No.409 欲と求 概論
1.欲と求
魂に高低を仮定します。
低い側が高い側に接続して何かを得ようとすることを「求」といいます。
高い側が低い側に接続して何かを得ようとすることを「欲」といいます。
「欲求」という熟語があり、欲と求は同じような意味と思われていますが、両者は異なる性質を持った語です。下から上が「求」、上から下が「欲」です。
2.罪と償
欲は「罪」に該当します。
魂が下に向かうことが一般に罪だからです。
高い側が低い側に接続して何かを得ようとするのが「欲」ですから、魂は下に向かっており、罪に該当するということです。
求は「償」に該当します。つぐない、償却、という意味の語です。
人がもともと罪を持っていると仮定するならば、その魂が上に向かうということは、罪を「償おう」とするはたらきと言えます。よって求は償です。
欲は上から下に「遣りたい」とはたらき、求は下から上に「さしあげたい」とはたらきます。
3.神の罪
仮に神が存在し、神が人を救う場合、そのことは神にとって罪になります。それは神の欲であり、神の犯罪が人を救うことになります。
なぜなら魂の高低において神は最上位であり、下位の人に救いを「遣りたい」とはたらくのは欲だからです。魂は下に向かい、罪となります。
ただし神の地位は落下しません。理論上、神の地位は高さにおいて無限大であり、無限大にいくら引き算をしても無限大のままだからです。
神の高さは無限遠点にあると表現しておきます。ですから落下はしません。またそうして、神は罪をさえ犯せるからこそ全能だと言えます。
このことは理論上・概念上で設定可能なことなので、ここでわざとらしい信仰心の出番はないものとします。
4.愛
人が救いを求め、神の欲がそれに応える場合、人は神から愛されて救われることになります。
このことは神と人のあいだに限らず、下が求め上が欲で応える場合、下の魂は引っ張り上げられることになりますから愛だと言えます。
よって、愛は常に上位から下位に向けての欲・罪として生じることになります。
単純には、愛によって下位は引っ張りあげられ、上位は引き落とされるということになります。
ただし神だけは無限遠点にあるため引き落とされません。
5.愛は罪によってしか為されない
魂が下を向くことが罪です。
上位の魂が下位の魂を引っ張り上げることが愛ですが、このとき上位の魂は下を向いてしまいますので、上位の魂は罪を犯すことになります。
愛はこの罪によってしか為されません。
また愛は、罪を犯してまでそれを為すということですから、破格にやさしいということでもあります。上が罪を負い、代わりに下に償を為させるというやさしさです。
ただし、人はこうした愛の機能を持ちながら、無力だという問題があります。
6.人の無力
愛によって下のものを引っ張り上げようとすると、上のものが落下するだけになります。
下を向くことじたいが罪ですから、その罪によって落下するということです。
落下した者は引っ張り上げる力を持っていません。ですから、下のものを引っ張り上げるということは実現されません。
人は愛の機能とそのやさしさを持ちえますが、無力だということです。無力なので、望んだ結果は得られず、下を向いた者の罪だけが残ります。
7.赦(ゆる)し
少年が誤って、飼っていた亀を死なせてしまったとします。このことに罪が発生したとしましょう。
少年は自分の過ちを悔い、その罪に苦しみながら父に赦しを乞いました。少年の悔恨を見て、父は彼を赦しました。
けれども父親は造物主ではありませんから、亀の生殺与奪について罰や赦しの権威を持ってはいません。
よって、父親が子の罪を勝手に「赦した」ということは、単に父親も子の罪の「同罪」になったにすぎません。子の罪は父親に「託された」と言っていいでしょう。
父親は子と同罪になったので、父親が赦されれば同罪の子も赦されます。
父親が神社に行き、カミに「どうか赦してくださいますよう」と祈りました。仮にこの祈りがカミに通じて聞き遂げられたとします。
カミは人を赦したい・救いたいという欲によって、少年の父親を赦しました。神は世界を創った者として亀の生殺与奪に権威があるので、その罪を赦すことができます。
結果的に、父子の罪をカミが肩代わりしたことになりますが、カミは無限遠点の高さにあるので落下しません。
カミの欲たる愛によって父親は赦され、その赦された父によって子は赦されたので、少年も赦されたことになります。
8.赦されない場合
仮に、父親の祈りがカミに通じなかった・聞き遂げられなかったとします。あるいはその求めには応えてもらえなかったとします。
すると、父親は子と共に落下します。子は亀を殺した罪によって落下し、父親はそれを勝手に赦したことで同罪となり落下します。
このように、罪とは魂の落下ですが、この落下はどこかで無限遠点に結ばれないかぎり全体の落下をまぬがれません。
子が父に赦しを乞い、父が先生に赦しを乞うたとして、先生の祈りが神に通じなかった場合、子も父も先生もまとめてその魂を落下させることになります。
9.人の赦し
少年が父の茶碗を割ってしまったとします。少年は悔恨して詫びました。そのことを赦すかどうかは父次第です。このことはわざわざ神でなく父が直接の権威を持っていると考えてよいでしょう。
茶碗を割ったことが罪だとする場合、そのままだと少年の魂が落下します。父がこれを赦す場合、少年の魂は落下をまぬがれますが、父は下位たる子に向いて赦しを「遣った」ので、魂が低下し、父は罪を負ったことになります。
少年が上位に赦しを「求め」、父が下位に赦しを「遣った」ことに注目してください。父の魂は下に向いたのでそのことが罪となります。
仮にこのことで少年の魂が 10 落下するとします。父親がそれを赦せば少年は 10 の落下をまぬがれるように見えますが、父親自身が赦しを「遣った」ことで下向きに 10 落下します。
よって少年は、自分と父親のあいだでは相対的に赦されたことになりますが、絶対的にはやはり 10 落下しています。
仮にはじめ父が 100 の位置、少年が 30 の位置にいたとしましょう。その差は 70 です。
父が少年を赦したとき、少年が落下しないように赦され、父と少年のあいだは 70 の差のままになりますが、父の位置が 90 に落下していますので、少年の位置はやはり 20 になります。
人の赦しは相対的に赦せるのみで絶対的な低下はまぬがれないということです。
(ただしもちろん、このことも父親が神に赦しを求め、それが与えられるなら別です。父親は赦されて絶対的に落下しません)
10.上品と下品
下から上向きに「求」、上から下向きに「欲」だとして、このことは求が「上品」、欲が「下品」という実態を持ちます。われわれにとってわかりやすい実態です。
かつて、先輩・後輩という関係が魂を担っていた時代、先輩から後輩に向けては態度や言葉が「下品」でした。後輩から先輩に向けては敬語を用いました。
また、先輩が後輩に「パン買ってこい」「コーヒー買ってこい」と言いつけて、つまり欲のそれを向けていたということもこの仕組みに当てはまります。
11.命
我が子が亀を殺してしまい、父親はそれを赦したものの、父親自身もカミにそのことの赦しを求めたとします。求めたものは与えられたとしましょう。
仮にこのとき父親は、赦しを与えられると共に、カミから、
「いっそう本分に励むように」
と言いつけられたと感じた、ないしは「そういう気がした」とします。
このとき、父親はカミから命令を受けていると言えます。命じられた、とも言います。
「コーヒー買ってこい」と言いつけられた後輩は、先輩から命令を受け、命じられています。
命(いのち)とはこの現象であって、生とはまったく別の現象です。
12.欲求呼応
もっとも大事な現象です。欲と求は双方が呼応することによって接続します。求められていないものが欲してはいけませんし、欲していないものに求めてもいけません。
電池を直列につないだときのことをイメージしてください。プラス極とマイナス極を接続します。このプラス極が「求」であり、「上品」であり「償」です。マイナス極が「欲」であり「下品」「罪」です。
プラス極とマイナス極でなければ接続は起きません。そして接続されると流れる電気、その電流が「命」にあたります。
先輩に何かを求めているのが後輩であり、後輩に何かを欲するのが先輩です。単なる年齢や力関係で上下関係を設定してもそこに命が流れること(命脈)はありません。
下位が「上品に求め」、上位が「下品に欲する」、この両方が呼応したときのみ接続が起こります。ただしこれは魂の現象であるため、必ずしも自覚があるとは限りません。むしろその自覚があるケースのほうがかなりまれです。
ほとんどの場合、この欲求呼応は明確な自覚や視認がなく、ただなんとなくそれに従い「なぜかあのとき命があった」という体験をするか、逆になんとなくそれを拒絶して「なぜかまったく命が得られない」という体験をするかのどちらかです。
人格どうしが仲良く親和してもこのような命は得られません。また、魂より人格の支配が強い人ほど、こうした魂の現象は知らず識らず否定され、命の獲得から遠ざかっていきます。
13.恥
下から上へ上品で求め、上から下へ下品で欲します。この求と欲が呼応するとき上下に直列の接続が起こる。
この上下の接続が起こるとき、下には典型的に「恥」が生じます。恥ずかしいという感情と体験です。
なぜ恥ずかしいかというと、自分の魂の低さを明らかにし、それに相当した下品と欲が向けられるからです。さらに、その下品と欲こそ、自分が「求める」ものだということまで明らかにされ、そのことが恥に感じられます。
(恥辱とまで感じられ、受け入れられず拒絶する場合がよくあります)
西洋、特に聖書世界では罪がよく感じられ、東洋では恥がよく感じられます。西洋の恥は自己の内部に感じられ、東洋の恥は自己の周囲に対して感じられます。
罪と恥は視点が異なるだけで本質は同じです。その本質を自覚的に内部で抱えると罪の感覚になり、その本質が外部に晒されると恥の感覚になります。
(たとえば自慰行為が、自己のうちにおいては罪に感じられることがありますが、それが衆目に晒されると恥の感覚になります)
14.落下しない愛
下位が上位にむけ、「上品をもって求める」ということ、このことは償であって魂の落下はありませんが、上位が下位にむけ「下品をもって欲する」ということは罪であって魂が落下します。
といって、上位が下位の求めに呼応してその魂を引っ張り上げるということが愛なのですから、魂の落下を拒む場合、愛そのものの否定となります。
この場合、落下しない愛を考える必要があります。上位が下位に向けて「下品をもって欲する」として、それが呼応において愛を為すとしても、その愛がさらなる上位に赦されている必要があります。
また、相対的にでなく絶対的な落下を拒むのであれば、愛のためには無限遠点に赦されている必要があります。
「下品をもって欲する」というのは、一般の観念で考えてもいかにも罪の感触がします。これがそれぞれのていどにおいて、無限遠点に赦されているかどうかでその愛が落下するかしないかが決定します。
下品をもって欲するという、そのことのていどが無限遠点に赦されている場合はその愛は成り立ちつつ絶対的に落下しません。赦されていない場合は、相対的には引っ張り上げられているように感じますが絶対的にはやはり引っ張り上げられていません。
15.近づく愛
100 が 30 を引っ張り上げる場合、まずその差は 70 です。この差を 50 にしようとすると、20 だけ引っ張り上げる必要があります。
けれども愛は魂が下に向いて罪ですから、上位の魂が落下します。20 だけ引っ張り上げようとすると上位は 20 下がるので、上位は 80 になります。
80 と 30 の差は 50 なので、下位の側は引っ張り上げられて差が縮まった、つまり「近づいた」と感じるのですが、相対的にはそうであっても絶対的には 30 の位置はそのままで動いていません。ですから本当には魂の上昇は得られていません。
実際にこういうことがあり、われわれの周辺で、愛によって魂が「近づいた」二人が、不穏な決別をするということがあります。魂の接近にときめいていた二人でしたが、やがて下位から「けっきょく何も変わっていない」という直観が不満と共に言われだします。そのころすでに、上位は愛によって落下してきていますから、「むしろあなたのせいでわたしは落ちぶれてしまったように思う」と反撃を言います。
16.上昇する愛
100 が 30 を引っ張り上げるとして、その愛は罪ですから、これが赦されるように、100 は無限遠点に赦しを求めたとします。そのとき、100 は赦しを得ると共に、無限遠点から何かを命じられました。
100 はその命じられたことをまっとうしました。
このことによって、100 は償を為し、魂の位置を 120 にしました。
もともとは 100 が 30 を引っ張り上げようとしていたところ、いつのまにか 120 が 30 を引っ張り上げようとしています。無事、その引っ張り上げる愛は為されたとして、30 は 50 になりました。
120 と 50 の差は 70 ですから、両者の差は縮まっていません。つまり両者は近づいていません。
両者は近づいていませんが、両者は上昇しています。
愛に関わってこのように、与えられた命をまっとうするほどに、いつまでたっても双方は近づけないけれども共に魂の位置は上昇していくという場合があります。
17.余談、魂の落下について1
余談ですが、密教系の仏教などにおいては、愛は魂の落下であるとして、修行者は愛を断ちました。修行者は「下界」に一切の関心を向けず、自分より下方を向くことはもう一度もなかったのです。
一方、キリスト教や、仏教でも如来の「慈悲」が中枢に据えられる教義においては、愛を含め自分の魂が下に向くことも、「信じて求めれば赦しが得られる」「赦しを得て、魂は落下した先の世界へいかなくなる」とされました。
どちらも、
・罪業による魂の落下は人為によって止められない
という捉え方に立っており、後者の慈悲説においては、
・ただし無限の存在がそれを赦すという場合はその落下を止められる・掬い上げることができる
・その救済の力に縋るためには、その力を魂から認め信じ、自ら祈り求める必要がある
とされています。
18.余談、魂の落下について2
魂が低きに向かって下品に欲するということ、これが罪ということはわかりやすいですが、この「欲」について、実行さえしなければ罪にならないと捉える人が少なからずあります。
けれども、実行の有無に関わらず、その欲が生じている以上は魂はすでに下に向いていますので、魂の下降、その罪はすでに生じていると見なくてはなりません。
欲の実行を禁じるいわゆるストイシズムは、その人の意地によっては容易に可能ですが、それによって罪の消失・キャンセルはありません。
むしろ自分はその欲を実行しなかったという自負――自分の魂の地位は高いのだという自負――が吾我を驕慢させるということが仏教方面では警告されています。
この吾我の驕慢のことを「我慢」といいます。
当人は欲の実行を禁じているのですから、その必死さによって自分の魂が上昇しているものだと期待します。けれども実際には、欲が生じている以上、魂は落下しています。
そして当人は上昇していると思っているものですから、わずかもその罪の赦しを乞おうとは考えません。
こうして彼の内部では、次々に欲が生じているのに、彼は何らそのことへの赦しは乞わないため、いっさい赦されていない者と、その落下した魂が残ります。
それでもなお、彼は自分が人よりストイックで偉い者と思っていますから、赦しを乞おうとは "意地でも" 思いません。
自分の魂は他の誰より地位の高いものであって欲しいと、彼は信じてやまないのですが、それじたいがすでに極限まで肥大化した処理不能の「欲」であり、彼は最大の欲を抱え、赦しを乞うことから最も遠い者になります。
欲の実行を断じるのではなく、欲の発生じたいを滅却しなくてはならないということになりますが、誰でもわかるとおりそれは尋常ならざる難事業です。己を不健全な状態に追い込んで機能的に麻痺させてもいけません。機能的に麻痺させたならそれはけっきょく欲のメカニズムに勝利したことにはなっていませんから、健全な状態のまま、釈迦が言ったように煩悩そのものを消去しなくてはなりません(四諦八正道)。なお釈迦の次にそのことができる人が現世に出てくるのは五十六億七千万年後だと仏教では予言されています。
19.主体
下から上に向かって何かを得ようとすることが求ですが、これはけっきょく何を求めるものでしょうか。
求といって、求めるものはすべて「主体」と言って差し支えありません。
主体、あるいは主体性といってもよく、その現象そのものを指します。
よって、魂の上位の上位、その果てにある無限遠点のそれは「完全な主体」ということになります。
下位が上位に償い・求め・上品を向けるというのは、すべてこの「主体」を上位から得ようとするものであり、これが罪さえも踏み越えて与え遣られることを愛と呼んでいます。
20.動物的個我
上位の存在ほど主体そのものに近く、下位の存在ほど主体そのものから遠いことになります。
下位の存在は何に近いということになるでしょうか。
トルストイの言い方を借りると、動物的個我に近いということになります。
生理的な反応・生理的な感触だけをパラメータとし、それに支配されて挙動する存在です。
喉が渇いたので水が欲しい。もっと上等なソファが欲しい。見栄えのするバッグと、ちやほやされる美貌と地位が欲しい。何に必要かわからないけれどお金が欲しい、とにかく高級なホテルの部屋を用意して欲しい。若さが欲しい。際限なく睡眠が欲しい。知名度が欲しい。たくさんの「いいね」、ファボが欲しい。
それらの「欲」が満たされれば、それだけでよく、それ以外に何ら「求め」はしないという存在です。
連立方程式の解を「求める」というようなことは一切ありません。
こうしてすべての挙動がひたすら「欲しい」ということだけに支配されているので、この存在に主体性はありません。行き着くところ、挙動の仕組みはほとんど昆虫のようになります。いろんな「におい」や「蜜」に吸い寄せられていくだけで、制止されても蜂のように攻撃してくるだけになります。
アルコール中毒や麻薬中毒などになると、そうした薬物が「欲しい」ということだけに支配され、何らの主体性も失います。魂が落下しきった状態です。
同じことは、出世欲や金銭欲、名誉欲、またギャンブル中毒などでも起こります。挙動の源になるエネルギーは得やすいのですが、それを得れば得るほど魂は落下してゆき、動物的個我のみに支配され、主体性のないものになっていきます。
21.正邪
魂の高低に向けて、上品と下品があり、上品のほうを「聖」といい、下品のほうを「俗」といいます。
上位に「聖」を向け、下位に「俗」を向けること、これは正しいので「正」と言います。
これを逆転させ、上位に「俗」を向け、下位に「聖」を向けること、これを「邪」と言います。
魂に高低を仮定しています。仮定していますが、そんなものが本当にあるのかどうかは誰にもわかりませんし、誰の・どちらの魂が、どのていど高いのか低いのか、わかりませんし確かめようもありません。
確かめようもないそれですが、それでも向きが正しければ正になりますし、誤っていれば邪になります。聖の反対が俗で、正の反対が邪です。善人・悪人の話ではなく、聖人と俗人の話、正道と邪道の話です。
22.魔
正で接続すると魂に主体が分け与えられ、邪で接続すると魂に魔が入ります。
前者の命は主体ですが、後者の命は魔になります。
邪で接続すると「魔」から命令を受けることになるということです。
これは、信じて接続したものなので、接続した後はその命令を拒絶することはできなくなります。
23.神の反対
理論上に神を設定するとして、神の反対は何でしょうか。一般には魔・悪魔とイメージされます。
そのことは誤りではないでしょうか、混乱が起きます。前もって整理しておきましょう。
神の "偽物" が魔と捉えるべきです。
神の反対は動物的個我とするべきでしょう。
われわれは神の反対、主体性の反対にある動物的個我の地表に立っています。
そこから主体を「求める」のですが、ここで偽物の主体を選ぶと、偽ルートに迷い込んでゆき、魔から命を受けるということです。
俗を聖と言い張り、欲を求と言い張り、求める側であるべき自己を求められる側だと言い張ることで、天地が逆転し、正は邪となり、偽物の主体を求めることになります。
神はふつう天国にいるものですが、逆転し、地獄の底にいるものに主体を求めるようになるということです。
魔は神の偽物であり、本来はそんな偽物を考慮になど入れたくないですから、魔はもともと神とは無関係、ただの偽物であり、そこに向かうのもただの偽ルートだとしておきます。
なおその偽ルートに呼び込む作用がどこからともなくあります。あるいは四方八方からあります。この呼び込みの作用を一般に「誘惑」といいます。
誘惑されて偽ルートに引き込まれるのですが、かといってそれは「他人のせい」というわけではありません。誘惑に乗っかったあなた自身の責任です。
24.禍福
正で接続して主体から命を得た場合、その接続の間柄で「福」がやってきます。
邪で接続して魔から命を得た場合、その接続の間柄で「禍」がやってきます。「禍」は「わざわい」と読みます。
このことは思いがけず露骨に現れるものです。外見上はなかなかわかりませんが、ヒアリングして集計していくと本当に極端な差があって驚かされます。
(とはいえもちろん、経験的に本当にそうだという以上には言いようがありません)
禍(わざわい)はどのような形で現れるかというと、
・思いがけない病気・怪我が周囲に頻発する
・実情によらずお金がいつも「足りない」という強迫にさらされる
・悪夢を見つづける
・身体が重く、だるく、動作がずっと緩慢だ
・友人・知人が奇行を起こす
・詐欺・泥棒の被害にあう
・交通事故にあう、また自分がその事故を起こす
・自分の感情が不穏で安定しない
・周囲の人がささいなことで過剰に怒る
・自分から見知らぬような汚い声・きつい表情が出る
・金額や財物に異様に目が惹きつけられるようになる
・しんどいほどやっても、何もかもが進まない
・旅行の計画がとん挫する
・オカルト気配の人と交友が深くなっていく
・親族がカルト宗教に取り込まれる
・友人がいつのまにかマルチ商法に首ったけだ
・気分の悪い取引先ばかり増えていく
・性質の悪いところから呼びかけ・勧誘される
・人とつるむことが増え、けれども孤独感は増していく
・同族の「仲間」が次々に増えてゆき、相互は依存しあい、同時に軽蔑しあう
・機械が次々に壊れて出費がかさむ
・望ましくない人間関係から出られなくなる
・心当たりのない憎悪や怨みが自分の中に蓄積する
・他人のトラブルや不幸にだけウキウキした関心が湧いて食いつく
・理由なく猛烈に不機嫌になり、そのことに違和感がなくなる
・大切なものが大切に思えなくなる(衝動的に捨ててしまうこともある)
・昨日の思考と今日の思考が異なり、人格がちぐはぐになる
・ちぐはぐな人格を理解できない周囲を軽蔑する
・理解力が低下し、必要なことが思考できなくなる
・ストレスが掛かると病的に眠くなり起きていられなくなる
・近隣や知人、あるいは通りすがりの人から、頻繁にいやがらせを受ける
・嫌悪しているはずのものにはしゃぐようになる
・まったく思ってもいない暴言が口から滑り出る
・とんでもない侮辱や攻撃の態度が突然出てきて止められない
・自分に清潔感がなくなり、威圧感が出てくる
・自分の武器を振るうのに不穏で強烈な快感が湧く
・人を馬鹿にし、マウントを取る発想が止まらなくなる
・なんでもかんでもにショックを受けて失調するようになる
・誰でも彼でもが、何にでも口出しするようになる
・攻撃的な人に親近感を覚えるようになる
・悪趣味に耽るようになる
・やさしい人を傷つけることに快感が湧き、止められない
・やさしい人を傷つけることじたいがすべての行動の目的になる
・耽美的空想に浸り、他人を見下すということが習慣になる
などです。
魔に接続している人たちの――連盟の――あいだでは、これらの禍は「ふつう」なので、当人たちにとってこのような状態が「ヘンだ」と感じられることはありません。つまり気づかないままです。
「◯◯ちゃんのところに、また泥棒が入ってさあ」
「電車に乗っていたら空き缶を投げつけられたんだよね」
「◯◯の息子が側溝に落ちて頭蓋骨を骨折したって」
「遅刻したら、あの人すごい怒って、目の前でグラス割られちゃってさあ」
「◯◯が睡眠薬でオーバードーズして救急車で運ばれたってさ」
「◯◯の彼氏が警察に逮捕されたらしいよ、麻薬の売人だったんだって」
「借金がえぐいのにさあ、気に入らないからって車買い替えたんだよ」
このようなことは、ふつうそんなに頻繁にあることではありません。けれども、魔に接続している人たちにとっては「割とふつうじゃん」「そういうことふつうにあるじゃん」という感覚です。
また当人たちがそのことに気づこうとしても、自分に入り込んでいる魔とその命が妨害をかけてくるので、そのとたん感情が不穏に激して理性が混濁したり、急に眠たくなって倒れたりし、当人はそのことに向き合わせてもらえないのです。
福のほうは、禍とちょうど逆です。書ききれるものではないですが、たとえば持病がいつのまにか軽快していたり、なぜかいつのまにか金銭的に余裕を感じるようになっていたり、いつのまにか悪い夢は見なくなっていたり、万事を済ませるのがなぜか速くなっていたり、友人・知人にも美点とグッドニュースが増えてきたりします。いつのまにか感情を激さなくなり、周囲の人がなぜか自分にやさしくなり、鏡で見ると自分の目が澄んでいて驚いたり、自分から知らないほどやさしい声が出て驚いたりします。見栄に関わる商品や広告にいつのまにか興味を失っており、ふと気づくと数か月で色んなことが一気に進んでいます。いつのまにか上等なところに引っ越して住んでいたり、いろんなところへ出かける機会を得ています。自分と縁遠くなった人が「おかしなことになっている」という話を仄聞し、自分はそういうことに「巻き込まれなくなったなあ」と感じます。新しい出来事は基本的に気分のいい人たちと面白い局面をもたらし、一人でいるときもなぜかすっかりさびしくなくなっていることに気づきます。かつては毎日がとにかく疲れていたのに、いつのまにか疲れるということを忘れてしまっています。
果ては、朝起きたときからとてつもない空があり、窓を開けるとこの世のものとは思えない風が吹き込み、外を歩けば白雲は自分を見守ってくれていて、山々は壮大な世界の威厳を教え、街は永遠の営みを響かせ、太陽は夕暮れにとほうもない赤紫色を見せてくれます。
禍福を見たとき、どう考えても、禍(わざわい)の多いほうを選ぶべきではありません。
けれどもそのさなかにある当人はそのことに気づけないのです。
福の側も案外そうで、気づけばなぜか大量の福に囲まれていて驚くのですが、ふだんはそのことに気づかないでいます。
25.祝福と魔力
聖と俗は反対です。
聖なることで勝利したいと望んだ人は祝福を受け、俗なることで勝利したいと望んだ人は魔力を受けます。
ただし、何が聖であって何が俗であるかは、ときに見分けがつきません。
特に演出や願望で装飾されると誤解して捉えることがよくあります。
たとえば、人が自分の夢に向かうことは、聖なることかもしれません。
けれども、ここにたとえば、装飾された舞台があり、何かしらのコンテストが行われるとします。このコンテストに勝利すると、その先には一攫千金が得られる可能性もあります。
そのことに、自分の夢を見て、勝利したいと望むと、果たして祝福が得られるでしょうか、魔力が得られるでしょうか。
そのコンテストが聖なる基準であれば祝福を受けます、俗なる基準であれば魔力を受けます。
そしてコンテストを開催する側は、わざわざそれが俗なる基準のものだとは公表しません。
するとこのコンテストで勝利した人は、当人としては自分の夢という聖なるものに向けて勝利したつもりでも、そのときに受けた力は魔力であって、祝福ではありません。
祝福を受けると「福」がもたらされますが、魔力を受けると「禍(わざらい)」がもたらされます。
自ら望んで禍(わざわい)の魔力を受けたいと望む人はなかなかいませんが、実際にはこうして、俗なる基準の場所において、そうとは知らず勝利を望んだ人が、一定の勝利と共に魔力を受けることになります。
そうなるとその後、魔力を手放すということはそのときの勝利も手放すということになってしまうので、当人は受けた魔力を手放せなくなり、その後も魔力によって活躍することになってしまいます。
そうして、魔に命じられたものとして活動してゆき、周囲に禍(わざわい)あるのが「ふつう」になってしまうのでした。
こうなるともう、「正」においては活躍できない者になり、「邪」でしか活躍できない者になってしまいます。
勝利だけではなく敗北にも注目しておきましょう。
祝福を受ける人は、やはり敗北においても、聖なるものに対して敗北しています。自分よりもさらに聖なるものに敗北しているということです。たとえばあまりにも壮大な夕焼けを目の前にして、単にそれがきれいというのではなく、その夕焼けに「負けた」と感じています。そうしてその人は、壮大な夕焼けを上位として「求め」、そこから命を与えられるので、祝福を受けます。
魔力を受ける人は、やはり敗北においても、俗なるものに対して敗北しています。つまり先ほどのそれより上位のコンテストがあり、その優勝者に対して「負けた」と感じています。そうしてその人は、俗なるものをやはり上位として「求め」ます。これは邪ですから、邪によって命を受け、魔力を受けることになります。
祝福を受ける人は聖なることに勝敗があり、魔力を受ける人は俗なることに勝敗があるということに注目してください。勝敗といっても、それぞれそのステージじたいが正と邪、別のステージなのです。
よって、祝福を受ける人が自分の勝敗について言っても、魔力を受ける側は「なんか違うな」としか聞こえませんし、魔力を受ける人が自分の勝敗についても言っても、祝福を受ける側は「なんか違うな」としか聞こえません。
空や夕焼けに「敗北」できる人が祝福を受けます。それを単に「きれい」と感じている人は祝福を受けません。
26.攻撃
魔に命じられている人は主体を攻撃します。主体に命じられている人を攻撃します。
主体に命じられている人は魔を追放します。魔に命じられている人を追い出します。
主体に命じられている人は、魂の行先が高さの無限遠点に結ばれているため、根本的に他者を攻撃する理由を持ちません。そのような用事はないと言っていいでしょう。
けれども魔に命じられている人は、そのままでは魂の行く先がありません。あるいは、正を邪にし、聖と俗を入れ替えたわけですから、魂の高低は逆転、その命は魂の低みに向かっているに違いありません。
無限遠点の主体を撃ち滅ぼし、魔が頂点にとって代わる以外に、己の魂が上昇できる見込みはありませんから、魔に命じられた者は主体の側を攻撃します。またそれが魔の根本的な意志でもある。
この攻撃命令は絶対的なもので、どれだけ抑え込もうとしても必ず噴出します。
魂の戦争が起こっているのです。物理的な、肉体的な攻撃はどうでもよいかもしれません。
主体に命じられている側としては、こちらを妨害されないかぎり、わざわざ出かけて魔を攻撃する理由はありません。また妨害されたとしても、追放さえしてしまえばその後はどうでもよいことです。
よって主体から魔への「撃ち滅ぼす」攻撃は、その魔がどうしてもこちらに居座るという場合だけです。
もろちん魔の側は、そのボスが、城内へ侵入せよ(interlope せよ)という命令を出し続けます。戦争ですから、主体の側の王城を陥落しようとします。
魔に命じられた人はけっきょくこの戦争に最大限奉仕しなくてはなりません。魔ですから、その手駒に力を与えることはあっても慈悲を向けるということはありません。
27.見せしめ
魔に命じられた人が、主体への攻撃をやめられないのには、それをやめると「見せしめ」として、何かしらの刑に処されるからということがあります。一種のむち打ちや火あぶりのようなことがあると思ってください。ですので、魔に命じられた人は、なんにせよその滅びまで主体への攻撃をやめることはできません。
魔に命じられた人たち、その連盟は、魔力を強く与えられた人を賛美します。その魔力で主体側を攻撃することを絶賛します。
そして、その人が罪と禍(わざわい)に満たされてゆき、もういやだと弱くなって投げ出したとき、それを「オワコン」だの何だのといってむち打ちます。動かなくなればなるほどむち打ちされます。
炎上騒ぎの一部にも典型的にこの「見せしめ」が現れます。魔力を強く与えられた邪の人が、主体側を攻撃するものの、「けっきょく落城させないのか」と、その勢力に無力感が出てきたとき、スキャンダルが設えられて、見せしめに炎上、火あぶりにされます。かつての同胞たちが、「王城を陥落させないのか」「おれたちは期待していたんだ」と火を投げ込むような具合です。
このことを、魔に命じられた人同士はよく見てきていますので、最後まで主体への攻撃はやめられなくなります。
それならいっそ、主体の側へ「投降」すればよさそうなものですが、その投降が今さら受理されるとも限らず、受理されなかった場合は完全に「見せしめ」の強烈な刑が用意されます。
総括1 この話は仮定で成り立っています
お察しの方も多いかと思いますが、あえて淡々と書き述べました。微細に書き込むと内容が膨れすぎ、読み取りに不利かと考えてのことです。
すべて大前提、魂に高低があるという仮定に基づいています。その仮定じたいが現代で言うところの炎上案件に違いなく、現実的には検討の余地さえないと思います。
ただ一方で、書き手たるわたしの直接の体験としては、あまりにもこの話を教わることを求めている人が多いのも事実です。魂を平場に並べて「これでよし」というのは、人格レベルでは納得しやすいですが、本当に生きようと思う人に対して何らの知恵にも支えにもなりません。むしろただの妨害になる。
今やその妨害は常に炎上の矢をつがえている状態です。わたしの話はすべて、いつもどおり世迷言、妄言の、すべてが仮定の上での遊びにすぎないとしてください。そのために冒頭にまず「仮定する」と書きました。すべて仮定のフィクションであって、フィクションなら気楽なものではないでしょうか。
このことについてわたしが訊かれても、わたしの側は向こうへ「永遠に否定しますか」と尋ねるだけだと前もって申し上げておきます。わたしはときに「永遠に否定しなさい」と命じなくてはならない局面に立ってきましたが、そのことを決してよろこんでいるわけではなく、そういったことは可能な限り避けたいと望んでいます。
総括2 全体の構造
聡明な方には見てわかるとおり、この話は二つの段階を含んでいます。魂の高低やら、その求と欲やらの話と、その高低が逆転した場合の話です。
高低が逆転した場合の話を除去してしまえば、話はいくらでもシンプルですっきり、読みやすくできました。
けれども今日このとき、その逆転の例を主題に取り込まないことは、取り扱う話題に対して現実的ではない書き物になります。
総括3 全員が求められる側
欲に求が、求に欲が、それぞれ呼応して接続するというのが話の大前提です。けれども現代においてわれわれの常識と価値観は、全員自分のことを「求められる側」と定義しています。ですので欲求呼応とその上下直列の接続は発生しません。
現代においてわれわれは全員が自分を「求められる側」だと思っており、自分が求める側だと思ってはいません。まさか自分を「求める側」だなどとわずかでも考えるのは、耐えがたい恥辱と憤怒の湧きおこることでしょう。それは魂の背反なので、魂がそれを甘受することはまずありません。
下から上が「求」、上から下が「欲」です。ですから、自分は常に下から「求められる」側であって、自分は下から求める側ではありません。自分が下に置かれることは単純に言って差別であり、自分があたかも求める側にいるふうに扱われることはすべて「ハラスメント」となり社会的に排除されます(当然です)。
人は自分を下に置かれると許しがたい差別を覚えますが、自分が上に置かれるぶんについてはそうではありません。自分が上に置かれることはハラスメントにはならず、相応に扱われていると納得するので、現代で少しでも魂のことに営みを持とうとすると、ただちに全員は自分のことを「求められる側の人」と定義して活躍するほかない。
求められる側は魂の高い側であり、下からの求に対し、上からの欲で応えるものです。それが接続です。
よって、現代の Youtuber やインフルエンサー、新興のタレントやミュージシャンは、初めから自分は求められる側であり、知名度や一攫千金などの欲を下に向けるのが正当だ、と魂に確信してその稼業をスタートします。
よく覚えておいてください。現代の主流たる新興勢力において、芸事や芸術を「求めて」そのジャンルに立つ人はもういません。お笑い芸人は笑いを「求めて」いるのではありませんし、ミュージシャンも音楽を「求めて」いるのではありません。彼らはすべて、自分が求められる前提で、自分がそれに欲で応じることをのみ正当だと確信しています。
そのことはまた、そうして目立つ人だけがそうなのではなく、われわれ全員がそうだと戒めて捉えるべきです。われわれは無条件で「求められる側」であり、しかるべく欲で応えるのが正当だと信じ、そのときが来ないうちは苛立っている……そういう実態がすでに出来上がってあることを、まず現在の認識としなくてはならない。
この出来上がった状況には問題点があります。それは、全員が自分を「求められる側」としているので、求める側がどこにも存在していないということです。ステージ上のシンガーは、客席の誰にも求められず、一人で唄っていることになります。
客席の側も全員が、自分は求められて会場に来て「遣った」と思っています。
こうしてわれわれは、全員が自分を「求められる側」と設定していて、実際にはそれを求める側がまったくいないので、常に苛立っています。そして何かしら変形して、偽物のかたちでもいいから、自分が「求められている」という状態を創り出して精神の安定を得ています。それは妄想であったり、カネやセックスであったり、ファボであったり、権力であったりです。自分は求められているんだ、という空想を作り上げ、それを抱え込んでようやくまともに寝ることができる、そういう状態が続いています。
総括4 わたしはもともと「求める側」ですが
わたしが真に話したいのは、邪のことではありません。魔に命じられた人のことや、そこから出てくる攻撃、また自分のことを勝手に「求められる側」と設定するよう教育を受けた人のことなど、正直なところどうでもよいことです。
それらはもともと、わたしの話していることと違う、と本来言うべきです。わたしの話していることと逆をやっているのですし、逆を確信しているのですから、わたしの話していることとは本当は無関係です。
無関係なのですが、今やそちらが割合としてほとんど、ないしは全てといってもいいような数的割合ですので、客観的にはその逆側についてもお話しするしかありませんでした。
わたしは今も、文学に、芸術に、世界に、見上げる空と大気のすべてに、「求める」側の者です。わたしは今も求める側の者ですが、わたしがそうして求める側のみをやっていると、なぜか周囲から悲鳴があがるようになりました。いくらか状態をひどくする人もあり、救急車を呼ぶはめになった人や、入院することになった人も出ました。それらのことは、わたしが自ら「求められる側」に立てば実際に収まってしまうので、やむをえずわたしも求められる側に立つことをはじめました。わたしがわざとらしくも下品に欲を向けると、みんなの恐慌は止み、「やったー」と安堵の万歳が起こります。健康を損なうほどの恐慌を制御するということなら、実効的にやむをえないことです。
わたしが「求める側」であることは最後まで変わらないと思います。けれどもその「求める」というのを、かつてのように無条件に人に向けることは取り下げました。先に述べたように、現代においてはほぼ全員が自分のことを「求められる側」に設定しています。わたしは素直にそこに噛み合い、ほぼすべての人に対してわたしが「求め」、つまりわたしが下となり彼らを上として「求める」ということを愉快にやっていたのですが、そうしたとき出現するのは、しばらくの好い調子と、その後の絶望的な暗転、転落でした。すさまじい落下のヴィジョンを体験した人もありますし、お願いだからやめて、と絶叫されたこともあります。それでわたしは、現代の人々が、自らを「求められる側」だと設定しているにせよ、本当には何も知らずそのような設定を植えこまれているのだと判断しました。上品と下品の接続において、わたしは求める側、他の人々は求められる側として、わたしはゴミムシのように扱われるよう振る舞ったのですが(またわたしはそのことに慣れていて楽だったのですが)、行き着いた結果はそのような悲鳴です。わたしはそうしたことのすべてについて、単に受け止めたり思いを馳せたりするのではなく、学門として究明していくべきだと考える者です。
以降わたしは、求めるべきものは空や大気や世界に求め、何より自分自身と主体に求めるとし、なるべく安易に人に対しては「求める」という低い立場を採らないようにしています。それでも、このいきさつに無関係な人は、ほぼ全員が自分を「求められる側」と設定していますので、接触すると初めは齟齬があって苦労はします。わざわざ苦労を経てまで接触する必要は、特に向こう側において無いはずなので、たいていの場合はこちらが引き取りますが、まれにやはり、自分を無条件に「求められる側」としていることに魂の危機を覚えている人がいて、その人が接触を残す、ということが続いています。わたしが下品と欲を向けることで一気に「救われました」という人が、露骨に多いという事実は曲げすに報告するしかありません。このことは当人の自覚を超えてまるで機械的に起こり、わたしがその人に上品と求を向けるとその人は「やめてください」と震え、わたしがその人に下品と欲を向けると一気に全身が安らいで「救われました」と言います。繰り返される事実を無視してレポートしないということも単なる不誠実と思われますので、わたしはなるべく事実をそのままにレポートしています。
数々のそうした体験と、身もふたもない学門としての検証から、今回の報告が出来上がりました。魂の高低差を仮定したとき、欲と求が呼応しており、その方向の正邪によって、命は主体にも魔にもなります。
わたしが "求めた" 学門です。わたしは今もそのように元からの求める側の者でいます。
総括5 視認可能な図
頭の中に、視認可能な図は組みあがったでしょうか。あるいは手元のメモ書きに、そのような作図は為されたでしょうか。
臆さずに、魂の高低差、その上下関係を設定してみてください。あくまでそのように「仮定」しただけですから気楽なもののはずです。
おそらくあなたは、多く求められる側ではありません。まずは求める側として自分を設定するほうが健全です。特にあなたが若い場合、ないしは若いと自負する場合は。
上から下へ、下から上へ、何が欲であり、何が求めるであるか。罪の反対は何でしたか、罪の反対は償でした。償の行き着くところ、求めるものの果ては何でしたか。主体でした、それは主体性と呼び変えてもかまいません。主体の反対側は? トルストイの言った語を借りました、主体の反対側は動物的個我です。
魂が下を向くこと、その下降じたいが罪ですから、愛はどのようでしたか。愛は罪によってしか為されないのでした。罪を犯してまでそのことを為そうとすることはどうでしょうか。それは破格のやさしさです。
けれども、破格のやさしさを持ちえてもなお、人はどのようでしたか。人は愛の権威でしたか。いいえ、人は無力でした。無力なわれわれは上昇できるのだったか。いいえ、落下しかできないのでした。そこで必要なものは何でしたか。むつかしいほうの漢字で書く「赦し」でした。愛によっても唯一落下しないものと、その落下しない理由は何でしたか。落下しないものは完全な主体であり、それが落下してこないのは元から無限遠点にあるからです。無限にどのような引き算をしても無限のままです。
愛は上品でしたか。いいえ、愛は下品です。下に向ける品です。まさか神から愛されるとして、神から上品なものを奪うつもりですか。祭壇にクソを捧げる者はいません、祭壇には上品を捧げ、神からは下品を下賜されようとします。心理学者のユングは幼少のころ、神の糞便が天から降り注いで人の造った大聖堂を打ち砕くというヴィジョンを夢に見ています。
下品を賜ろうとするときあなたに抵抗はないでしょうか。いいえ、あなたにはそのとき恥の感覚と体験が生じるのでした。あなたが邪に進むとき、あなたはその恥を恥辱とまで感じて、下品を賜ることを拒絶し、また上品を差し上げることも拒絶するようになります。
聖の反対は何でしたか。聖の反対は邪ではありません、聖の反対は俗です。俗をもって聖なるを言い張ることを邪といいます。邪の反対は「正」です。
正に進むとき得られるのは何でしたか、またそれを与えるのは何者でしたか。そのときのあなたに与えられるのは祝福であり、祝福を与えるのは主体です。それを逆転したときに与えられるのは? 邪に進むときあなたに与えられるのは魔力です。それぞれは何をもたらすのでしたか。祝福は福をもたらしますし、魔力は禍(わざわい)をもたらします。けれども魔力でいったんの力と勝利を得てしまった人は、それを手放せないがゆえに、禍の中を「ふつう」として生きていかねばならなくなる。
命とは何でしたか。命とは命令であり、命じられるということでした。正しくは主体に命じられること、邪には魔に命じられることです。魔が命じることは何でしたか。主体への攻撃、および主体の王城への侵入(interlope)です。なぜそんなことになったか。「誘惑」を受けて偽ルートに引き込まれたからです。誘惑されてそうなったわけですが、かといってそれは他人のせいではない、けっきょくは自分のせいでした。
主体の王城へ侵入攻撃を仕掛けて、あなたは報われるのでしたか。いいえ、魔に命じられたとして、魔はその手駒に向ける慈悲など持っていません。じゃあ魔の命を辞することができるか。いいえ、安易にそんなことをすると、「見せしめ」の刑が用意されているのでした。じゃあどうすればいいか、主体の王城に投降すればいいか。その投降が受理されればよいですが、必ずしもそうとは限りません。
一番大事な現象は何でしたか。
求と欲は呼応するということです。電池のプラス極とマイナス極のように直列に接続する。
いまここに展開した壮大な図を、あなたはすでに知っています。わたしが教えたからです。壮大な図だけれども、そんなに複雑な図ではありません。あくまで「仮定」で成り立たせたという気楽さと共に、ぜひこの図をあなたのものにしてください。仮定の上に成り立っているものですから、マンガの作中世界を把握することと大差ありません。
その中から、やはり「仮に」という形で、あなたの本当に求めるもの、あなたが引っかかった誘惑、あなたが受け入れられない恥、あなたの魂の位置、あの人の本当のやさしさ、などが視えてくるはずです。
総括6 犯罪者
わたしが真に話したいのは正のことです。欲と求の呼応が見つかった、という偉大な発見を報告したかった。
愛が罪によってしか為されないのなら、わたしは犯罪者になりましょう。むろんその意味は、社会的な犯罪者とは異なります。
奇妙な自負ですが、わたしと犯罪者という取り合わせは実に相性がよい。犯罪者たれと言われるのであれば、わたしはそのことについてだけは「それならまかせてくれ」と引き受ける絶対の自信がある。わたしはわたし以上に犯罪がお似合いの人を他に知りません。
犯罪がお似合いのわたしは長年、わたし自身の罪をよく知っています。つまりわたし自身の下品と欲を知っている。そして同時に、それらは赦されるよりどうしようもないということもよく知り抜いています。自分で解決できるものではない。それらを抑圧して、さも罪のない、魂の高い存在であるふうを言い張って気取ることはできるかもしれないけれども、わたしはそのような不毛な三文芝居を生涯にわたって続ける気にはなれなかった。
社会的な犯罪を推奨する愚か者はいません。社会的な犯罪はただのトラブルでしかありませんから、わたしは断然ノー・トラブルを絶対のものとして推奨します。
そのことを念押しした上で、わたしは極端なことを申し上げましょう。わたしの犯罪だけが期待されていると。わたしの魂の――社会的なそれではない――犯罪、下品と欲、殺害を基本とした適宜の犯罪だけが期待されています。人々の求めるところへ、償いたいというところへ、わたしは呼応して、下品と欲、その罪を犯していこうと思います、わたしはそうした犯罪がお似合いですから。
あとはわたしがどこまで赦されているかという問題になります。わたしの主体性はいかほどか、わたしの魂はどのていど主体に近いのか。そして、主体に命じられるということがあるならば、その命じられたことをどのように遂行しているか。そのことのていどによって、わたしは相対的には何らも変わらせず、絶対的には上昇する愛を為すことができるでしょう。
わたしの犯罪を「求める」というあなたが、そのことに恥の抵抗を強く持っていることをわたしは知っています。それは当然のこととしても、あなたが正邪を取り違え、俗をもって聖を言い張り、魔に命を受けることのないように。邪をゆく魔力からの攻撃を、すでにわたしは見慣れてしまい、飽きています。
欲と求、応用と実践の編へ続きます。
[欲と求 概論 /了]