No.408 ようこそ! エンタメとインタメの区別へ
あらためておれは「ようこそ!」と言おう、あなたが惹きつけられておれの話を求めて聞きにやってきた、その日のことを忘れずに、今もなお続いていることとして。
ずいぶんなご挨拶だと思うが、おれはおれの話をしよう、おれは今も、エンターテインメントという馬鹿げたことを中枢に置いていて、そのことへの特別な魂と能力は、一切損なわれていないのであった。
おれの部屋の窓から吹き込む風に何ら劣化がないようにだ。
九月の空、十月の空は、いつまでも変わらないおれの空だ。
おれはこれまで以上に、自分の魂と能力が、エンターテインメントに基づいて爆発する、またさらなる高みへ、力を増していく、その確かな視認に昂っているところだ。
おれはこういうふうにやってきたし、これからも、こういうふうにやっていくから。
おれと同じように、誰もがやればいいというのは理想論だが、現実的には無理だ、おれのやっていることはあまりにもキツすぎる。
ふつうの人なら、人生をフイにして、すべてを投げ込んで生を賭しても、けっきょく何の実りもないまま斃れていってしまうだろう。
それぐらいキツい、何がキツいって……
おれのやっていることはタイムラインに割り込まない。
おれはウェブサイトを使っているが、おれの場合、印刷して冊子にして配送したって同じだろう。
あなたの手元に「今月号」が届けば、あなたは「やった」とよろこんで手に取って、通勤通学に読み、寝床で読み、湯舟で読むはずだ。
そして、それを友人にオススメしたいという衝動を持ちながら、あなたはやはり、自分がそんなものを読んでいることをナイショにしているだろう。
Youtube をブラウザで開くと、更新動画が一面に表示され、余った部分はサジェストが表示される。
便利な機能だ、ツイッターであれその他のSNSであれ、ブラウザなりアプリなりでそのSNSを開くと、更新されたものがタイムライン上に表示されるというのが最大の強みだ。
これによって、エンターテインメントは加速、するのではなく、滅びた。
一部に古参の天才格が残っているだけで、今すでに全体としては滅んだと、完了形で述べても差し支えない。
われわれの生きている世界について、あるがままを申し上げている。今、2021年、令和三年の九月だ。
タイムラインにインタラクトしてくるという仕組みによってエンターテインメントは滅んだ。
「インタ」ラクトによって「エンタ」テインメントは滅んだ。
かといって、今さらおれのやっているようなことを、全 Youtuber に強いるのはむごすぎる。
おれのやっていることは、おれが呼びこまねば終わりなのだ。
Youtube の場合、Youtube の画面さえ開いてもらえれば、更新動画はその一面に「割り込む」ことができるから、利用者の意識に「ああ」と発見してもらうことができる。
おれのやっていることにその機能はない。
おれの側から、おれの話を聞いている奴の手元に、情報を割り込ませる方法はない。
もしそんな方法があってもおれは採らない。
おれはツイッターもやっていない、そんなに毛嫌いしているつもりでもなかったが、おれは自分の「投稿」が他人のタイムラインに割り込みをかけるのがいやなので、もしアカウントを作ったとしても何も投稿しないだろう。
自分の表示しているものが……おれの場合、こうして書き話しているものがそれだが、これが他人の端末のタイムラインに割り込まない場合、どうなるだろうか。
どうなるといって、決まっている、おれが世の中のすみっこの端っこで、一人ひっそり、さびしく、むなしく、えんえん、誰に呼び掛けるでもなく、ぶつくさと書き物を表示し続けるのだ。
おれはそれでかまわないと思っている。いや、もちろんそんな寒いことではいけないのだが、そんな寒いことになってしまうとしたら、それはおれが寒い奴なのであって、寒い奴は正当に根こそぎ寒い思いをするべきだと、おれは思っているのだった。
少なくともおれはおれ自身に対してはそう思っている。
どういうことかというと、おれは基本、自分が「求められていない」と思っているのだ。
そのことについて、おれは至極まっとうな感覚だと、おれ自身に向けては思っている。
他の人がどうなのかは知らない。そんなことはおれの口出しする範囲のことではない。
おれの口出しする範囲のことではないし、もし現代の Youtuber が、自分のことを「求められていない」と冷然と見つめてしまったら、自分のピエロぶりに反吐を噴出してギャアアアと泣き叫んでしまうだろう。
Youtube 上に、見ず知らずの誰かの顔面とテロップがババーンと表示されているあれは、全員、自分が「求められている」と思ってやっているのだ。
おれは自分が求められているとはまったく思わない。
だから顔面をババーンと表示したりはしない。
といって、逃げ隠れしているつもりでもないので、いちおう著者近影も表示するようにしているが、近影といって写真も十数年前のそれを放ったらかしに貼り付けているだけだな。いいかげん更新するべきだろうか。
古い写真だからといって、ご心配なく、少なくともおれは老け込んでいるジジイではない。
かといって若さを気取っているヒマな奴でもないが……
おれは自分が加齢していくと、もっと致命的にどうしようもないものになっていくのだと思っていたのだが、さしあたりそんなことはまったく起こらなくて、たぶんこの先も「そういうことじゃない」ということが続いていくのだと思う。
エンターテインメントにそういうことはあまり関係ないのだ。
舞台上で唄っているサミー・デイビス・ジュニアが何歳かなんてことは誰も気にしない。
こうして「コラム」の形式で文章を書くのは久しぶりだが(情けない)、久しぶりに書いているはずが、相変わらずこの謎の力のはたらきかけで文章が書けるということに、驚いてくれている頭のいい奴は残っているだろうか。
頭のいいあなたに察せられているとおり、きょうび、こんにち、このご時世に、こんなはたらきかけの作用をもって文章を書くことができる奴は、もう一人も残っていない。
時代は毎週ごとメキメキ音を立てて変わっており、すべてのものが暴力めいた洪水で押し流されていくのに、その中で平然とおれだけがまったく変わらずにこれを保っているということに、頭のいい人は膝を震わせて驚いていい。
おれはインタラクトしなかったのだ。インタラクトしなかった奴が、こうして今も、エンターテインメントの中を生きてしまっているということだ。
今さら他の人におれと同じことをやれというのはむごすぎる。精神的にも能力的にもはっきり言って「無理」に尽きる。
おれはそういう無理を強いて人を苦しませるような悪趣味を持たない。
どういうことかというと、先ほども言ったとおり、今すべての Youtuber やインフルエンサーが、「タイムライン割り込み」の一切を放棄したら、どうなるかという話をしているのだ。
そんなもん、忘れ去られるに決まっている。
あなたはおれの話を何年も読み、聞き続けているのだが、そのことはすでに、あなたのする行為の中で特殊・特別・特例のことになってしまっているはずだ。
おれのやっていることは何のジャンルでもない。
おれがいつ記事を更新するか、あなたの手元には何の報せも届かない。
じゃあどうやってあなたがおれの新しい話を知るかというと、あなたがおれの書いているところへアクセスしてくるしかないのだ。
あなたが求めておれのところに来る、ということでしかこれは成り立たない。
だから、自分で言うのも気色悪いが、おれにはあなたに「ようこそ」と言う資格がある。
おれのほうからあなたのところへ割り込んだわけではないからだ。
あなたが求めておれのところに来たのだから、おれは「ようこそ」とあなたに言っていい。
あなたがおれのことを求めなくなったら、あなたはおれのところに来ない。
あなたがおれのところに来なくなったら、おれの側からあなたに呼び掛ける方法はない。
こちらから相手の手元に「割り込み」をかけられないというのは絶望的な状況だ。
おれはその絶望的な状況を十数年続けてきた。
だからおれが何千件も記事を書き続けても、その閲覧数は一日に何万、なんてなったりしない。
十数年やっても何の収益にもならないし、アフィリエイトが流行ったときには何度か声が掛かったことがあったが、けっきょく虫が好かなくて蹴ってしまった。
十数年やっても何の収益にもならないし承認欲求も満たされない、そんなことに魂を突っ込んで砕けと言われたら、ふつうの人は本当に砕け散ってしまうだろう。
おれのやっていることは正しいが、クソほどハードすぎて、事実上「無理」だ。
おれはその「無理」がやりたかったのでこれでよかったのだが、こんなことを標準にできないだろう。
標準にすべきだと思うけどね。
でも標準にはできないだろう。
パッと思いついて Youtuber を始めて一攫千金を夢見たいというわかりやすいことに比べると、おれのやっていること、またやってきたことは、わけがわからなさすぎる。
Youtuber になってみませんか、と言われると、多くの人は「えー? うーん、やっぱいいや」ぐらいに応じるだろうが、それは十分以上に常識の感覚に収まっているということだ。
それに比べたらおれのように一日に一万字ぐらい書いてファボなんかゼロのことを十数年続けてみませんかとかいうことは、誘われても「……?」としか反応できない。
おれのやっていることは今やすっかり正気の沙汰ではないということだが、それにしてもあらためて、
「思いついて Youtuber を始めて一攫千金を夢見たいというのは "正気" なのかよ」
ということは問いただされる必要がある。
問いただされる必要はあって、それについて明確な答えを提出する必要はないものだ。
歴史上、正気でないものがまかり通ったことはいくらでもあり、正気でないものがまかり通っていない時代のほうが探すのがむつかしい。
おれはエンターテインメントを正しいと思い、あきらかに無理があっても、おれは自分の選んだエンターテインメントのほうをやる。
あきらかに無理があっても、その無理を突破できる特殊なおれでなければ、おれがおれにとってつまらないから意味がないのだ。
率直に言うと、エンタメはインタメの一億倍むつかしい。
インタメなんて言葉は存在しないのだが、説明上、わかりやすさのためにデタラメな造語をしている。
Enter と Inter の違いだ。
これだっておれのテキトーな話にすぎず、本当に正しい語彙が知りたい奴は大学教授にでも聞け。大学教授だってそれぞれ怪しい人はいくらでもいるけれども。
Enter も Inter も「入る」という意味なのだが、Enter は「招き入れる・招き入れられる」「迎え入れる・迎え入れられる」という感じだ。
Inter のほうは「割り込む・割り込まれる」「割って入る」という感じだ。
だから、高速道路の入口は「インター」という。走行車線に合流するとき「割って入る」からインターだ。高速道路の走行車線に迎え入れられているわけではないからエンターではない。
大学などのサークルで「インカレ」と呼ばれているのがあるだろう。今や少子化の波でほとんどのサークルはインカレなんじゃないかと思うが、インカレとは Intercollege の意味で、一般には「大学間の」となる。「インターナショナル」などと同じだ。
早稲田の "インカレ" サークルに、慶応大学の学生が入るというようなことだ。
そうやって、同じ「入る」でも割り込んで入るものが Inter であり、ここで Enter college というと、これはただの「大学に入学する」になる。大学に入るのは合格して入るのであり、割り込んで入るのではない。
招かれて・迎え入れられて「入る」というのと、割り込んで「入る」ということの本質的な違いは何か。
ここに、アルファベットの A を四つならべて、AAAA と表示してみる。
ここに B が入る場合、たとえば AABAA となる。
このとき、A が主体になっていれば、それは A が B を「迎え入れた」「招き入れた」と言える。
一方、B が主体になっていれば、それは A に B が「割って入った」「割り込んだ」と言える。
これは必要な理、必要なロジックなので、頑張って視認していただく。
A が主体の場合、B が「入る」ことについて、A は「ようこそ」とも言えるし、「残念ですがお引き取りください」とも言える。A が主体だからだ。
B が主体の場合、B は「入ってやろうかな」とも言えるし、「いいや、入るのやーめた」とも言える。B が主体だからだ。
聞いていて面倒くさい話だと思うが、ここは踏ん張ってもらう。聞いているあなたより説明しているおれのほうがはるかに面倒くさいのだ、お互い踏ん張るところは踏ん張ろうじゃないか。
主体の所属が違うということ。
このことは、「求める」側はどちらかを併せて捉えると視認しやすい。
つまり、
【Enter パターン】
B「A に入ることを求める」
A「B の求めに応じて、B を迎え入れる・招き入れる、あるいは拒絶する」
【Inter パターン】
A「B に入ってもらうことを求める」
B「A の求めに応じて、A に入ってやる、あるいは入ってやらない」
という、まったく正反対の二つがあるということた。
どちらが主体で、どちらが求体かということが、それぞれ正反対の向きになっている。言うまでもないが「求体」はおれの造語だ。
よりわかりやすく、ここに或るライブ会場を設置してみよう。入場料は無料で、入場制限は特にない。色とりどりのライティングがステージを照らし、スモークが焚かれ、音楽がズンドコ漏れ聞こえている。
その前を通りかかった無垢な少年がいたとしよう。そこに立ち止まった少年は、どう思い、入口受付のおねえさんに対してどう言うか。
それはもちろん、
「僕も中に入りたい」
と言うだろう。
一方、そこに偉いおじさんがふんぞり返って通りかかる。そこでおじさんが立ち止まったとき、おじさんはふんぞり返ってどう思うか。
それはもちろん、
「ふーん、ちょっと入ってやろうかな」
と思うだろう。
前者の少年の場合、少年が「求め」て、ライブ開場がその少年の求めに応えて「招き入れる」ということになる。だから Enter-tain になる。
後者のおじさんの場合、おじさんはライブ会場の側が来客を「求めて」いると思っていて、おじさんの側がその求めに応えて「入ってやろう」ということになる。
だから、おじさんは Inter になるのだが、このことに当てはまる正しい語はないので、わかりやすく「インタメ」とおれは言い充てている。
現代はインタラクトの時代、インタラクティブの時代だから、このインタメによって、エンターテインメントが駆逐された時代だと言える。ここ十数年で、われわれはその時代の決定的なシーンを目撃し続けてきたのだ。
インタラクトとは Inter-act のことであって、語義のとおり「割り込んで」「作用する」ということだ。
たとえば、かつてのようにただアイドルの女の子が唄って踊ってするのではない、観客がその売り上げをもって「作用」し、売上高による疑似的な「選挙」が行われて、それでセンターが決定するのだ、というショーが新しく構築された。
それが現代のエンタメの始まりだったと一般に思われているところだが、これはもう語義からいってエンターテインメントではないのだ。割り込んで作用している時点でエンタメではない。
おれはもともとアイドルパフォーマンスにあまり興味がないが、それにしても、かつて中森明菜が唄っているのに観客が「割り込んで作用する」などという方法はなかった。あるとしたらステージ上に乱入して襲いかかる暴漢だけだった。
インタラクト、インターセプト、インターラプト、インタレスト、Inter はすべて「割り込む」ということを意味している。
ツイッターに何かが投稿されたとき、それを読む側は、ただ読むだけではなく、「いいね」などのいわゆるファボをつける。あるいはリツイートをする。典型的なインタラクトだ。発信者に向けて、読む側はただ読む側ではなく「割り込んで作用する」という機能がある。
おれがここにこうして書き話しているものは、あなたの手元に何ら割り込むことはないけれども、SNSのすべてはあなたのタイムラインに新着として割り込む。
新着はあなたのタイムラインに「割り込んで」くるし、あなたはその新着にファボやリツイートで「割り込む」のだ。相互に割り込みあっている。
誰が誰を招き入れるというようなこともなく、それでも活発なアミューズメントが成り立っているので、これはもうエンタメではなく、仮にインタメと呼ぶしかなく、このことでかつてのエンターテインメントは滅ぼされてしまった。
あなたがSNS上で誰かを「フォロー」するとして、あなたはその人に「招き入れられてから」フォローするというような面倒なことをするだろうか?
そうではなく、単にフォローのボタンをぽちっと押すだけのはずだ。
なぜ躊躇なくぽちっと押すだけか、それは、あなたがフォロワーになることが<<求められている>>とあなたが思っているからだ。
一方で、新着ツイートで他人のタイムラインに割り込む人は、その人のタイムラインに「招き入れられてから」ツイートをするのだろうか。もちろんそんなかったるいことをするわけがないので、思いついた何かかを書いてぽちっと投稿するだけだ。
なぜ躊躇なくぼちっと投稿するだけか、それは、発信することが<<求められている>>とその人が思っているからだ。
こうして、全員が自分を「求められる側」だと設定し、それに基づいて何にでも「割り込む」ということを平気でするのが、現代のわれわれであり、現代のインタメ文化だ。
今さらエンターテインメントの魂に帰ることは出来ない。
マジで出来ないので、それなりに覚悟はしろ。
先に言ったように、エンタメはインタメの一億倍むつかしいのだ。今さら無理に決まっている。
インタメでバズった人の中にエンターテイナーは一人もいない。
基本、もう引き返せないのだ。基本をインタメ人として生きていくしかない。選択肢のありえた時期はもうだいぶ前に過ぎてしまった。
このことを直視して、自分たちの本当のありようがマジで視えてしまうと、その恐ろしさに震えるのだが、そうなると「ふつうの人の魂ってそんなに頑強じゃねえよな」という話になってくるのだが、それはまた別の話になってしまうので、ここは逸脱しないように本題に留まろう。
おれの言っていることのヤバさは、こう想像してみるとわかる。
Youtuberが自分の顔をアップにして、動画のサムネイルにし、テロップを貼り付けて投稿している。
それについて、
「お前のことなんて誰も求めていないのだからやめたら」
とおれが言う。
すると、
「は? 再生数が◯万超えているんですけど」
となる。
それに対しておれは、
「でもお前の周囲、お前の友人は、お前の話なんか五分でも聞きたいって言わないだろ」
と言わねばならない。
お前のツイートも、お前の顔面も、お前のネタ編集も、お前の知識のひけらかしも、
「誰も求めていないからやめたら」
と言わねばならない。
「お前が生きてきて、お前のこと求めた人なんかこれまで周りに一人もいなかっただろ? それがなんで動画サイトになったら急に求められているボクになるんだよ、そんなわけないでしょ」
なんとひどい話であろう。
それについて、おれが正しい、とは別段思わないが、少なくともおれはおれ自身に対してそのように思ってきた。
これは、おれが正論を言っている話ではなく、おれ自身がこれまで無謀なエンターテインメントに焦がれてきて、これからもけっきょくそうするだろうねということの、確認と表明でしかない。
おれだって Youtube を利用する計画はあり、その準備はとっくにあるのだが、どうなるにしても、おれは高評価やチャンネル登録はされたくない。
おれは他人のタイムラインに割り込みたくないのだ。
「タイムラインに割り込まない」とか、そんなわがままな設定って出来るのかな? 出来るならおれは冗談でなくそうする。
いいじゃないか、おれはえんえん、ナゾのサイトとブログを続けているのだし、あなたが「求めて」おれのところに来たときにおれからあなたへの話が始まるという、ただそれだけでいい。
あなたが「求めて」、おれが招き入れる、おれが「ようこそ」という、そのことから逸脱したくない。
逸脱したらもうおれにとってはやる値打ちがゼロになってしまうからな。
おれが話をし始めると、雑魚寝している全員がむっくり起き出してくるということがよくある。
(寝ころんだままこっそり布団の中で聞いている奴もいるけど)
あ、逆に、ガバッと急に起きる奴もいるな。
居酒屋で話していると、隣の席の人までおれの話を聞いていることがよくある。
いちおう向こうはデートなのに、女の子が隣席のおれの話をずっと聞いていて、内心で「おいおい」と思うことがよくある。
今はコロナ騒ぎの最中なので、そんなことも少し懐かしいというか、早く焼き鳥でハイボール飲みに行きてえわと望むばかりだが……
おれが話し始めると、何か異様に聞きたがられるということが続いている。そのことは、実は子供のころからずっと続いている。
誰もが無言で、
(き、聞きたいんですけど)
と言ってくるので、しゃーない、おれはそんなケチな男ではないので、
「どうぞ、ようこそ」
と迎え入れる。
そのことをずっとおれは続けていて、それが今、語義として Enter-tain なんだなということを知ったのだった。
おれの話を異様に聞きたがる奴がけっこういるので、合理的に、おれはウェブも使わせてもらっているのであって、おれの場合はウェブを取り去っても同じだし、原稿用紙を取り去っても同じだ。なぜかおれの話を異様に聞きたがる奴がじりじりおれのところに寄ってくるということは変わらない。
インタメ文化との決定的な違いはそこだ。
Youtuber から Youtube および映像メディアと編集と金満を取り去ってしまったら、誰も彼の話なんか求めないし、誰も彼の姿なんか求めないだろう。
たまに、若者に大人気のカリスマシンガーとタイトルを入れられている人が、番組でゲストに呼ばれて、何かのコメンテーターをしていたりするが、その中で誰も、
(い、一曲唄ってくれ〜)
とは求めていないので、そのカリスマシンガーとかいうのもただのウソなのだと、どうしてもわかってしまう。
今、全員が、自分を「求められる側」だと設定し、その設定に基づいて、何にでも「割り込む」ということを続けている。
続けているというか、もうやめることはできなくなったのだ。きついなあ。
状況も見てくれもひどいアイドルオタクだって、自分の「応援」が当の推しアイドルに「求められている」と思っているから、ライブ会場にいってグッズを買ってサイリュームを振っているのだ。
今、エンタメが滅んで、インタメ文化に魂のすべてを恭順させた状況で、誰も彼もがイライラしている。
誰もイライラしたくないし、人を攻撃し始めるとキリがないので、油を抜いた蒸留水のボク・ワタシみたいなスタイルを多くの人が貫こうとしているのだが、それでも水面下で確実に生成されている人への「攻撃」は、この現代においてやむことはない。
隠すことはできても、隠すということはそれがなくなったということではない。
おれは意地悪を言っているのではなくて、「攻撃」、つまり愛の反対であるそれが、「湧いて湧いてしゃーない」ということについて、必然的にそうなるということ、またそれから逃れることはできないということを、冷静にレポートしようとしている。
平穏タイプや善人タイプを装おうとしても無駄だ、どうせマンガのキャラみたいになるだけだし、あとになってまとまって噴出してくるから、けっきょく未来は焼け野原になる。
なぜ湧いてくる「攻撃」が水面下で湧き続けて止まらないか。
それには、もっと正確な仕組みがあるのだが、とりあえず今回の話で知られることは、
「全員が自分を<<求められる側>>に設定しており、求める人は誰もいない」
ということだ。
冷静に考えれば当たり前のことだ、全員が自分を「求められる側!」と設定したのでは、求める側が誰も残っていない。
それで、全員が求められる側であるはずが、けっきょく事実としては「本当に求められている人なんか誰もいないじゃん」という、あえて言うなら草不可避の状態になっているのであって、これが草では済まないから、人々は内心で疾病のように怒り、苦しみ、呪い、嫉み、攻撃が噴出しないように、内心の底に埋め込んだり、裏アカウントで噴出させたり、オカルト・スピリチュアルに嵌って疑似的に認知症になってごまかしたりしているのだ。
「求められるワタシ」だけが大量発生し、求める人は誰一人いなくなった。
こんにちの状況で、「求める人」などになるのは、致命的な負けだ。
少なくとも、当人たちにはそのように思われている。
いま、「求める人」「求める側」にならされるのが、最大の負けマウントであり恥辱だろう。
どこかでロックフェスティバルがあったとして、ステージ上では、シンガーが「誰にも求められていないのに唄っている」という状況があり、観客は、誰にも求められていないのに「フェスに来ました」と写真つきでツイートをばらまいている、という状況がある。
ステージ上のシンガーは、自分が求められて唄っているという妄想に立たざるをえないし、観客は、自分が求められてツイートしているという妄想を手放すわけにはいかない。
こんな状況を何年も続けさせられて、コロナ騒ぎでマスクさせられて、物価は上がるけれど賃金は上がらないどころか値切られるというのでは、わけのわからない猛烈な怒りが水面下でドカーンしまくっていて当たり前だ。
本当は、その「攻撃」が生じるのはもっと別に精密な仕組みがあるのだが、今回はそこまで踏み込まないでおこう。
Enter と Inter の違いについて今回は話した。
現代においてわれわれは、いつのまにか「コンテンツ」という捉え方を当たり前にし、大量のコンテンツに包囲されながら、何一つ本当には楽しくないということを当たり前にしている。
楽しくないだけならまだしも、殺伐として、水面下にはますます大量の「攻撃」が準備されている、この現象は何なのかについて説明した。
そしてその説明より上位に、おれ自身、やっぱりおれのエンターテインメントへの魂は、今も一切損なわれていなくて、それどころかさらなる高みと力のみなぎりを確信していて、昂るばっかりだぜということを報告したかった。
ふつうには「無理」のたぐいだ。ただおれがおれの話をしたに留まる。とはいえ、その一億倍むつかしいことに、自ら突撃したいという人は別だが……
その覚悟でなら、今からインタメを否定して、エンターテインメントを自らの選択にするというのも、理論上は不可能ではない。
見てわかるとおり、おれの言っていることは根こそぎひどい。味方を一人も得られないレベルだ。
あなたはどうして、こんなひどい奴のひどい話を最後まで聞こうとしているのだろうか。それも一種の安心感さえ覚えて。
それは、おれがあなたの求めるところに応えてあなたを迎え入れてやるだけやさしいからだ。
おれはひどいことを言い倒しているが、攻撃が生じているわけではない。
いい人ふうに振る舞ってその水面下では攻撃が湧いてしょうがないという人よりずっとマシじゃないか。
おれはあなたが、隠し事のひとつにしているそのダサさを赦している。おれはそのダサさを馬鹿にしない。
そのダサさとは、あなたがおれの話を「求めて」、おれのところに来てしまっているということだ。
それがいかにも現代においてダサいので、あなたはそれを友人と知人に隠し事にしているだろう。
それはまともな感覚だし、ダサいというのもそのとおりかもしれないが、おれはあなたのそのダサいことを馬鹿にしない。
あなたが求めていることなのだから、おれはあなたの求めに応じてあなたを迎え入れることにしている。
だからおれは「ようこそ」と言う。
ライブ会場の前で立ち止まって、「僕も中に入れて」と言った少年は、クールかダサいかで言えばダサいのだろうが、おれはその少年にこそ最高の「ようこそ」を向けるべきだと思う。
そうでなけりゃ唄う相手がいないし、書き話す相手だっていない。
あなたは求められる側でなくていい。あなたが求める側なら、おれが招き入れてやるし、おれに招き入れられるということは、あなたにとってどうしようもなくサイコーのことのはずだ。
求めるということと、招き入れるということ、愛と攻撃、このことにはもっと奥行きがあって、もっと知られるべきこと、もっと話されるべきことがある。
またそのことを次回話そう。
あなたが求めるかぎり、おれはエンターテインメントをやります。
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