ムン
ここまでのまとめと、最後のムンに向かって
ずっと前の段で「慟哭するムン」について述べた。かつて求めた命の周波数、魂の周波数、世界の周波数が、自分には得られなかった。いつからかそのことをすっかり忘れていたものの、ふとしたとき、まったく別の誰かのところに、そのかつて求めていた周波数は現れた。なつかしい思いがして、自分もその周波数に加わってみようと思った。しかし自分から鳴る周波数は「ムン」で、彼の周波数とはまったく噛み合わなかった。自分が近寄ろうとすればするほど、自分は彼らとは噛み合わないのだということを思い知らされる。やがて彼らは、何らムンとしていない栄光の旅路へ出発する。それを見送る自分のほほえみは、ひどい偽物で、彼らを見送ったあとには、慟哭が湧いてこざるをえない……そういう話だった。
そこでムンが慟哭するのはとうぜんのことだ。だが現実的にはここで閉幕というわけにはいかない、われわれのじっさいの生は続く。そうして慟哭させられるということじたい「傷つく」ということに含まれるのだから、彼はやがてその慟哭するということが耐えられなくなっていく。
それで彼は、次の段階、「居直るムン」へと進行していく。
「居直るムン」が、さしあたり、われわれが目撃するムンの最終段階だと見てよい。最後のムンだ。そして最後のムンに向けて述べてゆくことができるということは、今回の話もいよいよ終盤に近付いたということになる。
ムンはもともと、「命」が得られないことから、その代替として発明され、台頭してきたものだった。なぜ「命」が得られないかといえば、「傷つく」という場所に立てなかったからだ。「傷つく」という場所に立つことができれば、そこに分岐路があることに気づき、人は分岐路の先に「世界」を発見する。その世界には「命」が降っている。われわれの生は、ままならぬこと多くして、あわれみに満ちているかもしれないけれど、だからこそ「生きろ」という声がその世界の空から降り注いでいる。あわれなわれわれは「生きろ」と命じられているのだ。
ただしその声を受け取るのは、「傷つく」という場所に立つことができた人のみで、ふつうはその「傷つく」という場面がやってくると、人はただちに習慣化した「我慢」のメカニズムを立ち上がらせてその場面から遁走する。そうして傷つくことに我慢で対抗するのは、むしろ「偉いでしょ?」と一般には思われている。我慢というのが「吾我の驕慢」という意味だとは教わらないでわれわれは生きている。自分は美人ではなかった。自分は走るのが遅かった。自分は異性にモテなかった。自分は大学に進学できなかった。自分は馬鹿にされた。そんないちいちのことで傷つくのがわれわれだ。生死軸において、そうして下位につけられるということは、上から「死ね」と嘲笑されて圧迫されるということだ。生を吸い上げられるということだ。つらすぎて耐えられない。だから「我慢」をする。我慢スコアを付与し、なんだかんだ「自分のほうが偉い」ということになれば、自分が彼の下風に立つ必要はなくなるわけだ。むしろ自分から向こうに「死ね」の風を送りこむほうが正当だろう? そうした我慢スコアの上でのマウント合戦になるだけだから、「何かを怖いと思ったことはないですね、僕はけっこう怖いもの知らずですよ」と思う。
我慢スコアを付与することで彼は「死ね」のダウンフォースに直撃されることを免れたわけだが、我慢スコアで膨張した彼の自我は、万事についての結果がスコアに相当しないので「おかしいな、計算が合わない」と不満に思う。もし、自分の魂が直面している真のスコアについて「こちらが本当のスコアなのでは」などと思い始めれば、一気に自信を失うことになる。自信を失うというのはとてもつらいことで、耐えられるようなことではない。だから、そんなときでも自分をちやほやしてくれる誰かの存在は、そのときこそひとしおありがたいものと感じる。そのとき、自分をちやほやしてくれる人だけがけっきょく自分にとって正しく許せる誰かなのだと確信する。自分はそうした正しく許せる誰かと一緒に、下方に見立てた他人に向けて楽しく「死ね」を発揮しているほうがずいぶん幸せだ。始めは吾我驕慢の音がムンムン鳴っていることに違和感を覚えたものだったが、一度そのムンの恩恵にあずかってみれば、違和感は気にならなくなっていった。むしろそのムン仲間が自分を支えているということを本心から認めようという気さえしている。なんだかんだあったけれど、けっきょく周波数が合うということがわかった。共鳴できる人たちといたいでしょ、そりゃ。ただ、もし冷静に観察するなら、そのムン仲間たちによって結果的に、祝福というよりは「わざわい」のほうがずっと多くなっているという事実はある。それもわかるのだが、だからといってもはや何をどうしようもない。ムン仲間たちはときおり、内在させていた「死ね」をこちらにも露出してくるなどして、ムン仲間としても脱落していったりするけれど、そんなことも今さらどうでもいいのだ。われわれはけっきょく生きるか死ぬかで生きているのだから。「誰でも内心でお互いにマウント取り合っているところはあるんじゃない? あんまりそれを露骨にされると付き合いきれなくなるけど」。
そんなに日常的に「死ね」と思っているわけではない。内心の奥深くで、と言われても、いちいちそんなに深く考え込んでいるわけじゃない。「むしろ、今あるものに、ありがとうってずっと思っているぐらいだけど?」というのも嘘ではない。「一般的なことで十分だし、一般的なことを大事にしていけばそれでいいんじゃないの?」。こんなことを言いあっていても何の意味もないので、「茶化す」ということを差し込んでうやむやにすべてを消去していくことは、実際的なわれわれの "気の利いた" 手法になっている。「命! っていうと、アレだよね、ゴルゴ松本のやつだよね」「あーそれすごいなつかしい笑」。そして何を権威にしているかというと、「えーこれ、超ヤバい、超かわいくない? マジ尊いんだけど」と、生命軸を錯覚する「かわいい」に帰依とやすらぎを得ているし、いっぽうでは、何かの役に「なりきり」の顔面と演出を見せている誰かのことを「リスペクト」している。
「むかしは確かに、世界とか命とか、そういうのが聞こえていたときもあったかもしれないけれど。子供のころの夏休みとかかな。でも、いつまでもそんな子供でいられるわけじゃないし。なんかむしろ、その世界だの命だのっていうことを考えると、逆にずっと死ねって言われているような気がするんだけど」(異軸翻訳)
こうした現代の生死軸文化、ムン文化はどのようにして始まったのだろうか。その端緒を明確に言うことはできないだろうが、ひとつの発端としてはやはり、命への分岐路として「傷つく」という場所に立てなかった者が「かわいい」に目をつけたということがあったのだと思う。idea と創造を繰り返し、たしかにそこに命と世界を現していたAに対し、Bは横並びに入り込もうとしたが、まともに相手されなかった。Bは始め、いろいろ言いたがり、言ってはみたものの発言は幼稚で支離滅裂だったので、Bは黙り込むことになった。BはAにまともに相手されなかったけれども、そのことに「傷ついた」と感じ、Aに対して攻撃的な気持ちを持ち始める。
Bはこのときすでに、「こんなに傷つけられて、わたし我慢している。この我慢だけでも偉いと認めてほしい」ということに主題を切り替えている。idea やら創造やら、命やら世界やらはどうでもいいことになった。わたしのこの我慢をどうしてくれるの。Cがそれについて警告に来る。もちろん警告の対象はAであって、「Bが、すんごい傷ついているんだけど。あなた、どう責任とるつもり?」。Bの行動はAに対して一方的かつ荒唐無稽だったのだが、「それはそうかもしれないけれど、Bがすごく傷ついたのは事実でしょ。謝ってよ」とCは言う。Cはこのとき、論理を超えて自分の言いようとBへの庇護が正義だと確信している。そのことのほうに命があると確信している。なぜなら、AとBのどちらが「かわいい」かと言えば、「かわいい」と目されるのはBのほうだからだ。Aのほうは、か弱さの中になく、生のバックアップを要請するシグナルを発してはいない。
Cは生死軸に所属していた。だからAが活動している idea や創造、その命や世界のことはわからなかった。そのことはこれまで、Cにとっても差別的なことだったのだ。それが今このときは、Cのほうが命の側へ所属していると、C自身には確信されている。Cはそれで正義の高ぶりの中にいるのだ。Aの「わからずや」ぶりに向けて堂々とため息をついて見せるほどに。
Bの「かわいい」に恭順することで、Cは自分が生命軸に所属する者だと錯覚することができた。もちろんこのときCは真相を知らないし、Bも自分のやっていることの仕組みに気づいていない。メディアから刷り込まれたイラストイメージがすでにBの脳裏にあり、Bは単純に、「純粋すぎて、すぐか弱く泣き出してしまう女の子」という偶像を模していた。Bはその偶像を模したときはじめて、人から「かわいい」「大切にしなきゃ」という扱いを受けた。Cを含めいろんな人が自分に「生きろ」という声をかけてくれるので、この「かわいい」自分が本来の自分であって、正しい自分なのだと学習した、あるいはそのように思い込んだ。
このかわいいものを護るために、Aに謝罪をさせなくてはいけないと、奮い立ったCは正義に満ちてよもや引き下がりようはなかった。その後、弾劾されたAは、BCとのかかわりからは離脱し、BとCは正義を完遂したのだが、なぜかBとCのところには命や世界は残らず、何かの闇を感じながら、BとCは互いに友人の「なりきり」を可能なかぎりつづけることになった。
こうして、偶像崇拝から「なりきり」によって生成される「かわいい」および、それによる逆生命軸への転属、命を踏みつけて自己至高性にまで踏み切った正義確信の高ぶりによって、人々はもともとの生命軸を駆逐し、ある意味では勝利を収めていった。「ムン」が勝利を収めたのだ。勝利を収めたのに、結果として得られる報酬はなぜか「計算が合わない」と感じられて不服なのだが、やがてそのことじたいにもムンは勝利しようとする。
永遠の「命」なるものじたいに否定と攻撃を向ける、最後のムンが登場する。
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