さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
アミヨの矛盾2.アミヨの被差別はなくならなかった
すでに一般的な「革命」の動機に、嫉妬や一種のうらみ、いわゆるルサンチマンがありうるということに触れてきた。不毛革命においてはルサンチマンはどのようにはたらいたか。
もともと、アミヨたちはなぜネット世論の「拡散」を担い、不毛革命を成し遂げたのだったか。その動機は、「大切なもの」がある人が妬ましかったからだ。「大切なもの」があるということ、そのことじたいに嫉妬し、またその「大切なもの」がある人は、他の誰かからも「大切なもの」として扱われる・愛される可能性があるということを直観し、そのことに嫉妬し、また焦りもした。そして自分がそれではないということをうらんだ。これは差別的なことだった。自分にはなぜか絶対的に「こころ」というものがなく、これによって「大切なもの」が機能・現象じたいとして与えられず、だからこそ自分は誰かにとって――さらには神様にとってさえ――「大切なもの」たりえないだろう。
それはわかるけれど、
「どうして自分だけ」
そのことに、深く絶望し、そのことにうらみを持ち、うらみは根深い憎悪と憤怒になった。
アミヨは「有り余る不毛な時間」を持っていたからこそ、始終、不毛を拡散する担い手になれたのだし、なぜそうして「有り余る不毛な時間」を持っていたかというと、他に「大切なもの」を持っていなかったからだ。そして自分が誰かにとって「大切なもの」ではなかったからだ。自分が誰かにとって「大切なもの」なら、有り余る不毛な時間の中を過ごし続けるということはなかっただろう。
それでアミヨは、自分が誰よりも勝って所有しているもの、つまりその「不毛」そのものをもって、
「わたしの生きている "不毛" というものがどういうものなのか、すべての人に同じ思いをするように教えてやろう」
という活動を始めた。自分の生きている「不毛」というものの軍門に下るよう、この強さを舐めるなよと、すべての人々に攻撃を仕掛けることで、その革命は始まった。
「『大切なもの』にかまけている人は、わたしのふんだんな攻撃に対処しきれないはずだ」
その目論見どおりに攻撃は浸透してゆき、この革命は成し遂げられた。
とはいえ、この革命の動機は何であったか。もともとアミヨにとって、
「アミヨさん、あなたには『大切なもの』が無いんですよね!」
「だからアミヨさんは、誰にとっても『大切なもの』ではないんですよね!」
こう差別的に言われることが、何よりも耐えがたい屈辱だった。また、誰にそう言われなくても、まいにち自分自身によってそうと思い知らされるのが、耐えがたい責め苦だった。当然、強烈な嫉妬とうらみが起こる。
そのことで革命が起こったのだが、それで革命それじたいは成し遂げられたにせよ、革命の成果として何が得られたか。革命の成果として彼らはこう言われるようになった、
「アミヨさん、あなたには『大切なもの』が無いんですよね!」
「だからアミヨさんは、誰にとっても『大切なもの』ではないんですよね!」
「『大切なもの』の対極にある人!」
これでは元の木阿弥だ。
この革命は物質的な革命ではないので、敵方を根絶やしにしたところで奪取できる物質がない。
たとえるならば、飢えた人が、豊穣と豊作の人たちを根絶やしにすれば、その土地と作物を物質として奪取することができようが、飢えた人が「満腹」という概念を根絶やしにしたところで、自分が飢えていることに解決はもたらされない。自分も含めてすべての人が「満腹」を永劫失っただけだ。すべての人がそうなったことで、自分が差別的に蔑まれるということはなくなったかもしれないが、それでも元々の苦しみである飢えは解決していない。
実際、現代ではこうして「解決はしないけれど差別的でなくなれば後はもうどうでもいい」というやけくその風潮が少なからず見られる。たとえば盲目の人がいたら生活上・文化上にどうしても差別が出てしまうので、「全員を失明させよう」という発想が起こる。全員を失明させたところでもともとの盲目の問題は解決していないが、<<差別的でなくなる>>ということだけはさしあたり得られる。半身不随の人が車椅子に乗っていたら、「全員を半身不随にしよう」という発想が起こる。性同一性障害で苦しむ人があると、「全員を同性愛者にしよう」「全員をバイセクシャルにしよう」という発想が起こる。美人と不美人ではどうしても差別が生じるから、「全員をブスに整形しよう」という発想が起こる。これらの発想は、一部これから実際に施行されていっておかしくない勢いだ。「運動会ですよ、足の速い人はゆっくり走りなさい!」。
差別的でなくなればその他はどうでもいいのかというと、
「そうだよ、どうでもいいんだよ」
と声を荒げる調子がある。
それに対し、
「そんな不毛なことを言っていてどうする」
と言うと、
「はぁ? そのとおり、何もかも完全な不毛になればいいんだよ」
と、思いがけない強烈な衝動がその人を貫く。
その人の底には、深い憎悪と憤怒が貯蔵されているのだから。
アミヨの第二の矛盾について説明する。矛盾を効果的に説明する前に、その手前にある「整合」について説明する。
アミヨは「大切なものがない」ということが自己の問題だった。その自己の問題は、あまりにも手ごわすぎ、どうしようもないのでそのまま保留され続けることになった。
アミヨにとっての問題はそれでも、アミヨにとっての屈辱はそれではなかった。アミヨにとっての屈辱は、「大切なものがない」ということが、そうでない人と比較され、<<差別的>>に蔑まれることだった。
アミヨにとって、「大切なものがない」という "問題" は、正直なところどうでもよくなった。
"屈辱" のほうが耐えがたく、許しがたかった。
「大切なもの」がある人が、ことごとくそれを失えばよい。
そうすれば、自分が受けたこの差別的な侮辱は、とたんに勝利に昇華するだろう。
このために、すべての「大切なもの」を否定・破壊する、不毛革命を起こした。
このように、アミヨにとって不毛革命の動機と意義は整合している。
だが当然、この整合の向こうに矛盾が露出してくる。
屈辱は解決したが、問題は解決していないということが露出してくる。
「アミヨさんは、みんなと同じく、『大切なもの』が無いんですよね!」
こう言われたとき、「みんなと同じく」なのだから、この言われようは差別的ではない。
にも関わらず、ここでアミヨの魂は、真に微笑んで青空に飛翔したりはしない。
みんなと同じく「大切なもの」が無いんですよね、と言われたとき、なぜかそのこともやはり侮辱的に聞こえてしまう。
みんなと同じなのに、なぜだろうか。
「大切なもの」のすべては根絶やしにしたはずなのに、なぜか自分が、やはり差別的に、悪く言われているように聞こえる。
この矛盾の真相は、思いがけないことに、根絶やしにはできていないというところにある。
なぜなら、革命以降の現代はいざしらず、革命以前には、「大切なもの」があった人たちがいたからだ。
そういう人たちがいたということをどのように証明できるか。
とっておきの証明方法がある。
もしそういう人たちがいなかったとしたら、アミヨはそれに「嫉妬」できなかったはずだ。
アミヨがそれに嫉妬したということは、そういう人たち、「大切なもの」がある人たちが、かつて存在してしまったということの十分な証明になる。
かつて存在していたにせよ、今はもう滅ぼしたのだから、その差別は存在しないか。
残念ながらそうではない、そうした存在は、時間軸と無関係に「普遍的」に存在してしまう。
<<アミヨが根絶やしにできたのは、アミヨが攻撃できた範囲に留まり、攻撃できなかった範囲のそれは存在し続けてしまう>>。
アミヨの周りには今も、「大切なもの」がある人々がぎっしりひしめいているのだ。
その中でやはりアミヨは、自分だけが「大切なもの」を持っていないという差別を受け続けて、苦しみ続けている。
たとえば人類が海洋を汚染する前、東京湾あるいは江戸湾には、それは豊富な種類の魚たちがいて、一切の汚染を受けていないぶん、それぞれの味は絶品だっただろう。
いま、その豊富かつ汚染を一切受けていない魚を食べられる人はいないが、かつてそれを食べていた人たちがいる。
その人たちのことが、うらやましくないかといえばウソだ。
その人たちが、時間軸上で現存していないということは、実は差別の対象外にならない。
アミヨの攻撃は時間軸上で現存していない人には届きようがないから、過去にあったうらやましい人たちを根絶やしにすることはできない。
よってアミヨの第二の矛盾はこうなる。
「『大切なもの』を根絶やしにしたのに、なぜ今もそれがうらやましいんですか?」
ルサンチマンによって革命を成し遂げたのに、そのルサンチマンは今もアミヨを焼き続けている。
そしてアミヨは、自ら「大切なもの」を根絶やしにしたのだから、もう自己の「問題」を解決することはできず、永劫そのルサンチマンに焼かれ続け、その身を焦がされ続けねばならない。
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