No.406 魂について言えるように[オンラインWS資料]
現在、二〇二一年の一月八日、午後三時を回ったところ、今日は金曜日だ。
去年の三月からコロナ騒ぎがあり、ワークショップうんぬんを、ここまでオンラインで継続している。
オンラインワークショップの開催は、今のところ実質クローズだ、クローズとはどういうことかというと、今は新しい人を受け入れる態勢になく、これまでのメンバーでやっているということ。
オンラインといっても、アカウントやら ZOOM 会議やらで、けっこう個人情報の問題もあるので、見知らない人を受け入れられる態勢にない。
オンラインでどういうことをやっているのか、おれは公開してもいい腹積もりはあるのだが、公開するならするで、おれはけっきょくノンフィクションの「いいもの」を提供するつもりはない。
ノンフィクションのいいものは、いいものであり必要なものだが、けっきょくわれわれが求めるものではないし、われわれを解決するものでもないからだ。
偉大なるおれさまがなんでそんなしょーもないことをお前らのためにやってやらなきゃいけないんだ、ということになる。
だから単なるノンフィクションの「いいもの」はやらない。
もちろん、ノンフィクション方面でも大いに「めっちゃいいっすよ!」となるものは、イージーに提供していきたいとは思っているのだが、この宇宙のすべての「いいもの」をノンフィクションで集めたって、結果なにもいいことにはならない。
それは百点満点で死ぬだけだ。百点満点だが不合格きわまりないというアホな状態になってしまう。
ノンフィクションのこととしてワークショップをやるのであれば、それはノンフィクションの人がやればいい。おれはそういう、真面目で立派な人ではない。
世の中に、「おれが愛されるためだけにすべてをやる」というような、とんちきなワークショップは、おれのやるこれのほかには存在していないだろう。
なぜ、受講者などというたわけたものが、何かいいことになりたがるというような、どうでもいいことを世の中に増やさねばならないのだ。
この世界においては、おれだけがナイスでイイのであって、それ以外のものが何かいいものになりたがるなどということは、笑止千万、マイナス二十℃に冷やしたシーチキンを食え、ということになる。
というわけで、オンラインを含めたワークショップでどういうことをやっているのか、いずれ動画などで公開する腹積もりはあるのだが、それは、一般的に想像されるような単純な形にはならない。
じゃあ、その一般ならざる形を早く整えろというところなのだが、このことに案外時間が掛かってしまったのだ。
去年の十一月からそれをやっているのだが、他のこともやりすぎて、予定がパンパンの上に魂を使い果たして無理っスになったのだった。
本当は、この一月には、そういう新しい形をお見せしたかったのだけれどね。
そして、おれとしては珍しく悔やまれるのは、この新年、松の内の直後には緊急事態宣言なんて言われて、この厳冬期にたいへんヘヴィな気分になる中、本当なら、このご時世に、みなさんが毎週とっても「楽しみ」に出来ることが提供できたのにと、そのことが悔やまれるのだった。
おれが間に合っていれば、この調子こいたコロナ増殖騒ぎのカウンターとして、「そんなことより楽しみが出来てしまった〜」と多くの人がなったのだが、まあ間に合わなかったのだ、しょうがないのでそれぞれコロナ騒ぎで憮然として耐え抜くように。
こんなもん、憮然として耐え抜くしかないわな。
とはいえこの先、二か月もすれば、局面は新しくなるから、そこまで先の見えないトンネルでもない。
何もかも変わってしまった、みたいに言われるが、そうではない、別に何も変わってはいない。
マスクと消毒に憮然として耐えているだけだ、元の世界に戻れるかうんぬんではなく、変化などしていないのだから元の世界なんてものは存在しない。
前置きが長くなってしまった。
正月から緊急事態宣言かよということで、さすがにこれはヘヴィだわとおれも思う。この厳冬期に、ただでさえ身体的にはしんどいのに、ガチガチの防疫をして過ごさねばならない。
この状況で、金曜と土曜に、さらに九折さんによるガチガチのオンラインワークショップはキツすぎるだろうということで、新年から新しい方針を取り込み、
「単純に楽しみなワークショップでもよくない? 少なくともしばらくは」
ということにした。
加えて、昨年を振り返ったとき、本サイトのコラムが大晦日のほかは三本しか上がっていなくて、それはさすがに少なすぎるだろうということがあった。
それは、デイリーでブログのほうに詰め込んで書いてしまうようになったからだし、ワークショップや、その他のこともてんこもりにしてしまって、楽しくコラムを書いている余裕がまったくなかったからだったが、さすがに本サイトの活性化も必要だと思っている。
そこで、この新年からの企画として、オンラインワークショップが現在クローズドであれ、「どんなことやっているのかなあ」ということの想像が少しつくように、その講義資料みたいなものを、コラムの形式で書いてみることにした。
現行のワークショップ員どもは、この資料に関わる話題を、楽しく愉快に、えんえん九折さんから語り聞かされるわけだ。
そしてワークショップ員のうち、気力の足りる奴は、いくつかの設問にも答えていく、ということになる。
これまでは、九折さんによる動画配信に対し、併せて設けられた問題を各員が回答していき、煉獄のように理解度を深めるということをしていた。
十九時から朝の五時まで講義ビデオを見て設問に回答しまくるという煉獄ゼミナールをやっていたのだ。そしてどうせおれがやることなので、その内容が精神を破壊するぐらいヤバい。
そのハードすぎる煉獄を、ぐっとエンタメ寄りにして、この正月からのコロナ騒ぎと緊急事態宣言のヘヴィさに対し、笑って過ごしてやろうじゃないかということなのだった。
この厳冬期に、マスクして帰って消毒して煉獄ゼミナールはキツすぎるからな。
おれの役割は、アホどもにクソほど学門をやらせて、かつ、少なくともこの一月からの数か月を、「すっごく楽しかった」という記憶にしてしまうことだ。
このしょーもないコロナ騒ぎに打ち勝つというのはそういうことだと思う。
というわけで、もともと本サイトの題目も「恋あいエンターテインメント」だったが、コロナ騒ぎに対抗して、ワークショップも「ワークショップエンターテインメント」の側面を立ち上げていくのだった。
まあこれだけ説明しても、根本的には何のこっちゃだと思うが、テキトーに想像の翼を広げてみてください。いつか、この資料に併せた動画も、公開することがあるかも……ないかも……
あ、忘れていた。
新年あけましておめでとうございます、本年もよろしく。
2021年1月8日 第220回 Quali's WS 資料
「魂について言えるように」
1.魂について「言える」ように
といって、本番の始まる四時間前からこんな資料を作りだすのってどうなのよ。なぜいつもこんなギリギリのキワッキワですべてをやるのだ。
おれはよく、「今ちょっとドタバタしていて」というが、おれは自分がドタバタしていなかったときが存在していないような気がする。
何が緊急事態だ、ふざけんな、おれは生まれたときから現在までずーっと緊急事態の中を生きてきている。
本番まであと三時間しかないし、その前にたらふくメシも食いたいので、今まさに緊急事態だ(毎日ずーっとこんなのばかりだ)。
さすがに校正している時間はないな、誤字脱字だらけだったらごめんね。
本番は、エンタメ寄りなので、違うネタばっかり話すだろうけれど、それはさておき……
魂について。
魂とは何ぞや?
それについて、おれが言うことはカンタンだが、おれが言い続けても、それはおれにしか意味がない。
あなたが言えるようにならなくては、あなたにとって意味がない。
これは読書や勉強におけるひとつのコツでもあると思う。
あなたが言えるようにならないと値打ちがないのだ。
魂について、あなたがどう思うか、ということではない。
あなたがどう思うか、というようなことについては、ただちに高度産業廃棄物の業者に連絡して、えげつないマイクロ波で焼尽してもらうように。
あなたがどう思うかではない。
おれの言うことを学んで、あなたがそれを言えるようになれということだ。
「魂」というのは「分からんこと」なのだ。
おれの言うことを、理解するのではなく、あなたが言う方法を覚えろ。
あなたが言えることが大事なのだから。それだけが大事なのだから。
たとえば、あなたが一人、夜の公園を散歩していると、木立の物陰に、首つり死体がぶら下がっていたとする。
……という、この話を、あなたが理解するのではない。
この話を、あなたが出来るようになるのだ。
夜の公園を散歩していると、木立の物陰に、首つり死体がぶら下がっていた。
そんなもん、怖いから、
「キャー!」
てなもんになるじゃないか。
それは当たり前だ。
当たり前なのだが、よくよく考えると、これはよく「分からない」のだ。
なぜかというと、厳密にリスクを見るならば、首つり死体には何の危険性もない。
生きているおっさんがそこにいるなら、一定の危険とリスクがありうるが、首つり死体はすでに死んでいるので、あなたに何の危害も加えてこない。
なので、リスクだけを厳密にいうなら、
「なあんだ、よかった、ただの首つり死体か。わたしには何の危険も及ばないわ」
とならなくてはならない。
が、普通そんなふうにはならないだろう。
普通は夜の木立に揺れる首つり死体を見てそれを認識したらただちに「キャー」のはずだ。
言っていることがわからん奴はテメーの自宅前に首つり死体を吊るすぞ。
死体がぶら下がっているのは怖いじゃないか。
何のリスクもないのに何を恐怖しているのだというナゾがある。
このあたりは、突っ込み過ぎると、逆にわけがわからなくなってきて混乱する。
一番いいところで整合を取っていくのがコツだ。
これもひとつ、物事を学び、自分のものにしていく基本技術だろう。
首つり死体が怖いというより、「死」そのものが怖いのかもしれない。
が、それを言い出すと、なぜ「死」が怖いのかはよくわからない。
死が怖いように、自分のことを設計したわけでもないので、「死体が怖いのではなく死が怖いのだ」とそれっぽく言ってみても、なぜ死が「怖い」のかはよくわからない。
このあたり、突っ込みすぎると混乱するのだが、本当はわれわれは、何一つわからない中を生きているのだ。
このことに気づくと、ほとんどの人はシャレにならない恐慌・パニックに陥る。
それは、本当に精神を損傷しかねないほどのものになるので、そうならないよう、視力を暈しているのだ。
そのことは問題2で触れていこう。
ともあれ、夜の木立に首つり死体がぶら下がっていたらただちに「キャー」だが、なぜ首つり死体が「怖い」のかは "分からない" ということ。
魂というのは「分からない」現象のことなので、今、「分からない」ことの具体例を示していっているのだ。
たとえば(この話を理解するのではなく、この話をあなたが出来るようになる必要があるのだ)、桑田佳祐はいい声をしている。ビリージョエルやボブディラン、マイケルジャクソンやジェームスブラウン、布施明や細川たかしや尾崎紀世彦もいい声をしている。
同じ歌をあなたが唄って録音してみても、「なんだこの声は」と自ら失笑したくなるようなものが録れてしまう。
あなたの声は、彼らのように「いい声」ではないのだが、じゃあ「いい声」とは何なのか、具体的にオシロスコープの波形を指さして説明してみろ。
オシロスコープの波形を、最新鋭のAIとスーパーコンピューターで解析していいから、科学的に「いい声」を説明してみろ。
こんな単純なことが、実は単純なまま「分からない」のだ。単純なまま、実はどうしても説明がつかない。
同じようなことがいくらでもある。
おれは昔、京都をでたらめに旅行していたとき、思いつきで、夜の嵐山、その渡月橋を歩いたことがある。
すでに真っ暗闇で、真冬、牡丹雪が斜め横に吹き流れていた。
吹き流れる牡丹雪に飾られて、暗闇に伸びていく渡月橋のその景色といったら。
「うおおおお」
そりゃうおおおおなのだが、この単純なことにしたって、何が「いい景色」「すごい景色」なのかはよくわからない。
午後一時のJR駅の景色と何が違うのか。
どちらが「いい景色」だなんて差分は決定できないじゃないか。
にも関わらず、実際には誰がどう見ても、吹き流れる牡丹雪に飾られた暗闇に伸びる渡月橋の景色に「うおおおお」となる。
なる、はずだ。このことはさらに問題が続く……
なぜなのかは「分からない」のだ。
単純でかつ、おそらく最も大切なことなのに、この肝腎なことの本質が、性質として「分からない」に属している。
あなたは、誰かにとって「いい人」になりたいだろうが、何をもって「いい人」なのか、その性質は「分からない」のだ。
あなたにとって大切なもの、最も必要とするすべてのことは、性質として「分からない」に帰属している。
あなたは最善を尽くして生きるつもりなのに、最善といっても、その対象は帰属として「分からない」のだ。
どうやって最善に生きるつもりなんだよ。
おれは理解しづらい話はまったくしていない。
この話には、一種のヤバさがあって、多くの人とって「正視できない」だけだ。
おれがあなたの目の前でこう言えばただちに理解されるだろう。
「じゃあほれ、『いい声』を出してみろ。今ここで、今すぐ」
そう言われて、「ほれ」と促されたら、その途端に視認されるだろう。
「分からない」のだ。
そんなものが「分かる」人はいない。「分かる」ものはニセモノだ。
「いい声」なんてものは、魂の問題であって、魂とは生きものの性質のうち「分からない」事象を担っているのだから、それを「分かる」にしている人はニセモノ・インチキ・オカルト・アホだ。
ただ、困りに困り果てるところ、それは「分からない」はずなのに、いい声が実際に出てしまう人は出てしまうし、どうしても出ない人はどうしても出ないのだ。
いい声が出せてしまう人は、分からないままそれが出せてしまうし、逆側、どうしてもイヤな声が出てしまう人は、どうしてもイヤな声が出てしまう。
それを出したくなくても、それが出てしまうのだ。
どうしてそういう声が出てしまうのかも、魂のことだから「分からない」。
だから、現代の多くの人が、「作り声」を出すのだ。自分の声ではない声。誰かの声でもない声。
なぜ作り声が流行しているかというと、言わずもがな、作り声にしないと「聞くに堪えない声」が出るからだ。
といって、作り声が聞くに堪えるかというと、堪えないので、やたら演出やコンテンツを付け加えるか、膨大な圧力で「空気を読ませる」ということをしなくてはならない。
魂は「分からない」の現象を、分からないまま担っている。
それは「分からない」にも関わらず、分からないまま存在してしまっているのだ。
だから、「この人の声をずっと聞いていたい」と泣きたくなるほど思うこともあるし、「この人は声を聞くのもイヤ、顔を見るのもイヤ」と、虫唾が走ったりどうしようもない生理的嫌悪が走ったりすることもある。
それはおれ自身に対してもそうなのだ。
おれの声を、ずっと聞いていたいと跳ねてよろこび人もいるし、「とてもじゃないけど耐えられません」と、猛烈に嫌悪する人もいる。
この差がどこから生じているのかも「分からない」のだ。
この、「分からない」ものから生じているものを、現象として魂と呼ぶ。
耳元でマイケルジャクソンが唄うより、耳元でフワちゃんが下ネタを言い続けるほうがいい、という人もいる。
これは悪口で言っているのではない。本当にそういう差があって、その差はどこから来ているのか「分からない」のだ。どちらが優れているとか劣っているとかがあるわけではない。
実際、おれはアニメ声を大音量で聞かされ続けると、「や、やめてくれ」となるのに対し、いわゆる声豚(声優オタク)の人たちは、「ブ、ブヒィィィ」とよろこぶのだろう。これはおれが悪口を言っているのではなく、社会通念上そういう悪口がスラングで言われていることを記録しているだけだ。ポリコレ団体に訴え出たら誰かが人権を保護してくれるのではないだろうか(といって、誰もその人権保護を請求はしないようなので、声豚の人たちはそういうことはあまり気にしないのかもしれない)。
ともあれ、魂について、あなたがこれらの話が出来なくてはいけないということ。
だからタイトルを「魂について言えるように」とした。
あなたが理解したことを言ってもだめだ、オメーに「話」を構築する能力なんかねえよ。
おれはいい話をしている。あなたにいい話なんかできねえよ。
いい話って、何がいい話なのかは分からないのだから。
おれだって、なぜいい話が出来るのかは分からん。分からんが、それが「出来る」というのは、「分からないままディールできる」ということだ。
何かを分かればディールできると思ったら大きな誤り。その誤りのまま七十歳まで生きたらあなたは本当にカスになってしまう。
【問題1.】
1)魂とは、( )もののことだ。
2)いい声が出るということは、それを(分かって/分からないまま)ディールするということだ。
3)それは「分からない」(のに、存在している/ので、存在していない)と言える。
4)魂が「分からない」現象のことだということを、いくつかの具体的な話で説明しなさい。(150字)
……というわけで、オンラインワークショップではこのように、普段はまったく触れないであろうテーマを(そしてほとんどの人は生涯に一度も触れないであろうテーマを)、九折さんのえげつない叡智によってめちゃくそに解き明かしていき、各員がそれに「ヒエエエエ」と悲鳴をあげながら回答していくという形で進むのだった。
だいたい一晩で、一つのテーマにつき、問題6とか7とかまで進む感じだ。
こんなテーマ、誰も解明できないでしょと思えるものを、ことごとく九折さんが完全解明していくので、脳みそがイカレること請け合いなのだった。
そんなことを、去年は九か月間も続けてきたのだった。
今年はもっとエンタメ寄りにする、いつかみなさんにも公開できたらいいなと、腹積もりはしている、うーん早く実現しろよなあ。
では今夜はこんな話が繰り広げられて、明日の夜も、また別のテーマ(ひょっとしたら同じテーマにするかも)で深入りしていくのだった。
「いいなあ、面白そうだなあ」と、指をくわえて残念がるように。
では、本年もどうぞよろしく。コロナ騒ぎに打ち勝っていきましょう。
(以下、たぶんこういう展開になっていきますという目次だけ)
(これらをエンタメトークの中で学んでいくという、実にうらやましい遊びなのだ、うらやましがるように)
2.視力
「分からない」現象が、分からないくせに存在だけしていて、あとはその現象への「視力」だけが問題になるのだが、もしこの視力だけMAXあってこの現象をガッツリ見てしまうと、恐怖その他によって――だって「死」とか天国・地獄とかをガチ視するからな――魂がコナゴナに砕けてしまうので、危ないし耐えられないから、あえて視力を暈す・麻痺させるという安全装置がはたらいているのだった。
3.身分
AさんもBさんも、その現象は「分からない」のに、Aさんだけ「いい声」をディールして、Bさんは「ダサ声」をディール(強制)ってのはキツくね? でもそれが事実だったらどう考えるべきか。
4.昇天、オーガズム、イク、coming
日本人はあの世に「いく」と言うけど、聖書方面って神の国が「来る」っていうよね。日本人はオーガズムのとき「いく」って言うのに、西洋人は「coming」と言うらしいね。
あなたはどこへ「いく」? あるいは何が「くる」? まあそれが分からなくても、その分からないところに往くのだろうし、分からないものが来るのだろうな。実際にその "予感" で人が死ぬことがある。わざわざ芥川龍之介が無自覚に自白していただろ。それが血の畑だったのかどうかはおれは知らん。
5.恥と栄光と背後の権威
お目当ての人をデートに誘ったり、裸になったり、人前で踊ったり、愛のポエムを公開したり、ことごとくは基本的に「恥ずかしい」じゃないか。この「恥ずかしい」をどう処理しているか、自分で気づいていますか。 "必ず" そこで、自分が選んだ「権威」に帰依する手続きをしています。たとえばあなたは、日給で一万円ももらえば、初対面のお客さんのことを平気で「〇〇様」と呼ぶでしょ? それはカネ・血・生きるパワーを「権威」として帰依しているということだ。あるいは、結婚したらファックが「恥ずかしくなくなる」ということは、婚姻制度・お上に帰依しているということだ。部活動なら大きな声を出すのに、あなた個人じゃ大声を出すのは「恥ずかしい」だろう?
6.恥の人と赦されている人
赦すのは「権威」。そりゃ権がなけりゃ赦せねーよ。
直接「恥ずかしい度」と「赦されている度」を測っていくべきっスよね〜
赦されているということは、何かをしなくていいということだ。
7.あなたの魂に何かをさせるということ
これはちょっとハイレベル。おれがやめるからあなたがするということ。
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