ムン
雑多なムン
ハードな話が続くと、読むのにも負担が大きくなるので、閑話休題というほどではないが、雑多なムンについての話をしよう。ムンは我慢であり、我慢とは吾我の驕慢のことだが、吾我の驕慢といえば、そうしたものはそれなりにわれわれにはどうしたってあるだろう。お釈迦様じゃあるまいし、そうしたものがゼロというわけにはいくまい。そのムンを強化して命の代わりに対抗させようという試みは失敗に終わってわざわいをもたらすにせよ、そこまででもないかぎり、ささやかなムンについては笑い話で済ませられるところがありそうだ。あくまで程度の問題であって、なにごとも行きすぎれば笑い話ではなくなってくるとしても、ひとまずその笑い話のようなムンについて考えよう。
たとえばわれわれは、社会的に消費者として振る舞うとき、その消費者としての立場にもムンとなる。じつにくだらないがそういうものだろう、
「あー、このケーキ、上に乗せたアーモンドが余計だなあ、これがなかったらたぶんわたし買っていたのに。あー惜しい、残念でした」
いったい何様のつもりだという感じだが、まあいいじゃないか、この場合は消費者様なのだ、メーカーも卸も小売も、このときはあなたをすなおに消費者様と認めている。「ぞんぶんにムンとしてください」とみんな思っているのだ、なにしろ少なくとも、お客さまが、買おうかどうか迷ってくれているのだから! われわれはそうやって互いに生きている。
女性などは特に、甘いものを食べる、それも食べ始める以前に、「これからわたしスイーツを食べるんだよね」という時点でのムンがあるように思う。そのことはまったく責められたものではない、ともども笑いたくなるだけの楽しいことだ。褒める、とまではならないにしても。地上を見下ろす二階のテラス席で、白く小さな宮殿のように成形されたシフォンケーキにいまからフォークを入れるというとき、地上では外回りの営業らしい若者がスーツを着て足早に歩き、片耳にスマートフォンを当ててやりとりをしている。それを見て、何の優越感か知らないが、
「んふふ、わたしはねえ、これからシフォンケーキを食べるんですよ、いいでしょう、んふふふふ」
というようなことを考えている。こんなことのムンならいちいちマウント合戦にもなるまい。われわれは互いに生きることを励まし合っているべきだ。
会社で、話のわからない上司とさんざん揉めるようなやりとりをして、ストレスたまるわぁと感じているところ、男性ならビールと焼き鳥を買うだろうか、女性ならお菓子を買って帰ることが多いように思う。そして、
「ったくもう、なんなんだあのバカたちは!」
と、死ねというほどではないがむこうずねを蹴っ飛ばしてやりたいというぐらいの思いは持って、その個包装されたお菓子をつぎつぎに食う。バクバク食う。それがストレス発散になるらしいが、たしかによくよく見ると、自分は生に向けて上昇して、気に食わないものに対しては下方へのキックを食らわせている。男性の場合はよく、
「ビールってけっきょく、ストレスがないと旨くないんですよ」
と言う。わたしはビール党ではないが、ストレスがないとビールが旨くないということは、ビール党でないわたしでさえなんとなくわかる。
そしてだからこそ、ストレスが掛かった男は、その帰り道で、コンビニエンスストアの前を通りかかるときに「ムン」とし、勇ましくその扉を開いて冷蔵棚に詰め寄り、この日は発泡酒ではなく缶ビールを買うのだろう。わたしの友人などは、このあたりが逆転してしまって、むしろその夜のビールを旨くするために、日中のストレスを待ち受けているというようなところさえある。ストレス解消のためのビールではなく、ビールのためのストレス付与を待ち受けているという具合なのだ。なんと力強くてたのもしいことだろう。
そしてそうしたオジサンはきっと世の中に珍しいものではなく、
「この一杯のために生きているという気がする」
という言いようも、冗談に見えてじつは当人が思っている以上に冗談ではないようなのだ、彼の上司も、彼のビールを旨くするために叱責させられていると知ったら憮然とするに違いない。
オジサンが晩酌しながらプロ野球中継を観たり、オバサンが茶をすすりながらワイドショーを観たり、オタクがどこかをこすりながら深夜アニメを観たりすることには、視聴というより半分がた「批評」が入っているように思う。
「向こうは明らかに変化球狙っているのに、あんな甘いカーブ投げたらあかんわ、そら打たれるわ」
「この女優さんも、まだ若いからねえ、やってはだめということが、肝腎なところではまだ分別つかないんでしょうねえ、はあ、若いからねえ」
「うーん、このアニメ二期になってから、あきらかに作画の手抜きを感じる。声優はがんばっているのに、これは制作会社の問題だよ、こんなの視聴者に見捨てられるよ、ちゃんとやってよ、ただ今日のおっぱい揺れのシーンはシチュエーションがよかったな、それは認めよう」
そうした、いわば「批評ムン」が、それぞれの自室で発揮されて(自室だけにしておいてくれよ)、それが生へのリフトフォースになっているのだろう。半分がた批評するためにそれを視聴しているというのは少しばかり趣味が悪いのかもしれないが、でもそれでも趣味といえば趣味の範疇にじゅうぶん収まろう。趣味で生きる力を得ているのだからすばらしいことだ。たくましくて、人間らしいことだ。
われわれはそんなものなんじゃないかと思う。ささやかに雑多なムンを起こしながら、死にたくはないので生きているし、自分を楽しく生きる気にさせようとしている、そういうものだろう。
「そうだ、自分へのご褒美をあげよう」という、わざとらしい言いように乗っかったとき、われわれはささやかにムンとするし、「学生時代にアパレルでバイトしていたから服をたたむの得意なんだよね」というときにもささやかにムンとする。「おれこの手品のタネ知っているんだよね」「わたし地理だけはすごい成績良かったんだよ」「子供のころ、二階のブラウン管テレビがついているの、なぜか一階からでもわかったんだよね」「カレー作るのはけっこう自信ある、一時期凝っていたから」、そんなことでさえわれわれはささやかにムンとする。そんなささやかなムンまでが責め立てられて否定されるわけではない。そんなせまっ苦しい話をおれがするわけねえんだから。
ただ、われわれは命への旅の中にあるべきで、ささやかで雑多なムンは、その道中のちょっとした寄り道、愉しみ、それはそれでいて欠かせない味わいのものであってほしい。命への旅を失って、そのムンを無理やりに強化し、ムンじたいを命にすり替えようという試みはさすがに酸鼻なのだ。
原理的には、ささやかなムンをさえ、選択的に「消しちゃえ」と発想するのは悪くない。生死軸に起こるそのムンという音を消し、わずかも発生させず、生命軸の中で営むのであれば、こだわりのカレーを作るのでも、「けっこう自信ある」なんてものではない、その料理と食事じたいに命があるようなカレーが出現することになるだろう。「映え」に長けた料理研究家のおばちゃんが厨房に立つとき、そのおばちゃんはムンとするが、何をやっているのかわからないような超一流の、歴史に残るような日本料理の料理人が厨房に立てば、すべての所作はわれわれが寝ているときよりもずっと静かだ。大胆な動きの中でも、わずかもムンとしていない。そこまでいって初めて「命」が現れてくる。原理的にはすべてそうしたことに向かうのが最善ではあるだろう。
とはいえ、すべてのことをそうして最善にするという発想じたいが、あまりにもわれわれに適していない。
われわれは日常、そうした命のことは「さておき」、お菓子をむさぼったりビールをかっくらったり、テレビ番組を観て内心で批評ぶったり、ちょっとした自慢でちょっとだけ鼻を高くしたり、しているわけなのだ。われわれがそうした、われわれらしく欠かせない味わいを失わなくて済むようにも、われわれは根本的には命の旅につながっていたいと思う。雑多でささやかな、笑える範囲のムンに囲まれながら旅路を行くのは、つまりわれわれのほとんどはエコノミークラスに乘って旅路を往くということなのだ。自慢にはならないが批判されるにも当たらねえよ。
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