ムン
順転魔王
誰もが生死軸のダウンフォースに辟易しているところ、「かわいい」だけは例外に思える。「かわいい」彼女に対しては、誰も「死ね」の声は向けないし、また「かわいい」彼女からこちらに向けても、やはり「死ね」の声はまったく聞こえてこない。いつも純粋で屈託のない笑顔がこちらに向けられているじゃないか。それが彼女らにとっての "営業" なのだと言われたらたしかにそのとおりかもしれないけれども、かといって誰でも彼でも彼女のように「かわいい」ができるわけではあるまい?
あそこまで本当の「かわいい」ができるということは、やはり彼女には特別なものがあるということなのじゃないか。彼女の営業スタイルというのはあくまで、彼女の本質をカバーする社会的な立場・装いにすぎず、彼女は本当に根っから「かわいい」のじゃないか。単なる営業として、表面的に「かわいい」をやっている連中が他にあるのも知っている。そうした表面的なものに、これまでだまされてきた、裏切られてきた、という体験も少なからずある。けれど、彼女および彼女らに限っては、そうではないと思うのだ。彼女らこそは "ホンモノ" なのだと思う……
やはり「かわいい」というのは正義であって特別なものだ、ふだんマウントやら「死ね」のダウンフォースやらに辟易している自分が馬鹿らしいと思えるぐらい、「かわいい」彼女は正義だ。その「かわいい」彼女が、たとえ遠くにでもいてくれることは本当に癒しになるし、励まされるし、元気がもらえる。自分にどんな弱点があったとしても、「かわいい」彼女にかかわってはヘイヴンなのだからその弱点の負担も免除してもらえる、だから生きていく気になれる。
これらの実効はどう見ても、
「やっぱり彼女こそ、命の人なんじゃないの?」
とわれわれに思わせるに足りる。
「その『かわいい』が作られたものだとか、イメージ・イラストを模しているもので、それに "なりきり" をしているだけと言われたら、そういう部分もあるのかもしれないけれど、そこってそんなに厳しく捉える必要があるのかな? 彼女はそうして、自分がかわいくなる "努力" をしているってだけなんじゃないのかなあ。彼女は単に、若くてピュアだから、そうしたイメージ・イラストのいちいちにも、影響されてしまう、それのまねをしてしまうというだけなんじゃないのかな。そのことまで含めて、やはり全体が『かわいい』って思うんだけど」
と思える。
まさかここで、「それは "逆生命軸" への転属作用なのである」なんてややこしいことを考える人はいないだろう。
ただそれでも、見逃せない一点、あるいはお目こぼしとはいかない一点がどうしてもある。ここまで説明してきたとおり、たしかにその「かわいい」彼女から受ける「生きろ」という励ましの声は、こちらが「ふわふわさせられる」ような感触ではたらきかけてくるということなのだ。持ち上げられるような、浮上させられるようなはたらきかけ。それは明らかにリフトフォースの感触だ。
もし彼女が命の人だったら、彼女からの "リフトフォース" として「生きろ」という励ましが聞こえてくるのはおかしい。生命軸において「生きろ」はダウンフォースのはずだ。
なぜ「かわいい」からの「生きろ」はリフトフォースとしてはたらきかけてくるのか。構造上、どのような可能性があるだろう。
このあたりは仕組みが煩雑に思えてわれわれは混乱させられる。
整理してみるとこうだ。「生きろ」というリフトフォースを受けるには、構造上、上位に「生」がある必要がある。
だから、「生きろ」というリフトフォースを受ける可能性があるのは、
・逆生死軸(一般的な生死軸)
・逆生命軸
のどちらかだ。
一般的な生死軸については、ここまでさんざん説明してきたけれど、ここで改めてもうひとつの、逆生命軸というのは何なのか。生命軸というだけでわかりにくいのに、それがさらに「逆」になっているので、逆生命軸というのはますますわかりにくい。
もし「かわいい」にかかわってすべてのことが、一般的な生死軸の中だけでやりとりされるのだとしたら、話はとても簡単だ。舞台上のアイドルは自分の満ちた生をファンに下賜し、客席のファンたちは自分たちの痩せた「死」をアイドルに捧げる。「わたしの生を満たすために、あなたたちは死になさい」という構図になる。じっさいわれわれは、他人事としては重度のファンがそうしてアイドルの「養分」にされているという構図を視認しているところがある。養分にされたファンたちは可能性や財産や身分を痩せこけさせていくのであって、けっきょくのところ、ファンは死ぬまですべてを捧げないとそのアイドルの真のファンではないということになる。じっさい、アイドルの生を満たすためにすべてを捧げて死んだファンがいたら、アイドルはそのファンのことを肯定的に認めてよろこぶだろう。もう死んでしまっているのだから、そのファンにつきまとわれるという心配もないので一石二鳥だ。
簡単化するために言ってしまえば、アイドルはファンに向けて、
「わたしの生を満たすために、あなたたちの身は養分になりきって死になさい、あなたたちはそのための存在でしょう」
「その代わり、わたしの豊かな生とその体は、あなたたちに見せつけてやるから、あなたたちはそれを抱きかかえて満足して死になさい」
と言っていることになる。
そんな恐ろしいことが、本当にあるのかないのか。
説明のために、本来の「命の人」の場合も説明しておこう。本来の「命の人」の場合、「主なる命を満たすために、あなたたちは生きなさい」という構図になる。
生きる者の頭上に「命」があるのだから、
「主なる命を満たすために、お前らは体を捧げて生きろよ、お前らはそのための存在だろ」
「その代わり、主なる命の栄光にお前らを浴させてやるから、お前らはそれを一身に受けて満足して生きろ」
ということになる。
もとの説明に戻る。アイドルのファンがその「かわいい」から "リフトフォース" の「生きろ」を受けてふわふわするということは、一般的な生死軸か、逆生命軸のどちらかで起こっているはずだ。それで、もし一般的な生死軸がそのまま露出しているだけであれば、ファンたちはアイドルのファンになりようがない。日常と同じ「死ね」のダウンフォースをそのまま受けるのであれば、彼らはそこに何らのヘイヴンも見出さないのでファナティクにはなりようがないだろう。
そこから、先に説明した「相互幻想」が見つかる。じつはファンたちの前には本質的にアイドルは存在しておらず、またアイドルの前にも本質的にはファンたちは存在していないということ。「相互幻想」の状態が、このアイドルとファンの関係を成り立たせていると説明した。そのことはそのとおりなのだが、では彼らが相互に見ている「幻想」とは何なのだろうか。彼らが何も知らないまま逆生命軸に転属するとして、そこで「生きろ」というふわふわさせられるリフトフォースを受けるとして、そこにある、真のヘイヴンではないらしいものとはいったい何なのだろうか。
逆生命軸の構造はつまり、「生が命を踏んづけて立っている」状態だと言える。生が上位にあり、命が下位にある。上位の生は、下位に命をやらせ、それを捧げさせて生として満ちようとしている。もし「命の人」が存在するのであれば、その「命の人」こそを下僕にして仕えさせ、自らの生を満たそうとしている。それが構造から逆生命軸だと言いうる。
いわば、神殿の命ために生きる誰かがあるのではなく、自分が生きるための生業として神殿に命をやらせようとする者があるというような状態。
あなたは誰を下僕にしたら、最上の持ち上げられた、最上の「ふわふわ」するここちを得るだろうか?
ふわふわさせられるここち、持ち上げられ、浮上するように「生きろ」と励まされる気がするあのここちは、そうして足許に命を踏んづけていることから得られるここちだと捉えていい。「ムン」はそもそも、そうして命の人を膝下にねじ伏せて自らを王とするために生み出されてきたものだ。最上の命を踏んづければ、最上の「ふわふわ」した浮上のここちが得られるのは必然と言える。そのここちの甘美さの無上たるは、ムンにとって耐えようもなく抗しがたい。
本来の生命軸、本来の「命の人」を仮設して考えてみよう。本来の「命の人」というものが存在したとすれば、陳腐なイメージだが、その人こそわれわれの目の前で「ふわふわ」と浮上していてもらわなくてはならないだろう。その命の人の足許にあるのが生たるわれわれということでなくてはならない。このとき、「ふわふわ」浮上している命の人からわれわれはダウンフォースを受けるが、そのダウンフォースはこの陳腐なイメージの中でさえ「生きろ」と聞こえてくる予感があるだろう。
ところが現代の「かわいい」に代表されて得られる「生きろ」の励ましは、自分の側がその「ふわふわ」浮上するという形で受け取られるのだ。自分こそが、持ち上げられて浮上する者。その足許には、命の人や神殿がある。最も踏みにじりたかったもの、最も膝下にねじ伏せたかったものがその足許にある。
かつて、日本で隠れキリシタンを弾圧するのに用いられた「踏み絵」のようなものをイメージしてもらうとして、その踏み絵を踏んづけて立つことで、いよいよその足許から生を満たすリフトフォースが湧いてくるということだ。
あるいはもっと単純に、青春の命を踏んづけ、恋あいの命を踏んづけ、芸術の命を踏んづけ、場所の命を踏んづけると、その足許からリフトフォースが湧いてきて、自分が「ふわふわ」持ち上げられるということ。
それで「元気がもらえる」「生きていく気になれる」そうだ。「かわいい」で偽装しながら。
われわれがいま、日常で最もありふれていることとして、「かわいい」から励ましを受けるということ、それで「ふわふわ」浮上した感じになるということには、どうもここまでの構造が組み込まれているらしい。ムン文化の中で人々は、単純に言って、「わたしはふわふわ浮上している地位のはず」という驕慢を発想の原点にしている。
仮に「命の人」が、清らかな花園に立っていて、まるで浮上しているようにその身がふわふわしていたとしたら、ムンはたちまち彼に駆け寄って彼の襟首を掴み上げ、投げ飛ばして地面にたたきつけ、鞭で打って「命の人」を四つん這いにさせ、土下座させる。
ムンは、そのふわふわする清らかな花園について、魂の底から、
「そこはわたしの場所でしょ!」
と怒鳴るのだ。引きずり降ろされ、地に叩きつけられて流血させられ、晒し者にされた「命の人」をそうして足蹴にして、怒鳴りつけ、説教を向けてやるとき、ムンは最も「ふわふわ」する。
「命の人」を "傷つく場所" に貶めているとき、耐えがたく抗しがたい浮上を得るのだ。
ムンは、「命の人」が直接憎かったわけではない。ただどこまでも「そこはわたしの場所」と思っていたのだ。命の人とその花園で横並びになれるのならともかく、そうではない、自分はその花園に立てない・入れてもらえないということを繰り返し経験させられる。そうなると、そこに立っている「命の人」が憎い。
どんな方法でもいいから、最大の力をもって、彼を花園から引きずりだして、地面にたたきつけてやる。
そうしたときに、自分は正当に "失地回復" し、わたしはわたしにふさわしい清らかな花園に立っているだろう。
極端な話に聞こえるかもしれないが、はたしてそうか。
われわれが見る「かわいい」アイドルの写真集には、「清らかな花園にふわふわ立っているわたし」というイメージがじっさいに掲載されているのではないか。
インフルエンサーでも何でも、イメージ豊かな背景の中に、「ふわふわ立っているわたし」を撮影してそれをアピールしているのではないか。
「ここはわたしの場所で、わたしはこういう場所にいる人なんです」
とアピールしているのではないか。
命の人が立つ栄光の場所に、自分が立つ。他のすべてのことはどうでもよいけれど、その「栄光の場所」だけはわたしの場所だ、そのことだけは譲らない。
そうして栄光の場所を強奪して、その壇上ではしゃぐアイドルを見て、人々はいまや、
「元気がもらえました!」
と呼応する。
そうした呼応が起こるということは、両者は同士、同類であって、同じ穴のむじななのだろう。
われわれは何と出会っているのか?
逆生死軸のまま、命にあこがれて転属しようとすると、逆生命軸に転属することになる。そこで出会うものは本来の「命」などではまったくなく、もはや「魔王」のようなものに出会っているようなのだ。そしてそれが魔王であるからこそ、じっさいにそれだけの力も持っているということらしい。ふわふわした「生きろ」のリフトフォースは生存本能にかかわって快感らしく、多くの人をとりこにしている。命の人を栄光の場所から引きずりおろしたことで、魔王がそうした報酬を与えてくれている。
アイドルもファンも、そこまで特殊なことをしているつもりはもちろんない。アイドルもファンも、ごくふつうに一般的な生死軸に属しており、その生死軸とは異なる一時的な避難所を持ちたい・作りたいとありふれて考えているだけだ。アイドルはファンの下風に立っているつもりはないし、ファンの側も「推し」の下風に立っているつもりはない。だから相互は向き合っておらず、相互はそれぞれに都合のよい幻想に向かっているだけのはず。だがその中で、どうやら本当にそうではないもの、単なる幻想とは言えないものと出会っているようだ。いわば逆生命軸における命の王に出会っている。少なくともそのアプローチは成立している。逆生命軸における命の王は、順転してみればやはり「魔王」だ。
われわれはどうも、アイドルを代表とした、作られた「かわいい」のアピール装置に篭絡されていくことで、いつのまにか順転魔王と呼ぶべきものに会うということを日々の常態にしているらしい。ちょうど、カルトまで含めたありとあらゆる宗教の、原理主義的な人たちが神殿の方向を拝むような頻度で、つまり一日に五回でも十回でも、われわれは「かわいい」をサムネイルからタップして崇めるということを常態にしている。タップしなくてもテレヴィCMにいくらでも流れてくる。じっさいわれわれが「生きる」という生活の実態は、老若男女、そうした娯楽メディアなしには成り立たなくなっている。急遽すべてのテレヴィ放送がなくなり、動画サイトの配信もなくなれば、老人はたちまち「生きる元気」を失って暗くなり死んでいくだろう。
「生きろ」と励ましてくれる声は必要だ。
けれども本来その声は、生命軸におけるダウンフォースでなくてはならない。
「生きろ」という声に、ふわふわさせられる・持ち上げられる・浮上させられるという感触が伴うのがその順転魔王の特徴だ。
「生きろ」というリフトフォースが、一般的な生死軸の中で得られてふわふわするとき、それはただのマウント合戦で酸鼻な勝利を得たということの結果でしかないが、その生死軸について――いつもマウント勝利できるというわけでもなし――嫌気がさして、生命軸と期待したものに向かう。その中で「生きろ」というリフトフォースが得られて持ち上げられてふわふわするとき、われわれが出会っているのは命の人ではなく順転魔王だ。その魔王は、「生きろ」と言ってくれて、自分を魂から励ましてくれる、だから順転しないうちはたしかに仕組み上、
「天使かな」
とも思えることにもなる。でも順転したら天使どころかそれは魔王、少なくとも魔王の使いであることは間違いない。
あなたはこのことについて、次のように考えなくてはならない。ここまで考えることができたら、あなたはこのことについてすでに高いレベルでの理論と判断力を具えているということになる。
「なぜわたしは、けっきょく "傷つくという場所" に立つことないまま、命を見つけた気がしているのだろう? 傷つく場所に立つことなしに、なぜわたしは世界が与えられたような気がしているのだろう?」
仕組み上、「傷つく」という分岐点に立たないまま、世界・命を与えられているのはおかしいのだ。そのときは不当な誰かが傷ついている。あなたは自分自身を地面に叩きつけなかった。代わりに、何か他の誰かを地面に叩きつけている。
あなたが踏んづけている足許で、命の人が傷ついている。その足許で、踏んづけた命の人が傷ついている。だからムンのリフトフォースが湧いているのだ。順転魔王からの報酬として。
だから、そのリフトフォースの中にいるとき、あなたの気分は持ち上げられてふわふわ浮上しているが、あなたの双眸はビー玉のように空虚な上、その奥は暗く蝕まれている。その瞳を深く覗き込むと何かがゾッとするのだ。
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