ムン
幻想を強化したインタラクティブ性
じっさい「かわいい」は現代では大きな評価を受ける。動画の再生数もファボの獲得数も、かわいくないものに比して一万倍になる。一万倍というのは冗談ではないし誇張でもない。かわいくなければ「は?」と無視されるか、あるいはどことなく「死ね」という風を吹き込まれるのに対し、「かわいい」ということであれば向きは一気に反転して「ありがとう」「いつも元気もらっています」となる。かわいいというのは生のもので、生は体のものだから、極論でもなくかわいい「体」だけを表示していてもこのことは成り立つ。性的にムンという音の鳴っていそうな、若い女性の体をこれ見よがしに表示し、顔から上は映し出すことをせず、ただ編み物をえんえん続けているような動画でも、それに対して「元気をもらいました」という露骨なコメントが多数つく。コンテンツとは呼ばれていても内容はまったく無関係なのだ。高校生の女子が陸上競技の大会に出ている動画があったとして、彼女がその競技に鍛えられた体を示し、その体が美貌めいて「かわいい」ものだった場合、それだけを理由に再生数といわゆるファボは数百倍から数千倍になる。そして彼女がその大会でどのようなスコアを得たかは誰も覚えていない。それどころか目撃さえしていない。視聴者たちは彼女の「体・かわいい」を見下ろして愛でているだけだから。もちろん視聴者たちが空想に描き出したかわいいその女子高校生は、彼女本人ではなく彼らが幻想で創生したものにすぎないが、それでも堂々と彼らはその自分で生み出した幻想の彼女に向けるものとしてコメントを書く。
そのコメントが数千件に及ぶとき、よもやその女子高校生がひとつひとつのコメントに目を通しているとは考えられないだろう。もし何かしらのコメントを見かけたとして、彼女は「気持ち悪い」としか思わないだろう。「応援してくれていることはありがたいような気もするけれど、それより気持ち悪さが……」。そのようなことは誰でもわかっていそうなことなのに、数千のコメント側にはもう躊躇はない。これはコメントを入力する側が、すっかり幻想で創り出した彼女に「やりとり」を向けることに慣れ切っていて、じっさいの彼女がどう思うか、どう体験するかということは感覚の外側へ追いやられてしまったからだ。
インターネットと特にSNSを契機にして、メディアは双方向性・インタラクティブ性を持つようになり、このことがわれわれの幻想強化に弾みをもたらした。相手に読まれていないコメントでも、入力した側は相手と「やりとり」をした錯覚に耽ることができるのだ。「体・かわいい」の彼女と、「元気をもらいました、ありがとう!」「がんばってください、応援しています」「すっかりファンです、これからも活躍を楽しみにしています」というようなやりとりをした。そのようにして、創り出した幻想と架空の関係までを幻想するようになったわけだ。
ひいては先の段に示したところの、アイドルまがいの「かわいい」女性が目の前の人をまるで認識しないという、これまでの人の機能性とは違う異様さを示すということも、成り立ちとしてつじつまが合ってくる。数千のコメントはすべて、ファンたちが幻想で創った下方アイドルに向けたものなのだから、彼女の側としても、これまでに誰かが彼女になにかを向けたわけではないのだ。誰も自分のことを見ないのであれば、彼女も誰のことも見ないだろう。ファンたちは「かわいい」という情感から下方に幻想のアイドルを創り出しているだけ。じっさい、現在(二〇二三年)すでに Vtuber などはよく知られたコンテンツで、Vtuber はもちろんその実物じたいが存在していない。それでも「かわいい」からいいのだということで多くのファンがついている。「かわいい」という情感だけがコンテンツなのであって、それは「誰」ということではない。ましてこの先はすぐにでも、その Vtuber のアイドル的なやりとりを、人工知能が代行しそうなのだ。音声も言語も、表情さえもまったく適切なものをモデルとマーケティングから選びとって。
人は文化的には、チョコレートケーキが好きたったり、イチゴのショートケーキが好きだったりするだろう。これが蟻だった場合、蟻は甘いものによってくるが、蟻は文化的ではないので、ただ甘いものに機械的に寄ってくるのみ。そのことと同じように、人はすでに「かわいい」ものに機械的に寄ってくるだけという状態を解発している。それが誰とか何とかいうことではなく、ただ「かわいい」という情感だけに寄ってくる。せいぜい、趣味や性癖などはあるかもしれないが、それにしたってそれは誰ということではないのだ。
そうして、「かわいい」のファンたちにとってはそこに「誰」もいないのだから、アイドルの側だって自分を「誰」として目の前の人に応接する必要はない。極端な話、そのへんの電柱に「かわいいスプレー」を噴きかければ、彼らは虫と同じようにその電柱に寄ってくるのだ。そのようなものに対してアイドル女性の側はもちろん死ねと思うだろう。だから彼女が相手をしているファンは彼らではない。彼女もまたそこに誰もいないファンに元気を与えているのだ。
現代を生きるわれわれは誰しもこのことについて相応の見解を持っておくべきだと思う。インターネットおよびSNSから膨らんでいったインタラクティブ性について、それは<<相互のやりとりを活性化することにははたらかず、相互が創生した幻想とやりとりをすること、その活性化にはたらいた>>。もし厳めしい言い方をするなら、かつて双方向性と思われていた機能は、じっさいには「相互独我共生」の機能として実用されたということになる。
相互独我共生だから、目の前に誰もいないような挙動になるのは当然だ。それでいてわかりやすい傍若無人というのとは異なる、まるで「仲良し」のような挙動をするのは、そのように共生しているからだと理解されるべきだろう。まったく思いがけない意味で、アイドルはファンを必要としているし、ファンはそのアイドルを必要としている。かわいい彼女はカレのことを必要としているし、またカレもかわいい彼女のことを必要としている。それはいわゆる相利共生だが、それだからこそ相手が「誰」という要素は存在していない。テッポウエビとハゼは相利共生するが、翌日にハゼが別のハゼに入れ替わっていたとしても、テッポウエビは何も思わないだろう。それは冷淡ということではなく、ただわれわれが旧来持っていた「人」への認知とまったく現象が異なるのだ。
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