ムン
雨が降る午後の空に馴染まないクリーム色の用紙の冊子
他人事を軽んじるわけでもないけれども、われわれは単純な愚かさにおいて、物事への恐れについて、気楽に捉えて強がっているときと、真の体験に晒されてあっけなく怯えているときがある。たとえば医療にかかわる特集がテレビ番組で放映されれば、重病患者の映像に向けて「病気は怖いものだ、避けたいものだ」という感興が起こるが、その恐れは進めている夕食の手を止めて喉を詰まらせるほどのものではない。われわれは自分がそうした病気には「ならない」という前提をどこかにもってそのテレビ特番を恐れつつも眺めているのだろう。そのことと、自分がじっさいに検査服を着せられ、検査機にかけられたところピイーという警告音を聴かされるのとでは体験の性質じたいが異なる。テレビ特番で眺めているそれは、病気にかかわる実在とはいえ概念においての恐れだ。そして病気はそもそも恐ろしいものなのだから、どれだけテレビ特番を見ていても自分自身が大きく変容するわけではない。けれども自分が検査機にピイーと警告されたとき、主題は病気というより自分だ。自分が健康に生きるものから、そうでないものへ変容される。若い医者が「あれ? ちょっと再検査しましょう」と、平静に言ってくれるものの、その声音に緊迫感が予断を許さないものとして滲み出ている。そんなことのぜひないように! われわれの単純な祈りにおいて、この再検査の結果は、「あ、大丈夫ですね、問題のないレベルです」と落ち着いたということにしておこう。二度目の検査もピイーと鳴り響いて、若い医者が「うーん、ちょっとねえ」とむつかしがって言い渋るというようなことは、ぜひいつまでもないことであってもらいたいものだ。
もしわれわれが、ダウンフォースやらリフトフォースやらの検査機にかけられるとして、
「それではダウンフォースを検査しますね、大きな声で、『ちゃんとやれ!』と言ってみてください。それではおねがいします、3、2、1」
そのような検査にかけられたとき、われわれは気恥ずかしさから苦笑あるいは照れ笑いしているだろう。そうして照れくさそうな笑顔のまま、検査技師の誘導にしたがって、
「ちゃんとやれ!」
と空中に発声する。ところが技師は手慣れた言いようで、
「そうですね、それではちょっと、笑ってしまっていますんで。きっちり、ダウンフォースでお願いします。大きい声出してくれていいですからね。それではもう一度いきます、3、2、1、はいどうぞ」
技師自身が被検者にちゃんとやれと言いつけている調子だが、それに気おされて、うさんくさい笑い顔も静まっていって、もう一度、
「ちゃんとやれ!」
と発する。それでもうまくいかないのだろう、技師は、
「もう一度いきますね。3、2、1」
「ちゃんと、やれ!」
ピイー
「はい検査終了です、診察室の2番に進んでください」
あなたの声、あなたのダウンフォースから何が検出されるのだろうか。
言われたとおりの診察室2で、義務的に思える医者からの診断と説明を聞いた。
検査機関から帰るところの彼の手元にはひとつの冊子が抱えられている。その冊子は、丸っこい文字と意図的にありふれたトーンに整えられたイラストが表紙にレイアウトされているのだが、そのタイトルは「ダウンフォース検査で何がわかるの?」と書かれているのに対し、サブタイトルに書かれているのは、
「あなたの声には死ねが含まれています」
彼は帰りのバスの中で冊子の表紙を開いた。窓の外、雨が降る午後の空に馴染まない具合に、その冊子の用紙はピンと張りつめたクリーム色だ。
目次にならぶ各項目は、それぞれ妥当かもしれないが冷淡で彼を突き放す感触がする。医療というのはそういうものかもしれないけれども! それでも彼は、反発の裏側でどこかすがるような情けない気持ちを隠し持ち、それぞれの項目を目で拾った。
なぜ声に「死ね」が含まれるのですか? 4p
生死軸の人の生はリフトフォースになっています 6P
生命軸の人はどうなっているのですか? 9P
生死軸の人が取るべき生活習慣 11P
生死軸の人と生命軸の人とのあいだで起こるディスコミュニケーション(異軸翻訳) 14P
その先にQ&Aがつづいて、
Q1:生死軸の人は生命軸になれるのでしょうか? 17P
Q2:どうして生死軸になってしまったのでしょうか? 19P
Q3:このどうしようもない「やってしまった」感じは何なのでしょうか? 21P
むろんそのような馬鹿げた検査は存在しないし、そのための機械も施設もじっさいにはない。けれども、このような説明的なことを示していくのに、文学の手法としては、「この冊子の中を覗いてみたいものだ」というスリルに括り付けて展開していくよりないのじゃないか。冊子の内容は短いので、彼はバスを下りるまでにそれを簡単に読み切るだろう。
◆なぜ声に「死ね」が含まれるのですか?
人の魂が所属する上下の軸があります。
人の魂は、その下端から上端へ向かおうとするはたらきを持っています。
生死軸の人は、その軸の下端が死、その軸の上端が生になっています。
下降していくと死んでしまい、上昇していくと生きていける、ということです。
よって生死軸の人のダウンフォースは相手に対する「死ね」となります。
言葉の内容や、当人の意図によらず、ダウンフォースの性質じたいが「死ね」の周波数になるということです。
◆生死軸の人の生はリフトフォースになっています
人の魂は、下端から上端へ向かおうとする性質を持っています。
ですから、生死軸の人の魂は、死から生へ向かおうとしています。
けれどもこのことには矛盾があります、生きものはすべて生まれながら死に向かっており、生に向かっているとは言えません。
ですから本来は生死軸は順転していなくてはいけないことになります。
下端が生、上端が死、下から上に向かってゆき、生きものとして死に向かっているというのが本来の生死のメカニズムです(これを順生死軸といいます)。
とはいえ、われわれは生存本能においてこのメカニズムを自ら受容したものとして選択できません。
そこで、自動的にこの軸の反転が起こります。
そうして生死軸は一般に、下端が死、上端が生というあべこべの形になります。
ここからダウンフォースが「死」、リフトフォースが「生」ということになります。
自我が高揚することや、ごほうびをもらうことがあると、「生きていこう」という気になるのはこのためです。
生死軸の人の生はそうしてリフトフォースになっていますが、あくまで本来のメカニズムでいえばそれは逆転していると知っておいてください。
◆生命軸の人はどうなっているのですか?
生命軸は、下端が生、上端が命になっています。
地上に生まれ落ちたその「生」が始まりで、そこから上昇してゆき「命」に到達しようとします。
命は死でありませんので、生命軸には死がありません。死のない命は一般に永遠の命と呼ばれます。
生命軸においては、ダウンフォースが「生」、リフトフォースが「命」となります。
上から下へは「生きろ」という命令(※)がなされ、下から上へは命に生を捧げるというはたらきが起こります。
生命軸の人の高揚は、己の命を果たすことに向けて起こります。
未だ己の命を果たすところから遠い者に向けては、そのときまで生きろ、という命令が下されます。
よって、言葉の内容や、当人の意図によらず、ダウンフォースの性質じたいが「生きろ」の周波数になります。
※「命令」は命の現象です
◆生死軸の人が取るべき生活習慣
生死軸では、なるべく厳密に「平等」をこころがける必要があります。
社会的な平等はもとより、魂の平等をこころがけてください。
生死軸において上下が発生すると、上だけが生き、下には「死ね」が作用することになってしまいます。
あなたが誰かの下につくと、あなたは上が生きるために自分が死ななくてはならない、という魂の体験をします。
そのことでいわゆるマウントが発生し、このマウントは魂のレベルで「生き死に」の問題になります。この問題は生存本能によって苛烈になり、おのずと生存競争が発生してしまいます。
ですので、なるべく厳密に平等をこころがけ、それでも誰かからダウンフォースを受けてしまうという場合は、そこから無関係になるよう距離を取るようにしてください。
あなたがリフトフォースを受ける場合、向こうがそのリフトフォースを捧げてくれる場合は、受け取って自分の生きる糧としてかまいませんが、詐欺犯罪の手口かもしれないので注意しましょう。詐欺師はあなたの生を持ち上げるかたちであなたのふところに入り込んできます。
向こうがリフトフォースを捧げるつもりではない場合、あなたがそれを勝手に吸い上げるようなことをしてはいけません。そのとき向こうは「死ぬ」ほどの我慢をしているということを知っておいてください。あなたとその人の魂は、無関係な存在です。無関係な存在であって、平等に横並びにあるだけです。
◆生死軸の人と生命軸の人とのあいだで起こるディスコミュニケーション(異軸翻訳)
生死軸の人と生命軸の人がやりとりをすると、異軸翻訳が起こるとされています。
最もよくあるのは、生命軸の人が「生きろ」と言っているのに、生死軸の人にはそれが「死ね」と聞こえるということです。
言葉の内容や当人の意図によらず、ダウンフォースとリフトフォースはそれぞれの軸によって翻訳されてしまうので、誤解が起こるのです。
生死軸の人は、生命軸の人に対し、「自分が生きるには持ち上げやごほうびが必要だ」と求めるのですが、そのことはどうしても生命軸の人には意図したとおりには伝わりません。
また、生死軸の人が生命軸の人に「死ね」と怒っても、そのダウンフォースは意図したとおりに生命軸の人には作用しません。
あるいは生命軸の人が、生死軸の人に対し、いかなる使命を果たすべきかという呼びかけをしても、生死軸の人はそのすべてを自分が生きる高揚にのみ費やし、意図したことはやはり作用しません。
異軸翻訳によって空振りしたコミュニケーションは、そのまま自分に返ってくるという性質があります。
よって、死ねという呼びかけをした生死軸者は、自分に内蔵する「死ね」を強めてしまいますし、使命について呼びかけをした生命軸者は、自分が到達する「命」をさらに高くします。
お互いが噛み合わないまま、このことが繰り返されると、それぞれのリフトフォースとダウンフォースが制御できないほど強くなってしまうことがあるので、前もってこの異軸翻訳で空回りしあうことは互いに自重しあう必要があります。
◆Q1:生死軸の人は生命軸になれるのでしょうか?
A1:理論上は可能ですが、主義のため現実的にはたいへん困難だとされています。
生死軸で生きてきた人は、生死軸による恩恵を受け、力強くなり、じっさいに活躍し、権威も得てきましたので、それを放棄することは困難です。
生命軸の発見あるいは継承じたいが困難ということに合わせて、それ以上に、これまでの生死軸を放棄はできないということがそのことの困難さを形成しています。
また、このことは「ムン」とも呼ばれています。
◆Q2:どうして生死軸になってしまったのでしょうか?
A2:生命軸への所属は、「命」の発見あるいは継承が必要ですが、そのことが容易ではなく、差別的な部分があったので、次第に否定されていくことになりました。よく知られた言い方として、「死は誰にでも平等に訪れるが、命は誰にでも平等には与えられない」というのがあります。
過去、差別的な生命軸に対し、平等な生死軸でそれに抗せる、あるいは超克できるのではないかという社会的なムーブメントがありました。それにより生死軸の力は研究されて発達してゆき、現在は「ムン」と呼ばれています。それ以来、多くの人が生死軸に所属することになったということです。
◆Q3:このどうしようもない「やってしまった」感じは何なのでしょうか?
A3.生命軸に対抗するムンをぶつけたときによく見られる体験です。
生命軸者の声は、上に向けては命じられることを求め、下に向けては生きることを欲します。命じられたことに生を捧げる下から上への勢い、また、捧げられる生には果てしなく命を分配しようとする上から下への慈愛があります。
その生命軸者の空間に巻き込まれると、あるいは首を突っ込むと、生死軸者は最善のことをしようとして、生命軸者のそれと「同調」しようという発想をします。ところが同調してみても、ダウンフォースとリフトフォースは生死軸のものですから、同調したつもりとは裏腹に違う周波数の声が発されます。その周波数にはあまりに違和感があり、そのとき多くの人が「自分はムンではないか」と疑い始めます。
このときムンは、生命軸者から慈愛によって分配された命を、消費して自我の生を高揚させることに用います。いっぽうで命に向けて生を捧げようとする者に向けては、死ねという周波数を発します。そのことはたいてい当人の本意ではないのですが、その本意とはあべこべの行為はやむなく発生し、やがてその行為が当人の本意を呑み込んでいきます。
つまりムンは無条件で、生命軸者の空間に対して破壊と勝利を収めようと挙動するということです。
<<もともとムンは生命軸に対抗するものとしてこれまで研究され発達してきたもの>>ですから、そのように挙動するように設計されているということです。その設計通りの挙動が起こったとき、当人はその不本意さと、その行動が自分を呑み込んでいくさまから、直観的に「やってしまった」と体験することが多いようです(次第にその「やってしまった」という感触も呑み込まれて消えてゆきます)。
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