ムン
身が救われないムンは異軸翻訳をする
あなたが自分の頬肉をつまんだとき、その頬肉はあなたの身でもあるし、あなたの体でもある。
身は命に向かうもの、体は生に向かうものだ。
これは概念やことばあそびとして言っているのではない。じっさいのあなたの肉に及ぶ話だ。あなたの肉が単なるタンパク質でしかないなら、われわれが生きることはこんなに複雑ではないし、また単なるタンパク質でしかないならわれわれが生きることにはまったく何の値打ちもないだろう。
ことわざに「芸は身を助(たす)く」というのがあるが、芸は体を助くとは言わない。体を助けてほしい場合は病院に行くかトレーニングジムに通うべきだ。
◯◯は身を滅ぼすという言い方が多数あり、身が滅ぶということがあるのであれば、反対側には身が救われるということもあるのだろう。
身が救われるということはじっさいにある。身が救われるとき、体としての肉は極めて落ち着いていくのに、その肉のうちを、何とはわからないものが駆け抜けるように上昇していく。駆け抜けていっているものはさしあたり魂と思っていてよいだろうし、ちょっと厳めしく霊魂と呼んでもよいかもしれない。
ある男が、暴力を振るってストレスを発散したとする。暴力というと社会的に犯罪になるので、ここでは暴力といっても、サンドバッグをしこたま殴ったということにしよう。それで当人は「あーすっきりした」と感じる。いわゆるストレス解消、
「全力を出しきって、本能を解放して、汗を流す、このことでしかすっきりしないからね」
と彼は精悍に言った。
このようなとき、彼は確かに気分としてはすっきりしているし、体調としてもすっきりしているかもしれない。けれども、その「肉」はどうかというと、肉はまるでオーブンで焼かれた直後のビーフのように、その内部のものがぐるぐると沸き立っている。体温のそれではなく、暴力に焼けて熱く、ざわざわと肉が騒いで、その興奮はなりやまない。人によっては何十年間も、あるいは死ぬまで、その肉はそうして騒ぎ続け、興奮し続けているということがある。そういう人もいるというより、われわれのような者はたいていがそうだと思っておいたほうがよいのかもしれない。ていどの差こそ個々人にはあれ。
ある女性が、ホステス業に就いていたとする。彼女はついに太客から数十万円のバッグをせしめることに成功した。そのバッグは同僚からも羨望の目で見られて、これまで軽く見られていた立場が逆転して面目躍如、この上なく痛快に感じた。しかもその高揚のさなか、これまで何かと気に障る不快な知人についての悪い報せを聞いた。聞くところ何かトラブルがあって、当人のミスから大きな損害が出てしまい、現在の立場を失脚させられそうな見込みだという。化けの皮が剥がれたというような状況で、その報せには「あーあ、因果応報だね、残念だけど、ざまあみろってところだよね」と、やはり溜飲が下がる思いがした。
このとき彼女の気分は爽快・愉快に違いなかろうし、彼女の体調はというと、「もう走り出したいぐらい」と笑いだすほどかもしれないが、それでは彼女の「肉」はどうかというと、肉はやはりオーブンで焼かれた直後のビーフのようにぐるぐると沸き立っていよう。その沸き立った肉について、彼女の客は「わー、今日もエロいなあ」と称賛した。「目力がヤバいよね」。彼女はにっこりと笑って「それはどーも」と余裕たっぷりに会釈した。
われわれの身体には肉があるが、肉といってもそれはたいてい血と絡み合っているので血肉と呼ばれる。「血が騒ぐ」という言いようがある以上、肉がぐるぐる騒ぐことは血が騒ぐことと関連していよう。血が静まりかえっているのに肉だけ騒ぐというのは不自然すぎてありえない。
われわれは、牛や豚の食肉はよく目にするが、牛や豚の流血はなるべく目撃しないようにしている。血を見るとわれわれの内にある何かが騒ぎ出す。騒ぎ出すのはやはり血だろう。そのインパクトは大きいから、あらゆるメインカルチャーでは流血表現に慎重な年齢制限等をもうける。性器や性行為の表現に関わっても、性器というのはつまり粘膜だから、皮膚などよりは血に近く、その赤色が透けて見えている。そのぶんだけインパクトが大きくなるので取り扱いに注意が必要だ。女性の唇だけをズームアップした映像に、男性は血の騒ぎを覚える(女性もか)。街中でのちょっとした小競り合いも、単に小突いただけということと、流血にまで及んだということでは話が異なる。たとえ図柄が同じでも、刺青とシールではわれわれが認めるインパクトは異なるだろう。安売りをアピールしたい商店は、ノボリ旗に「出血大サービス」と書いて客に作用しようとする。
そのような、血のはたらきにかかわることは、詳しい知識がなくても、きっと業(カルマ)にかかわることなのだろうと当たりがついてよい。血肉という言い方をするのであれば、血が業(カルマ)であり、肉は霊魂に属する。肉に血が染みることを内出血というが、内出血や青あざをよろこぶ人はいないし、見た目にもそれは痛々しい。肉に血は染みないほうがいいし、そこに業(カルマ)と霊魂を見い出すなら、霊魂が業(カルマ)に浸食されることはなるべくないほうがよいとわれわれは願っているのだろう。
性風俗業に勤める女性が、生活の事情からそのような業に身をやつしたと、自分でそのことを不本意に思っていたとして、なおもその当人が
「魂としての性愛は、この先に出会う、わたしの愛する人のみに捧げるものです、業はわたしの霊魂にまで浸食したわけではないですから」
と言うのであれば、わたしはその女性の向かおうとすることへ祝福を祈りたく思うのだ。もちろんそのようなことに、悪意に満ちた揶揄を投げかける人が無数にいることは知っているが、それは彼らとしても何かしらの業(カルマ)が自身の肉・霊魂を犯しきってしまった――あるいは抗せる見込みがもうない――ということがあって、そのことの自白として野次馬になっているのではないかとわたしには思える。
身が救われるということはじっさいにある。暴力でストレス発散をしている男は、体調や気分はすっきりしていても、身は救われるどころか沸き立ってぐるぐる、身は焼けつくほうへ進行している。財物をせしめて高揚するホステスは、体調や気分は走り出したいほどであっても、身はやはり焼けつくほうへ進行している。そうしたことはじっさいにあって、その肉に触れればわかるし、その肉を見るだけでもわかるのだ。そのようなことへの視力を得てから後の話ではあるが、身が救われているか否かということは、じつのところ直の接触か、直接の視認でも判断することができる。それはつまり、「どうごまかしてもミエミエだよ」ということでもある。声帯は粘膜だから、その人の声を聞けばその人の身の状況がよくわかる。
身は霊魂であり、霊魂は肉だ。その肉が触れただけでわかる焼けつきぶりということは、そのまま霊魂が焼けついているということを示している。焼けつくほうへ進行していっている。霊魂はどのような火に晒されて焼けこげていくのか、それはよく知られたとおり「業火」というやつなのだろう。
ムンという音でいえば、業火で焼かれている肉と霊魂は、それじたいで常にムンムン音が鳴っているし、そこからさらにムンと言えば、沸き立つ肉に「再加熱」が始まったときなどに特に典型的にムンと鳴る。焼かれているのを「我慢」しているのだから、それはもうムンムン鳴るだろう。
一方で、身が救われて、肉が、霊魂が、静まっていくときはどのような音がするのか。静まっていくときは安直だが予想通り、「スーッ」という感触が聞こえる。騒ぎが極端にまで静まっていくときの空間のように。
静まり返った肉はどのようであるか。それは本当に、何の騒ぎもないのだ。何の騒ぎもない肉。その人の頬肉をつまんだところ、「こんなに何も起こらない身体ってあります?」「こんなに静かな肉ってあります?」と不思議なほど。それでもさらにその身に、その肉に、触れて慎重に聞き取ろうとするなら、騒ぎとは異なる清冽な奔流の、高くへと駆け抜けていこうとする音、その音が栄光をともなって「オオオオオ」と吠えているのが聞き取られるだろう。
身と体のうち、どちらを上に置くか。上下を入れ替えるならどのような違いが出るか。
「身」を上に置くなら、「体」は下方向へ静まり、「身」は高くへと浮上していく。「体」を上に置くならば、「身」は沈んでゆき、命を失って冷え、「体」は沸き立って高潮していくだろう。
「身」が上なら身体は命へ上昇してゆき、「体」が上なら身体は生へ上昇してゆく。
ただし、体が生へ「上昇」していくというのはいささか無理のあるところだ。本当は生死軸は逆転させて設置されている。上方に生があるというのは、そう思い込まれているにすぎないのであって、本当は構造上ありえない。しかし何事も錯覚しやすいわれわれの体感としては、生に向けて体が沸き立つ、上昇していくということは、じつにあるような気がするわけだ。われわれはそれをよく実感と呼んでいる。
われわれは現代を生死軸で生きているのだから、われわれは日常、無条件で「身を沈ませる」ということを続けていることになる。身は命を失って冷え、落ち込んでいく。先の暴力男も、財物をせしめたホステス女性も、「身は落ち込んでいっている」「ある種の業界に身を沈めた」ということはなんとなく直観が肯定するのではなかろうか。その彼らが、チャリティに励んでみたりデトックスに励んでみたりしても、彼らは所属軸を変更できないので、何にしても彼らの身は沈み・落ち込んでいく。もちろんその代わりに体は上昇していくけれど。
体は上昇していくのに、加齢と共に、じっさいには長期的に体は降下していくというのは意地悪な仕組みだ。上昇し続けた五十歳は、上昇などしていない小学生よりも先に死ぬ、と医者は言う。「なんでおれのほうが死に近いんだ?」と、つじつまが合わない。とはいえそのことも、われわれが初めから生死軸を逆転させているのが悪いと言われたら、そのとおりすぎてどうしようもない。
血と肉について、再度の説明をしておこう。「肉」は身であり霊魂だが、そこに「血」が染みると、それは体になり業(カルマ)に支配されていく。
まぎらわしい理屈だ。われわれはミカンの果実を食べるし、ミカンの果実はミカンの樹に生るに違いないが、だからといってわれわれはミカンの樹を食べているわけではない。ミカンの樹の味がするミカンの果実があったとしたら、それはただの異物混入であってその味は苦い。
われわれが食べる羊の肉も、たしかに羊の血によって育ったものではあるはずだが、その肉が「血なまぐさい」のはよくない。内出血した獣肉などよろこんで食べるまともな人はいない。
よい血統の馬が凛々しい駿馬だったとして、その馬が流血しながら走っていてうつくしいというわけではない。血は生だが肉は命だ。血が体をもたらすが、肉はできるかぎり身でありたいという性質のものだ。道路や電車が通っていてこそ生きている街だと言えるが、トレーラーや電車の騒音が響きわたって住民をおびやかすのがよい街だということではない。
身が落ち込んでいるということ、身は救われていないというようなこと。そのようなことは、いくらかは直観だけでもわかるものだ。たとえば成績や境遇の違いで赤の他人にマウントを取るような人、性的嗜好を異常化させて特殊な性交に耽るような人、そんな人の身が救われていると考える者は誰もいない。
体感としては、マウント合戦に勝利すれば、その人は自分が上昇した気がするかもしれないし、特殊な性的嗜好に耽ってオーガズムを得れば、その人は体感としては高くまで「絶頂」したような気がするかもしれない。けれどもそれは、ただ生たる体を高揚させたということでしかない。生死軸のダウンフォースの中で、なんとか少しでも生きていくのに足しが欲しいというだけだ。サンドバッグを暴力的に殴り続けてすっきりしたということと本質的に変わらない。そんなことで身が救われるわけはないと、誰でもうすうす知っているのだが、生死軸に所属しているかぎりは、そちら「体」の高揚を継ぎ足していくしかないという矛盾した実情に陥るのだ。
生命軸と生死軸、その所属が異なるという場合、じつに万事がどうしようもないということをここまで示してきているが、その最も直截のあらわれがこの「身と体」になる。
生命軸者が「身をもって」何かを示したとしても、生死軸者はそれを「体感」に翻訳するしかない。
このことは異軸翻訳という呼び方で覚えておきたい。
たとえば、
「こんなに静かな肉ってあります?」
という実物を、身をもって現すことができたとしても、生死軸者はそれを、
「へええ、やっぱり体なんですねえ!」
と翻訳せざるをえない。
わたしはそのような異軸翻訳に直面するとき、なんとか手がかりだけでも残せないかと思い、
「体というか、体質、みたいなものだね」
と言い換えて伝えるようにしている。それが後々になって功を奏す、ということは特になさそうではあるけれど。
身にせよ体にせよ、肉にせよ血にせよ、わたしはいまこのことを概念としてお話ししているのではない。それはそうだろう、具体的といえばこれ以上に具体的なものはないのだから。
あなたには手足があり、胴体があるだろう。それは身でもあり体でもあり、血肉で成り立っているものだ。
あなたに手足や胴体があるように、また、他の誰かにも手足や胴体がある。ただ、一般にはあまりにも知られていないこととして、それに触れたときに知ることは、やはりそれが単なるタンパク質のあつまりではないということなのだ。
人によって、その人の魂によって、その身・肉の感触は、触れてみると感触があまりに違う。びっくりするほど違う。信じられないほど静かな身、信じられないほど軽い身というものがある。逆方向には、おののくほど沸き立った体というのもあるし、おののくほど重い体というのもある。人間離れして重機のように硬く重い体というのもあれば、どのように掴んでいてもなぜかどこかへ抜けていく・消えていってしまうという身もある。オーブンで焼かれた直後のビーフのように、その内部がぐるぐる沸き立っているという体もあるし、よくよく横隔膜を澄ませて聞き取ってみれば、静かな身の中心を貫いて高くまで至ろうとする魂の奔騰がオオオオオと叫んでいるのが聞こえてくるという身もある。
あなたがもし、一度でも、わずかでも、その静かすぎる肉、どこかへ抜けていってしまう身、しかもその内部にほとばしる歓喜の叫びがある、というものにじっさいに触れることができたら、そのことはあなたにとって貴重きわまりない学習になる。またさらには、その静かすぎる肉と身のほうから「触れてもらう」ということが得られたら、あなたの学習はとてつもない飛躍の可能性を持つことになったと言える。
どこかへ抜けていってしまう身は、あなたがどのように抑えようとしても、本当に抜けていってしまうし、またその肉と身のほうから触れられたときには、あなたは何をどう踏ん張ろうとしても、わけもなく動かされてしまうということを知るだろう。そんなバカなとしか思えないことが、何度やっても同じように繰り返される。
その経験はひとしきり、体の高揚を信仰しているあなたを混乱・パニックに陥れるかもしれないが(十中八九そうなるだろうが)、そのパニックの苦悶がいくらかあるとはいえ、その代償を払ってでもあなたはその学習を得ていたほうがよいのだ。人が体をもってただ生きているだけではなく、救われた「身」なるものに本当に至りうるのかもしれないということ、そんなことが本当にあるのかもしれないと、思い始めることができるようにだ。
さらには、ひょっとしたら本当に、「命」というものがあるのかもしれないと、思い始めることができるようにだ。
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