授に努めたのだけれど、年末になってちょうどクリスマスプレゼントのように、ギャーンに回帰するということが起こった。あるいはそれが与えられた。
おれが今、目的ではないものに向かって書いているので、読んでいる人も、目的ではないものに向かわされているのだ。それでわけがわからない感じがする。
そこには「ギャーン」という感触、一種の共鳴のような、干渉する電磁波のような、動的な光のような性質が発生する。
ギャーンは共鳴するのだが、正確にはその共鳴じたいを言い表すのに「ギャーン」と言っているのであり、この世界で共鳴するものといえばギャーンだけだ。
目的でないものに向かうとき、「わたし」は吸いだされ、吸いだされたわたしはすでに一般的なわたしではなくなる。じゃあ何になるかといってギャーンになる。
「わたし」が何かと共鳴するなんてことはないのだ。「わたし」つまり自分というものは、世界から分離されているから「自分」という字があてられている。
自分が何かとひとつになるとか、自分が何かと共鳴するとかいうことは決してない。
驚いたことに、解決される主体というのは、まさか「わたし」「自分」ではなかったということなのだ。
主体というとふつう誰にとっても「わたし」であるはずが、おれはもともと、外に吸いだされてわたしではなくなったそれを主体だと勝手に思っていたらしい。おれにとってはそれがすべてのスタート地点だった。
このことが、他の人々にとってはあまりにもわけがわからず、あまりにも視認不能なので、おれはやむをえず、位を落として「偉大なるおれさま」という、視認のしやすい表示をした。
「偉大なるおれさま」といえば、いちおう「わたし」「自分」があるので、とりあえず一般の感覚でも視認は可能だ。
といって、視認するだけでは、やはり解決の糸口にはならないので、そこからさらに位を落として、説明のためには「天才」のおれを用いた。
おれはもともと、ギャーンにしか傾倒しておらず、さまざまな手法を凝らしてきたが、けっきょくはおれを正しく慕う健気なアホどものために、彼らをギャーンに導く手続きを工夫してきたにすぎないようだ。
人の魂は、目的でないものに百パーセント向かったときのみ、その目的でないものに吸いだされて、真の主体――「わたし」でない主体――であるギャーンになる。
ギャーンになろうとするのではなく、それは勝手にギャーンになるのだ。共鳴しようとするわけではなく、それじたいが共鳴であり一種の光でしかない。
そう聞くと、何かスゴそうで、何かステキそうに思えるかもしれないが、ふつうはどうしてもそれを目的にしてしまうから、そこに吸いだされてギャーンになるということは起こらないのだった。
この一年間を振り返って、強引にひとつのことをまとめるならば、おれがリミッターを外して、そのせいでビビるぐらい余裕がなくなり、代わりに「明らかに無理」なことが無理なまま突破されることが当たり前になって、頭蓋骨が割れそうになってブッ倒れることもありながら、結果的におれの出自であるギャーンに帰参させてもらえた、今度はエントランスへのラダー(階段)つきで、ということになる。
おれは天から降りてきた存在ではないので、ただおれの出自がギャーンであるにすぎない。
天から降りてきたものがあるとすれば、それは別のもので、ギャーンじたいが天から降りてきたものだというべきだろう。それが何なのかはおれもまったく知らない。
どうもそれがおれの元々の出自だというだけで、それが何なのかはおれは知らない。
ただ、そこに「わたし」以前の主体が存在しており、それだけが真の主体だということ、その主体はギャーンと共鳴して動的に光る存在だということしか言えない。またそれ以上のことを言う必要がある感じがまったくしない。
まさかおれ以外のものがおれの主体だったとはなあ。
(とはいえ、とりあえずは頭痛でブッ倒れないようにしないと)
唐突に、わけのわからないことをさらに言い足してしまうが、おれが何かを求めてそれを得るということがある。
それにしたって、求めて得るというのは、これまでになかったものを得るのではなく、もともとおれのものだったものを、返してもらう、ということで得るのみだ。
もともとおれのものでないものを、おれが得るということはないし、おれがそれを求めるということもない。
おれが何かを求めて得るというのは、それがもともとおれのものだったから「返してもらう」と求めて得るだけであって、もともとおれのものでなかったものを、おれが求めたとしてもおれが得るということはない。
おれが、あなたの食っているフライドポテトを「よこせ」と求めるとき、あなたはそれを、「お返しします」という感触でおれに差し出すはずだ。もともとそういったものはおれのものだったということを、あなたは魂のどこかで知っているはず。だから、おれにフライドポテトを差し出すときに不満や譲渡を覚える人はいない。
おれのものをおれに返しているだけだ。
そう言われたら飛び上がってよろこぶ人がすでにたくさんいるはずだ。
おれがあなたのものを奪ったり借りたりするのではなく、もともとおれのものだったものをあなたに分け与えてあるだけだ。
それが、自分のものではなく、おれから分け与えられたもの、借りているものでしかないと知ったとき、またそれをいつでもお返しするのだと知ったとき、あなたはわけのわからない莫大なよろこびに包まれ、また、自分が分け与えられて借りて使うなどしているすべてのものが、本当の姿を取り戻して大きな美を取り戻してよろこぶ。
それはあなたのものではなくておれのものだったから、そのときから美を取り戻すのだ。
自分のものだといつのまにか思い込んで、ガメて振り回していったものは、びっくりするぐらい醜く萎れていっただろう。疲れ衰えて荒んでいっただろう。
おれの言っていることは、わけがわからないだろうが、すでにわけのわからないことを直接操作するというようなことは、基本中の基本になり、「どうだすごいだろう」というようなたぐいではなくなった。
現代人がしのぎを削っている感受性やセンスのすべてなどは、むろんすべてウソのポコチンでしかなく、そんなもので芸術を気取ろうとするから、すべての人々が愚にもつかない専門学校生のノリになってしまった。
「もっと残酷に」というのは、特に若い人々において、魂はまだ絶望的な状況にはないということだ。
二〇二〇年、何が流行ったかというと、ゆきぽよやみちょぱやあいみょんやフワちゃんやキメツが流行したのだと思う。実に投げやりな言い方だがしょうがない。
M−1グランプリにおいては、マヂカルラブリーが優勝したらしいが、正直なところたった今検索をしてそれを確かめたのであって、実際にどうだったのかは露ほども知らない。
さらに正直に言えば、一瞬、「優勝したのってミルクボーイだったっけ?」と、去年の情報が混線するありさまだった。それが去年の情報だというのも、今検索して知った。
「鬼滅の刃」も一ミリも観ていないので知らない。全集中の呼吸、をするらしい、という断片的な情報が得られているのみだ。登場人物のコスプレがたまに出てくるが、名前の字が読めないので、何かキメツの何からしい何か、という認識しかできない。
グルメジャンル芸能人が不倫でトイレで買春していたという情報も流行のネタとして聞き及んでいるが、それがどういう経緯で、どういう会見がされたのか、実のところまったく知らない。
去年の大みそかにも、すでに似たようなことに言及しているが、あれが一種の予言となって、さらに予想していなかったコロナ騒ぎが追加で人々を踏みつぶしに来て、いよいよ完全に、無数のことが終わったのだと思う。過去に、これまでに、信じられてきていた無数のことが、この二〇二〇年にキッチリ踏み殺されて滅亡したということになる。
すべての流行りは、「死に流行り」になったと思う。シニバヤリという言い方もカッコよくていいではないか。
どんなものが流行ったにせよ、それは流行った初めから死んでいる。むしろ死んでいるからこそ、それは死んでいる人々に流行したと言いうるぐらいだ。
どれだけ流行している Youtuber がいたとしても、当人がそれを真の誇りにしているということは決してない。
この視点は、いかにもシンプルで、かつ現在のすべてについて正鵠を射抜いていると思わないだろうか。思わない奴がいたとしたらそいつは深刻なアホだから極刑に処する。両親に特別性のアホチップでも埋め込まれて育ってきたに違いない、そういう恣意的なアホは考慮に入れない。
年末にやる、すでに国民行事みたくなった「笑ってはいけない〇〇」は、素直に楽しみにしている。あのシリーズだって変質してしまって過去のそれとは意味が異なるのだけれど、それでもあの特番をやっている人々には、あって当然の「誇り」がまだあるように思う。
現代における死に流行りはそれではないのだ。死に流行りは、いかに流行していても、よりにもよってその当人に誇りがない。
死に流行りは、当人に「自慢」だけが発生し、「誇り」はまったく発生しないというのが特徴だ。
自分の流行に、内心で自ら唾を吐かなくてはならないという、苦しさと死臭がこの死に流行りをわかりやすくしている。
グラビアアイドルがおっぱいをぶるんぶるんさせて、その自分が大流行すれば、そのファンともども、自分も含めて内心でどこか「死ね」と言いたくなるしかないのだ。何の誇りもない自慢だけの膨張に、「わたしも含めてみんな死んでしまえ」と、薬物なしには直観してしまうよりない。
「もっと残酷に」というのは、こうした死に流行りの当事者たちも、そのことに苦しみ続けるだけ、魂は残っているという希望に向けて言われている。
それにしても、二〇二〇年、本当に何もかもが終わったということは、改めて特筆に値すると思う。
どんな Youtuber も、どんなツイートも、どんなマンガも、どんなインフルエンサーも、どんな映画も小説も、どんな活動も、どんなスタイルも、もはや一ミリも誇りを生じることはなくなった。
人々は、自分の魂が滅ばなくて済むように、真にカミサマの前で報告できる誇りを求めているが、どうしても誇りが得られる可能性は皆無で、代わりに人を踏みつけてマウントが取れるのみの自慢だけを獲得していく。
おれはネガティブなことを言っているのではない。このことがネガティブな捉え方とされたのは、もう過去のことだ。今はもうただの事実になった。
それでもやはり、すでに滅亡してしまったすべてのものを、それでも耳を塞いで顔を引き攣らせ、かつてのようにそれは存在すると信じこむふりをして、引き続き縋っている人々は少なくないのかもしれない。
死に流行りに群がる人々はいっそ、そうして死んでいったすべてのものを、まだ死んでいないと言い張って、なんとか自分たちが発狂しないように、軟着陸できるフェーズを待ち焦がれているのかもしれない。
こうして、気がつけばわずか数か月で、本当にすべてものがことごとく死に絶えていくというのは、そうと予想していたおれにとってさえ驚くべき威力があった。
このことを、まったく予想もしていなかった、またこれまでに自分を満足させる誇りを得てきてはいない人にとって、このことの威力は、「驚くべき」なんてぬるい表現では言い表せないだろう。
「そんなことはありえない」と、全面的に否定するしかないはずだ。
「もっと残酷に」ということを、より本質的に、かつ具体的に言っておきたい。
これはおれの愛の話だ。
二〇二〇年にふさわしく、漠然と、ゆきぽよみたいな女性を一人イメージしてみよう。
おれは、おれの書く文章が面白くなくてはいけないので、読み手のみなさんの期待に応えるために、いつもすさまじいことを平気でぶっ放して書き話すが、実際に目の前にいる人に向けてメチャクチャを言うかというと、そんなことはない。むしろおれはほとんどの場合、目の前の誰かに「口出し」じたいをしないものだ。目の前で誰かが覚せい剤を注射していても、「あーあ、もう末期じゃん」としか言わないだろうし、「何かそこまでしなくて済むようになるといいなあ」ぐらいしか言わないだろう。
だから、たとえ目の前にいる人がどのようであっても、おれの側から何か余計な口出しをするということは基本的にない。悪霊を取り込む挙動を猛烈にやっていたとしても、おれは「そんなもん当人の自由だし当人の選択だろ」としか思わない。
向こうから、何か意見や idea が欲しいと求められないかぎり、おれの側からの口出しはない。ただ、相手が未成年の場合などは、年長者としてあるていどの口出しや制御はするようにしている。それは社会的なことであって、社会的に未成年は自己決定能力が十全と認められていないからだ。
それでも、基本的にはすべて当人の自由で当人の選択だと思うので、おれがよく言うのは、「おれの前ではやるな」、そして「それをやるならおれの前には来るな」だ、おれは小中学生のガキが同級生をいじめているのを見ても何も思わないが、おれの目の前でやっていると「ヨソでやれ」と言う。おれの近所でやられるとおれがムカつくというだけであって、いじめを問題視してのことではない。
まあそんなことはどうでもいいか。
大晦日だ。「もっと残酷に」。
ゆきぽよみたいな女性が目の前にいたとして、その女性は、おれに対しては何の関心もないだろう。それはまっとうで、健全で、当然のこころだと思う。おれはそういう実際の現場で、男尊女卑や年功序列の感覚はまったく持っていない。
だからおれとしては、まったくそのままでいいのだが、これまでに何度も見てきたこと、おれが彼女に対して愉快そうに、
「あなたがおれのことを好きになることなんて永遠にないよ〜」
と言うと、きらきらしていい調子だった彼女が、急転直下、暗澹とした何かに落ちていくのだ。
おれが何かをしているわけではまったくない。
このたびに、おれは「おれの予想していたのと違う」と感じて、何か別のムードになっていってしまうのだった。
おれの予想しているのは常に、
「あなたがおれのことを好きになることなんて永遠にないよ〜」
「ですよね〜」
「好きになる以前に、あなたがおれのことを認めることじたい永遠にないっしょ」
「そりゃそうですよ〜」
というやりとりだ。
おれが目の前の彼女を見ているかぎり、やりとりは必ずそういう運びになるべきだし、そういう運びにしかならないはずだという確信がある。
おれは、百パーセント、彼女の意にバッチリ適合して、そのとおりの言葉を厳選して話しているのに、彼女は急に胃の腑が凍りついたような表情になり、目の色を失っていくのだ。
おれはその瞬間、「えぇ……」と落胆し、内心で、
(な、何の不満があるんだ〜)
と嘆くのだった。
こういうとき、おれは呆然とし、「おれにどうしろってんだ」と、何か果てしないことに気が遠くなる。
整理して言うと、まず、彼女がおれのことを好きになるなんて永遠にないことだ。おれがそう断言しているのだからこのことは確実であって紛れはない。彼女がおれのことを好きになることは永遠にない。
そして、彼女がおれのことを好きになることは永遠にないということを、彼女自身も大いに肯定している。一種の直観によって、絶対にそうだという永遠の確信がある。
にもかかわらず、その絶対の永遠確信によって、彼女は自ら暗い淵に落下していくのだ。
そんなわけはないではないか。たとえばフェミニズムの闘士たちだって、おれを好きになることなんて永遠にあるわけがない。
それは自ら選んだところであって、当人として何の曇りもないことのはずだ。ところがそれをそのまま肯定すると、なぜか知らないが急に、暗い淵に落下するのだ。
バカみたいな話だが、じゃあ文脈上は、「おれのことを好きになる可能性を残してほしいのか?」ということになる。文脈上はそうだが、当人の選択としては「いえ、絶対にそれはないです」「それだけは絶対にノーです、ありえません」ということになるだろう。だからおれとしては、「おれにどうしろってんだ」ということになる。
なぜ、おれのことを好きになることは永遠にない女が、自らそう選んでおいて、そのとおりでハッピーにならないのか、おれは途方にくれるのだった。
自分で選んだとおりにそれが永遠に実現されるのだからそれでハッピーになれよとしかこちらとしては言いようがない。
ああ、今話していても、まさにおれは途方にくれる感触が戻ってくるが、目撃してきたシーンから情報を統合すると、このことはどうやら彼女の知らない現象であり、彼女が初めて経験する現象のようなのだ。
おれが彼女に対して、「あなたがおれのことを好きになることは永遠にないよ」というと、彼女のこころと認識においては、まさにそのとおりで「よろしい」と二重マルがついてヒマワリの花が咲く具合なのだが、なぜかそこでヒマワリの花は真っ黒に枯れていって、わけのわからない奈落におちていくようなのだ。
おそらく彼女は、自分にそうした体験が起こるということを、これまでに一度も知らないまま、おれのことを好きになることは永遠にないと、先に自己決定してしまったのだと思われる。
たぶん実際の体験をまるで得ないまま、先に契約書にだけサインしたのだ。
彼女にとって、必要なものといえば、ネタが面白い Youtuber であり、フワちゃんでありキメツであり、「ドルガバのせいだよ〜」であり、生活を安定させてくれるイケメンなどであったろう。
明らかに、彼女にとって、おれのことを好きになる可能性など永遠に一ミリも要らない。
だから、そのとおりで契約書にサインしたのだが、実際にそのとおりにおれがおれの声で、おれの言葉でそのことを言うと、わけのわからない奈落の暗い淵へゴーだ。
やはり本稿のタイトルは「もっと残酷に」になる。
その奈落がどれだけ直視しがたい暗闇であっても、話を入れ違えることはできない、やはり、
「あなたがおれのことを好きになることは永遠にないよ」
二〇二〇年は、本当に何もかもが、きれいさっぱり滅んでいくという、どうしようもない威力を目撃する一年だった。
このことに向けて、おれはこれまでよりも「もっと残酷に」言い続ける。なぜ残酷に言うかというと、残酷に言うとおれがすっきりして救われるからだ(ひでえ)。
そしておれがすっきりして救われるということでのみ、おれのことを好きになることが永遠にない人も救われうるだろう。
おれが実際に目撃するものを、なるべくそのまま書き記しておこう。
おれが目の前の女性に、「あなたがおれのことを好きになることは永遠にないよ」と言うと、女性はエッという反応をして、一種の凍りついたような表情を見せる。
この反応は、ゆきぽよみたいな女性でも、芋っぽい女性でも同じだ。
彼女が、おれのことを好きになることなど永遠にないということは、彼女にとって一種の自負であり、価値観においては彼女を大いに励ます。
にも関わらず……
やはり人には、何かしらの魂があるのだ。それがカミサマに帰るものか悪魔に売り渡したものかは知らないが、そのどちらであれ、どうやら魂と呼ぶべきものは残存しているらしい。
そして、若い女性においては特に顕著なこととして(とはいえすでに、老若男女どれも同じようなものだが)、何か魂の直観として聞き取ることがあるのだ。
つまり、目の前のおれについて、
(こいつはマジで「永遠」のことを言っている)
というのを直観するようなのだ。
単なる熟語として「永遠」を言っているのではなくて、マジでそれを視認している奴から、それを言われているということを、そのとき直観として聞き取るらしい。
もちろんそんなことは、当人の意識に認められはしないし、言語化もされない。いきなりそんな高度なレベルに意識が追随できるわけがない。
だからつまり、彼女としては、永遠をマジで視認している奴に、その視認に基づいて「あなたがこちらに来ることは永遠にない」と断定されたと聞こえるようだ。
それで、わけがわからないまま、「確かにわたしがそちらに行けることはない」と直観して、その直観に対して巨大な絶望を覚える、といった具合だ。
ひどい話だが、それでも人々は、「永遠」についての話を求めているという様子がある。様子というより、それはおれの見てきた事実だ。
「永遠」について話が聞きたく、そしてほとんどすべての人にとって、永遠について直接視認している人のまなざし、声、姿、言葉、感触、届いてくるものというのが、すべて生まれて初めて出会うものということのようだ。
ずっと「永遠」について話が聞きたくて、ついにどうもマジっぽい目と声と姿と言葉を持っているそれに出会ったのに、それに出会った時点で、「あなたがこちらに来ることは決してないよ」と言われるしかなく、それについて当人も「そのとおりだ」と直観してしまうようなのだ。
二〇二〇年の、すべての死に流行りは、どれか一つでも、あなたをどこかへ連れて行ってくれそうに思えただろうか?
一万円セックスに用いる多目的トイレに火炎瓶を投げこんで「わたしの永遠!」になるとは、おれには到底思えない。かといってその当事者を芸能界に復帰させたとしても、それが永遠の獲得になるともやはり思えない。
人々は「永遠」について話を聞きたがっている。
そして今、おれが「永遠」について話すということは、ことごとくについて、「もっと残酷に」話すということだ。
おれの言っていることは、実にしっちゃかめっちゃかで、一般的には世迷言だが、これでも大きく制限して話しているのであり、さらに真相に踏み出せばもっとぶっちぎりでしっちゃかめっちゃかだ。
そろそろ、おれの言っていることやその文脈、スタイルも理解してもらえると思うので、ここで仮に、
「あなたの言っていることはデタラメの世迷言だ」
と言う人があったとしたら、おれがどのように反応するのかは予想がつくかもしれない。
シンキングタイム……
おれの反応は単純で、
「それでいいですよ」
おれはそうしか言わない。おれは基本的に、他人の自由と選択に口出ししないたちだ。人それぞれに信じているとおり、その選択と判断のとおりになればそれでいいと思っている。
だからおれは、
「それでいいですよ」
としか反応せず、そしてお察しのとおり、おれが「それでいいですよ」と言ったとたん、やはり向こうが同様に暗い淵に落下していくという、もう飽き飽きのパターンを目撃してきたのだった。
わざわざおれに対するヘイトを百パーセント肯定してやっているのに急に暗い顔をしないように。
何のことはない、 "自分で選んだ国に帰っていく" だけなのだから、そのヴィジョンを急に自ら目撃したからといって、暗い顔をするのは筋違いというものだろう。
とはいえ、おれも神経が甘いので、アホみたいな言い方をすると、「ワンチャンないかな?」とは思ってしまう。
ゆきぽよみたいな女性が、おれのことを好きになることは永遠にないのだが、それでも目の前でとんでもない青ざめ方をしていくということがあり、ましてそんな現象に触れるのが生まれて初めてということなら、ぎりぎりワンチャン、泣きの一回ということで、可能性を残す方法はないだろうか。
方法というのはないだろうが、おれは正直、そうであってくれたらいいなと思っている。
節度を取っ払って言うと、ほとんどというよりすべての人が、あまりにもお決まりの定番として、「こんな人に初めて会った」と言うのだから、これまでそういったものに触れる機会がゼロのまま、「いやすでに魂の行先は決定していて変更不能でーす」というのは、あまりにも悲しいと思うのだ。
実際、おれの目の前で、そのゆきぽよみたいな女性は、「無理とは思いますが、ワンチャンないですかね」という顔をとっさにしている。
おれはそれをみっともないとか見苦しいとかは思わない。
そこで、生まれて初めて選択の機会に触れたつもりが、「あっ、あなたはすでに選択済みです」はひどいだろう。
ぎりぎりワンチャンあるかというと、基本的に無理だ。本稿のタイトルは「もっと残酷に」となっている。それがすっかり無理になり尽くしたから、おれは今この話をしている。
これまでは、何とかぎりぎりに踏みこたえて、「まだワンチャンありますよ〜」とアホみたいに喧伝してきた。それがいよいよ今年二〇二〇年を経て、そのワンチャンスも潰え切ったから、今こういう話をしているのだ。
そして二〇二〇年、おれが何をしてきたかというと、それはすさまじい一年であって、明らかに無理ということを、明らかに無理なまま、なぜか結果的には突破しているということをしてきたのだった。
そのためにリミッターを外して、おれにはビビるぐらい余裕がなかった、そういう一年だった。
おれが何かを求めて得るというとき、おれはもともとおれのものだったものしか求めないし、もともとおれのものだったものしか得ない。
だから、ゆきぽよみたいな女性が、もともとおれのもので、もともとおれのことが大好きだったという、すべての話のブッ飛ばしでしか、そのワンチャンスはありえない。
そんなもん、向こうのチャンスじゃなくて、ただのおれの頭蓋骨の危機でしかない。
あなたがおれのことを好きになることは永遠にない。
が、あなたがおれのことを好きになる必要はそもそもない。
あなたはおれのことが好きではないのだから、おれはあなたの「目的」ではないだろう。
目的でないものに向かうことは不可能ではない。
目的でないものに向かうと、人の魂は吸いだされて、向かっている目的でないものそれじたいになる。そのときあなたの魂は、吸いだされてもはやあなたではないギャーンになる。
それはもうあなたではないので、あなたがおれのことを好きになることはないとかあるとか、そんなことは関係なくなる。
おれは正直、おれのことを好きになることが永遠になかったはずの女性が、暗い淵に落ちていく手前で吸い上げられて、何もわかっていないくせに直観で、その全身とまなざしで「ありがとうございます」と思いきり言う瞬間が好きだ。
女性が、いくら見た目がカワイイふうでも、中身がバイブレーション悪魔(by エイドリアンライン)ではそれをかわいいとは思えないので、そうではない、おれは女が悪魔だと言いたいのではなく、女は本来悪魔であってはいけないと言いたいのだった。
そういう意味で、女の子は本来かわいくあるべきと思うのだが、すでに多くのケースにおいて、それは「明らかに無理」のたぐいになってしまった。
二〇二〇年、終わったすべてのことの中で最大のものは、きっと「女の子がかわいい」が終わったことだと思う。
女の子がかわいい、ということが終わってしまった。
この先もう二度と、女の子が、誰か男性から「かわいい」と思ってもらえることは永遠になくなったのだ。
残念ながら、もうどのように努力しても無駄だ。
と、おれみたいな奴がたわごとを言っても何の影響もなさそうなものだが、なぜか、おれが目の前でそう言うと、エッとなって青ざめ、魂は暗い淵に落下していく。
マジで永遠を視認しているらしいそのまなざしと声と姿と言葉に対し、なぜみんな急に直観だけは優れてあるんだと、おれはずっと不思議に思っている。
「もっと残酷に」というタイトルにならざるをえない。
あなたがM−1グランプリを観ていて薄々感じることと、ミスコンテストを観ていて薄々感じることは、まったく同じなのだからしょうがない。
M−1グランプリを観ていて本当に面白いとは一ミリも感じないし、ミスコンを観ていて本当にかわいいとかうつくしいとかは一ミリも感じない。
よって、本当に面白い男と本当にかわいい女の子が出会って恋仲になるなんてことはもう決してないのだ。
二〇二〇年は本当に何もかもが終わった。
これまでに信じられていた何もかもが、ことごとく「明らかに無理」になりきった。
明らかに無理なものは、明らかに無理なので、明らかに無理なまま……突破されることがあればいいなあ。
おれはこの大みそか、二〇二〇年を振り返り、今まさに、何もかもについて「明らかに無理」と断言することを選んだ。
もう何もかもが明らかに無理なのだ、誰だって本当は気づいているだろう。
そして、おれがこの一年間でやってきたことは、明らかに無理なことを、可能にするということではなかった。
明らかに無理なことを、明らかに無理なまま、結果的に突破することだった。
だから可能にする必要なんかない、明らかに無理なままでいい。能力なんかどうせわずかも通用しない。
もっと残酷にいこう。無理なままでいいのだ。あなたがおれを好きになることなんて永遠にない。
おれはただ、もともとおれのものだったものを返してもらうだけだ。
というわけで、何の組み立てもせず散り散りに話したものが、こうしてひとつの話にまとまるという、明らかに無理なことが、やっぱり結果的に突破されていることに、おれは一人でビビっているのだった。
幸い頭痛にはならずに済んだ。頭蓋骨セーフ。
というわけで、本年はたいへんお世話になりました。来る新年もどうぞよろしく。
[大晦日、もっと残酷に/了]