No.411 下命と絶命のオン・パレード2021
現在、2021年の大晦日、時刻は17時半だ。
毎年恒例のこととして、大晦日にはコラムを書くことにしている。
時間的に間に合うかな……
さっきまで昼寝していたので時間に余裕がない。
毎年、大晦日の独特の空気の中で、過ぎようとする一年のことを振り返って、なんとなくそのことについて話すのだが、今年はもうそのことも不可能じみる。
この一年間に何があったか、などということは、もうとてもじゃないが膨大すぎて、振り返ることは不可能なのだ。
ワークショップ関連で、おれはライブ配信の形式をやり、一年間で合計、たぶん500時間ぐらいは話したのだと思う。
おれは単独で500時間「話」をし続けたのだ。
おしゃべりをして過ごしたわけではない。
そのすべての話は、毎回新しいものであって、よくまあこんなに際限なく「話」ができるものだと、自分で呆れる。
若い奴がおれの話したことの題目を pdf にまとめてくれたが、量が多すぎて、その pdf は拡大しないと文字が読めない。
配信を始める前に、何を話すかについて一切の準備をせず、また外部ソースにネタを借りることなく、おれは「話」を続けた。
おれの書き続けるコラムやブログが外部にネタを依存していないのと同じにだ。
いまのところコロナ騒ぎのこともあってワークショップ関連は固定メンバーで閉鎖的にやっているが、いずれその周辺のものも、みなさんに公開できるよう、いろいろ考えてはいるので、楽しみにされる方はお楽しみに。
この一年間に何があったかなど、振り返ることは量的にまったく不可能で、話すとしたらおれは今、ここ数日でいよいよ知ったことについて話しておきたい。
この年末に向けて、また何かがおれに何かを教えようとしてきた。
おれは今、「今年の体験は量的にもう把握しきれない、ぜったいムリ」と話したのだが、おれが新しく知ったところによると、こんな話も一般的には「マウント」の反応で迎えられるようだ。
おれは誰か、ヒマで虚しい、やることのない人に向けて、「ボクはそうじゃないんだよね〜」とマウントを取るために話しているのではない。
それこそおれは、そんなアホくさい、ヒマの極みをやるような時間はまったく与えられていないのだが、どうも世間一般ではそうではないらしい。
おれは世間一般がいまどのようになっていて、どんなことが起こっているのか、正直なところさっぱりわからない。
ただおれが知っているのは、それがどのようになっているのかは、一部賢明な、一般の感触を知っている人から聞き出せるとして、それが「なぜ」そのようなことになっているのかは、その賢明な人にもわからないということだ。
「なぜ」そのようなことになっているのかは、けっきょくおれでなければ解き明かせない。
時間がないので単刀直入に。
キーワードは、地獄、物体、罪だ。「感受性」も加えていいかもしれない。
反対側のキーワードは、魂、命、話だが、「話」というひとつの語に結んでしまってもいいかもしれない。
2021年、おれは無限の話が湧いてくる奴になった。
そのことをコラムのタイトルにしようかとも思ったのだが、なんとなく派手なほうがいいと思い、いまは別のタイトルをつけている。
2021年、おれは無限の話が湧いてくる奴になり、そのことは、おれがガキのころからの悲願だった。
おれはガキのころからなりたかった何かに、本当になれたのだと思う。
そのころの悲願が、真相としてこういう現象に基づいていたのだとは、さすがにガキのころは解明できなかったけれども(そんなもんガキに解明できるわけあるか)。
おれはただ「話」をしているだけだが、なぜそれが一般的には「マウント」に変換され、そのマウント反応によって迎えられてしまうか。
といっても、素直におれのことを敬慕し、おれがテキトーに愛してやっている奴においては、もうその反応は出ないのだけれどね。
まあそれでも、これまで罪業の深い中を生きてきたわれわれにとって、いつだってその命ある状態は損なわれ、別のものに吸い込まれていくという可能性がある。
なるべく話を簡単にしよう。
まず、お前らが思っているほど、お前らに起こっていることはややこしくない。
お前らに起こっていることなど、まったく高度ではないのだ。
最も安っぽいことが起こっているだけなので安心しろ。
その最も安っぽいことが、それなりに強烈と感じられるので、そのことにアアアアと引き込まれているだけだ。
解き明かされてしまうと実にくだらないことでしかない。
ただ問題は、そちら安っぽい現象を教わって、それについての視力を得たとしても、高度な現象のほうについては視力が無料レンタルできるわけではないので、高度な現象はなかなか視認できず、視認できるものというと引き続き安っぽいものだけ、そうなると単純視力の問題として、
「安っぽいそっちのほうに引き込まれてしまいます……」
という、実に憮然とすべき実態が生じうる。
なぜ高度なことへの視力が足りないか。なぜそれが得られないか。
そんなもん、学門が足りていないだけだ。
現象を解明するということに、全身全霊を投げ込む必要があるが、その魂のサイズがおれの百分の一しかなく、またその投げ込んで解明に向かうトライアルもおれの一万分の一しかやってきていないのでは、得られる結果はおれの 1ppm になるのが当然だ。ppm は百万分率だ。
千歳飴(ちとせあめ)を食べることを考えてみろ。千歳飴を食べるには、それをぺろぺろしていればいいだけだが、戦艦大和の大砲みたいな巨大な千歳飴があったとして、あなたにはそれをぺろぺろ食い切る覚悟があるか。
「努力は要らないんですよね、正しく摂取すればいいだけですよね」
そりゃそうだが、全身全霊、その舌が痙攣して気を失いそうになるまで入魂でぺろぺろし続けるというのは、単純なことではあるが容易なことでもなければ安易なことでもない。
足りるまで学門を得るというのはそういう行為だ。
それは情報ではなく学門なのだから、ライフハックや料理レシピのように、頭の中にメモ書きで留めておけば便利で解決なんてたぐいではない。
千歳飴を食い切るのに努力は要らないが、それは努力ではないからこそキツいのだ。努力であれば自己陶酔もできるし、見せかけ上の友人も増える。
努力の混入しないひたすらの "純粋な行為" を、果てしなく膨大に積み重ねなくては獲得できない、そちらのほうが本当は遥かにキツいのだった。
それは努力でもなければ才能でもないので、言い訳も利かないしね。
ただ、自分がやったかやらなかったかだけが残るので、このノー・エクスキューズの具合もたいへん厳しい。
それはいいとして本題。
なぜ、おれはただ「話」をしているだけなのに、それが「マウント」という反応で迎えられるのか。
いま人々は、「地獄」に落ちないレース、ないしはそのレースごっこをやっているのだ。
マウントで下になったものから、シャレのきかない「地獄」へ突き落とされるという、そういう霊的なレースをしている。
この場合の地獄というのは、比喩ではなくて神話のやつだ。
沈みゆく船があったとして、乗客のうち下層のものから順に海へ突き落とされるというような状態があり、全員が、
「わたしは突き落とされないです」
と肩をいからせて気取っている、そういう中をいまわれわれは生きているのだ。
いわゆる「勝ち組」というのも、それじたいで存在しているのではなく、「負け組」に対するマウントとして存在している。
そりゃそうだ、負け組なしに勝ち組は存在しようがない。
勝ち組のパーティが、DRCワインを開けて酔っ払い、その笑顔の集合写真をSNSで拡散していたとしても、その発信はつまり、
「わたし(たち)は地獄に落ちません。イェーイ」
と言い張っているだけでしかない。
だからそこに必死さがあって幸福はない。
なんだ地獄って、そんなことも誰も考えていないだろうし、これまで考えたこともないだろう。
だがそれは地獄と無縁ということではない。
地獄のヴィジョンと「予感」が恐ろしすぎて、それを直視できないだけだ。
毎日が瑞夢に満たされているか? そんなことはなくて、表面上は勝ち組に見える人も、その目の奥はミエミエに「不安」にむしばまれているじゃないか。
(だから、華やかだったはずの有名芸能人が「突然」自殺したって誰も何も思わなくなったじゃないか)
勝ち組の人の瞳をずっと見ていたいなんて発想した人はこれまでに一人もいない。
その瞳の奥、といっても最早「奥」でもねえなぁ、それぐらいミエミエに、目は不安と恐怖にむしばまれている。
若き日のボン・ジョヴィの瞳と比べてみたら一目瞭然だろう。
現代、勝ち組も負け組も、共に「自分は地獄に落ちない組だから」と言い張って、そのためのパフォーマンスを毎日やっている。
そのパフォーマンスで自らを鼓舞しているのだが、そんなパフォーマンスと自己鼓舞を必要としているということは、予感・ヴィジョンはやはり「地獄」に向かってやまずにいるということだ。
それはおそろしすぎる予感と視界なので、直視できず、もはや病気のように張り付いた「ほほえみ」を顔面に湛えているだけだ。
なぜこんなことになったのか。
なぜといっても、話は単純で、神話をキックし、神話に伝えられていることの正反対へ全力ダッシュしたのだから、そりゃあ神話に伝えられているところの天国の正反対へ全力でダイブすることになるだろう。
すでに大きな勢力の人たちが、自分はこのことから逃れられないと知り、その「巻き添え」を増やすことに全力を捧げているので、世の中全体のの趨勢は変わらない。
地獄の王に前もって捧げものでもすれば地獄での扱いがちょっとはマシになるのだろうか。
そんなことはまったく知りようもないが、本当にそんなことを考えているのか・衝き動かされているのかというような感触で、世の中全体の趨勢は変わりようがないという気配なのだった。
ああ、なぜ神聖であるべき大晦日に、こんな「地獄」の話なんかしているんだろうね。
地獄がどういうものかなんておれは知らないし、どうやったらそこに行くのか、どうやったらそこに行かずに済むのか、おれは知らない。
誰もそんなこと知らないだろう、ただ知らなくても、自分の乗った船というのはどこかへ行ってしまうということだ。乗った船はどこかへ向かっている。
その行先について、予感とヴィジョンだけがあってしまうということだろう。
ほほえみを湛えていたからといってその船の行先は変わらないし、黄金で着飾っても無駄、色仕掛けの魅力をパワーアップさせたところで、やはりその船の行先は変わらない。
必要なのは別のチケットと別の船への乗り換えだ。
ちょっとアンフェアな言い方になるが、フツーに生きてりゃ、その船はアカンほうに行きますよという、警告を何度となく体験してきているはずだ。何かしら「わざわい」というような形とその体験で。
キリがないのでおれの話を進めよう。
なぜ「地獄」に落ちるかというと、それは重力によってだ。
重力によって落ちるものは何かというと、それは物体だ。
重さがイコール物体と言えると思うが、ここでは体験上わかりやすいように「物体」と称する。
「話」の入っていないものはただの物体だ。
生きものというのは、ただそれだけでは、生理反応をもった物体でしかなくなる。
人には「こころ」があるが、残念ながら、そのままでは「こころ」を持った、やはりただの物体になってしまう。
そりゃそうだろう。
誰でも考えてみればわかる、たとえばここに五歳の少年がいたとする。
この少年から、すべての「話」を奪ったとする。
そのとき、少年の機能として「こころ」は残るが、すべての「話」はなくなったので、ただの生ける物体だろう。
この少年が天国に行くとは誰も予感しない。
「話」とは何か。
それは浦島太郎でもいいし桃太郎でもいい。竹取物語でもいいが、シンデレラうんぬん、アンデルセン童話はいかがなものかと思う。
アンデルセン当人はひどい神経症だったので、わざわざそれを選んで子供に読み聞かせなくていいのにとおれは思っている。
現在の一般教養や常識としては必要な知識なのでしゃーないけどね。
天岩戸の話でもいいし、アダムとエヴァの話でもいいし、法蔵菩薩の話でもいいし、ベツレヘムの星の話でもいい。
日本は戦争に負けるまで日本の創世神話を学校で教えていたのだが、それを教えていたということじたい、現代のわれわれにはあまり知られていない。
おれは右翼ではないのでそれを復興しろと言っているのではない。
おれは「話」をしているだけだ。おれが今やっていることは「話」だ。
おれが大晦日に示した「話」を、あなたはいま聞いているところだ。
話の入っていない「人」は、ただの物体に過ぎず、その物体は自ら「地獄」に落ちそうという予感とヴィジョンを受ける。
人にはこころがあり、人格があるが、こころも人格もある「物体」になってしまう。
女性はセックスに関連して、よくこの「物体」になりたがる。
「物体」になることで、あるいは「物体」であることを受け容れることで、激しく濡れ、激しく震え、激しく感じ、激しくオーガズムを迎える。
女はそのとき咆哮をあげるのだ。何十年も、本当は物体でしかない自分のこころと人格に、あたかも社会的人間のような演劇・キャラパフォーマンスを括り付けてきた。
それはひたすらの負担、ひたすらのストレス、ひたすらのむなしさでしかなかったのだ。
だからせめてカネと名誉と、美貌と自己顕示でチヤホヤされたかった。
それらのすべてを剥ぎ取って、かねてから彼女の真実である「物体」に彼女を貶めると、彼女の全身はついに解放されて咆哮する。
彼女は狂乱を抱えて生きることになるが、狂乱といえば、何の「話」もなく、ヴァギナを含めた生体だけに「こころ」が結び付けられてあることじたい、前もって狂乱のたぐいなのだ。
一部の女性はこのことに向けて、秘密でドキドキのアプローチ、本当の自分に踏み出してしまうスリルと勇気を自ら試し始めるが、申し訳ない、はっきり前もって言っておく。
おれはそんなものとっくの昔に知り抜いているし、それがけっきょく残念ながらしょうもない、大したものではないことを断言しておく。
少なからぬ女性がそのことに「本当に震える」ということを体験し、あるいは、体験していきたい、体験しなくてはいけないと、自分の秘密の決意にしていることは知っているが、残念ながら、はっきり言っておく、人の魂が「本当に震える」というのは、そんなあなたの体感や発想で手の届くところにはない。
何の話をしているか、これはこころと人格のある生体、それでいてやはり物体でしかない生体の話だ。
多くの人は、地獄の予感とヴィジョンを持っており、言い換えてみればそれは、地獄うんぬんが「視えている」ということだ。
だから、その視力がある方向、物体が重力によって地獄に落ちるのみという方向でセックスをしてやると、その視力によってその行為がまざまざと視え、強烈に感じ、非常識的なオーガズムを得るということだ。
だがおれは、いいかげんわかっていると思うが、あなたの想像がつくというようなていどの、生ぬるい話はしない。
あなたの想像がつくようなていどのことは、あなたでも話せるじゃないか。
ひどい言い方をしていると思うが、これはおれがあなたを愛しているからこういうひどい言い方をしているのだ。
あなたに視えていないものを、あなたが感じることは出来ないから、おれはまずあなたにその視力を宿そうとしている。
あなたはいまおれの「話」を聞いているだろう。
あなたにおれの話が聞こえているということ、このことが起こっているうちは、あなたは物体ではない。
おれはあなたを物体でなくしているのだ。
それはおれのはたらきかけであり、おれの権威によるもので、あなたの権威によるものではない。
おれは無理やりこのことをやっている。
それはおれがあなたを愛しているからだ。
そのことの必死ぶりは、いつも見ていてカッコ悪いぐらいだと思うが、そんなことは気にしなくていいし、あなたはおれのやることに感謝なんかしなくていい。
ただおれが「話」をしているということに気づけばいいし、その「話」が、あなたに聞こえているということに気づけばいい。
おれはあなたを物体でなくしている。
それによって、物体たるあなたの権威を失墜させているということでもあるけれどね。
あなたの持っているヴィジョン・予感を消失させるのだ。
つまりあなたの視力を破壊してしまう。
これまであなたに視えていたものを消し飛ばしてしまう。
それで、あなたに新しい視力を具えさせねばならない。
おれの「話」は、いつもこのように、妥当で理に適っており、かつ素敵だ。
2021年、あなたはいろんなツイートを目にし、いろんな炎上、バズったもの、流行したいろんなマンガや歌を見聞きしてきたはずだ。
けれどもどれひとつも、あなたに「話」を与えてはいないだろう。
おれは今、あなたがそのような世の中で、いっさい「話」は与えられずに来ている、という「話」を与えている。
なぜ世の中からいっさいの「話」が消えてしまったのか。
それは、消費者の多くがすでに「物体」だからだ。
物体は、物体でないものを見せつけられると、自分が物体であることに苦しみ、恐慌し、ねたむ。
そして必ず、
<<逆転して自分が物体であることの「権威」をオーガズム的に振り回す>>。
そういうはちゃめちゃなことが起こるので、いま、消費者に向けては「話のない物体」を提供するのが当然の営業なのだ。
アニメやアイドルとして表示される大量の女の子群が、キャラ物体たる「着せ替え人形」に徹底的に偏向していることを、今さら視認できない人がいるだろうか。
どんな女性でも、自分にキャラクターのコスチュームを着せ、自分をキャラ物体として撮影して展示すれば、それに「いいね」が数千も数万もつくようになっている、それが現代だ。
すでに十代の若年層は、この物体世間に違和感さえ持っていないだろう。生まれたときからそうだったのだから、彼らは世の中も人々もすべて物体という唯一無二の確信の中を生きている。
今やそのことは、老若男女に共有され、かつては魂を求めた人も、多くは物体を指向し、その物体の権威をオーガズムまじりに振り回しているというところだ。
話を整理しよう。
人は「話」が入らなければ物体にすぎない。
物体は重力によって落下を続ける。それが地獄へ落ちる予感・ヴィジョンとなる。
順位として下から順に突き落とされることになるので、人はマウントを取りあい、自分の落ちる順番を遅らせようとする。
人の魂は何を選ぶのか。何も選ばないというのも魂の選択のひとつにすぎない。
何も選ばないということは、魂が「無」を選ぶということであり、魂が無であるならば、人は生体という物体にすぎない。こころと人格を持った物体にすぎない。
無を選ぶのはさすがにヤバいでしょと、魂に「命」を選ばんとする人だってもちろん多い。真面目に宗教に入れ込んでいる人なんか特にそうだろう。特に年齢的に死期が近い人は、そのことでほほえみを湛えている。
とはいえ、「話」が入っていなければ、ほほえみだってただの物体だ。
物体でないほほえみなんてそんなに簡単に出会えるものではない。
魂に「命」を選ばんとす、そういう気持ちの人は少なくないし、その気持ちは強くてウソがないが、その気持ちは「こころ」「人格」の周辺に生じているものであり、その「気持ち」というそれじたいが物体でしかない。
物体に命は視えない。
だから物体は「生」を視て、それを「命」と誤認する。
生を粗末にすることはまったくないが、それは「命」と入れ替えの利くものではない。
おれは意地悪を言っているのではない。
おれはあなたに必要なものを直接届けているだろう。
おれは「話」をしているのだ。
これまでずっとそうしてきたし、これからもずっとそうするだろう。
「話」に命がある。
命のすべては「話」だと言っても差し支えないほどに、命と話はつながっている。
命とは何なのか。
それは「話」なのだ。
おれの話とあなたの気持ちは無関係のはずだ。
あなたの気持ちが膨れようが萎もうが、おれの「話」は変化しない。
そりゃ当たり前だわな、おれが書いている文章に、あなたの気持ちは関係ない。あなたの気持ちでおれの文章が勝手に書き換えられはしない。
この、あなたのこころにも人格にも気持ちにもまったく関係ないものが、あなたに「聞こえている」ということ。
聞こえてしまっている、と言ってもよい。
おれはここまで、あなたに何をしろとも言っていない。
けれどもあなたは励ましを受けているだろう。
おれはあなたに「死ななくていい」と言っている。
おれが言っているのではなく「話」が言っている。
「話」という現象それじたいが存在しているのだ。
「話」という現象それじたいに主体がある。
おれがおれのこころと人格と気持ちによって「話」をしているわけではない。
「話」という現象それじたいに主体があって、おれはその主体をディールする媒介でしかない。
文字・文章に転写しても同じだし、音声に転写しても同じだし、動きや絵に転写しても同じ、姿や眼差しに転写しても同じだ。触れるものに転写しても同じだ。
おれの思っていることがあなたに聞こえるわけではない。おれの思っていることを、おれがネチネチ「言う」ならば、あなたはおれの言っていることを認識し、理解もするだろう。
けれどもそれは「聞こえている」わけではない。
聞こえているものは「話」だ。
「話」があなたに聞こえている。
たとえおれが死んでいても「話」はあなたに聞こえ続ける。
「話」は、あなたが生まれる前からあり、人類の誕生以前からあり、宇宙の誕生以前からあるからだ。
おれは今、あなたに話を与えているので、あなたは物体ではない。
おれがそのへんのレンガ石一個にでも、話を与えるなら、そのレンガ石はもう物体ではない。
あなたは百億の人々にちやほやされたいのではなく、おれ一人に、そのレンガ石のようにしてもらいたいだけだ。
二時間が経って、19時半になった。
今年の大晦日コラムは間に合うのかな。
***
2021年、おれは無限の話が湧く奴になった。
それはおれがガキのころからなりたかったもので、おれはついにそれになることができたのだった。
とりあえずバンザーイと言っておこう。
そして、言ってみれば自明のことなのだが、書ききれないのだ。
そりゃそうだ、自ら「無限に湧く」と言っているのだから、書ききれるわけがない。
なるべく役に立つふうのことを書き記しておきたい。
とてもじゃないが一年間を振り返るとか、そんなことはもう無理だな。
おれの言っていることはごく単純だ、おれは「話」をしていて、「話」それじたいが「命」だということ。
その「話」があなたに「聞こえている」ということ。
あなたがこころや人格や気持ちで「命」をゲットする必要はない。
もうおれの話が聞こえているのだから、「ゲット済み」と考えてまったく問題ない。
あなたに「話」が入るなら、あなたは物体ではない。物体ではないということは質量がない。
そもそも魂に質量があるという発想じたいがおかしいだろう。
そんな見るからに謬説とバレているものを信じるから、オーガズムしながら地獄を視るのだ。
あなたに「話」が入るなら、あなたは物体でなく、「あなた」には質量がない。
質量のないものの速度は三次元的にいうと光速度だ。そして光の速度にあるものに時間は流れない。
時間という現象が重力下におけるひとつの「錯覚」だったことが明らかになる。
光速度の中では時間という現象それじたいが存在しないので、理論上「永遠」になる。
どこかで聞いたことのある「永遠の命」というのはこれのことを指しているのだ。
おれの「話」が、一週間後に古くなるということがあるか? 人の言ったことは時間経過で古くなるが、「話」という現象は古くなりようがない。
「ドルガバのせいだよ〜」は古くなったが、モーツァルトは古くならないだろう。
より正しくいうと、日本語においては「古」というのは悪い意味ではないので、
「モーツァルトは初めから古い」
ということになる。
初めから最大に古いものはそれ以上古くなりようがない。
このことを日本語で「稽古」という。
「稽」というのは「つながれている」という意味だ。
「稽古」というのは「つける」ものであってトレーニングするものではない。
「古」という現象との接続をつけるということ、それを稽古という。
tik-tok で流行りのムーブを練習したとしても、当然、それは何の稽古にもならなかっただろう。
「話」という現象は、宇宙が出来る前からあったと言ったが、その宇宙が出来る前のことを「古」と日本語では言っているのだ。
まあそんなことまで言い出すとキリがないか。
無限の話が湧いてくる奴にすべてを話しきれというのはどだい無理なのだった。
バンザーイというのも「万歳」だから、「古からあり、永遠にあり続ける」という意味で発されている。
役に立つふうのことを言っておくなら、この「話」というやつが、おれからあなたに聞こえているのに、その「話」「命」はあなたから消えていってしまうのか。
あなたはなぜ、数日もすると物体に戻っていこうとしてしまうのか。もちろんあなたが望んでそうしているわけではないが、なぜ、まるで数日で「貯蔵が尽きた」というように、あなたはもともとの物体たる権威とオーガズムに戻っていきそうになるのか。
それは、あなたの魂に、「感受性」で穴があけられているからだ。
おれの注いだ「話」は、その穴からどんどん流れ出してしまっている。
だから、どれだけ話しても無駄ということに通常はなるのだが、そこでおれの場合は、おれの気が狂ってしまった。
穴があいていて流出していくから、どれだけ話しても無駄というテーゼに対し、
「おれから無限に湧き出た場合はどうするんだよ?」
と対抗した、それがおれのここまでの成り行きだ。
おれは無限の話が湧く奴になった。
といって、おれの生身は無限ではないので、ここしばらくは連日のようにブッ倒れているが、それでもおれの側から話の湧き出るのが「尽きた」ということはない。
新しく湧き出る話は尽きるはずで、無限に新しい話はないはずだ、というのが常識にもわかることだが、おれに対してその誰にでもわかるようなクソ常識を向けることほど滑稽なことはない。
あなたがその愚かな穴からひとつの話を失うあいだに、つまり数日のあいだでも数分のあいだにでも、おれはふたつもみっつも新しい話を湧かせよう。
おれの話が湧き続け、ついにあなたが恐慌の果てに泡を吹いて倒れたとしても、おれは「話」をやめない。
おれの語り口、そのナラティブは、この「やめてくれナラティブ」をもって本とする。
どう見ても「こんな奴に勝てるわけないだろ」というのが冷静で愉快な判断なので、その判断に基づき、さっさとその不毛な感受性にフタをしろ。
フタをするというか、もう縫合手術をしてしまっていいのだ。
あなたは感受性が「偉いもの」「素敵なもの」「大切なもの」という文化教育を受けてきたが、それが根こそぎ誤っているというか、あなたを地獄へ誘うものだったと、いいかげん理解できるはずだ。
未練があるのもわからないではないが、未練があるのはまだしも、その未練をもって学門を否定することはおれは認めない。
これまでの学校経験で、感受性たっぷりの先生を何人か見てきたことがあると思うが、あなたはその先生と永遠の箱の中に詰められて平気なのか。それがあなたの求める永遠の国か。
そんなわけはあるまい、「感受性」がしょせん「蝕まれたヤバみの穴」でしかないことを、あなただって知らないわけではないのだ。
ただその感受性の権威を失うと、あなたが一時的に「どうしたらいいかわからない」と立ち尽くしてしまうだけだ。
少なくともおれの話が聞こえているあいだは感受性のフタをしろ。
そして、感受性にさっさと縫合手術をした奴が勝つのだとはっきり断言しておいてやる。
いつまでも首をかしげているふりをしている奴には、とっておきの罰をくれてやる。そうだな、あなたの両親の感受性を三千倍にしてやろうか。母親はその一万倍にしてやってもいい。
感受性が三千万倍になった母親のことをどうしてあなたはよろこばないのだ?
このように、感受性尊崇説はあなた自身によって簡単に否定されている。
植木鉢に虫がついて枯れてしまっただけで「ギャオオオオエエエ」となるようになりたいか。感受性というのはそういうものだ。
ヴァギナに棒を突っ込まれただけでギャオオオオエエエとなりたいという、それだけなら苦笑まじりにわからなくもないが、そのために感受性の穴を三千万倍に拡大するというのは、まさに自ら地獄を求めてのことにしかならないだろう。
矛盾するようだが、現代でわかりやすく活躍するためには、この感受性の穴を致命的に拡大するべきだ。
地獄の予感、そのヴィジョン、そしてそこから発生してくるマウント気配、その不安に蝕まれた瞳、それが、現代の世の中では「与党」として通用するからだ。
一切の話を失って、すべてが感受性の穴に流出していく、その穴の向こうに地獄の予感とヴィジョンを見る、そうするとそれを見た瞳には不安の穴があいていく。
そうすると、同じ不安にむしばまれた瞳の消費者から「いいね」をもらえるのだ。
なぜ「いいね」をもらえるかというと、そうしたファボをする人たちは、マウントを取るここちでそのボタンを押しているからだ。
母親が娘に対して「いいね」と評するものであり、娘が母親を評するものではない。
評する側が上位者だ。
SNSのファボの装置は、よく出来ていて、それを押す側も押される側も、それぞれマウントを「取る」側の気分になれるようになっている。
その証拠に、今からでも百件の動画をめぐり、その動画をひとつも観ずに、すべてに「いいね」をつけていってみろ。
あなたは浮いたような気分になり、しめやかな気分には絶対にならないから。
感受性の穴を否定し、穴がなくなったその魂でおれの話を聞け。おれの話はちゃんと、何もしなければ勝手に聞こえてくるように出来ている。
感受性の穴が塞がれれば、おれの話によって、あなたには「話」が入り、あなたは自ら「話」をディールできるようになっている。
感受性の穴に、ほんの少し隙間が残ってしまうぐらいはしょうがない。お互い生身をもって生きているのだから、それを完全なゼロにはなかなかできないのだろう。
おれの「話」を受けて、あなたに「話」が入り、内容はどうでもいい、あなた自身から、流出しなかった「話」という現象がディールされる。
ただそれだけのことだ。永遠の命といってもただそれだけのことなのだ。
聖書でも仏典でもいちいちそれをわざとらしく信仰する必要はない。誰でも知っているとおり、そういう宗教にハマっているババアはただのヤバいババアであって、「ウルウル信仰どっきゅーん!」という感受性に大穴があいているだけだ。そうして宗教施設は未亡人を食い物にすると、二千年前にもう福音書に書かれている(しかもキリスト当人による強烈な弾劾として書かれている)。
で、ただそれだけということなのだが、その「ただそれだけ」ということが、今になって克服することがどれだけ困難か、実際に取り組んでみるとわかる。
あなたは「話」をどう聞き、どう話そうとしても、感受性の穴が「うひゅるららっ」とすべてを流出させてしまうということを体験するはずだ。
「わたしはすべてを感受性で消費するバケモノなのか?」とさえ感じられて、自分がおそろしくなるほどだ。
感受性にフタをするということ、それを縫合手術するということの困難を体験し、その困難に直面してはこう思いだせ。
あなたは感受性の権威を失うことに未練があるだけなのだ。
あなたは物体たる自分の権威を失うことに今さらながら抵抗している。
これまでそれなりに膨張させてきた権威を、すべて捨てて、「話」なる権威に立ち返るということに抵抗している。
なぜなら、「話」たる権威に今さら立ち返るとして、そちらにおける自分の身分は権威としてゼロだからだ。
感受性物体として威張っていた自分を捨て去って、赤子のように小さき者になるということを拒んでいる。
そのことを見抜けないとその縫合手術は成り立たないので、そのときはこのことを思い出しなさい。
どうせあなた自身、感受性物体の権威を誇りあっていた友人のことを、本当に永遠の友人とは思っていなかったのだから。
(20時15分になった)
***
人は何もしていなければ何もならないか。
ふつうに暮らしていたら何もならないか。
ふつうに暮らしていても飲み食いはしている。呼吸もしている。
水を飲んで麦を食べて暮らしている。
ヴィーガンのように麦だけ食べていれば何も起こらないか。
そうではない、重力は常にはたらいているのだから、何もしなければ人は落下し続けている。
物体たる人は落下し続けている。
地の底に着くまで物体の落下が止まることはない。
水はただの物体だ。それを飲んで落下する。
麦はただの物体だ。それを食べて落下する。
つまり、物体それじたいが「罪」だということだ。
なぜ物体が罪か。
主体ならざるもののすべてが罪だからだ。
主体に恭順しないことじたいを「罪」と呼ぶからだ。
おれは幾人もにこのことを訊いた。
すると「あまりにもこころあたりがあります」と答えられた。
それは、水を飲むにも罪が重くなり、麦を食うにも罪が重くなるということ。
あまりにもこころあたりがあるということだった。
それで、あまりにも多くの人が、おれの作った食事や、おれの淹れたお茶を、泣くほどによろこんで飛びつき、飲み食いした。
おれは水にも麦にも「話」を入れるからだ。
おれは無限の話が湧く。
水にも麦にも、話を入れることなど何の造作もないことだ。
(それなりにある種の力は使っている。力が出ていくという現象はそれなりにある)
おれの触れたものにも、おれの所有物にも、おれの踏んだ地面にも、おれは話を入れる。
あなたにも話を入れることができる。
望んだ人のなるべく多くに、おれは話を入れてきた。
そんなもん、指先に水でもつけて、ピッピッと飛ばしかけてやりゃいいようなことで、カンタンだ。
何の説明もなくても、特に女性に露骨だが、その途端に、
「やった〜」
と言う。
物体は罪であり、話は命だ。
話が入るなら罪は赦されるということ。
おれに水をかけられた奴、という「話」はある。
物体が物体を食う、麦を食う、水を食う、そんな恐ろしいことに比べたら、確かに「やった〜」だろう。
感受性に流出することがなければいいな。
おれの話は、あなたの感受性権威を膨張させるために注がれているものではないからな。
(20:23)
***
もう2021年の時間がないというか、さすがにちょっとぐらい、大晦日のゆったりした年越し気分を過ごしたい。
今年は「笑ってはいけない◯◯」がないんだよなあ、何を観ながらメシを食おうか。
紅白歌合戦を観るべきなのだろうが、たぶん、八割がたおれの知らない誰かが、おれの知らない歌を唄うのだろう。
うーんそうすると、まるて別の国の、別の一年間を見せつけられるようで、おれとしてはきっといたたまれないだろう。
どうしようかな、かといって大晦日に、録画したものを観るのもさすがに萎えるしなあ。
おれはこんなことを考えている。
「テレビ局のスタッフは、帰宅して Youtube を観るのではないだろうか?」
ということ。
特に若いテレビ局スタッフが、帰宅して、そのときやっているテレビ番組をうきうきして観るとはちょっと想像できない。
テレビ局スタッフがプライベートでは Youtube を観ているというのでは、もう時代は切り替わったというべきだろう。
まだ団塊の世代はテレビが中心で、もちろんテレビ局には品質や情報の社会的担保があるから、ただちに廃絶されるというわけではないだろうが……
Youtuber はこれまでのテレビバラエティに倣っているし、これから若いテレビ局スタッフは Youtuber に倣うのだから、そのインスパイアは循環していて、実は誰も主体的ではないという構図が出来上がる。
ロック音楽はかつて、それまでの既製のものをブチ壊すというようなエネルギーで台頭してきたものだが、ロック音楽というジャンルと消費が出来上がると、その既製のジャンルに「参入したい」という心づもりが「ロック」ということになってしまう。
これは何かに対する批判ではなくて、そういうふうに、かつてあったものが、いつのまにか換骨奪胎されるというか、いつのまにか羊頭狗肉になっていくものだな、という感慨について話しているのだった。
時代はずっと動き続けていて、その速さはもともと、われわれが体験するという機能より速い。
いま、学校の先生で一番年配というような人は、かつて同級生が、体制に反対するとかで火炎瓶を投げたり、丸の内企業に爆弾を仕掛けたりしていたのだ。
おれの漠然と知っている、芸能界の「大御所」などが、どんどん逝去されていって、若年層には「誰それ?」という扱いに当然なっていく。おれも芸能界のことはよくわかっていないが、それでも、おれが見せかけ上知っていた世の中というのは、こうやって本当に消えていくのだなと、しみじみというかすんなりというか、視認させられてうなずかされるのだった。
という、このあたりは本当に、おれには珍しいどーーーーでもいい話だ。
2021年の反省をする。
反省といってもおれはしおらしく反省するわけではない。
おれは無限の話が湧く奴になった。
「話」はそれじたいが「命」だ。
おれは実際に、その「現象」を、見えないわたがしのように、指先でひょいひょい動かして、何かに入れたり出したりできるのだ。
仮に目の前にあなたがいて、あなたの触れるところに「話」が生じたら、その瞬間おれはそのことに気づく。
こんなウソっぽい話が、まるきりのウソで、ホラ話、世迷言の妄想であればいいのにな。もしそうだったら、すべてのことは楽だ。
いま、物体たる人は、本当に「話」なんか一ミリも入らず、「命」とか完全にゼロなので、どうしているかというと、ひたすら「はしゃぐ」ということをやっている。
「うん、楽しかった!」
本当にそれだけ。
マウントを取ることではしゃぎ、また、はしゃいでいることが勝ち組で陽キャだから、それを材料にマウントを取れるという、その循環を目指している。
その循環から脱落したら地獄だぞと、本当に思っているのだ。
その循環にいても地獄行きだということは、本当はわかっているだろうに、恐ろしすぎて直視できないのだ。
そりゃ何の一つ、まともな「話」を与えられていなくて、百パーセント物体のままその行先を直視しろというのだから、無理に決まっている。
本当の本当に取り返しのつかない精神の大クラッシュが起こってしまうだろう。
物体でしかない紙切れが、自分の行先のシュレッダーをじっと見ていろというような話だ。
どんな根性でそれを見つめ続けたとしても、何の赦しも解決もなくそのままシュレッダーに in するだけなのだから、根性を試すだけ無駄というものだ。
精神がクラッシュするのも、「クラッシュしなくてもシュレッダー行きじゃねえかよ!」という言い分で、まったく正当化されるのだった。
「話」が入らなければ人は物体であり、物体はそれじたいが「罪」だ。
物体はやがて、破片の上に破片も残らないほどに粉々に砕かれるだろう。
おれのところに愉快なアホがやってきて、素直に、
「水を飲ませてください」
と言う。
ペットボトルの水をそいつが持っているのだけれども。
それでおれが「ほれ」とそいつのペットボトルを取り上げて、そいつにやる。
すると、
「やった〜」
となる。
別に誰も損をしないのだからかまわないだろう。
おれはそうして健気に素直に進もうとしている奴に、もし嘲笑の唾を吐きかけるがごとき者がいるなら、そいつには単純に脳天に戦車砲をマッハ5で撃ち込もうと思っている。
<<物体が威張るなや>>、と根こそぎ思っている。
おれは、おれに無限の話が湧くのに対し、目の前の誰かが、感受性とオーガズムしか湧かない物体でしかないことを、その場であげつらって明らかにするようなことが、どれだけ残酷なことかよくわかっている。
おれはなるべく誰もがおれの話に頼れるようにしているのだ。
そうではないケースについて、説明はできるが、それはもう説明だけで残酷なので説明はできない。
ただ、おれはおれの目の前で、そのようなことを生じさせない。
おれを慕う者がそのような残酷な晒し者になることはないし、おれを慕わない者でさえ晒し者にすることはない。
おれを嫌悪する者、侮辱する者、軽蔑する者、誘惑する者、それらすべてについても、おれはそれを晒し者にはしない。
おれはあくまで、ちょっとキチガイじみているが、誰もがおれの話を聞けるように、そしておれの話に頼れるようにするのみだ。おれはそのために「話」を続ける。
キチガイじみていると自分でもわかっているが、しょうがないのだ。
そこで本当の晒し者にされて、自分が感受性物体と定義されるということは、とてつもない「見放し」であって、誰の魂にとっても耐えられるようなことではないからだ。
どんな行状であれ、人がそんなどうしようもない目に遭う必要はない。何の利益もないことだ。
2021年のおれの反省というのは、少々このことに関連している。
おれが「話」を与えなかったとか、感受性物体を晒し者にしたとか、そういうことはない。おれにそういう反省はない。
そうではなくて、その逆、おれはあまりにも易々と、「話」とその命を与えすぎたのかもしれない、と反省している。
それはおれがケチっているわけではない。おれは無限の話が湧いてくるのだ。
無限の話が湧いてくるから、おれはいくらでも「話」し、その命をやるぜと思っていたのだが、その与えるものに説明がなさすぎ、逆に周囲の人々を恐慌させていたところがあるかもしれない。
というのは、「絶命」についてだ。命を与えることは「下命(かめい)」と呼ぼう。
おれは無限の話が湧いてくるのだから、その命をどんどん、いくらでも与えて下命することができる。
感受性の穴が開いていてもお構いなしだ、次から次に注ぎ込めば「量的におれが勝つ」というメチャクチャな発想、そのメチャクチャぶりが、実におれらしくていいと、おれ自身は気に入っているのだが、おれ自身の生身はブッ倒れてしまうし、それに加えて「絶命」が人々に恐怖を与えてしまう。
絶命とは何かというと、与えられた命・下命されたその命が、感受性の穴に吸い込まれていくたび、自らによってそれを「絶命させている」ということになるのではないかということだ。
命を与えられると単純に「わーい」となるとして、その逆はどうなのだということ、与えられた命が感受性の穴に吸い込まれていって、自らその命を絶やしてしまうなら、そのときは「わーい」の反対を自ら体験してしまうだろうということ。
たとえそれを上書きするように、おれが際限のない下命が与えられるとしてもだ。
その上でしかも、おれが生身としてブッ倒れてしまうのでは、まるでその人はおれから命を奪っていき、おれの生身をブッ倒したかのごときの構図に見えてしまう。
これでは心胆が寒からしめられるのも当然だろう。
2021年にあったすべてのすさまじいことは、この下命と絶命のオン・パレードだったと言える。
この一年間は、量的に膨大すぎて振り返ることもできないと言ったが、それはおれの「話」と下命が膨大だったということであり、同時におれの視えていないどこかで、「絶命」も大量に起こってしまったということではないだろうか。
たとえるなら、ODA の資金が途上国に大量に注がれたとして、その資金が大量にどこかの穴へ消えていってしまうということも起こるのではないかというような話だ。そうすればある意味、その国は闇を増してしまうというところもあるだろう。
一年間を振り返ると、おれが極端な品質の「話」、その下命を与えるとき、大きなよろこびと共に、大きな不穏もムッと湧いているように思う。
不穏が湧くとどうなるか。
おれの視認できないことだが、なんとなく、どうでもいいようなマウントの何かがうごめき始める。
何度も説明してきたとおり、マウントというのは「地獄への予感」の上に自動的に発生するのだ。
そして、おれが一年間を振り返ったとき、やはり反省するのはこのことになる。
おれには本当にその「マウント」が視えないのだ。
まるである種の障がい者のように、本当にその心理的なはたらきが視えていない。
現代において、「マウント」はむしろ、すべての力動作用の第一のように機能しているのに、あろうことか、その第一の力動作用がおれは視えていないらしいのだ。
おれはこの一年間、わけのわからない密度の中を過ごし、もはや振り返ることも不可能になった。それはまるで、原住民にジャングルの奥行きを訊くようなもので、「わかりっこないよ」と答えるしかなくなる。
おれにとってはその一年間の話も、むなしく過ごした誰かに対するマウントで言っているのではまったくないのだが、世間一般には第一にそのようには受け取られないのだ。
もともとおれが友人とよくやる会話というと、こんな感じだったから。
「一年間どうだった?」
「そうですね、あまり変わりないというか」
「ん?」
「ことしの一年は休憩でしたかね」
「お前それ去年も言っとったやん」
「あっ、バレました?」
ぎゃははは、というようなものだ。
おれにはこの中に「マウント」が入り込むというのがどうしても未だにわからない。
あえてこのことは、逆から定義しておこう。
<<「マウント」は、地獄への穴が開いたときに、強制的に発生する、その穴へ誰も落ちたくなくて>>。
<<天国への階段が下ろされているとき、「マウント」は自動的に消失する、誰もがその階段を往けるのだから>>。
そりゃそうだな、全員が東京大学に入ると前もって決定されているクラスなら、試験の点数をもってマウントしあうことは本格的には起こりようがない。
そこで突然、「全員が東京大学に入るという話はなくなりました」「その話がなくなったぶん、低層への穴が用意されます」となると、慌ててマウント合戦が始まる。
おれにはその階段なりハシゴなりが出っぱなしなので、いつまでたっても「マウント」というやつが視えないのだ。
おれに対しては、何かそういう「マウント・アラート」みたいな外部的な仕組みが必要だ。
下命の質と量が増大したときほど、絶命の威力もいや増すわけで、そのときは強めのマウント・アラートが発されねばならない。
まったくアホみたいな話だが、おれはこんなアホなことをたぶん来年もやっていくのだろう。
コロナ騒ぎがさっさと収まるといいなあ。
階段なりハシゴなりが無い人は、強制的にマウント合戦を始めざるをえず、その合戦の中では必ず感受性物体が権威となる。
おれの「話」が聞こえなくなることはない、何しろ「話」は宇宙の誕生より先にあるのだから、そんなものが消えるわけがない。
消えるとしたら宇宙が先だ。
「話」そのものから「話」が聞こえている。おれはその媒介をしているにすぎない。
それじゃあおれ自身がまるで階段やハシゴみてえだな。
まあそういうものかもしれない、階段やハシゴがあれば、物体じみているわれわれでもなんとなくそれを登らせてもらえるということだ。
21時半になった、もうおれはテキトーにお酒飲んで過ごすからね。
みなさん、よいお年を。
[下命と絶命のオン・パレード2021/了]