さよならアミヨさん、ネット輿論に別れを告げるときがきた
「思し召し」とこころの違い
ここまで幾度か、揶揄をこめて「思し召し」という言い方をしてきた。揶揄を取り除けばそれは「思う」ということだ。ウェブ上で散見するスラングで言えば「お気持ち表明」に近いだろうか。
「思う」ということだが、「思う」ということと「こころ」は何が違うのだろうか。
ここに若者Aと老人Bがいたとする。そして教育の方法について一般的な議題があったとしよう。教育に関わって体罰は肯定されるべきか否定されるべきか。
若者Aはこう言う、
「体罰とか絶対ありえない。ふつうに暴行罪として告訴するべき」
老人Bはこう言う、
「言うだけではわからない子もいる。どこかで身に染みてわからせるのに体罰は絶対必要」
若者Aは教育に体罰は絶対NGだと "思う" 、老人Bは教育に体罰は絶対必要だと "思う" 。
二人はお互いのことについてこう言う、
「昭和脳の老害って、ほんと自分の意見が通ることしか考えないよな」
「現実知らん奴が、腑抜けの自覚もなしに、自分が通用すると思っているんだろうな」
若者Aは老人Bのことを「昭和脳の老害」と "思う" 、老人Bは若者Aのことを「現実を知らん腑抜け」と "思う" 。
ここであなたの直観に問うが、この若者Aと老人Bは、どちらも「こころ豊かな人」だろうか。あるいは若者Aだけがこころ豊かな人か、あるいは老人Bだけがこころ豊かな人か。
「給食をぜんぶ食べるまで昼休みなしとか、そういう教師って絶対ガイジ入っているよな」
「好き嫌いを振り回して生きて自分はOKとか、将来絶対クソみたいな大人になるわ」
それぞれに言っていることはわかるが、どちらが正しいというようなことはさておき、この両者は「こころ豊かな人」か。
アミヨにはこころがない。比喩ではなく、本当にこころという機能と現象が「無い」のだ。
こころに触れたことがなく、こころを与えられたことがないので、こころそのものが無い。
人は、こころを持っていなくても「思念」は持つ。「思い」は持つ。ただしその「思い」は当然、こころとは無関係なものだ。こころは無いのだから。
自分のこころに関係なく、誰かのこころにも関係ない、思念・思いだけが示される。
この素っ頓狂な感触を、それらしき語感に当てはめるなら「思し召し」がふさわしくなる。
若者Aは、体罰は絶対否定という思し召しだ。
老人Bは、体罰は絶対必要という思し召しだ。
若者Aは、Bについて昭和脳の老害だという思し召しだ。
老人Bは、Aについて現実を知らない腑抜けだという思し召しだ。
この「思し召し」はどうなるだろう。もちろんどうにもならない。
どうにかしようとするなら裁判にかけるか立法府の投票にかけるしかない。
体罰は教育として違法です、と裁判官が判決するかもしないし、体罰は教育として合法です、と裁判官が判決するかもしれない。
ここであなたは必要な知見を得なくてはならない。若者Aと老人Bでは平行線で結論が出ないのに、どうして裁判官Cは結論を出すことができるのだろうか。
それは、裁判官Cは権力を持っているからだ。司法行政権というパワーによって、力ずくで彼の結論を押しとおすことができる。
パワーというのは比喩ではない。英語で権力のことを Power という。
同様に、議院は法律なり条例なりで結論を出すことができる。それだって権力を持っているからだ。
若者Aと老人Bは権力を持っていないので、互いの「思う」ことの違い、その平行線に結論を出すことはできない。
自分で議員に立候補するか、自分と同じことを「思う」という議員候補者に投票するしかない。
このように、「思う」ということは、実はこころのやりとりではない。力のやりとりだ。
合法的な力を持っていない者は、自分の「思う」ことを、他人の「思う」ことに上回らせて押しとおすことはできない。少なくとも合法的にはできない。
違法的な力を用いる場合、その力が相手より勝るのであれば、自分の「思う」ことを、相手の「思う」ことに上回らせて押しとおすことができる。
戦争などがその代表例だ。
(ただし、戦争はそれ自体は不法行為ではない。さらに、そもそも軍事力以上に人類のパワーは存在しないので合法も不法も二の次になる)
アミヨにはこころが無いので、自分の「思う」ということをもって、人とやりとりしようとする。それ以外にやりとりする材料がないのだから致し方ない。
「こころ」でやりとりするということを根本的に知らないのだ。
アミヨは自分の「思う」をぶちまけるだけのやりとりをする。それを会話だと思っている。
だからこころある人に嫌われて、避けられるようになっていくが、自分が嫌われるのがなぜなのか本当にわからないので、自分のことを「コミュ障」なのだと誤った認識でごまかしている。
このことは思いがけず、アミヨが嫌っている、頭が固くなった老人とよく似ている。これまで満足して誇れる自分をいまいち生きてこられなかった老人は、もうそれをやりなおす時間は与えられていないので、これまでの自分を「正しい」と硬直させて固めるしかなくなっている。だから老人の頭は固く、こころも今さら緩めることはできない。「今さら」ということじたいが老人にとっては致命的な恐怖なのだ。今さらここまでの自分の七十年間が間違っていたとか誤りだったとか、仮に知らされたとしても老人にはもうどうしようもなく、そのときには絶望に砕け散るだけしかない。
だから老人も「こころ」という機能と現象は失っている。そして、こころはなくても思念は持つ。
こうして老人も、アミヨと同じ、自分の「思う」ということをひたすら相手にぶちまけるというやりとりをするのだ。
先の例で、若者Aと老人Bは、それぞれ自分の「思う」ということをひたすらぶちまけているだけだ。彼らはそれを会話だと思っているし、それを議論だと思っている。
彼らはよく「絶対」といい、それを言わなくてもすべての思うことに内心で「絶対」が付属しているのだが、このことは彼らが絶対的なこころを持っていることを意味しない。
逆だ。
若者Aと老人Bの「思う」ことは対立している。
けれども、もし彼らに絶対的なこころがある場合、彼らのこころは無言でこう云っている。
「この若者が得てゆく、大切なものに栄光がありますように」
「この老人が持っている、大切なものが称えられますように」
それぞれに「思う」ところは違いがあるが、「大切なもの」に関しては、互いにそれがありますようにと励ましあっている。その「こころ」については互いに認め合っているし、尊びあっているのだ。
それぞれに「思う」ところは違うけれど。
それで、
「おい若造」
「なんだジジイ」
「体罰ぐらい必要なときもあらぁ、そんなことがわかんねえか青びょうたん」
「耄碌してんじゃねえぞ、手ェ出さずに詰め切るほうが根性いるってことがわかんねえか」
それぞれは、思うところは違うし、自分の思うところについては容易に引き取りはしないが、それぞれ内心でこう思っている、
(このご時世に、骨のある奴だなあ、とにかくうまいことやれよ、だれかいい女でもついてやれよな)
(ちっ、ああいうジジイが現場にいてくれたらいいんだがなあ、とりあえず長生きでもしてろジジイ)
つまりお互いに思うところは違っても、こころは互いに敬愛しあっている。意見の相違があって、長話できる間柄ではないけれど、お互いにお互いを見かけると、二人とも「やれやれ」と憎らしく思い、同時にお互いのことが嫌いではない。
二人はのびのびやりあっているが戦争には向かっていない。
それは二人とも、絶対的なこころを持っているからだ。
ところであなたは、教育に体罰は必要だと考えるだろうか。それとも、やはり体罰はどこまでもNGだと考えるだろうか。
あなたの考えはどうだろう。
教育と体罰について……
こうしてあなたが問われたとき、あなたがネット世論に伺いを立てながら、
「わたしは体罰は、……、だと思います」
と、こころと無関係な「思う」ことを言いだすことに、あなたは不本意を覚えないだろうか。
あなたの相対的なこころは、今やアミヨによって「不毛」にされているということに気づくだろうか。
←前へ 次へ→