ムン
芸術と宗教にかかわるムン
あなたがもし芸術を手掛ける、あるいは芸術に挑戦するとしたら、あなたは「どのように」それをやろうとするだろうか。上手とかヘタとかいうことを抜きにすれば、芸術(あるいは芸事)に挑戦することじたいは簡単だ。絵画でもいいし音楽でもいい、小説でも、陶芸でも、演劇でも、漫才でも落語でも、歌や踊りでも何でもいい。歌といえばわれわれはこの瞬間にも唄えるのだし、踊りといえばわれわれはこの瞬間にも踊れる。絵画というのも目の前に紙とペンがあればできる。演劇といえば、床の上に立ってさえいればどこでもできる。設備や雰囲気に投資しなくてはそれに取り組めないということはまったくない。
あなたが芸術を手掛けるとき、十中八九、あるいはその百倍ほどの確率で、あなたは「ムン」っとする。これほどわかりやすい話はない。あなたが友人に向けて「ちょっと一曲唄います」と言ってみる。そのとたん、空気はヘンなことになり、あなたは友人に向けて「ムン」っとする。そこから照れ笑いをしたり、一般的なことを言ってみたり、「これはどういう "空気" のやつなのだろう」と読み合ったり、いろんなことをするだろうが、それらのすべては「ムン」っとしているというひとつのことだけで説明できる。あなたがメモ用紙にカバの絵を描こうとしたとき、特にそれを人に見せる絵にしようとした場合、あなたは「一般」的なカバのイメージに頼り、また「一般」的なイラストのタッチに頼ろうとする。その「一般」というのも、先に説明したようにじつにムンっとしている。あなたは芸術を手掛けようしたすべての入口で「えーっと……」と言い、このえーっとがすでに強力というほどの「ムン」を放っている。こんなささやかなことになぜ人はいちいちムンっとするのだろう?
芸術やら作品やらということになれば、その入口はただちに「命があるかどうか」が問われる。芸術にかかわるすべては、その表現に命があるかどうかが入口で、命があるかどうかが最終到達点だ。どれだけ上手でも、そこに命がなければそれは作品として「要らない」ものになってしまうし、どれだけ下手でも、そこに命があればそれだけで無上の値打ちがある。
命があるかどうか、命につながっているか否か、それだけが問われる。その点で、芸術と宗教というのはよく似ている。たとえばキリスト教などの聖書方面では、つまり人の魂が「永遠の命」を与えられうるということが教えの到達点なのだし、仏教方面でも、その魂は仏に「帰命する」という言い方をする。どれだけ神像を拝み倒しても、念仏や聖音をつぶやきつづけても、それで魂が「命」につながらないのでは、宗教といっても何をやっていることにもならない。いくらチャリティ行為をしてみたり、それっぽいほほえみを浮かべてみたり、聖典に書かれていることをマニアックなほど暗記してみたりしても、己の魂が命につながっていないのであれば、それらはきっと神仏とは無関係の、人為的な願望が膨らんだだけの空虚な営為だ。
宗教にかかわっては、宗教施設側の習慣的権威が強く、首を突っ込むと誰にとっても危険しかないので、もちろん誰でもがじっさいそうしているように、このことは遠くから内心で思うだけで、宗教がどうなっているものなのかに興味は持たないほうがよいし、手出しも口出しもしないほうがよい。われわれが知っているのは、勧誘にくる「宗教の人」が何はともあれわれわれの玄関先でムンっとしているということだけだし、そのことだけでわれわれにとって判断の材料としては十分だろう。
芸術にかかわっても同じようなこと、本来それは命につながっていなければならないように思うが、じっさいにはどうか。われわれが現代で目撃するほとんどのそれは「ムン」だ。命ではなくムンが芸術の主体となっている。ムンはもともと、命が見つからない者がそれを代替品とするために発明したもので、その意味ではいまやムンは代替品として正しく活躍し、何であればそれは代替品どころではなくこちらが真の芸術なのだと言い張りさえするところまでのし上がってきたと言える。
けれどもあなたが、どうしても命ということに鋭敏な魂の持ち主であれば、どこまでもその「ムン芸術」には違和感を覚え続けるだろう。本来の命を忘れたとしても違和感は残り続けるだろう。そこでムン芸術を、他人事として眺めているぶんにはまだいいが、自分がそれをやらされたり、巻き込まれたりすることには、率直に言って「カンベンしてほしい」と思う。とはいえもし、あなたが親の意向でバレエ教室に通わされていたり、あるいはプロとして舞台上でパフォーマンスをしなくてはならない立場だったりすると、あなたはスポンサーに言われたとおりにその「ムン芸術」を、いちおうちゃんと全力でやっていますというていどにはやって見せなくてはならない。あなたはそれについて命がどうこうというような詳しい知識や学門は持っていないし、その実物を唐突に示す実力も未だ持っていない。ただ、命のない猿回しじみたことをやらされて、そのことには深い屈辱を覚える。そしてそのぶんだけ「十分なギャラはください」と炎のような憤怒があなたの腹の底に起こるのだ。これをやらなければあなたは生きていけないと言われているようなところ、「わかりました、じゃあ生きていくことを潤すだけのじゅうぶんな金銭を支払ってくださいよね?」という文脈が起こる。「そうでなければあなたが死ぬべきですよ、舐めないでくださいね?」。やがて数億の収入にもつながっていくかもしれないという期待と可能性からそのような馬鹿げた猿回しの猿役でも引き受けているのであって、もしそのことへの妥当なペイメントが履行されないのであれば、そこには憤怒と憎悪、軽蔑と怨恨しか残らないだろう。
ムンは命ではないので、ムンで芸術に取り掛かろうとするのは邪道だと、わたしはわたしの主義として言いたい。己を生命軸に所属させて取り掛かるのがわたしの思うところの正道だが、理屈ではそうでも、「命」とのつながりなどというのは、言うは易しであってじっさいには何もかもが五里霧中だ。
それに比べてムン・我慢の、いかに簡単でわかりやすいことか。
「何もかもを我慢にして、芸術をやれ!」と言えば、あなたは意味もわからないまま「はい!」と答えることができて、そのままそれを実作に転じさせられそうなほど、ムン芸術というやり方はわかりやすい。その尻を鞭で叩き、その叩かれた痛みについて「我慢しろ!」と言えば、「はい!」となって、自我の高揚が起こってくる。そこで起こってきた高揚を何かしらの表現形式にぶつけていくというようなことは、技術としてはともかくやり方そのものとしては、そのことに取り掛かって二日目の中学生でもすでに完成の域に達しそうなほど簡単なやり方だ。
それに比べて「命」というと、
「命の中に立っているなら、あなたはただそこに立っているだけでも存在があるはずです。天地の情熱たる "場所" に立っており、人々が "寄って" やまぬものがある。どこか知らないところへ響いている姿と声。無限遠点に響いているその姿と声は、なぜか知らないところのもののはずが、何よりもこころに親しく響いてくるのです。時間軸を超えたどこかにある、永遠のその場所へ、もともとわれわれは帰るはずではなかったか? それだけでもう緊迫と安息が調和した芸術がそこにあるはずです」
というようなことになってくる。なんなんだその指導は。どう考えても、
「そんなこと言われましても……」
という困惑しか起こらない。
具体的にどうしたらいいかさっぱりわからない、と誰でも思う。とりあえず「命につながっているんですね」と空気を読んだような声で言い、神秘主義の幻想に浸ってニッコリほほえんで見せればよいのだろうか。そんなことが真に建設的であるわけがない。
そうして困惑したまま、よくわからずに、あなたはほんのりそれっぽいカッコつけだけしてみたとする。命の "つもり" で、あなたがそこに立っていたとする。「場所」などと大げさに言ってみたが、そこに何も珍しいものはない。真新しいものや輝かしいものは何もないし、迫る力を持つものも現れもしない、滋味も崇高さもない。あなた自身でさえ内心では意識とは裏腹に「なんなんだろうこれ」と思っている。何の装置も演出もなく、衣装もなくサクラもいない。すると、そこには当然とてもマヌケで無様なあなたが生々しく突っ立っている。カッコつけも不覚悟で不徹底、傍目には「何やってるのこの人」と憫笑されるようなものだ。あなたはその無様さをもって「命……」と言い張るようなでたらめな気概は持ち合わせていないだろう。もちろんそのようなでたらめな気概を振り回したところで、それは何ら勇敢ではないし、誰から見ても「放っておいてやれ」と言って目を背けたくなる気の毒なものにしかならない。
しかもそのことを何日、何ヵ月、何年続けても無様なままだ。傍目にも「恥ずかしくて見ていられないからやめてほしい」と言われるものが、なおも寒々しくそこに立ち続けている。通りすがるすべての人が「才能ないんだからやめなよー」と、同情を通りこして逆に励まそうとするぐらいの気持ちで否定を投げかけてくる。たしかにどのように思い込もうとしても、客観的に見て自分の姿は恥ずかしいぐらいカッコ悪いのだ。周囲が同情的になってまで向けてくる諫言のほうが理性的で正しく、何であればまともな権威さえ伴っている。
それに比べて、別の誰かは、パフォーマンスを始めた初日からでもその立ち姿が、
「カッコいいじゃーん」
と言われている。取り巻きにちやほやされて、照れくさそうに、しかし捨てがたい華やかな充実が周囲を圧している。
装置や演出にも投資がされていて、衣装もじゅうぶん高級にあつらえられている。性的露出も大胆で煽情的だ。そこにちょっとした振る舞いの角度や見せ方のコツを仕込まれただけで。周囲は「おお?」「いいじゃん!?」と囃し立てるようになり、
「やっぱり才能ある人は違うよね」
「こういうのって、容姿もセンスもぜんぶ含めて、やっぱ "持っている" んだよね。持って生まれてきているんだよ、ギフテッドってやつ」
「かわいい上に、上品で、しかもエロいというのはヤバいわ、どうしようもなく正義だわ」
この横であなたが、さきほどの無様さとマヌケさでみじめなまま立ち続けていられるかというと、そんなことは不可能だ。
あなたは隣で言われているところの「ちょっとしたコツ」に聞き耳を立てて、それを導入しようとするだろう。そのときの「聞き耳」はアフリカゾウのように巨きいに違いないし、視界に得たイメージの印象は、盗み取ろうとしなくても網膜に焼きついたまま持ち帰られることになるだろう。
「ちょっとしたコツ」とはどういうものだろうか。コツは「ムンっとする」ことだ。ふだんは控えている、本当は自信のある「体・かわいい」の自分をムンっとせよ。思い出してみれば、本当は隠し持っているだろう? 子供のころにどこかに抑圧した、本当のわたしとその万能感。貪欲で性的で、何も恐れない、本当は何もかもについて無敵のわたし。それを抑圧することはないのだ、解放せよ、あなたはあなたが本当に持っているすべてを、気ままに泣いたり笑ったり甘えたり、「あるがまま」堂々とさらけ出していい。あらゆるBGMを味方につけたまま! そしてその自己実現をもって周囲にうらやましがられるぐらいがあなたにとって当然であってふさわしいのだ。あなたのその姿に内心で屈さない人はひとりもいないだろう。 "ノッてきた" あなたは本当にすごいよ!……
若い女の体は "高額" だ。それでいて「一般」をムンっとせよ。それだけではまだまだ素人くさいだろうから、「我慢」をムンっとせよ。我慢の極限を超えるところまでムンっとせよ。本当はこんなところにいるべきじゃないあなた。あなたは本当は、ここまで受けてきた不当な侮辱と屈辱にずっと「我慢」をしてきただろう? 本当はこんなシケたところにいるはずじゃないのに。本当はもっと高貴な扱いをされるべきなのに。あなたはその本当のことをすべて我慢してきただろう。それらをすべて呼び起せ。その我慢の中で、あなたはさらに、あえて最も不快なものにほほえみかけ、内心でその底辺どもに「死ね」を爆発させよ。我慢、我慢、究極の我慢。そうして極大化した「ムン」をあなたの肉体に引き起こせ。その極大化したムンにふさわしいだけの高級品を要求して身にまとえ。下方への死と上方の生たるわたしの当然として黄金をまとえ。そうすればあなたも、
「なんか、オーラあるー」
「目力が違う、迫力がありすぎる」
「本人は気さくなのに、なんか近寄りがたいムードあるよね」
と言ってもらえる。
おめでとう、そのかわり、そこまで行くとほとんどの場合、もう命のところに戻ってこられる可能性は残らない。
それで多くの場合、芸術うんぬんに関わっては、人はムン芸術とはいえそこまでは行こうとせず、「ほどほど」というていどに留めようとする。多くの場合はそうした直観のブレーキがはたらくものだ。ムン芸術といってもあくまで趣味の範囲で、なるべく若いうちに表情や肢体を良い角度でムンっとさせてみせて、
「けっこうサマになっているでしょ」
「このときのこれは、われながらうまく盛(も)れていて、すごいかわいいよね」
と見せつけて満足するというところに留まる。同時にそれは、本当には満足していない、不満だという状態に留まりつづけているのではあるが。
そこからさらに表現を強めていくということは、ムンを強めていくということ、我慢・吾我の驕慢の極点を超えていくかどうかということになるから、直観のブレーキがはたらき、
「いやあ、そこまでやるつもりはないなあ、そこまで才能あるとも思わないし」
と思いとどまることになる。
それでも、趣味のていどとはいえ、ムンっとしたものを上位に置き、あたかもそこに権威が現れているふうに唱えはしたので、そのぶんはやはり命からは遠ざかっている。
だからあなたの知るとおり、宗教と同じで、芸術をやっている人は多くの場合で「ややこしい」のだ。そっち方面の人に対してあなたは、前もって「あまり関わり合いにならないほうがいい」ということを前提にしているだろう。その前提はまったく正しく、いまや芸術といってもほとんどはプレイヤーの「体・かわいい」をジロジロ見て興奮し、そのわざとらしい声で煽情されて、生きる元気がもらえた気がして満足するだけというのが主流になっている。ややこしい思いまでしてそれ以上の芸術うんぬんに首を突っ込む気などほとんどの人は持っていない。たいていそこから先にまで踏み出そうというのは、もう芸術うんぬんの話ではなく、プロとして収入にかかわるか、出世欲や病的な自己顕示欲によるブーストが掛かるか、人を見返したいという強迫からのブースト、あるいはセックスを欲しがるブーストが掛かって、その先まで押し出されていくかどうかという話であって、そこからはいっそ芸術うんぬんなどは無関係になる。
あなたが芸術を手掛けるとき、十中八九、あなたは「ムン」っとする。これほどわかりやすい話はなく、このことを「ムン芸術」と呼ぶことはあなたの理解を大いに助けよう。
あなたは自分の手掛けた・挑戦しようとした芸術の実作が、自分の姿ともども無様なとき、その無様さがとてもイヤなので、その無様さだけなんとかしたいと思い、それを解決する方法を探す。
いいかげんしつこすぎる「命」の一点張りで、芸術の命うんぬん、魂うんぬんなどと言い続けていても、ますます自分が無様でみじめになっていくだけだ。もっと具体的で、自分の要求を満たしてくれるコツのようなものがあるはずだろう。「みんなどうやっているんだろう? 教えてほしい」とあなたは思う。
あるときあなたは、「もっとムンムンやってよ」という、一方的な強制を受ける。そんなことがしたいわけじゃないのに、しぶしぶやらされることになった。それをしぶしぶやらされることは、そのときとてつもなく不快だった。憎悪や怨恨が残るほどの侮辱と屈辱を受けた、とそのときは感じた。
「こんな思いを、我慢しろっていうの? 我慢しながら、ずっと媚びて、笑っていなさいって?」
ところがそんなときに限って、なぜか、そのときの自分の実作は無様でなかった。何か迫力があって、芸術としての権威がちゃんと表れているように思えた。自分の体は生々しく性的な魅力をムンムン放っており、その後に示したほほえみは確かにとても「かわいい」ものだった。すでに数人の、安上がりではあるが「ファン」がついてくれて、いちおう自分のことを「推し」と言い出しさえするようなのだ。
あなたはついに、無様ではない自分を発見した。あなたはみじめさの立場から、人にうらやましがられる立場に転じ、ついに自分の望んでいたようになった。そうなってみるとすべてのことはまんざらではなくなっていった。ここまでに課された膨大な「我慢」も、見方を変えれば自分の根性、自分の歴史だったと思える。ここまでの我慢の積み重ねが、自分の誉(ほま)れなんだろうなと、揺るぎない自信に思えて、己の腰高をさえ毅然と支えるのだった。
ムン芸術に深入りしていくとしたら、だいたいそのような筋書きになる。
芸術は宗教と同じで、入口からただ「命」のあるなしを問われる。命のあるなしが問われて命が「ない」なら、あなたのすべては無様の極みだ。もう二度とそんなところに立ちたくない、という壮絶な傷つき方をするだろう。
そこで代替品を用意すれば、あなたは初日からでも絶賛を受ける何かになれる。あっというまに、あなたはあなたの望んでいた自分になれる。
そうした代替品として発明されたのが「ムン」だ。
この段では芸術の周辺をターゲットとして話している。多くの人にとって、芸術など自分とは無関係なものだから、この段で為されている指摘は自分には無関係だろうと思えるかもしれないが、案外そうでもないということを注意喚起しておきたい。
多くの人にとって、自分が芸術とは無関係というのは、「いまのところ」「まだ」無関係というふうなのであって、生涯あるいは永遠に無関係と思っているわけではないのだ。多くの人にとって、これは当人が知らない内心の奥底にひそむものということになる。
もし、自分は芸術には無関係だし、無関心だと言い張る人がいたとしても、そうした人の大半は、もし目の前に永劫取り消せない誓約書が差しだされ、そこに「わたしの魂は永遠に芸術のいっさいに無関係です」という文言が書かれており、そこに署名と捺印を求められたとしたら、
「うーん、それはちょっと。いくらなんでも」
とためらう。ためらった上でけっきょくは捺印を拒絶するだろう。
人は、芸術に無関係なつもりでも、何かのきまぐれで陶芸教室などに行き、
「おや、手つきが落ち着いていて、なかなか筋がよろしいですよ」
とでも言われれば、ずいぶん後々までそうして褒められたことをうれしそうに覚えているものだ。
多くの人は、芸術に無関係でもないし無関心でもなくて、ただ小学校のころから描いた絵が、コンクールで金賞を獲ったことなどないから、才能がどうこうといって自分の芸術への関心を遮断しているだけだ。子供のころから一度も落書きのひとつもしたことがないという人は存在しないし、何かしらのアーティストになって喝采を受けるということを夢想したことがないという人も現代にはきわめてまれだ。
もしわたしが誰かに対して、
「ああそうか、あなたは生まれてこの方、また死ぬときまで、芸術には一ミリも関係ない人でしたね」
とでも言えば、その人はありふれて傷つくだろう。もしこのことを故・岡本太郎が見ていたら、怒って、
「そんなことはない、あなたも絵を描くべきだ」
と言うだろうし、そう言われた人は、きっと岡本太郎に言われたことのほうを信じるだろう。
それでも一般論としてふつうの人は芸術うんぬんとは縁遠いものだけれど、理論というよりは経験から申し上げておきたいのは、むしろ一般の人・ふつうの人のほうが、潜在的に芸術に対するこだわり・コンプレックスが強いことが多いものだということだ。ちょっと気が引ける例え方で言うなら、恋あいにまったく縁がない人のほうが、恋あいについてのこだわり・コンプレックスが大きくあるということがいかにもあるだろう。芸術についても同じことがある。単に、われわれが恋あいをちやほやしてきたほどには、芸術をちやほやはしてこなかったので、その潜在下のこだわりやコンプレックスの存在があまり知られていないというだけだ。
芸術に無関係のはずの人が、いざ実作を手掛けると、こだわりや思い込みが強すぎて話にならない、いくらなんでも遅々とし過ぎて、頑固すぎて、独善的すぎて……そういったことがじっさいにある。
これまでに暴力を振るったことがない人が、その内部まで暴力的でないとは決して言えないように、これまで芸術に取り掛かったことがない人が、その内部まで芸術に無頓着だとは決して言えない。
わかりやすく暴力を例にして、暴力には一般に知られていないことがある。それは、自覚的にも印象的にも暴力などには縁がなさそうなお上品な人が、何かの弾みで人のすねを蹴飛ばしてみた途端、火がついたようにその人を蹴り出して、止まらなくなるということがあるということ。これは残念ながらごくありふれたことだと報告しなくてはならない。そこから、見たこともないようなその人のきつい笑顔が出てきて、別にこんなことがしたいわけじゃないしと言い出したその声が、黒々とした強い自信に満ちているということは、やはりごくありふれている。
DVというような問題は、すでに誰にでも知られているぐらい一般化しているが、そうして暴力を被(こうむ)る妻あるいは夫だって、結婚する前からその暴力を受けると知っていて結婚したわけではないだろう。じっさいの暴力が始まってから改めて知らされるのは、その人の内部には「我慢」と「死ね」が充満していたということだ。その人の内部、あるいはときには、双方の内部に、潜在していたものが婚姻生活や出産を契機に解発されていった。
ここでタイムマシンに乘って過去に飛び、その婚姻への成り行きを遮断したとすれば、その両者はDVという結果を回避できるだろう。ではそれによってDVの当事者は「暴力」そのものから離脱できたのかというとそうではない。潜在的なそれが未発のままのものになるということへ話が切り替わっただけで、彼あるいは彼女の内部には「暴力」はれっきとして存在している。
われわれにとっての芸術というのも同じような状態にある。われわれはふだん、死のことなど考えないから、日常的に自分や親しい人の死をそんなに直面的に「怖い」とは感じていない。だがそれは死の恐怖から離脱しているというわけではない、ただ遮断されているだけだ。
われわれは本当は、ふだんから自分の姿や自分の声が、自分のする話が、自分の振る舞いや仕事ぶりが、性的な魅力が、しばしば言ってみるジョークが、芸術的なものかどうかをずっと気にしている。芸術的なものであってほしいという願望を抱いている。自分のすべてが、ただ生きているだけではない、命あるものであることを願っているし、どこかそのように期待もしている。それらすべてについて、命の代替品としてムンが入り込む余地を持っている。芸術家というのはわざわざその自分の命のあるやなしやを確かめにいって証さえ示そうとする人種ということにすぎず、芸術そのものに対する衝動やこだわりは芸術家でないすべての人々にも等しく具わっている。
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