No.414 作品が生じない現代の自縄自縛から逃れる方法
ややマニアックな内容なので、ほとんどわたし自身のために書く。とはいえ、このことには関心が強い人もいるだろう、なるべくそうした読み手にも、導きなり手ほどきになりに成りうるよう、しかるべき結論があなたを強く励ましうるよう、こころがけて書く。
現代の自縄自縛は、世の中に作品が生じないというところにある。それがどのようなありさまかというとたとえばこうだ。
若い人が、たとえば新興の邦楽について「近年はレベルが高い」と称賛する。その称賛は当人として虚偽ではない。
けれども一方で、
「数年後には、『こんなの聞いてたの、ダサっ』って言われるんだろうけどな」
と前もって見切りもつけているのだ。若さに似合わない、くたびれて枯れた笑いが添えられている。
現代、といってこれを書いているのは 2022 年だが、現時点で中年の年齢にある人は、90 年代に B'z や ミスター・チルドレンを聴いてきただろう。当時の人たちはそれを「後年には『ダサい』として否定するだろうけどね」とは前置きせずにそれを聞いていたはずだ。
現代で高齢者の人は、いわゆる演歌や昭和歌謡を聴いてきたはずだが、それだって前もって「後年にはダサくなって自ら否定するだろう」と見切りをつけて聴いていたわけではないはずだ。
事実、旧時代の作品のうち、むろん多くは時代と共に去っていった感はあるが、時代の流行とは異なる「作品」は、現代においても "過去のもの" にはなっていないはずだ。「いとしのエリー」は年代的にはかなり昔のものだが過去のものになったわけではない。「ビリー・ジーン」はマイケルジャクソンが故人となった今も過去のものになってはいない。
もっと明らかなものでいえば、モーツァルトやベートーヴェンが過去のものになるわけではない。もし過去のものになるならとっくの昔に過去のものになって消え去っていただろう。
クラシックについてはすでに「古からの」という趣きがあるにせよ、とにかく、現代において新興の勢力が称賛されながらも前もって否定されているという感は前代未聞だ。
まるで、「何ヵ月かで別れると思うけど」と言いながら交際している男女のように、どだいが殺伐としている。
昨年、漫画「鬼滅の刃」が異様にもてはやされたはずだが、これもこの先、あるいは現在すでに、過去のものとして、それぞれのこころのうちでは廃棄済みになっているのだろうか。そしてそれはもてはやされた時点で、やはり前もって「後年には廃棄するだろう」と見切りをつけられていたのだろうか。
かれこれ十年以上、物事の「はやりすたり」が激しすぎるという不気味さは誰にも警戒されていたところだが、それが勇み足にまで及び、流行するものは<<前もって廃(すた)れている>>というようなありさまだ。
かつて「ニコニコ動画」が流行していたころにはまだ、「前もって見切りをつけてから称揚する」ということはなかったはず。いくつかのものが、これから先も「作品」として時代をむしろ<<超えていく>>のだと期待された。ほとんどのものはそうならなかったにせよ、少なくとも前もって廃れているという前提でそれらは流行したのではなかった。
あるいは、そうした流行のすべてが後年で見る影もなく廃れたことによって、かつてはそれを胸に抱えていた人々は傷つき、「もう二度と胸に抱えはしない」「すべてのものは前もって廃れることを見越しておくべきだ」と考えるようになったのかもしれない。自分の愛したものがウェブ上で根こそぎ「オワコン」呼ばわりされることに、正面からひとり立ち向かってその愛を貫くというようなことは、一般に強靭でない少年少女には出来ないことのはずだ。
ともあれ、現代の自縄自縛は、このような形でともかく「作品が生じない」というところにある。なぜ作品が生じないかというと、その作り手以前にその受け手が、そもそも作品を受け取るということを前もって拒否しているからだ。この中に唐突に作品が産み落とされる可能性はきわめて低いだろう。前もって二年後には殺すとわかっている人々の中に愛児を産み落とす女神がいるだろうか。
人々は決して自分が傷つくことがないように、すべてのことに対して「消費者」であるという定義を自らのポリシーにしているところがある。たとえ好いた異性と交際しても、その交際に対しても自分は「消費者として楽しむ」という条文を前もって心臓に銘記する人が少なくない。なるほど消費者であればその青春を胸に抱えることはないのだから自分の胸中が傷つくリスクは避けられよう。
そのことはあまりにもさもしく、むなしいことだが、そうはいっても実際そのようにしなくては破滅的な体験を回避できないという予見があるのだろう。今、このことについて道義的な是非を言い張る思想はわたしの手元にない。さしあたりこのような形態で、人々は自身の体験が作品性に及ぶことがないようにという自縄自縛に陥っている。
現代の自縄自縛から逃れるには、まずこの自縄自縛の仕組みをよく知ることだ。自縄自縛はさほど複雑な仕組みから発生してはおらず、当人の決断がつくならば、そこから脱するための対策は方法として簡単だ。必要とされる気概まで含めればそう簡単とは言えないかもしれないけれども。
話を簡略化するため、話の焦点を「作品」に置く。作品を青春や恋あいに置き換えても同じだが、そのいちいちを取り上げていると話が膨張して読み取りづらくなるだろう。
現代の若年層が、演劇サークルに入って活動することは簡単だし、ダンス部に入って活動することも簡単だ。活躍するのまで簡単とは言えないにしても。ツイッター絵師として活動するのも簡単だろうし、何か社会派の活動をするのもSNSを通せば簡単だ。
問題は、それらのすべてを通して、「どれだけ活動してもひとつも作品にならない」ということが起こってしまうところだ。演劇部で四年間、十の演目をやったとして、そのひとつも作品にならず、ただサークル活動を「消費者」のごとく楽しんだという結果はおおいにありうる。自身が前もって消費者の定義であればその胸中は傷つかずに済むかもしれないが、そうしてすべてについて消費者になるということは、自分自身もすべてについて消費される側にしかなりえないということになる。何一つ作品にならないと知りつつ努力や交際をするのはとてつもない恐怖だし、実際に直面すると激しい苦痛になる。
全員がこの自縄自縛に陥って、何一つ自分が生きることの作品および作品性に向かえないという問題について、正しくありうる脱出の手続きを考える。
1.「陳腐主義」と「別次元・飛翔」
現代は陳腐主義が多くの人に信奉されている。何かの活動をするとして、目立ちたい・承認されたいという願望は激しくある一方、自分がそのことについて別次元の魂を得る・一般に知られざるところまで飛翔するということに対しては強く否定的だ。
現代のわれわれは、「別次元の存在のように扱われたい」のであり、人によっては「別次元の立場にたって見下したい」のではあるが、その別次元うんぬんに "本当に向き合う" ことは求めていない。
あくまで陳腐主義の中で「人気者」になり、数十万のフォロワーを持つインフルエンサーのようなものになり、それで糊口をしのぐなり、成功者・プチ富裕層になるなりして、人からうらやましがられるような感じになりたい、というのが現代人の率直な希望だ。
仮にあなたが女性ダンサーとして成功する願望をイメージしたとしても、あなたがイメージするのはたいてい「ちやほや」されているシーンになりがちで、イザドラ・ダンカンのようにどこかの庭で裸足で踊っているようなところをイメージすることは少ない。
誰もがこの「陳腐主義」の上で「人気者になって不労所得的に成功したい」という願望をどだいにしているところがある。この陳腐主義のままでは、われわれの現代には大にも小にも「作品」が生じない。
2.呪術と妬(ねた)み
「別次元」の魂を得て飛翔するということは、きっと何かしらの神から祝福を受けるということで起こるのだろう。人為的なレベルのものは別次元ではありえないのだから、さしあたり本稿ではそのように安直に捉える。
陳腐主義を信奉する場合、「祝福」というようなものは期待できない。では一般に、祝福を得られない者が、人為的に別次元の "ような" 能力ブーストを得ようとするとき、代替にどのような方法を採ろうとするか。その方法が「呪術」と呼ばれる。「呪」の字は「のろい」とも読むし「まじない」とも読む。ネガティブな効果を期待する場合を「のろい」と読み、ポジティブな効果を期待する場合を「まじない」と読む。
どちらも呪術であるから、どちらにせよ相応した「呪縛」を受けることになる。のろいとまじないを区別することはあまり意味がなく、どちらも「呪術」とひとくくりにして差し支えない。
呪術の基本は――あまり詳しく知らないほうがいいので、ざっくりとだけ説明するが――簡単には次のとおり。
(あまり詳しく知らないほうがいいというのは、詳しく知るほどに自分が呪縛にますます掛かりやすくなるからだ)
・動けなくする
・閉じ込めて共食い競争をさせる
・業(カルマ)をブーストする装置を置く
・(強度の場合:流血を付随させる。この血は金銭にも置き換えられる)
最もわかりやすい例としては、学校教育にこの呪術が用いられている。かつての江戸時代のように、当人が気ままに参席する私塾や寺子屋しかないようであれば、その気のない子供たちは自由であれたかもしれないが、それでは知能・知性を発達させる人はごく一部だけになってしまう。ごく一部、つまり、何かしらで祝福を受けている人だけが高度な知能と知性を持つものだと限定されてしまう。
それでは全体の国力として期待ができないので、明治以降に学校が作られた。よく知られている富国強兵政策のひとつだ。
学校に閉じ込めて、学力であれ運動能力であれ、同年代で「共食い」の競争をさせる。成績が悪いものは豊かな未来が与えられない・まともに生かしてもらえないのだから共食いだ。生徒らは椅子に固定されて授業を受け続けねばならず、気ままに立ち上がって散歩に出ることは許されない。動けなくすることで呪術の影響下に置き続ける。
それでいて、さまざまな順位は掲示板に張り出されるし、成績表にも甲乙丙丁がつく。こうした「順位」や「点数」は人間の「識」という業(カルマ)をブーストする。「識」において、自分が上とする者は優越感に業(カルマ)がブーストされるし、自分が下とされた者は劣等感に業(カルマ)がブーストされる。このことは、特に下から上に向けて「妬(ねた)み」と呼ばれる感情を引き起こす。学校で成績優秀者が称揚されるのは、成績優秀者をよろこばせるためというよりは、下位のものに強い「妬み」を持たせて、呪術の効果を高めるためだ。
この呪術が一概に「悪い」とは言えない。実際、江戸時代以前の私塾スタイルで日本は先進国にはなりえなかっただろうし、プロボクサーだってリングに閉じ込めないかぎりはまったくその能力にブーストが掛からないものだ。やってみればわかるが、リングのない広場でボクシングをさせてもその潜在能力は一ミリも開かれないのだ。「閉じ込める(逃げ場がない)」「共食い競争をさせる(誰も助けてくれない)」「勝ち負けと妬みを強く認識させる(つらい感情を果てしなく引きずる)」という呪術によってこそ、本当に秘められた能力が解発される。もしそのような呪術の一切を否定するなら、本当にごく一部の、祝福を受けた人だけが現象を天与されるのみで、一般のわれわれには何の努力もしようもない・努力しても能力は解発されないということになってしまう。
人は、というより生きものは、努力や学習を「やめられて」しまうのだ。二時間ぐらい努力すると、三十分ぐらい休憩する、その休憩のときに努力を「やめて」しまう。
祝福を受けたものは別で、それは祝福であると同時に、そのことを使命とする僕(しもべ)となってしまうということだから、二時間が十時間でも、休憩時間でも、寝ているときでも、その人はその僕(しもべ)そのものはやめられない。だから特別な現象を取り扱えるまでに至る。
呪術というのは、このことを環境と業(カルマ)で疑似的に生成しようという方法だ。業(カルマ)において、人は「認識」をやめられない。忘れているつもりであってもその認識が消えることはまずない。空を飛んでいるツバメに「劣等生」を認識させることはできないが、人はその認識を与えるとえんえんその認識をやめられなくなる。だからこれは人間道の業(カルマ)なのだ。空腹の獣にとって食べ物を追うことが「やめられない」ことのように、人は万事の「認識」がやめられない。
人は二十四時間「認識」をやめられないので、そこから生じる「妬み」の炎――「血」に起こる焼けつき――も消えることがない。まして学校や教室などに閉じ込め、ひとつの椅子にずっと座らせているのだから逃げようがない。こうして人は呪術によって現代人の基礎的な能力を解発させているのだ。職場でも同じで、学生気分だった誰かが業界の「プロ」になるためには、ふつうその環境に「閉じ込めて」「動けなくし」「共食い競争をさせる」「認識と妬みをブーストする」ということが必要になる。どれだけ動作がどんくさかった人でも、三年も銀行の窓口に閉じ込められていれば電卓と捺印がふつうの人とは違う速さになる。その速さは一般と比較するなら「別次元」に見えなくもない。
こうして考えると、呪術の恩恵を受けるのは現代人としては必須のことで、そのためにいくらかの呪縛を代償に受けるのもやむを得ないと思われるが、現代ではますます万事において高度に競争力が要求されるに至り、強化された呪術からの妬みと呪縛がわれわれに脱出不能の自縄自縛をもたらすことになってきた。次の段でさらに説明する。
3.呪術恩恵者は祝福恩恵者を引きずり降ろそうとする
獣の血には獣のDNA・遺伝・本能があるように、人の血にも人のDNA・遺伝・本能がある。その本能に "潜んでいる" 能力を人為的に解発するのが呪術だ。多数のトノサマバッタをひとつの箱に閉じ込めておくと、体色が変化して遺伝子に秘められた形質が解発される――黒くなり狂暴化して遠くまで飛行するようになる――ように、人も閉じ込めてその血にブーストを掛けると秘められた形質が解発される。
それが呪術だが、むろんこの呪術の恩恵を受けるには相当な血の苦しみを受けるのでもあるし、呪術の恩恵を受けた血はその後もその呪術によって呪縛され続ける。「血」に起こる焼けつきを利用するのが呪術だが、呪術の恩恵を受けるということは、結果的に「血に焼けつきが続く」「血に焼けつきが起こりやすくなる」ということだ。それはやめようとしてやめられるものではない。もともと「やめられない」という性質を狙ってその呪術がほどこされる以上は当然の代償だ。呪術をやればやるほど、その力は強大になっていくにせよ、血が焼けつく苦しみも増大していく。
誰もそのような苦しみをよろこんで受けているわけではない。もし、そのような苦しみなしに能力が得られるなら、誰だってそちら、苦しみのない方法を選ぶだろう。
加えて、より深刻な焦点としては、呪術によって得られた能力は、本質的に人の魂にとってよろこびをもたらすものではないのだ。能力は高くなるが、それは「血を騒がせる」能力であって、魂に解放と歓喜を与える能力ではない。むしろ業(カルマ)は、魂を閉じ込める罪業なのだから、カルマブーストが掛かった者は、魂のよろこびに関連しては重く縁遠くなるのが当然だ。
この二点、つまり「苦しい」ということ、加えて「根本的によろこびがない」という致命的な二点によって、呪術恩恵者はどうしようもなく、祝福恩恵者を妬むことになる。その妬みは強烈で、ただちにわけのわからない憎悪や攻撃が起こることも珍しくない。何しろ、そもそもその「妬み」の炎を巨大化することによって呪術の恩恵を受けてきたのだから、呪術恩恵者が祝福恩恵者に向ける妬みなど、どのような勢いになるかわかったものではない。時にそれは典型的な「理由のない憎悪」にまでなる。
さらに三点目を足すならば、そもそも、呪術は祝福の「代替品」、さらに言えば「まがいもの」でさえあるので、根本的に、呪術の恩恵は祝福の恩恵に及ばない。祝福があれば出来ること、祝福がなければ出来ないことがあったとして、そこに呪術の恩恵で立ち向かっても、やはりそれは祝福ではないから「出来ない」のだ。
呪術恩恵者には何が出来るか。呪術恩恵者に出来ることは、呪術そのものの性質を省みればわかりやすい。呪術恩恵者に出来ることは、「閉じ込められたルールにおける強さ」「徹底して動かないことの強さ」「流血に関わることの強さ」「認識ゲームにおける強さ」などだ。呪術は血から生じているので、流血に関わることに強く、ただし "使命" に関わることにはまったく何も出来ない。呪術恩恵者は使命に対してまったく悟性を失うので、自分を認識上「縛り付ける」ものが必要になる。その「縛り付ける」ということが成り立つことじたいが呪縛でもある。これ以上詳しく説明すると本旨を逸脱するのでここまでとする。
現代において、万事が高度に競争力を要求する中、多くの人々が強く呪術の恩恵を――やむをえずではあれ――受けることになった。この呪術恩恵者が、得られた力に相応してある血の苦しみにおいて、祝福恩恵者に対する妬みを持たずにいることは不可能だ。直面して虚心であれるような構造ではない。呪術恩恵者は祝福恩恵者を、強烈な衝動において引きずり降ろそうとする。いわゆる足を引っ張るということだが、その実態はもう、足を引っ張るというようなやんわりした慣用句を当てはめられない切実な勢いがある。
ほとんどの場合、呪術恩恵者は、自分がそうした血の術の影響下にあることなど自覚がないし、その血の苦しみから祝福恩恵者に対する妬みを爆発的に持つということにも自覚はない。「こんなマニアックなことに詳しい奴がいてたまるか」というのがわたしの率直なところだ。
仮に、ここに一人の少年がいて、彼が祝福を受けていたとすると、彼はその使命として何かしらの「作品」をわれわれに示す方へ向かうかもしれないが、構造上、この少年はただちに急性の迫害にあう。足を引っ張るということの、知られざる勢いのものが彼の身に降りかかる。何が起こったのかは、彼自身にもわからないし、彼の周囲にもわからない。
人々は必ず、その祝福ある少年ではなくて、格子に閉じ込められて血の術を強くした、格子の中でのゲームで強大な力を振るう者にこそ称賛の光を当てるだろう。そうして称賛を受けた彼は、<<後に巨大な血の苦しみを代償として受けるリスクがある>>が、そのときには人々は彼から視線をそらしているし、直視したところで何がどうして起こっているかなど誰にも知られていない。
本稿は呪術恩恵の問題を主題としていないので、これ以上は踏み込まないが、いちおう念のため、呪術恩恵の代償として発生するリスクのある血の苦しみについて、妥当な対応策をさしはさんでおく。単純な話、誰かまともに頼れる人がいるべきだ。その頼れる誰かは、呪術に詳しい者ではなく、祝福恩恵者でなくてはならない。構造上、呪術は祝福の「代替品」なのだから、呪術恩恵者も祝福恩恵者の下につけば、呪術恩恵も少しずつ祝福恩恵にすり替わってゆき、その代償たる血の苦しみも、魂の解放と歓喜に転じていく。そうするべきであって、むやみに自分で呪術の具合を「調整」するべきではない。自分で調整しようとすると、その調整がますます「おまじない」になってしまうことのほうが多いからだ。
4.呪術恩恵者を敬い、祝福恩恵者を同一視する
本稿において新しく強調されなくてはならないのはこの点だ。人々は、宗教的な観点を除いても、一般にすぐれた「作品」の当事者を称賛して敬うように見えるし、祝福およびその恩恵者に対してネガティブな態度を持ってはいないように表面上は見える。
けれどもそうではない。呪術恩恵者に発生する「妬み」は血を焼けつかせる強さのものなのだから、単純に言って防衛機制がはたらく。この防衛機制はよく知られた心理学の初等で言われているそれのことだと捉えていい。
その防衛機制によって、呪術恩恵者は、祝福恩恵者に対して「妬み」を持って引きずり降ろそうとする反面、彼を引きずり降ろすことができないと悟ると、今度は転じて「同一視」という心理状態に逃げ込む。世の中のファン心理のようなものは、一定の割合でこの「同一視」という防衛機制から生じている。
この「同一視」において、呪術恩恵者は、当人の自覚としては、目の前の祝福恩恵者とその作品群を敬愛しているように思っているものだ。むろん、自覚としてはそのようにしか信じられないからこそ、防衛機制として機能するのでもある。そこのところが筒抜けでは防衛の役を果たさないではないか。
呪術恩恵者は、よくよく自己点検すると、「なんだかんだ」で呪術恩恵者およびその力の現われを敬愛しており、その力の現われに「安らぎ」さえ覚えているものだ。なぜ安らぎが起こるのかというと、言わずもがな、同じ呪術恩恵者として、あたかも祝福を受けているかのように見えるからだ。もともと呪術は祝福の代替品だった。
呪術恩恵者どうし、同じところに「閉じ込められ」「共食い競争をさせられる」なら、その血は穏やかではあれないのだが、そうして共食い競争をする関係でないかぎり、互いは外側からならまるで同じ祝福のもとにある同士のように見える。
こうして、呪術恩恵者においてはあたかも逆転して、「呪術恩恵者に対して血が安らぎ」、「祝福恩恵者に対して血が燃え盛る」ということが起こる。それによって無自覚の、急性的な「引きずり降ろし」の衝迫が起こるのだが、それでも彼を引きずり降ろせないと悟ると、その衝迫が劇的に「同一視」という防衛機制に変わる。
この呪術恩恵者は、結果的に、スパイ活動のようなはたらきを見せることになる。むろん当人は無自覚だ。どのようなスパイ活動かというと、その人は祝福恩恵者の「ファン」になるのだが、そのファンの場所から、祝福恩恵者を「引きずり降ろす」というはたらきかけをするのだ。当人はその祝福恩恵者と "一心同体" のような安らぎを得ているが、裏腹に、その祝福恩恵者の祝福がいや増して示されると動揺が起こるし、その祝福が鳴りを潜めると色めきたってうれしがる。
実際、安易な意味においても、ここ二十年ほど、人々は「スター」のプライベートを覗き見ることに執心し、スターがプライベートを開陳すると、そのことに色めきたってきたはずだ。転じて現在など、スターといえばむしろプライベートの開陳が商売の本質というような向きさえある。
この「同一視問題」は、ここ十年間ほどで、猛烈といっていい勢いで人心に入り込んできた。典型的にはいわゆるコスプレを観るとわかりやすい。誰でも気軽に、あこがれのアニメキャラのコスプレをすることが鷹揚に楽しまれ、いわゆるファボの対象になっているが、ふと冷静になると、あこがれのアニメキャラの「様相を自分に重ねる」ということは営為として狙いのよくわからないところだ。子供がアニメキャラの真似をするぐらいならよく見かけたものではあれ、現在のように大人でもそのコスチュームプレイを入念に撮影してSNSで公示するというのは、われわれが慣れただけで、何をやっているのかはよくわからない。それが何かの「儀式」になっているというような可能性に、われわれはいまもって気づかないふうだ。
コスプレには典型的に、現代のわれわれがいかに「同一視」に対して滑らかになり、その旨味を学習したかが明らかになっている。むしろコスプレでもしてくれたほうがわかりやすくて良いのかもしれない。コスプレなどの表示がない「ファン」のほうが現象が見抜けずやっかいだ。祝福恩恵者はまっとうに、自分のファンたちに同じ祝福の分与があれと欲しているかもしれないが、紛らわしいファンの側はそうではない、同一視に身を隠しつつ、無自覚に祝福恩恵者がその祝福を失うことに向けてはたらきかけている。かといって、何もできない場合も多いけれども……
この、呪術祝福者の同一視問題について、これを看破する方法はあやふやだが、その代わり、この観点を得ることで、現代でわれわれが見かける典型的な何かについて、その現象の真相を見抜くことができるようになる。つまり、われわれが最近よく見かける、「とても上質だが魂がないように感じる」という対象について、現象の構造を見抜く視力が得られる。
この人は、どう見ても上質で、見た目もきれいで愛想もよく、よりにもよって「呪われている」というような感触はまったく受けないのだ。どこからどう見ても好感触しかなく、こちらもついほだされそうになるが、一方で「この人の魂は如何」と問われると、やはり「よくわからない」という違和感がむしろ確信として惹起される。
この人はまぎれもない呪術恩恵者であって、だからこそ魂の感触はどこかに埋没したか、遠くへ消え去ったかで失われている。にも関わらずまったく呪わしい印象がないのはなぜか。たいていは、マンガ・アニメのキャラクターなどと自分を「同一視」しているからだ。それは、他者に知られるような形の場合もあり、まったく他者に知られない形の場合もある。どちらの場合にせよ、思われているよりそれは深く入念なものだ。ある種の儀式が成り立つのかもしれないという可能性も含めて、それを "本当にやっている" と捉えていい。
この人に不誠実なところは、外見上まったく見当たらない。目の前において、何度も食事を共にしても、不誠実という印象は見当たらないものだ。現代人にありがちなマウント気配も表面上まったく見当たらない。その人が妙齢の女性だったら、周囲は「天使かな」ともてはやすことさえある。けれどもやはり、ずっと引っ掛かってある、「魂がないように感じる」ということ。この人はずっと何かと自分を同一視するということをしながら生きている。そして自覚があろうがなかろうが、実際には祝福恩恵者を「引きずり降ろす」というはたらきをしている。
呪術恩恵者の力に、祝福恩恵者(アニメキャラでも)のパウダーが入念に吹きつけられている状態だ。だから内面にちゃんとした実力もあって、かつ、表面は祝福を受けた者、というふうに見える。それで「天使かな」という印象さえありうる。けれどもずっと、「魂がないように感じる」ということは変わらない。
5.状況のまとめ
現代の自縄自縛は、「作品」が生じないというところだ。人々がすべてに対して消費者であり、そのぶん胸中は傷つかずに済むものの、自分も消費される側にしかなりえないという点で、不毛さから脱出不能になっている。
「作品」および「作品性」だけがその消費と異なるとして、この救済たる「作品」はなぜ世の中に生じなくなったのか。それは、呪術恩恵者が祝福恩恵者を「引きずり降ろす」からだ。
なぜ旧来と違い、そのような「引きずり降ろす」ということがえげつなくなったのか。それは、呪術恩恵の強大化に比例して、その血の苦しみと「妬み」の炎も強大になったからだ。祝福恩恵者を引きずり降ろすことはどだい聖霊への侮辱だと感じてはいても、その躊躇をはるかに妬みの炎が凌駕してしまう。呪術恩恵に要する血の負担が常人のキャパシティを超えてしまったということだろう。このことじたいに対する解除法や手当ては今のところ見つからない。
表面上、世の中には男女問わずきれいで素敵な人が量産されているふうに見えるのに、どこでその呪わしい「引きずり降ろし」が行われているというのか。
人々はいま、自身で耐えがたいほど呪術恩恵とその負担を受けているけれども、むしろその負担が大きすぎるがゆえに、祝福恩恵者に対して「同一視」という防衛機制をはたらかせることでしのいでいる。
この「同一視」が、一部の人をコスプレめいてコーティングし、その呪術恩恵者ぶりを、表面上呪わしくないもの、きれいで素敵な人に見せている。この偽装は、ときにけっこう強烈でディセプティブだ。
すべてのことに当人の自覚はない。先に言ったとおり、「こんなマニアックなことに詳しい奴がいてたまるか」というのが率直なところだ。
以上が状況のまとめだ。ここまで状況が看破できたなら、その対抗策もそんなにむつかしいことではない。
ただしこの状況は、残念ながら、「思っているよりも悪い」ということなのだろう。仮に自縄自縛の仕組みを看破したとしても、じゃあ同一視を引き取れるかというと、そのときの心理的負担は小さなものではなく、またその上で祝福恩恵者を直視し、自身の血に負っている呪術恩恵を再発見するのかというと、そのことの心理的負担も小さくない。
この小さくはない負担を合理的に突破するには、先に明瞭かつ具体的な出口が必要だ。出口があるならば、人はその出口までは突き抜けようという気概を持ちうるだろう。出口のある火災現場において必要なものは嘆きや感情ではなく決断と勇気だ。
6.対抗策
A.祝福恩恵者を「切り離して」称賛する
同一視が起こっているなら切り離してそれを称賛する。切り離したとたんそれを称賛しなくなるというのではただの冒涜になってしまうだろう。
一般的にありがちなファン心理についてイメージしてみよう。よく、「◯◯クンがすっごくカッコよくて」と男性アイドルのファンが言う。そのときファン当人は、自己と◯◯クンの区別がなくなり、同一化して興奮・陶酔しているはずだ。これを切り離して言う訓練をする。
◯◯クンがカッコいいのは結構だが、ファンが "絶頂" してそれを言う道理はない。栄光は◯◯クンにあるべきで、ファンの自分は平坦に「あわれ」でなくてはならない。ただし、栄光を称賛するあわれな者は祝福を分与されて救われるだろう。あなたがその「栄光」と「あわれ」を切り離して勇敢に話したとき、その話した相手はあなたの友人になる。
B.祝福恩恵者から「分与」される現象を追究する(あわれ百件)
あなたがAで友人を得うることのように、あなたは祝福恩恵者を「切り離した」ことによって、逆に祝福を受けるということがある。これは<<分離しているからこそ起こること>>で、ここではさしあたりその現象を祝福の「分与」と呼ぶ。分離していなければ分与は起こらず、同一視においては、あなたはただ他人の銀行口座を自分の残高のように思い込むだけになってしまう。それよりは百分の一でも自分の口座に振り込まれたほうがいいだろう。
祝福恩恵者を「栄光」とし、自分を「あわれ」とする。そのように祝福恩恵者を目撃し、体験もし、そのように発言もする。Aでやったことと同質のことだ。
したたかに、「あわれ百件」と題して念頭に置く。一件あたり百分の一の祝福分与があるなら、それを百件行えば分与だけで祝福のトータルは一人前になる。この意味で、自分の「あわれ」は心理的にポジティブでなくてはならない。ポジティブは言い換えると「あつかましい」でもよい。「あつかましい」ほうがなおよい。祝福恩恵者の栄光を称賛し、自分のあわれを嘆くのが不正でなく清潔であれば、祝福の分与は必ず起こる。ただしどこまでも、<<祝福を自分のもののように同一視する錯覚に警戒しなくてはならない>>。この警戒を錬成するためにも数をこなして訓練とするのがよい。「栄光を称賛しないのは損だよ、そこで自分はあわれな側でないと損だよ」とぬけぬけと言い出すあつかましさを得よ。
「インドの数学者ラマヌジャンは、寝ているあいだに女神さまが舌の上に数式を書いて教えてくれたそうだよ。おれなんかその点、寝ているあいだに舌の上に、口内炎ができるもんね。ラマヌジャンは "もの" が違うわな、本当に女神の寵愛を受けていたんだろうな」
「あわれ百件」によって、同時に「視える百件」も起こってくる。祝福恩恵者に与えられている祝福が、同一視の状態においては実は "視えていない" のだ。だからその祝福がどのようなものであるか手がかりがなく、正しく称賛することもできないし、その分与を受けることもできない。これが「分離」すると急に視えるようになってくる。「分離」というのは同時に「分かる」ということでもあるのだ。
C.祝福分与者の使命を知る
あなたは祝福が「分与」されるという性質を知らなかった。少なくとも、その細かな仕組みまでは知らなかったはずだ。ここであなたはさらに、祝福恩恵者は同時に「祝福分与者」だということも知ろう。祝福恩恵者はその分与という使命も持っているのだ。その使命を担っているからこそ、彼は祝福を受けられているのでもある。自分だけ祝福をガメようとする人は祝福が断たれる。
あなたは祝福分与者が使命として、求めるあなたに祝福を "勝手に" 分与するということを、これまで知らなかった。それを知らなかったからこそ、あなたは祝福を求めて誰かと自分とを同一視するに及んだのだった。今日ここであなたの考え方は刷新される。あなたが祝福を分与されるのは、<<あなたの努力によってではなく、彼の使命によって>>なのだ。あなたが祝福の被分与者たるための資格は、ただその分与者を侮辱せず求めるということのみ。
あなたが分与を受けるために必要なことは、正しく知ったあつかましさであり、このことについて頑張らなくてはならないのはあなたではなく、使命を帯びた彼なのだ。あなたはただ、その使命を帯びた彼をそのまま視るだけでいい。あなたの側から、「わたしじゃなく彼が頑張っているのか」ということが視えたとき、あなたが彼の使命の栄光を称えたことになり、あなたは祝福の分与を受ける。
(ただし、祝福分与者の祝福と使命が大きくなるほど、その視認はむつかしくなります。視認規模は "徐々に" 大きくなっていきます)
たとえばあなたがトルストイを読むのに努力するという発想は愚策で、あなたが前提にしなくてはいけないのは、トルストイ「が」祝福を分与するために努力したということだ。あなたに祝福が分与されるのはトルストイの使命であってあなたの使命ではない。そう前提した時点で、すでにあなたはトルストイを親しく感じるという祝福を分与されている。本屋に行ったあなたが頑張っているのではなく、国境を超えて日本の岩波書店にまで翻訳版が行きわたるほどトルストイが頑張ったということ。
これは単純なことなのだが、意外に生涯にわたって「自分が頑張っている」ということしか視えない人は少なくないので注意が必要だ。自分が頑張っているということしか視えないうちは祝福は一切もたらされない。その後はたいてい何かしらの詐欺に引っ掛かって被害に遭うことになる。
D.平坦に動く
何もかもよくわからなければ、これだけに努めなさい。
呪術恩恵者は、その本質が祝福恩恵者に切り替わっていかなくてはならないが、このことは呪術の除去というより、祝福による「上書き」で起こってくる。上書きに関わって呪術の抵抗、血の擾乱というのもいくらかあるにせよ、本質的には上書きで解決されてゆく。呪術側の単純除去ということはまずない。無理に除去だけしようとすると、「のろい」に拮抗阻害する「まじない」を掛けてしまうことがあるので注意が必要だ。
あまりにも肉体が呪術恩恵者のまま振る舞っていると、さすがに祝福による上書きも進行しない。よって肉体の振る舞いを意図的に「平坦」にする必要がある。むろん肉体の振る舞いに伴ってこころの挙動もなるべく平坦でなくてはならない。
平坦の反対は「ぶんぶん振り回す」と捉えていい。ぶんぶん振り回す挙動を続けていると、分与されるはずの祝福が入り込まず取りこぼしてしまう。
やる気をぶんぶん振り回さない。大げさな拍手をしたり、激しく色めき立ったりしない。地面を蹴ったり、ドアを強く叩き閉めたりしない。強い興味や深い怠惰を行ったり来たりしない。
いっそ「つまらない奴」のように挙動するとよい。すばらしいことにも「なるほど」と穏やかに収め、嘆かわしいことにも「なるほど」と穏やかに収めるのがよい。ふてくされるわけではなく、ニュートラルで平坦に。<<目を閉じると何も視えなくなることのように、目を剥くとやはり何も視えなくなる>>。座禅をする僧侶は目を閉じているわけではなく半眼をずっと前方に向けている。
得られる学門と、示される祝福のたびに、どったんばったんしていると本当に祝福が一切入らない。またそうして暴れさせて祝福の入居を拒絶させるのは、血に棲みついた呪術側の小細工でもある。
強調されるべきこととして、平坦に動くということは、平坦に停止するということではないということだ。平坦というと動かない・何も言わないという挙動になる人が多い。そうではなく、平坦に「動く」のだ。止まるのもまた平坦を乱す大げさな挙動だと心得よ。
すばらしいものには「なるほど、すばらしいですね」と平坦に言い、嘆かわしいものには「なるほど、嘆かわしいですね」と平坦に言うのがよい。何も言わないことはしばしばかなりの「乱暴」にもなると知っておくこと。
何かに参加するのも平坦に参加するのがよく、映画や音楽を鑑賞するのも平坦に鑑賞するのがよい。やたらに活発になって何もかもに参加したり、すばらしいとされる映画や音楽を多量に摂取したりするのは逆効果だ。また、ある種のストイシズムや「断捨離」と流行に言われることのように参加や摂取を断絶するのも乱暴になって逆効果だ。
平坦に動いたときのみ分与された祝福が入る。一冊の本を読むのでも、肩入れするでもなければのけぞるのでもない、ただ切り離して平坦に読んだとき、その著者が祝福恩恵者なら祝福が分与される。向こうはそれが使命でそれを書いているのだから!
やってみれば次第にわかってくることだが、平坦にやるほうが体験から "受け取る" 情報が多くなるものだ。ふつうは自身を「ぶんぶん振り回す」ので、肝腎な情報のほとんどが振り落とされてしまう。
E.知的報酬を手放し、使命を受け取る
祝福恩恵者は同時に祝福分与者でもある。その使命を同時に担うものだ。語義的に「任命される」と言ってもよい。
あなたが報酬を掴むとき、あなたはもう報酬を受けてしまったので、その他のものは受けられなくなる。祝福を受けるためには報酬を手放す必要がある。この場合の報酬というのはたいてい知的報酬だ。知的報酬とはつまり、「詳しくなった」とか「納得した」とか、「よくわかった」とか「面白かった」とかだ。
むろん、知的報酬を受け取るのみに徹してもかまわないけれど、その場合、その「よくわかった」はずのことからは祝福を受けられないので、「よくわかった」はずのことは、実際には自分ではさっぱり出来ないことになる。何かが出来るためには知的報酬は手放さなくてはならない。
知的報酬を手放すと、手放した報酬の代わりに祝福を受けることになる。そのためにもこころの「平坦」を心掛けるのがよい。
祝福を受けるということは同時にあるていどの使命も担うということだ。
だから、知的報酬を手放し、使命を受け取るというつもりでいてもよい。令なる「命」より受け取って勝る報酬などありえない。あなたは命を得ないまま自分が死んでしまってはいけないと知っているはずだ。
祝福を受けるということは、命を受け取るということで、命が「始まってしまう」ということでもある。平坦な中に次々に命は始まる。あなたは小さくも自分の命が始まったとき、祝福恩恵者と自分を同一視などまったくしなくてよいということを知るはずだ。自分の命が始まったとき、もう他の誰でもないあなた自身が始まっているから。
以上、AからEまで、対抗策を述べた。むつかしいことを言っているようだが、実のところそうではない、
「切り離して、平坦に、あつかましく」
と言っているだけだ。平坦でいれば知的報酬をむさぼることも起こらない。
現代の自縄自縛はこの逆、
「同一視して、ぶんぶん振り回し、矮小に」
ということから起こっている。
これは賑やかなようでいて、根本が不誠実な上に、実は肝腎な情報をすべて取りこぼしており、何の命も始まらないというスタイルになってしまう。
そして話の構造は最後Fにおいて、初めに示した?のところに立ち戻る。?は陳腐主義についてだった。またその反対側にありうる、別次元・飛翔についてだった。
ここにはわたしが特別に話したいことが込められている。
F.あなたのあわれな身に祝福は要らない
わたしは大きなよろこびと共に、ある意味では肩をすくめる心地もこめて、この話をしようと思う。「作品」はどのようにして生じるのか、ここ一年か二年ほど、わたしは正直なところさんざん悩まされてきたのだった。その悩ましさは、まいど二、三日のことではあれ、周期的にわたしに厄介な体調不良をもたらしてきたのでもある。おかげで柄にもなく漢方薬の一部に詳しくなってしまった。
現代の自縄自縛が畢竟、「作品」が生じないことだったとしても、あなたとあなたの周囲から「作品」が正当に出てくればそれで解決する話だ。それで「作品」はどこからどのようにして生じるのか、わたしはさんざん悩んだ。そしておそらくはここ半年ほどの執拗な手探りの上、とんでもなく単純なことにわたしは気づいた。わたしの心境を察してもらえれば、わたしがこのようにいくらかもったいぶって話すことにも大目に見てやる気分が湧いてくるだろう。
わたしは自分が小説を書くことには何の不具合もなかった。毎日のように文章記事を書くことにも不具合はない。ただ、文章を書く以外のことをしていると、何かが奇妙にズレていく……わたしが一人で過ごしているときには何も起こらないが、わたしを慕って、わたしを頼る人がそれなりに多くなってきたところ、わたしが彼らを何かしら佳い方向へ連れて行こうとすると、そのことは成り立つにせよ、わたし自身において何かが奇妙にズレていく。そして、そのズレたものは、またわたしが文章を書くことに向かうとピタッと元通りに収まるのだ。このことが繰り返されて、わたしは一人ずっと首をかしげていた。
「何がズレていくのだろう」
「何がもとに戻るのだろう」
何かがいつもズレてゆき、何かがいつもぴったり戻る。ぴったり戻るくせにそれが「何」なのかはわからなかったのだ。おかげで作品に関わって有為の理論と現象を見つけていくことにもなったが、わたしの本心としては、さっさとこの奇妙なズレと収まりを解決したかった。わたしはそれなりに苦しんだのだと思う、誰が悪いというのではなくわたしの探求心のせいで、あるいはわたしに正当に課された何かの使命のせいで。
あなたはぜひこの現代の自縄自縛からすり抜けて、自身の手で、作品を手掛けるべき、あるいは己の作品性に手が触れるべきだ。そしてそのとき、<<あなたのあわれな身に祝福は要らない>>。わたしはこのことを、自分自身としてはもう十数年も続けてきていたのに、ここに来るまでわたしが「それ」をしているのに気づかなかった。いつのまにか自分自身にとって当然の習慣、あるいは当然の世界そのものとなったがゆえに、意識的にこれを理論上に取り出すことがまったくできなかった。陳腐な言い方をすれば、ひどい盲点だった。
わたしは自分が文章作品を手掛けるとき、自分の身に祝福がありうるように祈ったことは一度もなかったのだ。わたしは常に、自分の文章作品に祝福があるように、当然のこととして祈り続けていた。祈るからにはその祝福はもたらされなくてはならない。祝福が「あればいいな」ということではなく……祝福のかかっていない書き物など、ひたすら紙資源の損失でしかない。ましてそれを人に読ませるようなことは、人の生きる時間に損害を与えることにしかならないだろう。わたしはチラシの裏にだって、自分が文章をあれこれ書いたところで、そこに値打ちが生じるということを一ミリも信じない。何も書かなければチラシの裏だってメモ用紙になるのに、わたしがそこに何かを書いたら、メモ用紙に使えたはずの紙が価値を失うと断言して躊躇がないのがわたし自身の考え方だ。わたしの書いたもの、というよりはわたしが紙面を汚損したものが、万が一にも価値や面白みを持つとしたら、それはわたしの能力によってではなく、何かしらの祝福がそこに降りてのことでしかない。わたしはそのことを「作品」と呼んでいる。これまでの歴史上すべてのしかるべき人がそれを作品と呼んできたようにわたしもそう呼ぶことにしている。
わたしは自分の文章作品に祝福が降りることを祈らなかったことは一度もなく、同時に、わたしの身に祝福が降りることを祈ったことは一度もない。わたしがここ半年ぐらい、執拗に手探りして発見したのはただこれだけのことだった。自分が毎日やっていることを発見するのにこんなに苦労するとはお笑い草だが、今はその笑いも過ぎたこととして陽気なものとなろう。
きつい病気にでもなれば神に赦しを乞うかもしれないが、作品を手掛けるのにどうして「わたし自身」に祝福を求めるわけがあるのか。
わたしのあわれな身に、別次元だの飛翔だのいう祝福は要らない。わたしが仮に神にストレスを掛けてでも祝福を要求するのは、わたしの「作品」に対してであり、わたし自身に対してではない。作品は素敵であり、それは永遠に曲がることのない、人類が生じる以前からの真実だ。この真実に対してのみ、神さまだって約束を果たす義理があるだろう。わたしの態度が不遜か横柄かなどというのはどうでもよい。わたしが神のご機嫌取りをしたところで神がわたしに下す評価など変わりはしないだろう。この「作品」に関わる現象をもたらしているのが神なのか仏なのか「気のせい」なのかまったく知らないが、わたしが何かを知る必要はない、ただおれの作品をまともなものにしろとおれは祈って要請した。作品は素敵なものだ。まして、おれの作品が素敵でないなどということは銀河系が吹っ飛んでバナナに置き換わったとしてもあっていいことではない。
わたしはわたしの作品という、まったくどうでもいいものをまき散らしているだけだ。いつのまにかそれがわたしの立つ場所になったけれども。わたしはあわれなわたしの身に何かを受け取ろうなどと考えていない。わたしは手に触れたものをただちにまき散らすだけだ。それが発芽してただ素敵なものになるのに、いったいおれがどのような能力をはたらかせようというのだ。まき散らした種が素敵な光景と果実をもたらすのは、天と地と種の問題であっておれの能力は関係ない。だからおれはそのようにしろと祈り続けた。このことに関わっておれの祈りはすでにたちが悪くて、もし死後にさばきにあうとしたら、おれは神さまに恫喝を仕掛けた咎で断罪されてもしょうがない気がしている。おれの作品に命を与えろという要求と、そのために続けられる果てしないドアノックは、神さまをノイローゼにしたに違いない。
ともあれ、すべてのことは、あなたの「作品」に祝福あれと祈ることだ。同時に、あなたの身はあわれなままでいい。あなたの身は聖書的に言えば十字架なのだから。あなたの身に祝福があるのではなくあなたの作品に祝福があるべきだ。仮に聖書をあなたの目の前に置くとしたら、栄光に輝くべきは聖書とその登場人物であってあなたではないだろう? 聖書の前であなたがピカピカ光っていたらとしたら完全にバカ丸出しじゃないか。
あなたの身は聖書的に言えば十字架だし、仏教的に言えばただの業(カルマ)だ。そのあなたの身を、栄光と祝福のあるあなたの作品に向けて費やすとき、あなたの身はコキ使われながら、そのコキ使われることによって赦されて軽くなる。あるいは仏教的に言えば業(カルマ)が償却されて軽くなる。あくまで作品に対してコキ使われるから赦されて軽くなるのであって、あなたの身そのものに赦しの祝福が降りてくるわけではない。誰の「身」に祝福があるかといって、新約聖書的に言うなら、イエスキリストの身に栄光があるのであって、その栄光を横取りしてあなたの身に栄光があるようにと祈るならあなたはとんだパリサイ派だ。神の御国に栄光があるよう称えるべきであって、自分の国が栄光でピカピカ光るようにと言うならそもそも神の存在と必要性を全否定している。仮に神さまが存在するとしても、神さまはあなたとあなたの舞台をピカピカ光らせる照明係ではない。
むしろあなたの側が照明係になったらどうかと考えるほうが発想がまともだろう。
なぜわたしがここ二年ほど、「何かがズレてゆき」「何かがぴったり戻る」ということを繰り返してきたか。それは、身に余ることなのだが、あまりに多くの人がわたしの身を大切に、尊重して、敬ってくれたからだ。わたしはわたしの手から生じる作品のほうに栄光を見つけるようにと入念に述べたのだが、多くの人の素直な善性において、わたしの身は多くの人に大切に庇護された。それはまた、実際に当事者たちに多くのハッピーをもたらしたのだから、その実績についても正直に述べておかねばなるまい。わたしの周囲はこのことについて過ちを犯したわけではない。ただこのことについては、もう一段階、踏み込んで知るべきことがあったのだ。このことは、直接わたしの周りにいない人々にとっては、聞かされても使い道のない話にはなってしまうが。
多くの人は、呪術恩恵者うんぬんはもとより、さらに単純にも、自分があるべき姿へ至るためには、「努力して何かを "身につける" べき」と考えている。それはごく通常の発想で、このことの誤解を咎として責めることなどできない。ただそれでも、この仕組みについて今は言及するべきときだ。
わたしを慕ってくれる人の多くは、やはりわたしが手掛ける「作品」について特に、何かえも言えぬ祝福があると感じ、認め、またそれを直接体験もし、あるいは「そんな気がするんです」として、とにかくそのことを通してわたしのことを尊重する・敬うという態度を示してくれたのだった。ただここでついに知られることは、すべてのことは<<わたしの身に祝福があるわけではない>>ということ。すべて、わたしの手掛ける作品に祝福があるのであり、それはわたしがそのように祈ったとおりに与えられてあるということだ。わたしの実際の身が、他の一般的な人々の身より赦されて祝福を受けている印象があったとしても、それは結果的にそうなったにすぎず、わたしの身に直接祝福が降りているわけではやはりない。わたしがわたし自身の作品に祝福を求め、その祝福が与えられる作品に自分の身をコキ使ったからこそ、まるで労働に対する給料分というていどにわたしの身は徐々に赦されていったのであり、わたしの身そのものに直接「赦し」が振り込まれたのではない。直接の振り込みを受けたのは「作品」の口座であって、わたしの身の口座ではない。
わたしの友人らは、どこまでもわたしの身を案じ、わたしの身を労わろうとしてくれるから、そのことへの感謝もあって、わたしの中でわずかなズレが蓄積していったのだった。わたしが求める祝福の降下先が、わたしの「作品」からわたしの「身」へ微かにズレていく。そのズレが蓄積していく。そしてそれは、文章作品を手掛けると途端にぴったりもとに戻るのだ。わたしがいつもどおり、わたしの「作品」に祝福があるように求めることによって。「おれの身はどうでもいいから、おれの作品だけはステキにしろ。おれの作品が面白くないなどということはたとえ宇宙のすべてがストロベリーシェイクになったとしても許されないからな」と、わたしはいつものとおり断じて祈ることによって、祝福の降下先はそのたびにぴったりもとに戻った。
わたしはわたしの友人らの、労わりと、まっとうな善性に感謝と称賛を向けると共に、わたしはあらためて「これがおれなんだよ」と古臭いことを言おうと思う。なかなかダサいことだと思うがしょうがない、どう隠蔽してもけっきょくこれがおれだ。おれは昔もいまも、けっきょく生涯このように言い続けるのだろう、「おれの身があわれなのはまったくかまわないが、おれの作品が素敵でないということは絶対に許されない」。
わたしは自傷や自死を志向しているのではない。なるべく健康に留意して、医者にも世話になり、温泉に行って旨いものを食っているから安心してくれ。わたしはわざわざ捨て身になっているわけではなく、わたしは自分のあわれな身について、そのあわれさに対して "何もしない" だけだ。わかりやすさのため、わたしが唯一ずっと素敵だと思っている性格の悪い趣味について告白しておこうか。おれの快感はこうだ。他の誰かがおれのことを見たとき、「どうしてこんな奴からこんな作品が出てきて、その作品からこんな声が聞こえてくるんだ」と納得がいかず困惑する。それをニヤニヤ見るのがおれはたまらなく大好きなのだ。だからおれの身のあわれさとおれの作品のステキさはかけ離れているほうが、おれにとっては "おいしい" というわけ。なかなか好い趣味をしているだろう?
わたし自身に関わっての話は以上とする。
もとの話に戻って一般化しうることを考えよう。
1.に示したように、人々はいま、陳腐主義によって自分を別次元に向かわしむることには強い拒否感情を持ち、一方でまるで別次元にいるかのような称賛と承認は受けたいと望んでいる。
あなたもおそらく、第一の反応としては、あなた自身が「別次元」に立とうとするなんて、直観的に拒否感情が起こるはずだ。
けれども一方で、いま多くの人は、自分の身が「あわれだ」という言われ方にも強く反発する。
このことには単純な矛盾があろう。
もし自分の身が「あわれ」でないなら、人は勇敢に自分の身を別次元のレベルに向かわしむることができるはずだ。そこで「別次元とか、そんな、無理です」と気後れを言うのであれば、そのことはただちに「わたしはあわれな身なのです」と言って差し支えなさそうなものだ。
けれども実際には、われわれは自分について「あわれな身です」と言うことに拒否感情が起こるし、そのように他人に言われることにはさらに強い拒否感情・反発が起こる。
すでにいくらか察しがついているかもしれないが、このことには、やはりこの時代に突出した、時代文化とも言えるある種の傲慢さが潜んでいる。どこか自分の身を栄光のものと見立てているのだ。そしてその栄光の身を、もし本当に別次元の、祝福恩恵者と同等の場所に向かわせようとするとどうなるか。「夢」としての可能性もうっすらないではないが、それよりはるかに、自分の身が栄光のそれではないということが身も蓋もなく暴露されてしまうリスクばかりが予見される。その暴露された事実はいやおうなく自分自身でさえ認めざるをえないものとなろう。その予感なり予見なりから受ける強迫はかなり厳しいもので、この拒否は判断という以前に相当に感情的になる。このことは時代文化でもあり、もともと責められたようなことではないし、いますでに本稿はこのことの解決を示したあとなのだから、このテーマはすでに過去のものとして忘却されてよい。
あなたはすでにここまでで得た知識によってこの問題を突破済みだ。あなたは、あなたの身が別次元やら飛翔やらに至ることについては冷然と否定してよく、一方で、
「わたしの作品および作品性には、祝福が降りて別次元のものとなるでしょう」
と公言していいことになる。なぜそのように公言できるのかと問われたら、
「わたしはわたしのあわれな身に祝福を求めず、わたしの手掛ける作品に祝福を求めるからです」
と答えればよい。なぜそのように答えればよいのかは、その先のあなたによって自得されるだろう。あなたが今ここで読んでいるものも、単なる説明文ではなくわたしの文章作品だが、わたしはこの文章作品に祝福があるように求めている。わたしがわたしの身に祝福があるように懇願しているなどと見出すのはいくら強引にそう誤読しようとしても無理があるだろう。
「わたしの身は、あわれなものなれど、祝福されたわたしの作品および作品性に向けてひたむきに費やされるでしょう。そこに向けて身を費やすほど、わたしの身も相応に赦されていくに違いありません」
あなたはここで当然のこととして、「祝福恩恵者」の像を修正すればよい。
その身に祝福を受ける存在など、神話を除いては存在しない。
<<一見して祝福恩恵者に見える人は、錯覚だ、その人の手による作品および作品性によって祝福恩恵者に見えるだけで、実際にはその人は自分のあわれな身を自分の作品のためにコキ使っているだけにすぎない>>。
もしここで冗長にも「祝福恩恵者」を正しく言い換えるならこうなるだろう、彼らは真には「祝福恩恵作品への自己労働者」に過ぎない。
労働者という響きがいかにもあわれな身を表しているだろう。
けれどもいかなる大聖堂も建築するのは労働者ではないか。
このことに身をやつしてきた労働者たちが言える、自慢と自負の一言はこのように尽きる、
「ぜったい大丈夫」
「おれが手掛けるんだから、ぜっっったい大丈夫だ」
あなたがあなたの手掛ける作品に対して「ぜったい大丈夫」と躊躇も気負いもなく断言できるようになる。そのことを目論んで本稿は書かれた。
「祝福恩恵者」が、冗長だが「祝福恩恵作品への自己労働者」と改まったとして、先の話を振り返ろう。AからEまでにどのような対抗策が示されたか。ひとつごと振り返ってもらっていいが、まとめた言いようはこのようであった。祝福恩恵者に対し、
「切り離して、平坦に、あつかましく」
同一視せず、ぶんぶん振り回さず、かってに矮小にならず。知的報酬のむさぼりに堕さず。
その身に祝福を受けた「祝福恩恵者」など存在しないのだ。祝福恩恵者に見える者は、実は自分の作品に対する自己労働者にすぎなかった。
その労働者は、自分の「作品」にどう向き合っているだろう。
ひいては、あなたもその労働者になるとして、あなたは自分の「作品」にどう向き合えばいいのか。
そのことがまるまる、「切り離して、平坦に、あつかましく」ということに重なる。
・切り離して :祝福を受けるのは作品であって「あなた」ではない。断じて切り離せ。
・平坦に :呪術恩恵を振り回すと作品に祝福が入らない。ぶんぶん振り回す者は、自分の身に栄光があると思っているのか。
・あつかましく:あなたの身が「あわれ」なら、あなたの作品には祝福が分与され「別次元」のものになる。
あなたが労働者からいま分与されようとしている使命は、思いがけず直接の労働だ。本来、あわれな男たちがその肉体で重い神輿を神社へ奉納する労働をする。彼らはその重さを肩に食らってもはや平坦にしか動けない。誰があの重さを担いでわが身をぶんぶん振り回せるものか。祝福を受けるのは神輿であって担ぎ手たちではない。担ぎ手たちは労働者なのだ、ただしその労働分は給与のごとく彼らの身は赦されよう。彼らは使命のために肩を内出血させるが、その内出血ぶんは彼らの身は呪術から解き放たれるだろう。
もし、神輿の担ぎ手たちが、神輿ではなく自分の身に祝福を求めていたとしたら、彼らの神輿は醜い重量のオブジェに成り果ててしまうだろう。「神輿を担ぐオレ」のようなものに栄光を求めていた場合、彼らのする祭りは祭りではなくなり単なる手の込んだ承認欲求のアピールチャンスに転落する。
あるべき労働者のことを視認せよ。わたしのここまでの書き話しが、あなたを大いに愉しませたことをわたしは期待するが、それでいて真にあなたが現代の自縄自縛から抜け出そうとするのであれば、あなたが真に発見するべきことはわたしの書き話しの面白みではない。わたしは面白みのために書いているのだからそれだけでも結構なことだけれど、もしそれ以上のことがありうるはずだとあなたが考えるのであれば、知的報酬をいったん手放すことをしてみて……
ここまであなたが読んできた本稿、この少作を、あなたが仮にPCのキーボードなりで書き写すと考えると、それだけでもどのようであるか。あなたはそこにありうる労働の量をあらかじめ推し量れるのではないだろうか。むろん書き写しても何の意味もないことだからそのようなことは推奨しない。ただわたしが真に示しているのは、あなたが受け取りうる知的報酬の多寡ではないのだ。「わたしはこのことへの労働者だ」ということの実物を、より上位の面白みとして示しているつもりでいる。あなたがわたしの書き話しに面白みを見つけてくれたとしても、あなたがわたしの身に発見してほしいのはあわれさであって栄光ではない。わたしの作品に栄光を見つけたとしても、わたしの身にはどうぞあわれさの笑いを発見してほしい。そうするとあなたのするべきことが仄見えてくる。「笑わずにはいられないが、ふと考えてみれば、こいつは何件の文章作品についてこの『あわれ』をやってきたのだろう?」。あなたが「作品」に関わって真に発見するべきはこのあわれな身の労働だ。作品といって神秘的なセンスや才能やきらびやかな刺激、ごてごてした・あるいは荘厳な栄光を "偽装" した演出をイメージすることはますますあなたの血を現代の呪いに縛り付けるだけで、わずかもあなたをあるべき作品のほうへ押し出しはしない。
先にトルストイの例を出したが、あなたが文庫本の二冊ほどに手を出せば、トルストイが「労働はよろこびだから」と述べている場面に出くわすだろう。あなたは今、祝福と共に "ある種の労働" を分与されているのだ。「労働」と聞くとあるていど及び腰になる条件反射があるのも承知の上だけれど、あなたがこの報酬のない労働に与した場合、やがてあなたが手にするのは、あなたがあなたの作品に関して発する、
「ぜったい大丈夫」
という断言だ。
「わたしがやる作品なのだからぜったい大丈夫」
「わたし自身はどうあれ、わたしの手掛ける "作品" だけはぜったいに大丈夫」
あわれであるはずのあなたの身から、まるで説明のつかない「別次元」の作品が手掛けられて示される。ほとんどの人はあなたの身が祝福を受けているものだと思い、あなたのことを何かしらのギフテッド、祝福恩恵者だと思い込むだろう。そのときあなたは自分の身を「ただの、このことへの労働者なんですけど」と知り抜いていて、周囲の言いようとの違いに肩をすくめている。あなたは自分の身を「別次元とか絶対ない」と確信して言い、同時に作品を手掛けようとするすべての友人に対して、「作品を陳腐主義に巻き込むなんて本末転倒だよ」と熱弁して言うだろう。こんどはあなたから友人への分与が始まる。
[作品が生じない現代の自縄自縛から逃れる方法/了]