ムン
パフォーマンスが錯覚され、あこがれの生命軸が逆転する
「かわいい」ものに対して、一種の信仰のようなものが看取される。信者というような呼び方がされるのもあるし、アイドルのライブなどは、現場としてはたしかに新興宗教のような盛り上がりが見受けられるだろう。じっさい、多くの人はその「かわいい」から「元気がもらえる」ということは否定しないのだし、厭世的な世の中で例外的にそこからは生きる気力がもらえるということなら、それは信仰の対象となっておかしくない。竹藪に祀られているお地蔵様を拝んだところで「元気がもらえる」わけではない。
それなら、お地蔵様よりは「かわいい」のほうがリアルに、
「天使でしょ」
ということであっておかしくない。おかしくないと言っても、われわれは未だそのことの違和感を無視できるほどには至っていないが。
生命軸といって、こんにち誰も「命」なんてものは信じてもいないしアテにもしていないというのが実情だが、それでも「命」というのは人々にとってあこがれではある。青春の命、恋あいの命。仕事の命、芸術の命、あるいはちょっとしたやりとりや、ささやかなジョーク、何でもない日常すべての光景にさえ、命というものがあるなら、ぜひあってほしいものだとわれわれは思っている。もしそうした、愛や光や命というものへのあこがれがまるで存在しないのであれば、われわれの生はもっと単純でわかりやすかっただろう。上位者が生きるだけ、下位者が死ぬだけ、何の命もない世界だ、本心からそれでいいというならこれ以上わかりやすい話はない。
じっさいにはわれわれは、生死軸に納得していないし、なんでもかんでもに「死ね」というガスを噴き出す自分たちと周囲のありように、本心では辟易している。もううんざりなのだ。自分が「死ね」のダウンフォースを受けたくないものだから、吾我を驕慢させて、すべてのものをほんのり「死ねば」と思って眺めている。そうしてずっと自分を我慢スコアで守っている。自分がそうしているということは、他人もそうしているということで、自分も他人も相互にほんのり「死ねば」と言い合っている。それで、どうしても水面下では常にマウント合戦が発生し、マウント合戦に負ければ激しい屈辱を受け、マウント合戦に勝てばみっともないほど「スッキリ」する。こうしたことを八十年続けてあとは死ぬだけということが、こころの底からよろこべないということは明らかで、それでも脱出する方法がなくて絶望しているのだ。
そんなところに、どんな演出であれアイドルのように「かわいい」ものがひょっこり現れたら、絶望の中の例外として、
「癒されたわ、元気をもらった。もう "生きがい" になっているよ、いつもありがとう」
ということになっておかしくない。
ここでの生死軸うんぬんの話をしても、彼は彼女のことに関しては、
「あのコに関しては、そういうことの例外だと思う。死ねとかまったく思わないし、彼女もまた、誰の悪口も言わない純粋なコだから」
と断じるだろう。
「かわいい」は生死軸における例外だと述べたが、生死軸における例外ということは、
「つまり彼女は、命の中にあるんじゃないの?」
という気がしてくる。ここまで三つの軸、
・順生死軸
・逆生死軸
・生命軸
の話をしてきているのだから、生死軸の例外ということならば、「かわいい」という現象はやはり生命軸に属するんじゃないかと言いたくなってくる。
「かわいい」彼女が衣装を着、あるいは制服を着、かわいい体をあらわにして、かわいい表情を見せて、唄ったり踊ったりする。
そのパフォーマンスはすべて、生死軸のフォースを受けないのだから、
「命のパフォーマンスなんじゃないの?」
という気がしてくる。
じっさい、なんでもない放課後の教室に、制服を着た「かわいい」女の子が座っていたら、それだけで無条件の、青春の命があるように見える。
なんでもない坂道を、青年が走っていたら、ただのジョギングか、ただの急いでいる人だが、「かわいい」衣装を着た、「かわいい」体の、「かわいい」女の子が走っていたら、そこには何か人を惹きつける「命」があるように見える。
中年の女が駅前で泣いていても、「なんだコイツ」としか思わないが、スカートを短くした制服姿の女子高校生が泣いていたら、
「放っとけないだろ?」
と、そこに命があるような、そういう空想が湧く。
アニメ映画「サマーウォーズ」で、主人公の健二は、アルバイトがてらあこがれの先輩・夏希の実家に行くことになる。このヒロインの設定および、その夏希の実家という場所の設定は、サマーウォーズのストーリー構造には「まったく」関係ないのだが、もしここで夏希が夏男で、男の先輩の実家という場所設定だったら、そのサマーウォーズはまったく人気のないアニメ映画になったはずだろう。本作は夏希先輩が「かわいい」ということだけで、「これが夏でしょ、青春でしょ、命でしょ」と言い張られている。
もし「かわいい」がイコール命であったならば、「かわいい」は至便の、「命への特急券」ということになる。たとえばテレビドラマひとつを作るのでも、女の子にかわいい衣装を着せ、かわいい化粧をし、オープニングに意味ありげな表情をさせてそこに立たせておけば、それだけでもうそのテレビドラマには「命」があるということになる。じっさい、アイドルのパフォーマンスとしては、特級に「かわいい」女の子を中央に配し、「かわいい」衣装を着せ、「かわいい」体を露出し、「かわいい」ジャンプでもさせれば、それだけで客席はドカーンと盛り上がるわけだろう。「かわいい」女の子を橋の上に立たせ、待ち合わせでもさせておけば、それだけで何か物語の「命」があるように見える。これは真実としてやはり「命への特急券」なのだろうか。「かわいい」は生死軸の例外なのだから、
「そのとおり、命への特急券だよ、誰もあらがえない、『かわいい』は正義だ」
ということにしてしまえば、話のすべては簡単になり、まるでそのまま大団円を迎えそうな気さえしてくる。
われわれは「かわいい」女の子に(男の子にもか)、あれこれパフォーマンスをさせたがる。着せ替え人形のように、さまざまな衣装や制服を着せたがるし、歌わせたり、踊らせたりしたがる。笑顔にさせてみたり、走らせてみたり、泣かせてみたりしたがる。同じことを中年の男性には求めない。
われわれは「かわいい」に何を求めているのだろう。
われわれは潜在的に「命」にあこがれているのだが、「かわいい」にパフォーマンスをさせれば、「かわいい」は生死軸の例外であるため、すべてのパフォーマンスが命のパフォーマンスであるかのように見えてくる。あこがれているものが、特急券を得たごとく、ばかすか自分の体験として得られてくる。
仮に、あなたが演劇の脚本を書いたとして、その主人公は女の子だったとしよう。その劇作を命のものとするのはとてつもなくむつかしいことで、多くの場合は客席から「うーん」「つまんないなあ」という態度がこぼれてくるものだが、その主人公にとびきり「かわいい」女の子をキャスティングした途端、
「!」
客席は一気に主人公に惹きつけられる。そのための、わかりやすくかわいい衣装、肢体が大きく露出する衣装も用意した。主人公がくじけて泣くシーンでは、観客たちがグッと入れ込んでくるのがわかった。アンケートにも、
「主人公役の◯◯ちゃんが、かわいくて入り込めました! 最後の台詞のシーンでは泣きました、元気をもらいました!」
と高評価が殺到している。
命というものはどういうものなのだろうか。たとえば、急に話が変わるようだけれど、マーティン・ルーサー・キング牧師の最後の演説は、まるで人々に対して怒鳴るような声の強さだった。
山の頂上から、われわれに向けて、
「私の両目は、主の到来の栄光を見たのだ!」
と怒鳴りつけるようだった。
それを聞いていると、わたしなどは、上から押しつぶされてほうほうのていになりながら、それでも「生きなくては」と励ましを受けるここちがするのだが……
キング牧師の演説を、ひとまずパフォーマンスとして捉えたとき、そのパフォーマンスに対して、
「元気をもらいました!」
と返答するのはいかにもおかしい。
われわれは潜在的に「命」にあこがれているため、その命への特急券として、「かわいい」ものにパフォーマンスをさせたがる。「かわいい」は生死軸における例外なのだから、「かわいい」のパフォーマンスはたしかに、生死軸におけるそれとは違う性質のパフォーマンスを発揮する。
仮に、あなたの母親が年甲斐もなく酒に酔い、どこから引っ張り出してきたのか若いころの服を着て、もう体形に合わないそれを不格好にゆがませながら、腰を振って、
「イェイ!」
と言っていたら、あなたはそれをみてうんざりするだろう。
もちろん本心をこめてのものではないけれど、率直なところ、
(うざ。死んでくれ)
と思うはずだ。
それとまったく同じことを、「かわいい」がやったとしたら、あなたはそれに向けて「死んでくれ」とは言わなくなる。
それとまったく同じことを、あなたはあなたのパフォーマンスについて気にかけている。
自分が腰を振って踊ったとき、「死ね」と言われるようなものだったらつらいのだ。
その逆、
「元気をもらいました!」
と言ってもらいたい。
「かわいい」ということさえあれば、そのあなたのその希望は叶えられる。
その特急券を得たがっている人が多いのだが、なぜかその「元気をもらいました!」というのは、キング牧師のパフォーマンスとは違う。
このことは、こう説明されるとよい。
<<「かわいい」は、たしかに生死軸の例外だけれど、もしそれを「命」とするならば、生命軸は逆転し、あなたは逆生命軸に属する>>。
先ほど、ここまでに言及してきた三つの軸を再確認してきたけれど、じつはその三つですべてが語られたわけではなく、もうひとつ、逆生命軸というのがある。
・順生死軸
・逆生死軸
・順生命軸
・逆生命軸
逆生命軸においては、命が下で、生が上だ。
だから、逆生命軸における「生きろ」の励ましは、ダウンフォースではなくリフトフォースになる。
このリフトフォースの感触によって、
「元気をもらいました!」
というコメントが出ている。
順生命軸における「生きろ」はダウンフォースなので、打ちのめされてほうほうのていになるが、逆生命軸における「生きろ」は、リフトフォースなので "持ち上げられる" ように感じる。こちらの「生きろ」は浮上してふわふわするのだ。
そのように捉えることですべてが整合する。「かわいい」は下方・弱いほうにしか発生しないのだから、「かわいい」を命とするなら、その命は下方に発生するということになる。
生命軸といっても、逆生命軸は、「命を踏んづけて、自分の生に転化する」という軸だ。
だから、自分の下方に「かわいい」を置き、それにパフォーマンスをさせて、「命」へのあこがれを満たすと共に、それを自分の生に転化して、
「元気をもらいました、もう "生きがい" です」
とコメントしている。
「かわいいは作れる」といって、それを作って使用することには咎(とが)があるかもしれないと先の段で指摘した。その咎とはこのとおり、<<「かわいい」を作ってそれを命のごときに振り回すということは、生命軸にあこがれるあまり、逆生命軸に転属するという結果になる>>ということだ。もし命そのものに無上の価値があるのだとしたら、その命を踏んづけて自分の生に転化することには咎があるだろう。
「かわいい」はやはり、生死軸における例外ということにとどまり、生命軸への特急券ではありえない。
ただ、われわれは潜在的に「命」にあこがれ続けているから、その生死軸の例外にわざとらしいパフォーマンスをさせたとき、それがあたかも命のパフォーマンスに見える・錯覚されるという誘惑に引き込まれるのだ。
現代のマンガもアニメも、コスプレも日常的な個人も、いかに「かわいい」を描くかということを競争のかなめにしているだろう。「かわいい」が描けたら特急券、生死軸から離脱して、あこがれの生命軸に転属できる気がしている。
でもその転属は逆生命軸への転属だ。なにしろ、もともとが「逆」生死軸にいたのだから、そのまま転属すれば「逆」生命軸に転属してしまうだろう。その典型は、「元気をもらいました」といって、「生きろ」という励ましがリフトフォースとして掛かるということに見つかる。持ち上げられるように感じ、浮上してふわふわする。
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