No.418 優先席を老人に譲るな
南洋から運ばれてきたような外気の中で、夜更けに、わたしは何もかもが感動的だと思わされて、さまざまな思い出の輝きにシビれたり胸を苦しめたりしている。これが世界というのならわたしはこれからもこの世界の中へもちろん吸い込まれていきたい、わたし自身こどもなのか老人なのかわからないここちのまま、洋書と青空の区別もまともにつかずに歩いていたあのころのまま、あるいはいまこのときのままで。
日本には敬老という概念があって、敬老の日という祝日もある。この敬老の日というやつも撤廃して、礼節の日か何かに改めなくてはならない。
わたしはいまもこうやって生きている。きょう、目黒駅から夕暮れに原付自転車を走らせているときはとても不思議だった。誰かが調べてくれたらしい地球という天体の上にわたしはいる。環境のすべてはまったく把握していられないが、そのすべてを抜かしてもわたしはこうして生きているのだ。このことがわずかでもわかるというような日は来ないだろう。何もかも、わけのわからないままだ。ただ生きているのはわかる。誰に与えられたものか、あるいは課せられたものなのか、わからないが、わたしはその不思議の中を原付自転車で走ってゆくしかなかった。夕暮れは黄色くて風は冷たかった。
もはや、優先席を老人に譲ってはならない。胸の痛むことだ。腰の曲がった温厚な老婆が、何かの用事で東急東横線に乗り込んでくる。ささやかな外出でも息を切らしてドッコイセという声が聞こえてきそうだ。わたしはとっさに座席から腰を浮かせて、それとなく座席を空け、ドアのそばにでも立ってスマートホンをいじるふりをするだろう。いつまでもそのようにしていたいのだが、まったく不本意で悲しいことが、最もどうでもよいことの方面から押し寄せてくる。温厚なご老人たちには何の咎もないのは当たり前のこととして、そうではないことが押し寄せてきた。そしてそのことはもう防波堤を超える波高となった。われわれは退避せねばならない。
優先席は、高齢者や妊婦や身体障碍者、あるいは病気や怪我をされている人を、優先して着座させるためのものだった。人それぞれ体調や体力は異なるのだから、なるべくフェアにしようじゃないかということでその優先席は設けられていた。だがそれはあくまで優先ということであって、老人が偉いからそこに座らせているということではない。
一部の人たちにはどうしてもこのことがわからないようだった。重役が上座に座らされるということと、優先席を譲られるということの区別がどうしてもつかないらしい。
信じがたいことだが、彼らは威張って優先席の前に立ち、威圧してそこに着座している誰かを立ち退かせる。それは彼にとって、偉い自分が来たから賤しい者が慌てて立ち退くというような光景に見えるらしいのだ。自分は偉いからそこに優先的に座る。なかなか気分は悪くない。
そうではないのだ、それは人々があなたの体力の低下を労わってケアをはたらかせようと思って設置したものなのに……けれども彼はそのようには受け取らなかった。
優先されている自分は偉い存在なのだという誤解を吸収して膨れ上がることは、彼にとってやめられないことだったらしい。
これは敬老という概念のたまものに違いなかろう。それでは、敬老という概念は辞書には留めるとして、祝日に奉るというようなことはもう廃止せねばならない。
われわれはその祝日を廃止して別の祝日に書き換えると共に、堂々と宣言しなくてはならない、それも国民国家の総体として、
「われわれは老人を敬うのをやめます」
そもそも老人を老人であるというだけで敬うということに確たる根拠があるわけではない。聖書や仏典に敬老が説かれているわけではない。
部活動ではなるべく先輩と後輩という上下関係が保たれようとしているが、それはあくまで部活動という共有空間を栄えさせる主体を統合するための上下関係のフォームだ。つまり先輩と後輩は "構造" を為しており、敬意を払って接することまで含めてその部活動の形式になっているので、後輩は先輩に向けて露骨な――その部活の――敬語を向ける。
これと比較して、いま老人は若者に対する老人ではない。老人は若者とは何の構造も成しておらず、老人は孤立した浮遊物として老人だ。老人の側も同様に、若者らのことをさわがしく邪魔っ気な、カピバラの群れか何かぐらいにしか思っていないだろう。若者はなるべく老人を無視しようとしているし、老人のほうは、気に入らないときには割と露骨に若者に敵愾心の眼を向けている。
部活動における先輩後輩は、あくまでその部活動内の構造であって、だからこそ、野球部の後輩が水泳部の先輩を敬うという形式はない。
老人は違う。老人はただ、そこに突っ立っているだけで、他の誰に対しても敬われるということになっている。野球部も水泳部もこの老人を敬わねばならない。それで当然だとこの老人は思っている。もし若者たちがその敬いを怠るなら、老人はきつい舌打ちを鳴らして若者たちを罵るだろう。それが敬老という概念の生み出した成果物だ。
われわれは長いあいだ、この敬老という概念の中を生かされてきたので、麻痺しているが、すでに敬老うんぬんはいびつなものとなって、われわれの精神の円滑さ・健やかさを阻害するものになっている。
仮にNHKの討論番組で、「敬老の日を廃止しよう」という論が盛り上がったとする。「われわれは老人を敬うのをやめます」と無視できないほどの力強い宣言、明朗なほどの宣言がされたとする。
もしそのようなことがあれば当然リアクションもあるだろう。いくつかの抗議が入るだろうし、ある種の団体からも抗議が入るかもしれない。
だがそのとき、抗議を申し立てているのは老人ではなかろうか。あるいは老人の団体ではなかろうか。少なくともわれわれの空想の中にはその抗議者たちが老人として描き出される。若者たちの集団が抗議を申し立てるというイメージは湧かない。
ということは、すでに若者たちは老人を敬ってはいないというのが実態であって、敬老の概念は、概念としてわれわれに居座っているものの、敬老の精神が保たれているというわけではないということになる。
敬老の精神はすでにないということであれば、この先、その精神を勉めさせ強いるべきだろうか。
それとも形骸化を見て廃止するべきだろうか。
さらにイメージを湧かせてみよう。若いNHKのスタッフに、抗議で詰め寄る老人の団体がある。敬老の日を廃止するだの、老人を敬うのをやめますだの、公器が議論の俎上に載せることじたいが恣意的で許しがたいことだと。
そのとき、詰め寄る老人たちは、抗議とはいえ深い礼節の態度に満ちている方々だ、というようにイメージされるだろうか。
主張の方向はともかく、まず人々への慈しみと、自己の慎み深さがその双眸に看て取れる、敬愛すべき円熟の方々だとイメージされるだろうか。
そうではないものがイメージされるのではないか?
老人は、ただ自分が老人であるというだけで、他の誰より偉い、そう思い込んで精神の根底から威張っている、そして自分たちが正しいということだけは初めから絶対に動きようがないという前提がこわばった表情から滲み出ている、そういう映像がすでにわれわれの素直な想像力に描かれるのではないか。
古くからある敬老の概念を、粗雑に廃棄するということにはもちろんためらいを覚えるべきだ。
とはいえ、古くからある敬老の概念に対し、われわれが目撃しているものは、すでに古くからある老人の姿ではない。
われわれにとって敬老という概念の対象は、「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」という昔話に接続して思い描かれる老人だ。
ずっと口を半開きにしたまま、濁った眼で赤の他人のこちらをジロジロ見てくる、ぶしつけで距離感の壊れ方が不気味でならない、そういう老人のことを対象にしていない。
何につけ大きな怒鳴り声を出し、喉に絡んだ痰に轟音を立てて道端に吐き捨てる老人のことを対象にしていない。
もちろん老人のすべてがそうであるわけではない。多数の老人は、少なくとも表面的にはもっと温厚なものだろう。それを、一部の老人をもってすべての老人がそうであるかのように言い立てるのは不当だ。
とはいえ、それでいえば若い人たちもZ世代というひとくくりで言われているのは不当だ。若い世代のすべてが迷惑系で自己顕示欲求に狂っているというわけではない。そんな人はやはりごく一部でしかないだろう。
それでも若い人たちはZ世代とひとくくりにされ、ワイドショーで揶揄する話題に使われて、その不当な扱いに対する配慮は向けられていない。
それはなぜかというと、若い人たちは敬われていないからだ。
敬老の概念はあるが敬若の概念はないので、若い人たちは軽んじられている。
敬老の概念は不自然なものではないか。
もちろん、敬老の概念が不自然なものというのは、大前提のことであって、その不自然さが非難の対象にはならない。
なぜ不自然と言えるかというと、自然に発生するものであればその概念を取り立てる必要はないからだ。
たとえば誰だって病気にはなりたくない。誰でも病気を忌避しているということがある。ではここで病気忌避という概念を取り立てる必要があるかというと、これはその必要がない。その概念は自然に発生するものだから取り立てて言われる必要はないのだ。
よって、もし老人が自然に敬われるものなら、その概念を取り立てて造作する必要はない。
けれどもそうではないから、あえて思想としてそのような概念を取り立てて言っているのだ。
これは文化そのもののことだから、このことを根拠に敬老の概念を非難することは的外れだ。
そうではなくて、いま考えるべきは、これまで不自然さも含めての文化として、敬老の概念を取り立ててきたけれど、いますでにそうする必要はなくなってしまった、あるいはもう無理があるのではないかということだ。
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが、という世界は失われてしまった。われわれが前提にしていた老人たちはもういない。少なくとも、そうではない老人たちが露骨に周囲に目立ちすぎている。桃太郎を育てたおじいさんとおばあさんは海外旅行にご執心ではなかった。
老人に優先席を譲るのは、老人が偉いからではなかった。それは、公共移動にかかわる快適性がなるべく誰にでもフェアであるようにという意図のものであり、言ってみれば、つまりただの体力への気遣いでしかなかった。
けれども老人は、そのようには受け取らず、自分が偉いものだからその席を譲られていると思った。その思い込みは習慣になり、その習慣には、おそらくは快感や慰めの摂取も含まれている。
優先されることから、自分が偉いのだと誤解した、この誤解じたいは、年齢や世代に限定されない。たとえば歩行者と自動車ならその交通は歩行者が優先されるが、それは歩行者のほうが偉いからではない。歩行者が自動車に比べてか弱いからだ。公平性のためにか弱いほうをかばい、優先し、頑丈なほうを控えさせようという、これもフェアネスの精神のものであって、交通の場合はそこに安全保障が足されている。
このことについても一部の歩行者は、自動車に対して「自分のほうが偉いから」と誤解して、ふんぞり返ってその歩行をしているということがある。これも、優先ということと偉いということの区別がつかないでいる例だ。だからこの誤解じたいは年齢や世代に限定されない。
とはいえこれはあくまで交通の話だ。歩行者が自動車に対してそういう誤解をしばしば見せるというだけで、この歩行者がレストランに入ってまで歩行者として威張るというわけではない。
老人は違う。老人は朝から晩まで老人だ。
だからレストランに入っても老人として威張るということがありえてしまう。
役所の書類が、小さな文字で印刷されていると、老人にとっては見づらい、読みづらいということがあるだろう。その場合、「こんな小さな文字だと年寄りは読めないんだって」と老人は怒る。
役所の書類に、むつかしい熟語が使われていたら、若者にとっては読めない、意味が取りづらいというとがあるかもしれない。けれどもその場合、「こんな書き方されても意味わかんないんだけど」と、若者が役所の窓口担当をつかまえて "怒る" ということはあまりない。
若者は、個人として増長することはありえても、社会的に敬われるとは扱われていないので、社会的に威張るということを前提にはしていない。
われわれの敬老の概念は、老人は社会的に威張るものという風習を作り出してしまった。
あなたが中学生だったときのことを考えてみよう。あなたが中学生だったとき、もしあなたが学業成績で学年の五位になり、部活動でも県大会に出場して入賞したということがあったら、周囲はあなたのことをそれなりにちやほやするだろう。
そうしたらあなたは、思春期の自然なこころの浮き立ちようで、ちょっぴり得意満面、内心で少し鼻を高くして、帰路の足取りもついつい高く弾むというようなことがあるかもしれない。
ただ、だからといって、それで帰り道に立ち寄った商店で、レジ打ちの店員に対してあなたの態度が横柄になるということはない。レジ打ちの店員がベトナムからの留学生だったとして、その接客がたどたどしく、レジ打ちの作業が不慣れで遅滞するようだったとしても、中学生のあなたはレジ打ちの彼に対して見下すというような態度は持たない。そんな発想じたい中学生のあなたからは湧いてこないだろう。
老人は、最近に何の成績を出したわけでもないし、周囲がちやほやするわけでもないが、レジ打ちのベトナム人に煙草の銘柄を投げやりに言う。それでベトナム人の彼が戸惑うと、もう一度同じこと、煙草の銘柄を、こんどは大きな声で怒鳴る。
中学生のあなたは、せいぜい同級生に対してちょっと鼻を高くするだけで、その外側に対してまで威張り散らすというようなことはしない。その外側から敬われる由縁は何もないとわかっているからだ。
老人はそうではない、老人は他のすべての人から無条件で敬われると思っている。
企業の場合、重役に対して若い従業員がうやうやしい態度を取るのは、力関係の結果であって、つまり重役が若い従業員に対する人事権を持っているからにすぎない。もちろん正当には、その企業がそこまで発展してきたことについて、大きな功績があるから彼は重役の地位についているのであり、その結果として人事権を与えられている。そのことまで含めれば、若い従業員は人事権まで含めた重役に敬意を向けるということは、健全さの範囲においては素直にあってよいことだろう。とはいえこれだって、若い彼が別の企業に勤めればそのようなうやうやしさは必要なくなるし、重役の側も元従業員の彼にそのようなうやうやしさを要求はしなくなる。
老人はひょっとすると、本当にそのような人事権を持った重役のような気分で、毎日を過ごしているのかもしれない。漠然とした、世の中の重役。
彼は若く不埒な連中を見かけて、しかもその若い連中が自分のことを軽んじるような様子であったなら、内心で、
「この町から出ていけ」
と舌打ちしているようなところがあるのかもしれない。
もちろん彼にそのような、市民を加害していい人事権や執行権など付与されていない。この町から出ていけというような執行権は知事や総理大臣にさえ付与されない。付与されたとしても国民は憲法に守られてしまっている。
しかしそんなことはお構いなしに、とにかく敬老という概念があるのだから、彼は若いすべての人に敬われないかぎり不満と不快がおさまらない。
すべての人から敬われるということは、やはり自分は重役であって、重役ということは人事権や執行権を持っているのじゃないか。
彼は、自分に優先席を譲るかいがいしい者には町の居住権を与え、そうではない自分を軽んじるボンクラどもに対しては、居住権を剥奪して追放する、それが当然だという発想の中にいるのかもしれない。
このことは、重役といわず、専制国家の王ならその権限があるかもしれない。
あなたが玄関先を掃除しているときに、見ず知らずの老人がヌーッと寄ってきたら、あなたはどうするだろう。明らかに近すぎる距離で、せき込んだ老人の唾があなたの顔にかかりそうだ。
「あの、何でしょう? ご用事がなければ、どうぞお引き取りください」
これに対して老人がこう言いだしたら、あなたはどうするだろうか。
「なんじゃ、あんたは、わしを敬わんのか。わしはこの町の老人やぞ? 年上の人を敬いなさいって、あんた両親から教わらんかったんか!」
もしあなたの目の前に、二十歳の男が寄ってきて、オレを敬えなどと言ってきたら、あなたの頭の中にはすでに110番がうっすら思い浮かんでいるはずだ。あなたの眼にこの二十歳の男は、はっきりと危険人物と映る。
ところがこれが老人となると、あなたは110番の以前に「戸惑う」ということを起こす。
あなたの眼にこの老人は、危険人物というより「頭のおかしい人」と映る。
この場合、あなたに詰め寄る老人は、頭がおかしいのだろうか。
それとも、相手は老人だというのに、敬わないあなたの頭がおかしいのだろうか。
優先席を老人に譲るなといって、さらには敬老の日を廃止しろといって、そのような論が、どうしても慣習と衝突して、思考実験としてさえあなたには受け入れられづらいだろうということをわたしは予測している。
じっさいのこととして、与党が敬老の日を廃止する法案を提出し、それを礼節の日と改めるなどして、「われわれは老人を敬うのをやめます」と宣言するなどということは、いかに斬新でも、とてもにわかに押し通るものとは思えない。
そのことは織り込み済みで、それでもわたしはあなたに考えてもらいたいことがあるのだ。あなたがあなたの自身の魂を守るために。
あなたはどこまでも、優先席と老人のことや、敬老の日ということに保守的かもしれない。それでかまわない。
それでかまわないが、一方で、目の前に老人を置き、
「わたしはこれを敬います」
と言ってみなさい。
あるいはさらに、
「わたしはこれになりたいです」
と言ってみなさい。
われわれが抱え込んでいる敬老という概念の習慣が、片面ではいかに不具合を起こしているかが体感としてわかるだろう。
わたしは町で見かける老人を見て「これになりたい」とは思わない。
これは、わたしが老人に対して感情的あるいは生理的にネガティブなのではない。
つい先日、故人となられてしまったが、わたしは文学の師として大江健三郎氏を私淑し、生命の師としてムツゴロウこと畑正憲氏を私淑していた。現在もその私淑は変わらず、それどころか増すばかりで、もしかなうならこっそりと墓参りをさせてもらえないかと夢想している。わたしはその二人の師を立てて、わたしはこれを敬いますとも、わたしはこれになりたいですとも堂々と言おう。
そのわたしが、なぜ単なる年齢だけで老人に対して感情的ネガティブになり、席を譲らないなどと言い出すわけがあるだろう。
ワイドショーがZ世代をひとくくりに、一種のモンスター扱いするように、老人をひとくくりにして一種のモンスター扱いすることは、許されないことだろうか。
敬老の概念においては、許されないということになるだろう。若者をモンスター扱いするのはいいが、老人をモンスター扱いするのはだめだ。
なぜ片側はよくて片側がだめか、ということに理由はない。
わたしの言っていることがおかしなことに聞こえるという感触は承知しているが、それでもよくよく考えたところ、本当にわたしの言っていることはおかしいのだろうか。
もっとおかしなことが他に堂々と示されているかもしれないではないか。
本来の意味で言うなら、わたしが優先席を譲るなと言っているのは、老人に対してではなく、モンスターに対してだ。
優先席をモンスターに譲るな。
そして、優先ということが偉いということを誤解させ、敬老という概念がモンスターを生んだのだから、それじたいを廃止する精神を持たなければ、これに巻き込まれていくことは回避できないとわたしは申し上げている。
安易に女性に優先を演出するレディ・ファーストが、女性を真の淑女としたか、それともモンスター化することにはたらきかけたか、あなたはどちらに本心からの一票を投じるだろう。
このごろ、誰かが揉めて大声を出している、それも長々と……と思って覗き込んで見ると、揉めているのは老人だ。そういうことがずいぶん多い。
駅の窓口で、一方的に駅員に食ってかかっている誰かがいる、血相を変えて大きな怒鳴り声で。すると、やはりそれは老人だ。
コンビニエンス・ストアで、店員を怒鳴りつけている誰かがいると思ったら、やはりそれは老人だ。
道路脇で、小さな交通事故があったらしく、その運転手が揉めている。警察を呼んで保険屋に処理させるしかないはずなのに、何を大きな声でいつまでも怒鳴っているのだと思って覗き込むと、やはりそれは老人だ。
商店が店先に出している看板の位置が気に入らないからといって、高圧的な手紙を投函して位置変えを要求してくる、そういう手紙の主が高校生や大学生だった試しはなく、やはり高齢者だ。
近隣に保育園や公園があると子供たちの騒ぐ声がうるさい。そのことは誰だって思っているが、何かそのことで揉め事になっているらしい。揉め事になったということは、やはり老人だ。
あなたが友人とピクニックをしている。公園の芝生にシートを広げ、サンドイッチを並べて。そこに「あんたたち、どこの人?」と威圧的に誰かが絡んでくる。そういうのも、やはり老人だ。
もちろん必ずしも老人だけがそのような圧迫行為をするわけではない。超高齢化社会の中で、単に数的割合が老人に偏るという理屈もとうぜんわかる。でもそれでも老人だとわたしはこれまでの体験から思う。接客業の人たちにアンケートを取ったらどのように回答されるだろう。老人が立場を利用して圧迫行為を仕掛けてくるという傾向は本当にないと言えるだろうか。
あなたが荷物の積み下ろしに、車を停車させていたとする。道幅は狭く、後ろからやってきた自転車はその通行を阻まれることになった。あなたはすぐにその車を移動させなくてはならない。
そのとき、その自転車に乗っているのが若い人だったら、
「すいません、ちょっと通してください」
と、頭を下げてあなたに言うだろう。
その自転車に乗っているのが老人だったら、
「通れねえじゃねえか!」
と、怒鳴ってあなたに頭を下げさせるだろう。
品質を下げた言い方をするなら、老人はいつも「ブチギレ」ている。
ブチギレて、常に人を攻撃している。
常に自分の正義を強く膨張させ、人を攻撃している。
攻撃の理由はホルモン物質、脳内物質のせいだ。
体内に、常にそのブチギレホルモンが巡っていて、イライラ、ピリピリ、ムカムカ、神経が焼けており、その内圧はわずかでも気に入らないことがあればそれをトリガーにしてバッと外部へ放出される。放出のほとんどは憤怒、激怒だ。
すべての老人の人生が成功したわけではない。
また、外形的には成功していても、直接のさびしさからは逃れられないという場合もある。
そして老人と若者の違いは、老人にはもうやりなおしの機会は与えられていないということだ。
失敗した人生でも、やりなおしの機会はもうないのだから、そのままそれを自分のものとして抱えてゆかざるをえず、また現在の毎日にあるのがひたすらのさびしさであったとしても、やりなおしの機会はもうないのだから、そのさびしさだけを抱えて死期を迎えなくてはならない。
老人は、自分が死に向かっていることを知っている。
それは若者が、やがて死ぬ・いつか死ぬと思って生きていることとは性質が異なる。
若者だって長生きしたいという願望は持っているかもしれないが、それは生が主題の長生きだ。
老人の言う長生きは違う、老人の言うそれは、可能な限り死を後回しにするということであって、生が主題ではない。
それでいて老人は、口ではどのように言っていても、自分が本当に今月や来月のうちに死ぬとか、今年のうちに死ぬとか、そんなことは思っていない。
すでに主題は死に移っているのに、矛盾して、当人の感覚においては、やはり自分はどこまでも生き続けるような気がしている。
若者と老人の話が合わない根本的な理由がこれだ。
若者は「いずれ死ぬんだけどさ」という前提で、生を主題にしている。
老人は「いつまでも生きる」という前提で、死を主題にしている。
老人はいつも病院と病人の話をしているが、老人にとって病院は死ぬところであり、病人は死ぬものだ。
若者は、友人がやっと退院したということを話題にするが、老人は、知人がやはり退院できずに死んだということを話題にする。
それは、死という主題を他人に押しつけて、自分の気を楽にしようとしているということでもあるのかもしれない。
老人の主題は死であって、矛盾したことに、その主題から目を逸らすことまで含めて主題になっている。
日曜日の夜のサラリーマンが、月曜日を主題にして「仕事に行きたくないなあ」と言い、月曜日から目を逸らすことまでを含めて、けっきょく月曜日を主題にしているということのように。
主題が移行したサラリーマンは、日曜日にいながらすでに月曜日にいる。
それと同じように、老人は生きながらすでに死にいる。
いかにして目を逸らすか?
全身にガチガチに力が入っている。
誰だってそうだろう、ジェットコースターが怖くて苦手な人は、ジェットコースターに乗っているあいだ、全身に力を入れてガチガチにしているはず。あるいは搭乗口に並んでいるときからそのガチガチは始まっているだろう。
怖いものに対する防御反応だが、それ以上の意味もある。
死から目を逸らすためにはどうすればよいか。
変化がなければいい。
昨日と同じ今日、昨日と変わらない今日なら、今日は死なないはずで、明日も明後日も同じ日が続き、変わらない日が続くなら、人はずっと生き続けられる。
死というのは、昨日とは決定的に違う日がやってきた、そのときにおとずれるはずだ。
今日が昨日と同じ日であるためには、まず自分の意識が変わらないように固めておく必要がある。そのためには全身も固めておく必要がある。
世の中もずっと変わらないものである必要がある。
何もかもが変わらないなら「大丈夫」だ。
何もかもを固める必要がある、それで、何もかもがガチガチになる。
肺も横隔膜もガチガチなので、呼吸も浅くなり、気が短くなり、穏やかでなくなる。
目つきも声調も剣呑になるし、万事の判断力も下がっていく。
そうして全身および全神経がずっと強度のストレスの中にあるという状態になるので、アドレナリン等、相応の脳内物質が出つづけ、内部は焼けてしまい、その焼けこげで内圧は高まり続ける。
すると、どんなささやかなことでもトリガーになって、その内圧のガス抜きが起こる。
「すいません、ちょっと通してください」と言えば済むところでも、カッとなって、「通れねえじゃねえか!」という怒号が出る。
人の怒りは本来、尊厳への侮辱や、その他の悪質さに向けて発されるものだ。
たとえば、ネギを買いに行ったら売り切れていた、というようなことは、侮辱ではないし悪質でもないので、人は本来そんなことで怒りを覚えない。
「ありゃりゃ、残念」というだけで済むことだ。ネギがないのは困るけれど、しょうがない。少しふてくされはするかもしれないけれど。
「あー、今日はもう、ネギは売り切れちゃっていますね、ごめんなさい」
「エー、そうなの」
「申し訳ないです」
「……ったくよお! なんで、もっとちゃんと仕入れておかねえんだよ!」
「……は? すいません」
「こっちはよお、買いに来てんだよ、金出してよ、そんなこともわかんねえのかよ」
もともと体内にブチギレホルモンが巡っている。
かといって、さすがにネギが売り切れということにブチギレるというのを、論理的あるいは価値観的に正しいと説明はできない。
にもかかわらず、じっさいにそのブチギレは放出されているので老人の脳内は混乱する。
自分はなぜ一方的に憤怒しているのだろう?
ここで敬老の概念が出てくる。
自分は老人で、敬われる、偉い存在のはずだ。世の中もわからん青二才どもとは格が違う。
そこで老人は「説教」を思いつく。偉い存在は教えを説くものだろう。
「ちゃんと、客が必要なぶんを見越して仕入れておく、それがあんたたちの仕事で、あんたらそれで商売しているんでしょうが!」
「……はあ、申し訳ないです」
大きな声に、周囲も注目している。その視線は老人に対して、
(何言っているんだコイツ)
という嘲笑を向けている。その視線に呼応して、責められている店員もどこか余裕をもって半笑いという気配だ。
老人はいま尊厳を侮辱されている。誰も自分を敬っていない、それどころか小馬鹿にしている。
老人は激怒のまま、
(こいつらはダメだ、客が困っているということもわからない、敬老の精神もわからない、賤しくて低俗な連中だ)
と考える。
こうして老人の中で、自分の憤怒は正しいものと説明がついた。
もともとは、体内にホルモン物質が巡っていることから生理的に激発した憤怒だったけれど、そのようなことを人の感覚は自覚できるわけではないので、それは精神的なものだと当人は思う。
「怒りたくて怒っているわけじゃなくてねえ、怒ってやってんの。怒られるうちが華だと思いなさいよ。あと怒っているのじゃなくて、ちゃんと教えてやってんの。両親とかがちゃんと説教しないから、代わりに説教してやっているんじゃないか。こんな疲れること、こっちがやりたくてやっているんじゃないんだよ」
老人は帰り道、電車に乗った。すると、教えられたマナーに忠実な制服姿の女子高校生が、すっと席を立って、少女のほうが遠慮がちに、
「あの、どうぞ」
と席を譲ることを申し出た。
老人はハーとため息をつき、いちおう小さく頭を下げて、
(こうしてまともな者はいいが、そうでない者は本当にだめだ、ハー、お嬢ちゃん、生きるのって疲れるね!)
と愛想よく思った。
少女から敬老の態度を向けられて、老人は強い{癒し}を体験する。
(世の中みんな、わしとこの女の子のように、まともな者ばっかりだったらいいのに、なあ!)
駅から自転車に乗って、自宅へ帰る途中の路地、荷物の積み下ろしで道路をふさいでいる車があった。ハザードランプが焚かれてトランクが開け放されている。
車はほとんど道路いっぱいで、残された隙間は自転車が通れるほど広くなかった。
運転手は慌ててトランクを閉め、
「あ、すいません、すぐ動かしますんで」
と運転席に急いだ。
老人は体内がメラメラと焼けてきて、その内圧がバッと噴き出す形で、
「こんなとこ停めたら、通れねぇじゃねえか!」
と怒鳴った。
老人はこの日、死の主題からずっと目を逸らすことに成功した。
テレビ番組に毒づきもし、知り合いの不手際について受けた電話連絡にも「エー!?」と強く非難の声をあげて、脳内物質を出し続けることで、彼は一日中、死の主題から目を逸らし続けることに成功した。
つまり彼は、
1.憤怒を噴き出す
2.それが敬われれば癒される
3.それが軽んじられれば説教をする
というメカニズムで、死の主題から目を逸らし続けることができると学習した。
これまでの人生について、やりなおしの機会はもう与えられないのだから、このまますべてを抱えて死んでいかなくてはならないということ、また直接のさびしさから毎日逃れられずそのまま死んでいかねばならないということ、それらのすべてから目を逸らすことができるメカニズムを学習した。
このメカニズムは彼にとって不可欠の、手放すことのできないメカニズムとなった。
あなたは「これになりたい」と言えるだろうか。
わたしは「これになりたい」とは言えない。
「これを敬う」と言えるのか。
わたしは「これを敬う」とは言えないが、「これを考える」とは言おう。
以前わたしは、「素の人と、エンジェルL」という話を書いた。
Lを注入すると、自分の尊厳がただならず強化されるが、Lが失効すると、LはSに転じて、すさまじい憤怒が起こる、という話をした。
われわれが「むかしむかしあるところに」という話から想起するおじいさんとおばあさんは、素(す)の人のそれだろう。素のおじいさんと、素のおばあさんだ。
それに対する敬老というならわかるのだけれど、われわれが現代で目撃しているのは、素の老人ではない。
Lの一種といえる、いわば「敬老中毒」が老人たちに満ちたのじゃないか。その満期がついにきたのじゃないか。
あなたはこれまでに学校の先生を複数見てきているはずだが、かなりの割合で、学校の先生には変な人が多かったのじゃないか。
わたしは経験上、「先生」と呼ばれるようになった人は、多くがだめな人になると考えている。
あなたは思春期のころは先生なんて呼ばれなかったし、わざとらしく敬われるなんてことはなかった。
だからあなたは思春期のころ、どれだけキャラを作ってもどこか素の人のままで、自分が向き合わされる主題から逃げる方法を知らなかった。
主題に向き合わされて逃げる方法がないから思春期なのだろう。
主題から目を逸らしたいときは誰でもある。日曜日の夜にサラリーマンは、月曜日という主題に支配される。そのことから目を背けたい。思春期の少女だって、恋あいのことや将来のこと、自分が美人か不美人か、自分の家が金持ちかそうでないか、あの子はけっきょく友達かそうでないか、自分は卑怯者なのではないか、そういう主題に支配されて、苦しくてそのことから目を背けたいと何度も感じてきただろう。
そんなとき、無条件に敬いを受けたら、主題のことはいったんどこかへ消える。先生なんて呼ばれたら主題は消える。「どうぞこちらに座ってください」と上座を与えられたら主題は消える。人は敬われると浮かれるのだ。尊厳が上昇し、浮かれて、主題から目を逸らすことができる。
そしてその浮かれるホルモンが失効すると、尊厳は下落するわけだから、それが侮辱的に感じられて、激怒が起こる。尊厳ホルモンは激怒ホルモンに転じると捉えていい。
敬老という概念はこれまで長いあいだ無自覚にわれわれに浸透していた概念だった。
どれだけかつてはまともだった概念でも、それが一部の誤解勢力に悪用されるようになれば廃止せざるをえなくなる。
あなたが中学生だったころ、特に公立中学校だったら、あなたの周囲は全員が優秀で快活というわけではなかったはずだ。
中には、何をさせてもとろくさく、箸にも棒にもかからない感じで、ずっと弱々しく情けない顔つきをさらけ出していた、そういう同級生だっていたはずだ。
彼が加齢していって老人になれば、それだけでただちに誰からも敬いを受けるに足る人物になるのだろうか。
それはいささかおかしすぎる話だろう。
哲学的な意味でなく安直な意味において、残念ながらすべての人の人生が成功するわけではない。
何をしてもとろくさく、箸にも棒にもかからず、ずっと弱々しく情けない顔つきで生きてきた、そういう人だってたくさんいるはずだ。彼らも老人になる。彼らはきっと自分の人生を成功とは感じておらず、あるいは、人生と呼ぶべきものじたいがまともになかったというふうにさえ感じているかもしれない。それはとてもさびしいことだ。さびしくてつらいことで、このことは若者の想像できる範囲にない。
現状がさびしくてつらいのではなく、すべてがさびしくてつらかったのだということ、それをもうやりなおす機会は永遠に与えられないのだということ、それらのすべてを自分のものだと抱えてゆかねばならないということがさびしくてつらい。本当にこのまま死なねばならないというのがさびしくてつらい。本当にこのまま死ぬということが、わかっていても、さびしくてつらくて耐えられない。
であればせめて、死がやってこないように、違う日がやってこないように、すべてをガチガチに固めるしかない。昨日と同じ日がやってくるぶんには、死はやってこないだろう。「大丈夫」の日だけが続いていくはず。
彼はひょっとしたら、自分が天国にいくかどうか、というようなことも考えているかもしれない。天国に行くか浄土に行くか、あるいは無宗教者は、これまで考えてきたように「無」になるか。
これまで、死んだら「無」になると考えてきたのだとしたら、そのこともいまさら変わるわけにはいかない。いまさらなにもやりなおしは利かないのに、いまさら死んでも無にはならない、しかるべきところに往かされるのだとなったら、ますますその恐怖には耐えられない。これまでずっと、死後の世界なんてことは馬鹿にして、侮辱してきたのだから、もしそんな死後の世界があるのだとしたら、自分は祝福を受けない先へ送り込まれるだろう。
そんな、これまでと違うことを考えてはいけない。これまでのとおり、死んだら無になるのだと、ガチガチに固めておけ。気の迷いか、直観か、へんなささやきが自分に入り込んでこないように。
死後の世界があると考えてきた人は、おおむね、自分は天国側へ招かれると思って生きてきているものだ。それはそうだろう、そうでなければ死後の世界など信じる気になれないというのが、われわれの小さくあさましい性根だ。もし神がいるのであれば、神はとっくにそのこともご存じだろう。
自分は天国に招かれるであろうということ、このことも、今さら変わってしまってはいけない。だからガチガチに固めておかなくてはならない。主題が死に移行して以来、以前とは異なるささやき声が直観に聞こえる気もするけれど、気の迷いだろう、そんなのに耳を貸してはならない。そんな気の迷いが起こらないよう、ガチガチに固めておくしかない。
そうしてガチガチに固めねばならないのだから、昔話に出てくるおじいさんやおばあさんのようにはなれない。
あるいはこれまでに、直観に聞こえてくるささやき声に耳を傾け、するべきことをし、あるべきようにあることへ踏み出していたら、この死の主題に対して屈託なく向き合うことができたのだろうか? もっと早くから、つまり、自分が老人になる前からそのことに踏み出していたら。
そんなことについては誰も回答できないだろう。宗教かぶれになったところで良いことになるわけではないということは、われわれは生きているうち、いやがおうにでも知らされることだ。
若いころから、何をやってもとろくさく、箸にも棒にもかからなくて、ずっと弱々しく情けない顔つきで生きてきた。そのまま加齢して老人になった人もいる。
彼が生まれて初めて敬いを受けたのは、ひょっとしたら老人になってからかもしれない。あるいは、それは敬いというわけではなかったのに、彼がそれを切望していたことから早まってそれを「敬い」だと誤解してしまったのかもしれない。これまでに一度もそうして敬われるということがなかったので、彼はそれに飛びついてしまったということはありうることだ。
電車に揺られている何でもない日。しょぼくれた老人でしかない彼に向けて、若く溌剌とした少女が、
「あの、どうぞ、よければ座ってください」
と呼びかけた。
少女が席を空けて、自分に向けて座ってくださいと申し出ているのだ。
そうか、自分もそんな齢になったのだと、複雑な思いも少ししたが、若く溌剌とした少女が赤の他人の自分に向けて、彼女のほうが照れくさそうに言いだしてくれたというのは、生まれて初めてのことだった。
彼はその時、これまで否定してきた自分の人生が変化し、少しだけ、生まれてきてよかった、生きてきたことは悪くなかった、と感じた。
敬いを受けることはありがたいことだ、と彼は思った。
同時に、
「おれだってまあ、こうしてしっかり齢を取って生きてきたわけだし。そのへんは、さすがに若い人とは違う。そこはそれなりに敬いを向けてもらって当然ではある」
と思った。
そして悪びれずに、堂々と譲られた席に座らせてもらうことにした。
彼は自信と自負を持った大人になったような気がして、電車に揺られて眠った。
その次に彼のところにやってきた敬いの使者は、若い男性だった。きっちりとした身なりで、若く明るい笑顔を屈託なく向けてきて、彼はやはり自分のことを「さすがご立派なものですよね」と敬ってくれた。
彼は節度というものをよくわかっており、どこまでも「若輩の自分では何もかも敵わないですよ!」と、自分を下げて老人を敬った。彼は、若いのに感心な男と思えた。それでこちらも、ふだんは言わないような自負のことを、説教として話してやった。
「若いうちはね、どんなことでも苦労するべきなんですよ。それがやがて、すべての肥やしになっていくんですから」
「わあ、そう言っていただけると、本当に励みになります。そんなことねえ、いやさすが、わたしのような者は、思いつきもしないんですよ! あははは」
だがその男は詐欺師だった。
こちらが敬いに飢えているということを詐欺師の男は的確に見抜いて、だますというよりは篭絡して契約書にサインさせた。
騙された側はそれを数年間、詐欺だと認めることさえできなかった。
なぜならその訪問販売の男は、その後いっさい顔を見せないにしても、連絡もつかないにしても、商売を抜きに、自分を敬ってくれたのだから。
やはり生きていてよかったと思わせてくれたのだから、こちらの自負を肯定してくれたのだから。
優先席を譲ってくれた少女と同じ、人を敬うということを知っている、いい子だよ。今回は、ちょっとした行き違いはあったのかもしれないけれど、あの彼はそう捨てたもんじゃないよ、自分は彼に直接会ってやりとりしたのだからよくわかっている。
「どういう商売かわからないけれど、彼は、そんな悪いことをしたわけじゃないと思うよ、たぶん何か事情があったんだと思う」
契約書を咎めて詐欺だと言い立ててきた親戚に対して、彼自身がそうして言い訳をしてやるほどだった。
しかしそのガチガチに固め抜こうとした思いも、ついに砕けてしまった。夜な夜な、テレビを消して静まり返ったあとに、「そうではないんじゃないか」という直観のささやき声が聞こえる。そうなるといつまでも、その思い込みを固め抜いていることはできない。
思い込みが砕けてしまうと、自分がどのように詐欺師に操られたものか、その屈辱ごとありありと思いだされて自分に突き刺さる。
なんて自分は操られやすいのだろう。
ウソだとわかっていても、「敬い」を突いた甘言を弄されると、それにホイホイ乗っかっていく、そういう自分がいるのが手に取るようにわかる。
詐欺師から見てもそれは手に取るようにわかるものだったのだろう。まるで「こんな人、何十回でも騙せますよ」と笑えてたまらないというふうに。
全身の細胞から炎が噴きあがった。それは憤怒の炎だった。
怒りの収まらぬまま、彼は酒を買いに出た。小雨が降っていたので傘を持って出た。
道中、電柱に捨て看板が掛けられていた。違法のもので、何の許可もなく、ごみが放置されているのと同じだ。
「あー、勝手にこんなもん置きやがって!」
気づくと自分はそう怒鳴っており、手に持っていた傘でその捨て看板を殴っていた。
「こういうこと勝手にしたらだめだって、なんでわからないのかな!?」
このとき以来、自分が生きてきてどうであったかというような観念は消えることになった。
わたしはもうこれ以上、こうしたえげつない声がどこかから鳴り響くのを聞いて、
「また老人か」
と思わされるということを、繰り返し体験したくない。
特定の目つきをして赤の他人に突っかかる老人に対し、
(自分が偉いと思い込んだまま止まれなくなっている)
と看取するということをしたくない。
老人が若い人に向けて大声で何かを言っているのを見て、
(当人は説教しているつもりだが、あれはただ自分の思うことを怒鳴っているだけだ)
(そもそもこの老人は、教えを説いてほしいと誰かに頼まれたなんてことは一度もない)
というようなことを考えたくない。
(その女性はあなたが金払いと投資をするからあなたの相手をしているだけだ)
(金払いなしにあなたの隣に座っていたいという人は誰もいない)
とも考えたくないし、
(世の中の重役だと思い込むことで死の主題から目をそらしている)
とも思いたくない。
(敬老の概念がますますこの老人を行方不明にしている)
ということをこれ以上目撃したくないし、ひいては元々のところ、
(優先席を譲られたのは、あなたが偉いからじゃないんだってば)
という、子供に諭すようなことをこれ以上内心でつぶやきたくない。
社会的、現実的なことはいったん置こう。わたしは小説家なので、新しい世界のモデルをあなたの想像力に描かせている。v
敬老の日が廃止され、国民国家として、
「われわれは老人を敬うのをやめます」
と宣言する。
そこから、
「優先席を、老人に譲るのをやめましょう。老人が、自分は偉いのだと誤解してしまうからです」
とアナウンスする。
わたしがこのような話をすることは、それだけで許されざることになるのだろうか。
世の中の老人の誰ひとり、わたしのことを敬ってはいないだろうという当然の感触の中で、わたしの側だけ老人を敬うのをやめたら断罪されるのか。
それが「敬老」か。
このときわたしに対して高圧的でない老人など現れる気がしない。
電車の中で女性が顔面に化粧をほどこしていたとする。それは麗しい光景ではないかもしれないが、それを咎める老人がいたとして、この老人は自分の思うさまを暴力的に怒鳴り、それを、
「説教してやっているんじゃないか!」
と言い放ってよいのか。
老人がそうして暴力的に激発することを、老人のことだから「まあまあ、しょうがない」と寛容さで捉えるのか。
それが敬老か。
「まあまあ、しょうがない」というなら、女性が化粧をしていることのほうをその寛容さで捉えればよかったじゃないか。
少なくともわたしは、電車内での女性の化粧より、老人の暴力的激発のほうが見たくない。
われわれの持っている敬老という概念はいったい何なのだ。
敬老とは言っているけれど、電車内でつい化粧をしてしまったその女性と、暴力的に激発したその老人とで、もしあなたがどちらかの食事に相伴しなくてはならないとしたら、あなたはどちらを選びたいのか。
そこで老人のほうを選ばないようでは敬老は支離滅裂だ。
あなたがその暴力的激発の老人に個人的に相伴して、その老人から説教をたまわりたいと望むというのが敬老だろう。
これでは敬老という名のもとに、じっさいは、<<触れると危険な老人というモンスターに対する、ていのよい言い回し>>が横行しているだけということになってしまう。
ぜひご一緒させていただきたい、説教をたまわりたいんですと、敬老の台詞を詐欺師だけがヌケヌケと言うということになってしまう。
まともな若者のうち、老人に席を譲るというようなことに、抵抗を持つような者は誰もいない。皆、「身体の弱い人、お年寄りが座ればいいっしょ」と単純に思っている。
そこで、まさか老人の側が、それを「自分が偉いから席を譲られている」と誤解するとは、若者のほうは唖然とするのじゃないか。
バレンタインデーに義理チョコをもらえるのは、自分が偉いからでなくて、ただ自分が共同体に所属する男性だからじゃないか。
そんなことだって、まさか誤解する人が続出するなら、風習は廃止されるだろう。
われわれが生きているうちに偉くなるのは、年に一度、誕生日の当日だけだ。
そのときは、偉いからケーキを振る舞われていると思ってよいし、偉いからプレゼントを与えられていると思っていい。誕生日のあいだだけその人は偉いのだ。誰だってその日だけはセレブリティなのだから。
同じ考えで、年に一度の敬老の日、その日だけ老人が優先されるということなら、敬老の日は残されていい。そして敬老の日なら、優先席を老人に譲っていいだろう。
子供の日だけ子供が偉くなることのように、敬老の日だけ老人が偉くなるというならかまわない。
現状は年がら年中、365日が敬老の日じゃないか。
それならもう敬老の日を廃止したほうがいい。
わたしはひどいことを言っているようだが、まさかの未来にはもっとはるかにひどいことがありうる。
現在のように、逸脱した老人が、あちこちで若年者に向けて怒鳴っている。それも、自分に有利な立場を利用して。
自分のホルモン物質を発散するまま、自分の思うことを一方的に怒鳴りつけて、「説教してやっているんじゃないか」と臆面もなく言う。
そうしたことがさらに悪化していく先、街のあちこちに、「老人を殺せ」というスプレー書きが見つかるようになる。
テレビドラマの話をしているのじゃない、人類の歴史は、これまでにさまざまな革命や紛争、それにかかわる虐殺を体験してきている。
未来に絶望したZ世代が、自らのうちに「キラーZ」という風潮をつくり、じっさいに暴徒となって暗躍を始める。
どこどこの老人が最悪で、マジ死んでほしいというタレコミが、キラーZ本部のメールボックスに届く。
日本の警察力は低くないから、そんなことで殺人事件をしたらすぐに捕まっちゃうでしょ、と誰もが考えるだろう。そのとおりだが、それは治安が守られている状態に限定される。
われわれは長年、治安を失った状態を体験していないので、そのことに対する想像力がはたらかない。
「老人を殺せ」といって、そのような事件がほうぼうで、二百件も三百件も起こるようなら、警察はそんな数の事件を追いきれない。
しかもキラーZたちは互いに互いのことをかばうし、匿うのだ。追いきれるわけがない。
たとえアジトを見つけたって、ここまで状況が進んだ場合、キラーZたちは警察に対して武力で反撃してくる。たとえナイフ数本の武装であっても、それはただ拘束されるだけの犯人たちとは大違いだ。彼らもインターネットで検索してお手製の軍事訓練をするだろう。そこに警察官が拳銃一丁ごときで突入しようものなら、警察官の側がバタバタ殺されていく。警察官が殺されたあげくに犯人は逃げ切ってしまう。そんなことを許すわけにはいかないので、そうした武装勢力に対しては大きな戦力と入念な計画を整えてから突入しなくてはならない。だから一件ごと逮捕するにもたいへんな労力がかかってしまい、それを何百件も捜査して逮捕していくなんてのは物理的に無理だ。
やむをえず、警察は老人に対して「自衛してください」「なるべく外出しないでください」「人に恨まれないように行動してください」というお触れをだすようになる。
キラーZが老人を殺すと、その溜め込んだ財産は次の世代に相続される。次の世代はお金を使う先が老人とは違うから、その経済的な効果も世の中の実態へ反映されてくるだろう。若い側へ経済的な潤いが流入してくる。そうなるとキラーZは、その犯罪性も知られながら、世の中を明るくする人気者、「義賊だ」とまで言う向きが出てきて、警察はますます彼らを追うのが困難になる。
こんなことは起こってはならないことだが、人類の歴史は、革命や虐殺や紛争がしばしばこのような、まるで作り話のような起点から始まったということを記録している。
公共の場ではしゃいで騒ぐ、うるさい子供がいたとして、その尻を怒れる老人が杖でバシンと叩いたとする。老人は理性的なふりを保とうとしているが、内心で激昂しているのは透けて見える。叩かれた子供は痛みと恐怖でパニックになり、大きな声で泣き始めた。
そのことについて、
「やりすぎだとは思うけれど、ある意味しょうがない、ちゃんとしつけをしていない親が悪い」
「犯罪だから問題はあると思うけれど、正直、もっとやってやれと思う」
「ここで食い止めないと、子供らもバカになって不幸になるし、世の中がめちゃくちゃになっていってしまう」
「むかしの教育ってもっと厳しかったしね。いまの子供は甘やかされすぎ、こんな小突いたていどで大騒ぎするほうがおかしい」
「こんなわがままなガキ、シバかれてざまぁとしか思わない」
「しょうがないよ、そんなことしていたら大人の力でゴツンとやられるって現実を教えてあげないと」
という声があがる。
老人の行為をどう捉えるかについて、背後から敬老の概念も作用している。もちろん「こんなの子供にしてみたらただの暴力でしかないよ」という声もあろうけれど、その両者は対立して止揚はない。
いっぽう、公共の場で怒鳴り声をあげ、憤怒のまま他人に突っかかっている、ひどい顔の老人がいたとする。その背後に覆面をした若者たちがやってきて、その老人の背中を、特殊警棒でガツンと殴った。
老人が振り向くと、若者たちは三人組で、着ているそのトレーナーには、
「老人を殺せ」
と書いてある。
これについてはどのような声が上がりうるだろうか?
「やりすぎだとは思うけれど、ある意味しょうがない、感情管理ができていない当人が悪い」
「犯罪だから問題はあると思うけれど、正直、もっとやってやれと思う」
「ここで食い止めないと、この老人自身も不幸になるし、世の中がめちゃくちゃになっていってしまう」
「むかしってもっと厳しかったしね。いまの老人は甘やかされすぎ、こんな小突いたていどで大騒ぎするほうがおかしい」
「こんな迷惑なジジイ、シバかれてざまぁとしか思わない」
「しょうがないよ、そんなことしていたら若い力でガツンとやられるって現実を教えてあげないと」
過去、さまざまな革命や虐殺や、紛争が人類の歴史にあって、そうした殺戮の行為は、遠く離れた他人事としてはひたすら野蛮な、流血の罪の行為としか思えないけれど、当事者たちにおいてはそうではないということがあった。
犯罪かどうかということは、治安の保たれている中でしか機能しない。誰も現在のアメリカで横行する集団強盗について「それは、犯罪ですよ」と諫めようなんて思わないだろう。
犯罪がどうこうだって? そんなことはどうでもいい、ただ今ここでこいつをブッ叩いても、<<霊的な罪悪感は覚えない>>。それが正直なところだ。それどころか魂の誇りを取り戻して輝かしいとさえ感じる。みんなも正直になったらどうだ。
外部からどのように言われようが、知ったことではない、われわれは自己の魂の誇りに殉じるだけだ。真に勇敢になるつもりのない恥ずべき者らの寝言など聞き入れるつもりはない。
そのように体験されるとき、またそのような体験が呼応して連鎖的に起こるとき、人は集団的に大規模な殺戮を起こす。
特殊警棒で背中を殴られた老人は、さらに激昂して、その若い三人組に掴みかかった。
この老人はけっきょく、最期まで、自分は敬われる側であって、他者から本当の攻撃を仕掛けられることはないと思っていた。
自分は説教をする偉い者の側で、ときにはその説教は力ずくにもならざるを得ないのだと、自分の内部で説明していた。
目の前の若い人たちが戦いに来ていたということは最期までわからなかった。
覆面の三人組は、想定して訓練しておいた通りの攻撃をした。老人がそうした反撃あるいは反抗に出てくることは彼らの予測の範疇だった。老人は打撲と骨折、内臓破裂などで病院に運ばれ、その後に合併症が出て死亡した。
そうしたことが日本中で連鎖して起こり、件数が増えすぎてやがて警察機構は対応しきれなくなった。
覆面の三人組は外国のサーバーを経由して動画を配信した。
「いやあ、僕もむかしは、優先席を老人に譲るような奴だったんですよ。単純に、お年寄りって身体がたいへんなんでしょ、って思ってね。初めからそういうもんだって思っていたから」
「あー、おれもふつうにそうだったわ」
「わかるわかる」
「でもなぜか、そういうお年寄りはね、なんでかねえ、僕に説教するんですよ!」
「ぎゃははは、それ超わかる」
「あるある、ありすぎる。超汚い声で、いきなり怒鳴られる笑」
「ね? それで僕は、なーんで説教されなきゃいけないんだろうって、なんでこの人、赤の他人の僕に、見ず知らずの僕に、初対面からこんなに威張ってんだろうって、不思議でしょうがなかったんです」
「あー、そういうのはさ、席を譲ったりすると、席を譲られた側が『おれ偉い』ってなるんだよ。席を譲った若い奴に対して、感心感心って思って、下に見るのが彼らの常識なんだよ」
「でもその発想ってヤバいよね? こっちは気を遣って優先しているってつもりなのに、それが向こうではおれ偉いってなっちゃうっていう」
「もともと敬老とかいう概念があったからね、しょうがないんじゃないの。まあそのへん、もうどうでもよくなっちゃったということだけど笑」
「そう、確かに、もうどうでもよくなっちゃった」
「いま、この『老人を殺せ』が、すごい広くに共鳴していて、そりゃそうだよねって空気が充満しているんだけど、これって正直、おれたちがもう老人を敬うのイヤです、やめますってだけで、もし老人が威張るのをやめてくれたら、僕たちもやめまーす」
「うん、でも、やめないよ彼らは。誰に対しても前もって威張るのは、もう彼らの本能みたいになっちゃっているもの」
「あー、いまこのときも、威張っているだろうね。どこまでも自分が正しくて、お前らが絶対悪いんだっていう」
「ぜったい逆に、威張るの加速してるよ」
「はい、僕もそういうわけで、そうなってくれたらいいなーとは思うんだけど、無理だろうなってぶっちゃけ思ってまーす。ではまたどこかでお会いしましょう、バイバイ」
優先席を老人に譲るな、という過激なタイトルで今回は書き話した。
そのことには、単にその過激さと斬新さで読み手の関心を惹こうとしたというありふれた作為もあるのだけれど、それ以上に本心から、わたしを慕う者の魂が守られるためには、他の誰も話せないようなことこそわたしが大胆に切り出さねばならないだろうというささやかな気負いがあり、その気負いごと正面に投げつけるようなタイトルにした。
最も身近なこととしては、あなたが、これまでもこれからも、老人に一方的に怒鳴りつけられることがある。赤の他人なのに、いきなりあなたに憤怒のホルモン液をぶちまけてくる。
そのときに、あなたの魂が守られなくてはならない。
老人の、その力みきった肉体、黄ばんだ目つき、半開きになった口、調子の整わない声、壊れた距離感、非人間的なまでに一方的で、すべての情報抜きに自分が正しいと思い、こちらが悪いと思っている、そのモンスターからあなたの魂が守られなくてはならない。
かつて本当には生きず、主題が死に切り替わってから、本心では怯え続け、その弱さにもさびしさにも向き合えずに、その魂を憤怒と傲慢の王に売り渡して敬われようとしている、そういう老人の攻撃と依存から、あなたの魂が守られなくてはならない。
あなたが迷った末、ついに「老人はダメだ」とつぶやくよりも前に、わたしが話したことがあなたの隅っこに入っていればいい。
どうせあなたは、桃太郎を慈しみ育てるおじいさんとおばあさんに出会ったときは、その老人をおのずから敬愛する。
優先席を老人に譲るなといって、ほとんどの場合、あなたはそこに優先席と書いてあったら、もうそこには座らないようになっているじゃないか。
もしあなたが電車で座っているところの目の前に老人がヌーッと立って現れたら、あなたはそこを、譲るのではなくひたすら逃げろ。あなたがそこで頑張らなくてはならないことは何一つない。足の塵を払ってお逃げなさい。
わたしが老人になったとき――むろんその年齢まで生きたらという話だが――やはりわたしも若者から優先席を譲られることがあるのだろうか。
あるのかもしれないが、そのときわたしは、目の前の彼に「真に受けるな」と言いたく思う。
「優先席って書いてあるけれど、真に受けるな」
それだけを述べて、それでもなお彼が意気軒高にわたしに席を譲るというなら、こんどはその主張をこそ彼に譲り、そのときのわたしはおとなしく老人として世の中の端っこに座らされていよう。
[優先席を老人に譲るな/了]