No.417 夜中までやっている国道沿いのどうでもいい中華料理屋
部屋で過ごすのに、防寒に、巻くタイプのレッグウォーマーを買った。あと、寝るときに肩と首元をカバーする肩当てを買った。使用してみて、なかなか具合がいい。肩当てなど、和風の生地なので、見た目にも文学者っぽいかなと思って気色ばんでいたのだが、姿見に映してみると、そこにいたのは文学者ではなかった。そこにいたのは、肩当てとレガースをつけたサイヤ人だった。
なかなかダサい文章だ。いまの気分で、ダサい文章を書きたいと思っている。
いま、二〇二二年の大みそか、夕方六時すぎ。毎年恒例の大みそかコラムを書こうとしている。
毎年恒例の、といって、そんなもんおれ自身しか恒例にしてねーよと思っていたのだが、思いがけず「アレ毎年に楽しみにしているんですよ」という人がけっこういるらしく、へーそうなんだとおれは驚きながら、いまこれを書いている。
今年になってからおれは以前よりさらに文章力が上がった。いまさら「文章力」なんてもうどうでもいいとしか思っていないが、それでも「まだ上達の余地があるんだ?」ということに驚いている。驚いてばっかりだ。
以前から一度やってみたいと思っていたことがあって、たった今それを済ませた。この一年間で、けっきょくどれだけの分量を書いたのだろうというのを、文字数で集計してみたいと思ったのだ。それでいま調べたところ、ブログ記事でこの一年間、141 万字、コラム記事を加えると一年間で 167 万字だった。残念ながら一日あたり一万字は書けていないということだ。それどころか半分の五千もいかず、一日あたり 4,575 文字。一日あたり、原稿用紙にすれば 12 枚で、一年間にして 4200 〜 4400 枚ぐらいか。
こうして考えると、生きているうちに一億字を書くというのはなかなか難しいということがわかる。一億字というのは、おれが勝手になんとなくの目標にしているのだが、計算上、一億字に到達しようとすると、現在のペースを超々高齢者になるまで続ければいちおう可能性はあるということになる。もう最後のほうは「ああああああああああ」みたいにして字数を稼ぎそうな気がするが。
(あ、しまった、ウェブ方面とは違う小説の文字数をカウントするのを忘れていた。167 + 8 で 175 万字が本当に書いた総文字数だ)
誰でもそうするように、大みそかのこのときになると、なんとなくこの一年間を振り返ろうとする。あまり、こちらの書き話しのほうには持ち込みたくないのだが、ワークショップ方面でもおれはナゾの「作品」というのをやっていて、非公開だが、数十秒〜数分の、主に演劇型のような作品をつくっている。もちろんその場の思いつきで。毎週、小さいが新作をつくる。それを動画に残して、メンバー内では Youtube で共有している。パナソニックのビデオカメラとタスカムのステレオマイクで収録していちおう「作品」という体にしている。そちらの作品も、この一年間でおれは 94 個をつくっているらしい。アレンジを加えたものを足すと 108 個。こちらだって、ひとつあたり数十秒〜数分はあるのだから、すべてまとめると二〜三時間分ぐらいのアンソロジーにはなるのだろう。
あ、そもそも、そのワークショップ方面では、毎週金曜日に三時間〜五時間ぐらい、単独で話し続けるライブ配信をしているのだった。われながら、こいつどんだけしゃべることあるんだと呆れる。そちらも非公開でメンバー内でだけログを共有しているが、けっきょく一年間でこいつはどれだけしゃべったのだろう。毎週四時間として、50 週それをしたとしたら、二百時間ぐらいはしゃべっているのか。
おれのことだからもちろん、単なるおしゃべりとか、単にダベるというようなことはしない。そんなものを配信されても聞かされる側は面白くないだろう。おれは短いスカートをはいた美少女ではないのだ。そこにいるだけで天使だよというような評価はしてもらえない(そんな評価要らねえ)。
九折さんがしゃべるとなったら、「なんだこの話芸は」と、どうせ圧倒されて引き込まれて、「四時間ずっと聞いてしまった、聞いているこちらがフラフラで死にそう」みたいにならないと、誰も納得しないし、面白くない。しかもそれが毎週新しい話として出てきて、途絶える気配がなく、聞いている側が「コイツの頭の中はどうなっているんだ」となり、「もう脳みそがついていきません、無理です」とくたばるようでないと誰も納得しないし面白くない。
いや、誰も納得しないということはないか。おれの周囲はみんな、「どうか休んでください……!」と言っている。
おれが温泉に行くたびに、それを報告すると、なぜかみんな「やった〜!」とよろこんでくれる。おれが休めば休むほど、おれの周囲はよろこんで安堵するらしい。それが、お追従(ついしょう)ではなくて本当にマジのマジたる反応のようなのだ。
すっかり温泉に詳しくなってしまった。おれは東京の城南地区に住んでいるから、けっきょくかけ流しというと、立地も品質も箱根に行き着いてしまう。いっぽう、草津は遠い、なんだかんだ一泊しないとしんどすぎるし、途中の伊香保でこころが折れそうになる。ただ草津は、確実に世界最強格のお湯があるのに加えて、標高も風土もまったく異世界だから、じつはお湯だけではない無尽の体験があって、いまではすっかりおれの愛好どころか愛着のある土地になってしまっている。冬場は積雪や凍結があるので行けないけれど。
地図上の印象からでは、箱根も伊豆も似たような距離じゃないかと思えるのだが、じっさいにはなぜか伊豆は箱根よりずっと遠い。伊豆が遠いというより箱根が近いのだ。東京インターから東名高速を走り、渋滞していなければ海老名の向こう、厚木インターで「小田原厚木道路」に乗り換え、そのままボーッと走っていると、ほぼ信号なしの自動車道だけで箱根のど真ん中にまで到着する。「富士山でっかいなあ」と思って走っていたらあっという間だ。ここからさらに伊豆へ向かおうとすると、やれ海岸線を走るのか、ターンパイクから伊豆スカイラインを走るのか、箱根峠を越えていくのか、楽しいけれど道中が思いがけず長いのだ。それでも伊豆まで――伊東まで――行くこともある理由は何かというと、一泊するなら値段も湯量もすごく具合がいいからだ。箱根で部屋付きの温泉がある宿泊プランを取ろうとすると価格が跳ね上がってしまう。伊豆はそこを安く済ませられるのだ。そして伊豆(伊東)までいけば刺身が圧倒的に旨くなる。本当に釣ってきた魚で市場を通してもいないから、その日によって食えるものは違ったりして融通は利かないが、ひんぱんに本当に旨い魚が食える。いまのところ、瀬戸内以外で惚れられる真鯛を食べられたのは伊東が初めてだ。なぜか真鯛に関しては、富山でさえ抜群の真鯛というのには当たらない。真鯛はおれが生涯をかけて追い続ける魚のひとつだが、いまのところどれだけ追いかけても、本当に旨い真鯛が食える要件というのはまったくよくわからないのだ。昔の大阪なら、そのへんの小料理屋でも抜群に旨い真鯛があるのがふつうだったのに、近年はそうでもなくなったし、何がどうなっているのか、この「旨い真鯛」はどういう条件で成り立っているのかどれだけ研究してもよくわからない。
そういえばむかし、江戸前の寿司屋に行ったときに、
「露骨な関西弁、大阪弁をしてらっしゃるから、白身魚を出すのは気が引けるんですわ」
とご店主がおっしゃっていたことがあった。なんでです、とおれは訊いたのだが、ご店主は、いかにも江戸っ子というふうの顔のしかめ方をして、
「どうやっても瀬戸内の白身には勝てんもの」
と言った。
おれは内心で、
(東京湾をこうまで埋め立てられて勝負させられるのはアンフェアですしね)
と思ったが、そんな本格的な話は口に出さずに、とりあえず出されたよくわからない貝の握りを手づかみで食った。
ああ、そんな話をしていたら腹が減ってきた。ことしは、富山のブリ、いや氷見のブリはよく獲れているだろうか。氷見の魚は、コンピューターゲームでいうならバグのたぐいだ。旨い魚を食べて旅をしている人は、氷見に行ってしまうとひとつ旅の終わりを迎えることになってしまう。「このほかにも旨い魚は世界中にあるに違いないが、これ以上、大きく上回るということはきっともうないのだ」ということが直感的にわかってしまう。
富山のとなりは石川県だが、石川県でズワイガニ(越前ガニとか加能ガニとかいう)のタグつきを買うときは、「甘エビっていつごろが一番安いですかね」と訊いてみよう。カニの相場は教えてもらえないが、甘エビの相場ぐらいなら教えてもらえよう。そして甘エビの相場変動とズワイガニの相場変動はだいたい似ているのだ。甘エビが安いときならズワイガニも安い。安いといっても、けっきょく一万五千円ぐらいはするけれどね。
高いものを食う予算がない人は、近所の材木屋と仲良くなって、廃棄する木っ端をもらってきて、それを三千円の焚火台で燃やし、網をおいて、安くて脂の乗った牛肉を焼いて塩コショウで食えばいい。どこか、夜中にでも勝手にキャンプに使っていい、星空のきれいな河原にでも出て。
(といって、そういうのは女性だけでは危なくていけないんだよなあ、気の毒、しょうがないのでおれが連れていってやろう、かわいくて色っぽくて素直な女の子限定で)
おれはいま、グルメ旅行記を書き話しているのではない。
なるべくダサい文章を書こうとしているのだ、それにそもそも、本来の「コラム」とか「書きもの」とかいうのは、こういうどうでもいいエッセイをだらだら書いているものをいうのじゃないのか。おれみたいに、日常的にトルストイやらウィリアムブレイクやら、魂魄やら学道用心集やら福音書やらが出てくるものをふつうはコラムとか書きものとか呼ばない。
おれはこうして、フツーの、あるいはそれ以下の、ダサい文章も書けるんだぞということを、自慢と共に示したい。大みそかだ、「火の用心」を呼びかけるまぬけな声の巡回車がカンカン鐘を鳴らして近隣を徐行している。
おれはいま、ダサい文章を書いているが、それにしてもやっぱり、もう文学者なのだと思う。何をどうやっても、文学の原理と技法からは逃れられない。おれは、文学的に書こうとしているのではないし、文学の技法を凝らそうと思っているわけでもない。そんなわざとらしいことは一ミリも考えていないが、おれの脳みその発想じたいが文学のそれになってしまったので、だらだら書くと文学になってしまうのだ。脳みその発想、あるいは魂の所属じたいがそれになってしまった。生きているコウイカを棍棒でしばき倒したらどうしたって墨を吐くしかないだろうことのように、おれをどうド突いても文学しか吐き出されない。文学あるいは芸術、または愛しか吐き出されない。それはおれの努力の結果ではないのだ、コウイカは努力して墨を吐き出しているのではない。コウイカにとって生きるというのはそういうことなのであって、おれにとっても生きるというのはそういうことなのだ。
ところで、まともに食い物のことを知っている人の基準のひとつは、イカの区別が当たり前についている人のことだと思う。スルメイカと、ケンサキイカと、コウイカ(スミイカ)と、アオリイカと、ヒイカと、ソデイカ(アカイカ)の区別が当たり前についている人。この人はごく自然に食道楽なのだと思う。ぜんぶ漠然と「イカ」の人は食道楽には至っていない(至らなくていい)。中には逆の人もいて、牛のサーロインとモモ肉の区別もよくついていないという人もいるし、豚のバラ肉とロース肉の区別もよくついていないという人もいる。さらには、牛・豚・鶏の区別もよくついていないという人もいるのだ。カモ肉やラム肉も「食べたことはあるけれどよく覚えていない」という。それが悪いということはまったくない。区別があまりついていなくても、大好きな人と――やさしい人と――一緒に食事したら、とっても食事はおいしいし楽しいということは変わらない。「それはホウレンソウじゃなくて小松菜だよ」ということがあっても、それで何が劣っているということはない。いくら食通ぶっても、おいしく・楽しく食事ができていない人は残念ながら食事について負け組だ。そして、その負け組だって悪くないと思う、ほかに楽しくやれることがきっとあるはずだから、食通なんてことに意地を張るべきではないと思う。誰だって生きている時間じたいは似たり寄ったりなのだ。悲しい時間やなげかわしい時間はなるべく過ごすべきじゃない。どうだこのとおり、なかなかダサい文章が書けているだろう。
おれは、おれ個人の状況的に、ダサい文章を書いているヒマは、この先あまりないのだろうと思う。それでも、ときどきはヒマをみつけて、こうしてダサい文章を書きたいなあという衝動は持っている。できたらおれではない他の誰か、いくらでもヒマのある誰かが、こうしてダサい文章を書いてくれたらいいのだけれど。そうは言ってもな、「いくらでもヒマがある」なんて人はきょうびなかなかいないか。本当はそんなこともないと思うけれど、いまどき「いくらでもヒマがある」なんて自ら笑って認めるようなスタイルの人はあまりいないだろう。いくらでもヒマがある人という、それじたいがダサいものな。
われわれはいま、こぞって、自分がダサくないふりをしようとして、自縄自縛どころか、もっと直接の「自爆」に陥っているように思う。
おれでない他の誰かが、ダサい文章を代わりに書いてくれたらいいと思うけれど、おれでない他の誰かがこれを書こうとすると、案外むつかしくて、案外どころか想定外に、めちゃくちゃ時間が掛かってしまうということをあじわうだろう。おれだからこんなサラサラと、どうでもいいことのように書けているのだ。おれはこの年の瀬の大詰めに自慢話をしているのではない。
ダサいということは、それをどだいに認めてかかるかぎりは、あなたにとってマイナスではないし、あなたの命を奪うものではないと言っているだけだ。命を奪うどころか、そのダサさは、あなたに命を与えるだろう。
だからあなたはいま、このわざわざダサく書かれている文章を、ふだんよりも表情をやわらげて、よろこんで読んでいるんじゃないのか。もともと、コラムだのエッセイだのというのは、こういうフツーに楽しいだけの、あまり教育にはよくない、ダサいものだったろ。
二〇二二年、ユーラシアのどこかで戦争が起こった。たいへんなショックであって、テレビ番組に出ている専門家は、ゴールデンウィークごろまでこの戦争は続くだろうと言った。テレビ番組に出ていない専門家はそうは判断しなかったのだろう。ゴールデンウィークどころか、現在に至るまで戦争は継続している。戦争というより直接の戦闘が継続している。野戦をしているのではなく市街戦だ。いまふうに言うと MOUT でありたぶん各所で CQB だ。PSC がどこまで入り込んでいるのかは知らない。最近はもう PMC とは言わないようだ。
われわれは、自分たちをダサくないものと言い張ろうとしているので、いまさら戦争ぐらいで動揺しない。そういうフリをしている。歴史が保証しているように、人類は戦争と共に生きているでしょ、だから今さらどうとも思わないけどね、と、そういったことで達観ぶろうとするが、本当にそうなのだろうか。駅前の駐輪場で、重たい金属の鎖を武器に振り回す暴漢が、気の狂った顔で襲ってきたら、その見慣れないまがまがしさに、われわれは動揺するのではないだろうか。血の騒ぎに膝が震えて、気を抜けば嘔吐してしまいそうなほどに。腰が曲がり始めたおばちゃんが、豆腐屋で厚揚げを買ってきた帰りに、新品の手斧を持った六十歳の暴漢に襲われたら、われわれはその絵面にショックを受けるのではないだろうか。危機管理、自己防衛、そうしたこともわかるし、おれなんかどちらかというとそっちの専門家に近いと思うが、本当にわれわれは全員、そうした脅威と惨劇に微動だにせず判断・対応できるような者たちなのだろうか。おれはそうは思わない。おれは、ふつうの人々は、もっとダサいものだと思っている。
夜中までやっている、どうでもいいような中華料理屋に、あなたを連れて行こうか。気まぐれに、いまからレンタカーを借りて。いまは都内なら簡単にカーシェアが借りられるから。この時間帯なら道路も空いていて走るのは快適だ。県をまたいで……どうでもいい国道を走っていけば、その右手に、駐車場がデカくて使いやすい、煌々と光った中華料理屋が出てくる。古い店内に、古いおっちゃんと、もうひとり、やはり古いおっちゃんがはたらいている。こちらに背を向けて、巨大なガスコンロでラーメンや餃子を作っている。店内は湯気が充満している。白い樹脂製のテーブルは脚がガタついている。料理の味も平凡なものだが、平凡な中華料理屋って旨いじゃないか。あなたはきょうの夜も最高級のフォアグラやシャトーブリアンだけがぜったいに食べたいか。おれはそうじゃないな、おれは中華料理屋にいきたい。
そんなことを話せば、女の子なら「えー行きたい」と言うだろうし、おっさん同士なら「いいっスね〜」と言うだろう。二〇二二年、ユーラシアのどこかで戦争が起こった。いまも戦闘が続いている。なんという痛みだろう。いちいちその痛みにマジになっていられないというのはわかるが、それにしても、われわれが万事についてへっちゃらで上等で余裕をもって高邁だというのはウソだ。おれは、自分たちはもっとダサいものだと思っている。
中華料理屋に連れていってほしいくせに、また連れていかれたらすごく楽しくなっちゃうくせに、道中の見慣れない夜景にわくわくするくせに、達観ぶるのはやめようじゃないか。おれはそう思っている。
いまから十数年前、日本は東日本大震災に襲われた。津波で多くの人が亡くなり、核プラントで破局が起こって、当該地域はいまも人が居住できない隔離地域になってしまった。そうしたとき、おれはこう思ったし、こう感じた。「ああ、人がまたショックを受けてしまう」。われわれは海外というと、第一に「海外旅行」を連想して、あこがれを覚え、見たこともない楽しさを勝手に想像する。その「海外」で戦争が始まった途端に冷徹ぶるというのは単純にいってただのウソでしかない。われわれは震災でショックを受けたし、いまも戦争でショックを受けている。新型コロナウイルスの蔓延、つまり疫病でもショックを受けているし、慣れ親しんだ著名人が病気や寿命で亡くなられるだけでもショックを受ける。それがまして自死されたとなったらもっと大きなショックを受ける。長いことわれわれの総理大臣だった人が銃撃テロで惨死したとなったらショックを受ける。
ショックを受けるはずなのに、われわれは平気なふりをしている。なぜ平気なふりをするかというと、そうしないと耐えられないからということでもあるだろう。でも他にもうひとつ、自分を「ダサくない」と言い張ろうとしているということがあると思う。不毛なことだ。もちろんダサいといって、いちいち人に泣きつくようではただの迷惑者でしかないが、そこまで逸脱しないかぎり、ダサいというのは率直に言ってわれわれの真相かつ実相だと思う。われわれがまともに友人を得て、まともに親しんで過ごすことのためには、われわれは正直にあるがままに、ダサいということを土台にしていくべきだと思う。だからこのとおり、おれはいまダサい文章を書いている。
短い動画がつぎつぎに表示される、加工とノリが売りのSNSがあったとして、そこに制服姿の女子高生が出てきて、大きなバストと若い太ももを振り回して躍ったとする。はしゃぐ表情と、口走ってしまった性的に奔放な語がいわゆる「バズる」という現象をもたらしたとして、それはわれわれの青春ではないし、われわれの実相ではない。彼女の実相でさえないのだ。映像加工も含めて何頭身あるかわからないような美女が、ドバイの高層ホテルでくつろぎ、ハイブランドの水着をつけてプールに身を浸して微笑んでいたとして、そうしたキラキラの映像はわれわれの実相ではない。彼女は最高級のキャビアを食べるかもしれないし、青森で獲れた本マグロの大トロを食うかもしれないが、それにしてもスルメイカとケンサキイカの区別がついていないのが彼女だ。彼女はシャトー・ムートン・ロートシルトや当たり年のペトリュスを浴びるように飲むかもしれないが、目の前のグラスに入っているスコッチとブランデーの区別もよくわかっていない。コンビニで買ったジムビームをソーダ割りにしたものをバーテンダーが出したらそうと気づかずに飲むだろう。おれはそうして派手な彼女を侮辱したいわけではない。彼女に笑ってほしいのだ。笑ってほしいし、われわれは笑うべきなのだ。われわれは、セロリの炒め物が上手にできない。どれだけ着飾ってみても、丹沢山系から出る湧き水に両手をつっこんでがぶ飲みするのが一番おいしい。そうしたときに決め顔をする必要はないし、かといってワイルドな自分を演出する必要もない。われわれはダサいのだ。金持ちだろうがそうでない者だろうが、われわれは本当はダサい存在であって、そのダサいということをひた隠しにするので、内心でいつも「本当はどうしたらいいかわからない」と思っている。本当はずっと追い詰められていて、ずっと切羽詰まっていて、ずっと困惑しつづけている。
どうしたらいいかといって、本当はどうする必要もない。あなたの作るセロリの炒め物はヘタクソでいいし、ヘタクソなそれを苦い顔をしながら食うのも悪くないじゃないか。おれたちはダサいのだからそんなものだろう。あなたは、イケている自分のイメージに、自分の年齢を掛け算なり割り算なりして、適切なはしゃぎ方加減を算出するなどしなくていい。湧き水があったら手を突っ込んでがぶ飲みするだけでいい。おれはあなたのダサいところなんか見ないし、あなたのカッコいいところも見ない。
おれは今じつにダサい文章を書いているが、あなたが正直なところこういうどうでもいい話の書きものが好きだったとして、どうしたらこういったものがあなたからでも出てくるのだろう。どうしたらいいかといって、どうもしなくていい。湧き水に手を突っ込むように、ペンでもスマートフォンでもキーボードでも手を突っ込めばいい。あなたは自分の書く文章がぐちゃぐちゃの散り散りになることにショックを受けるかもしれない。じゃあそのまま、途中に、「自分の書く文章がぐちゃぐちゃでショックです」と書けばいい。「どうでもいい中華料理屋に連れていってほしい、本当は涙が出そうです」と書けばいい。おれはいま大みそかに一年を振り返っているのだ。このことじたいがどうしようもなくダサいだろう。おれはこのダサいまま年越しを迎えようと思っている。今年もあと三時間と少しだ。
おれはこの一年間、何をやってきただろうか。おれはそれなりに何かをがんばってきたのかもしれない。よくわかっていないが、「九折さんは超がんばっています」と言ってくれる人もいるので、そうかもしれないと思うことにしよう。いまごろ桑田佳祐さんとサザンオールスターズのメンバーは、NHK(どこのホールでやっているのか知らない)の控室で紅白の出番を待っているだろうか。おれのすべての友人は、いまみんなどこで何をやっているだろう。どうかダサいことであってほしい。ああいかんな、こんなことを書いていたら、だんだん書くことがなくなってきたぞ。
同日のブログ記事と連携してもらわないと話が視えないが、おれはこの年末に、ギリギリになってひとつの完成を得た。何の完成といって、二〇二二年のおれは完成した、としか言えない。内部的にはいろいろあって、本当にそれはひとつの完成を迎えたのだが、そのいちいちは書いていられないし、正直恥ずかしくていちいちは書く気がしない。おれはきっといま、ダサいということと、己の表示ということに、直接の関連があるということを直観しているのだろう。が、この直観を解き明かすのはさすがに今年のことではない。あるいは、解き明かさなくてもいいことだってあるだろう。学門は続く、もちろん学門は続くが、いいかげん暴走したような指先でキーボードを叩き続けるのはやめて、おれはそろそろ天ぷら蕎麦を食うのだ。何年前からだろう、おれは大みそかは天ぷらばっかり食うのがいちばん具合がいいと感じている。なんだ今年の大みそかブログは、食べものの話ばっかりになったな。
完成したおれは何をするか。このとおりダサいことをやるのだ、そのための完成だ。
学門はつづくし、ダサさもつづく。いやあ、女の子に笑ってほしいね。男同士は、無駄な話がしたい。強烈に無駄な話に、強烈な電圧をかけて盛り上がりたい。おれは楽しいことを必要としているのではない。おれは何も必要としていないのだ、必要といえばたまに夜中までやっている中華料理と気軽なカーシェアのレンタルなどだ。空いている夜中の国道とかね。
今年は大みそかに、あまり観るテレビ番組がない。このことも、逆に落ち着けていいものだ。というわけで、書くこともなくなったのでこのへんで。夜九時になって、いまちょうど窓の外で商店街の明かりがバツンと消えた。暗くなった商店街に急遽、見慣れない圧力が高まっている。新年が来るのだ。
おれの文章力って上がっているでしょ。どうでもいいか。それでは本年はお世話になりました、新しい年もどうぞよろしく。
二〇二二年一二月三一日 九折空也
[夜中までやっている国道沿いのどうでもいい中華料理屋/了]