ムン
終わりに、予選落ちうんぬんを述べて
じっさいに女性がお出かけするときに、かわいい服とかわいくない服があったとして、わざわざかわいくない服のほうを選んで出かけるのは不可能だろう。現代において「かわいい」ということにはさまざまな咎が見え隠れすることを指摘してきたが、本来の「かわいい」がそのまま罪になるわけではないし、いまさら取ってつけたように表面的な「かわいい」の忌避をしたところで何かの足しになるわけでもない。堂々とこれまでどおり、かわいいほうの服を着て出かければいいだろう。何にせよそんなにせまっ苦しいことを主張しているのではないのだ。「かわいい」ということが、それだけで命たりえるということはまったくないということを述べたにすぎない。「かわいい」ということで多くの人は生命軸を錯覚するが、それで命の人としての機能を果たしているとは考えないほうがいい。命を求めて、世界を求めて、もしそれと出会うことがあったらそのときはせめてかわいがってもらえるようにと、祈りをこめているのですということで、そのいつもどおりの「かわいい」をやればいい。
自らが生命軸の者・命の人なのだという主張で「かわいい」をやっている人は、生きものとは異なる偶像イメージを背後において、ずっとそれを模しているだろう、そのことからは早めに手を引くべきだ。それから手を引いたら自分は驚くほどペラペラの空っぽになってしまうという恐怖に駆られる人があるのも知っている。でもそれは正当に恐怖すべきことだからしょうがないのだ。事実を他人に見せる義務なんてないが、事実を自分に隠蔽する努力なんてものもない。事実を自分に隠蔽しているということを「うまくやっている」とは言わない。同じうまくやるなら本当にうまくやれ。「かわいい」ということだけじゃない、すべて、偶像イメージを模して「なりきり」をしたらそれになれると思っていたり、それ以外にやり方を知らなかったりするということもあるだろうけれど、何にせよそれは誤りだ。そうではない直接の「命」という現象がある。そんなもの見たことないし触れたこともないとしても、そういう現象があるということにしておけ。なんでもかんでもすぐに自分のものとして言い張ろうとしなくていい。生きているうちに本当の恋あいに触れる人なんてごくわずかだし、本当の青春を得て生きていく人もごく少数派だ。それでも恋あいや青春という魂・命・世界の現象はある「らしい」と言い張っている奴のほうがまともだろう。それが自分のものじゃないからといって何なんだ、伝説のすべては自分のものじゃないけれど誰だって言い張っていいものじゃないか。あなたが伝説の人である必要はなくて、あなたの世界の伝説であればじゅうぶんだろう、あなたはそれを吾我の驕慢に使わないかぎりは、あなたの世界の伝説を言い張ってよい。
生死軸には誰もがウンザリしている。命のないものがあふれかえり、誰も彼も、アーティスティックに見せてけっきょく「自分は上」「自分のほうが上」「自分だけが上」ということをなんとしても主張としているだけということがあまりに多い。自分が上なら自分は死ねと言われなくて済むから。自分のほうが上ですと言い張るだけのアーティストとは何なのか。成り上がりたいという気持ちは肯定できても、その気持ちの出どころが「これ以上、人の下風にいて、死ねのダウンフォースを受けるのはイヤなんです」では、存在と行為そのものがしょぼくれすぎだろう。何がダウンフォースだ、他人のことなんかアテにするな、アテにするならせめて己が見上げる星空や太陽をアテにすればいい。
命というものがじっさいにある、本当にある、それが直接わかるなら、スピリチュアルは必要ない。デトックスも必要ない。デトックスをしてもかまわないけれど、それで自分の体内の毒や悪霊を排除できると思うな。自分が悪霊の棲み処になっているという事実から目を背けるな、自分が毒の源泉になっているということから目を背けるな。自分が悪霊の棲み処になっていない者、および自分が毒の源泉になっていない者は、誰かからディスられたり悪口を言われたりしても「な、なんだ?」とよくわからないだけで終わるのだ。そうした悪霊さわぎ・毒さわぎとがっちり噛み合ってしまうのは、自分が悪霊や毒と共鳴する者だからだ。パワースポットに行って元気になるというのも、ネタや気休めを通り越せば病気になってしまう。元気な者はどこにいたって元気だし、同じ行くならパワースポットでなく「自分の場所」に行けばいい。身体にいいものを食うべきだし、身体に悪いものは大量に食べ続けないほうがいいが、それにしたって自分の元気のあるなしを食い物になすりつけるな、加熱している健康志向じたいが病気じみているということは往々にしてあるだろう。
わたしの書き話しに命はあるだろうか。ある、それぐらい自分でわかっている。そもそもわたしは、そこに命がないならまともに書けないし、自分で命があると断言できないものを人に読ませるなんてことはしない。あなたが同じように何かを書き話したら命があるだろうか。あなたは書くことをもっぱらにした人ではないだろうから、あなたはただ話してみるか。あなたが話すことには命があるだろうか。そのときはわたしも口頭で応じるけれど、それに命があるとかないとかいうことが露出してくる気配なら、あなたはたいていその場所からビューッと逃げてしまうということをおれは知っている。それでかまわない。なんでもかんでも挑戦したいと思っているのは、傷つくということを想定に入れていない人だけだろう。いや、想定に入れていたとしても、それがどれぐらい傷つくものなのか知らないで想定に入れているものだ。やめておいたほうがいいし、ピューッと逃げ出すのが正解だ。何のネタでもなし、茶化すでもなし、かといってマジになるわけでもなし、ただ命のあるやなしやだけを焦点に、書いたり話したりして示すとかいうのは、ふつうの人がやることではない。神経がイカレている奴しかやらないようなことだ。そして神経のイカレている人にはたいてい命なんか降りてこず、そのまま本当に神経がダメになって恢復しない人になってしまう。おれはただ幸運だった。なんで幸運なのかは知らない、たぶん生まれた瞬間からずーっと幸運だった。
幸運だったといっても、おれは万事について、たぶんふつうの人が想像するよりも、入念に、しつこく、大量に、すりきれるまで、ヘトヘトのボロボロになって、色んなことをやっている。何につけ、同じ量をやるというだけでふつうの人は真似ができないだろう。三日間は真似できても、それを毎日、十年間、黙って続けていろと言われたらできない。人は、必ず結果が出ることなら努力できるが、結果が出るかどうかわからないこと、努力になっているかどうかもわからないことを続けることはなかなかできない。すべてが無意味だったとなったら十年後に致命的に傷つくからだ。そんなこと、神経がイカレていなかったらやっていられない。それでも、ずっと神経の安定のために逃げ回るというだけですべての生の時間を費やすわけにもいかない。どこかで何かをやらなくちゃいけないだろう。生きているうちに一度や二度は、命があった、世界があった、魂があった、そういう時間と場所を過ごさなくてはならない。それが一度でも二度でもあったなら、他のすべてがスッカスカだったとしても、ぎりぎり「まあいいか」と思えなくもないものだ。おれは精神がぜいたくで貪欲なので、すべての時間と場所を命のそれにしたいと思って、厚かましくそのように生き続けているけれども、誰もがここまで貪欲にならないといけないとは思わない。おれも作られたアイドルの「かわいい」にだまされて、推しでも持てたらいいのになあと馬鹿げたことを思うことがある。そうしたら休憩になるのかもしれないのになあと。でも残念ながら、おれにはけっきょくそういう性癖は一ミリも解発されないみたいだ。
ムンというやつは、ここ最近で特に、まったくシャレにならないものになってきている。自分の喉から汚物のような声しか出なくなった少年を知っているか。おれはすでにそういう奴をたくさん見てきている。もちろん通りすがりに見かけるだけで、知人になどなりようがない誰かだけれど。そうして自分から、命のない、汚らしい声しか出なくなり、また汚らしい目つきしか出なくなり、汚らしい粘膜、呼吸の空気さえ、汚らしいものしか出なくなっている、そういう少年がすでにいくらでもいる。もちろん少年だけでなく、青年でも大人の女性でも、中年でも老人でもだ。老人がもし、あるときから、汚い目つきと汚い声、汚い姿しか出なくなったらどうしよう? 自分が生きてきた結果がこれか、でも今さらやりなおす時間も気力もない。天国うんぬんがあるのかどうかは知らないが、もしあるのだとしたら、自分はこの汚らしい者としてその魂を審判されなくてはならないらしい。そんなときどうする。どうするといっても、もうどうしようもない。どうするという以前に、日々その症状が加速していくほうがずっと速い。何かの手当てでどうこうなるような速度じゃない。少年のうちに自分の魂のすべてを否定しなくてはならないというのもつらいが、老人になってこれまでの自分の魂のすべてを否定しなくてはならないというのもつらい。少年は、これから我慢して生きていっても自分の魂はなぜか汚らしいと決まっていて、老人は、これまで我慢して生きてきたのに自分の魂はなぜか汚らしいものと決定された。なんてひどい話なんだ。ひどい話かもしれないが、かといってそれで絡まれたとしてもそんなものにはお付き合いのしようがない。その実物に向けては、おれもある意味相手を尊重するという思想をこめて、ありふれて「死ね」と想念するよりないのが正直なところなのだ。おれの内に死ねという発想は存在しないが、彼らから響いている声をそのまま山びこかオウムのように返すなら、そのままを率直にお返しするしかないのだ。おれがそう言っているのではなく、あなたからのすべてはそうとしか聞こえてこないという意味で。悲しみがないわけではないが、悲しいからといってどうにもできないことも存在する。
なぜか少年のうちに汚らしいものに決定してしまった彼に「あなたはムンです」と言ったって、彼は傷つくだけだろうし、もう老年になってしまった人に「あなたはムンです」と言ったって、やはり彼は傷つくだけだろう。その傷つくということに、友人も得ていない少年が耐えられるわけがないし、敬老といって敬われるのが大前提のつもりの老人が、やはりその傷つくということに耐えられるわけがない。いつも思うことだが、こんな話をしているとき、おれの言っていることのすべてが誤りであったらいいのにと思う。いつもそういう埒もない願いを最後に覚えているような気がする。他のすべての人が正常でまともで、清らかで聖なるもので、おれひとりだけが誤っている汚らしいものであったとしたら、そのときはおれが傷つけばいいだけだろう、もしそうだったら気が楽だ。おれはそうしたことに慣れているから。でもそうしたことに慣れているぶん、それが、慣れていない人にとってどれだけキツく、耐えられないことかということにも想像がついてしまう。お前は汚らしい少年なんだ、あなたは汚らしいジジイなんです、そんなことに誰が耐えられるのだ。そんなことに慣れているおれのほうがおかしい。
おれの場合は、こうしてずっとよくわからない書き話しをしており、しかもその書き話しに「命」がないとイヤだっていうのだから、しょうがなかったのだ。書き話しだけでなく、けっきょくこれまでのすべてのことにおいて。おれは、自分のやることに命がないのはイヤだった。命がないなら、おれの生きたすべてのことは0点でかまわない、と思っていた。0点でもかまわないので、おれは自分に対してなるべく公正でいたかった。おれはここに書き話したことが0点と評価されてもまったく何も思わない。あなたの場合はそうじゃないだろう、あなたが精いっぱい、何日もかけて、目をこすりながら頭をひねって文化的あるいは芸術的な作品をなんとか作り上げて人に示したとして、0点とか「ゴミ」とか言われたら傷つくだろう。おれにとってはそんなことが日常なのだから神経がイカレている。じっさいおれの書き話しには何ら「いいね」がつくわけではない。誰との共同作業でもない、ただのおれひとりかぎりの、命へのアプローチだ。0点と言われてもおれは「そうですか」としか思わないし、百億点と言われても「そうですか」としか思わない。「ゴミ」と言われたら「もともとそのつもりだけど」とおれは言うだろうし、そのときウソ発見器にかけてもらってもかまわない。じっさい、ここに一万の人を集めて、おれの横に衣装を着たかわいいアイドルを立たせて微笑ませ、その横におれの書いたものを示せば、九九九九人はアイドルのほうを「かわいい」といい、おれの書いたものを「ゴミ」というだろう。その中で一人ぐらいは「うーんどうなんだろう」首をかしげているかもしれない。おれの学門としての関心はただ一点、その九九九九人が結果的に祝福を受けるか否かなのだ。祝福を受けるとしたら、それは彼らが崇めた「かわいい」アイドルが命の人だったということ。もしその「かわいい」アイドルが命の人でなかったとしたら、彼らの行為は自らの呪いとなり、祝福ではないわざわいを多く受けることになるだろう。
話のついでに、ひとつだけ警告しておきたい。年長者としてのありがちなアナウンスだ。人はふつう、命のあるやなしやなんて、そんなことじたいに挑戦しないし、そんなことに自ら踏み入ろうとしない。そういうことに興味あるんだよねと言いながら、本当には踏み出さないのがふつうだ、「興味あります」という場所に留まり続けるというのがふつうのこと。そこから数センチでも本当に踏み出せば、本当にシャレにならない「傷つく」ということが起こり始める。そうなるとどうなる。奇蹟的に「世界」へ流れ込む可能性もあるけれど、そうでないかぎり、急激にムンが加速する。傷つくということに対して手当てをし、得られない命の代替として発生してくるのがムンなのだから。
命のあるやなしやに、無謀に野放図に挑戦してしまうと、そこからムンが急激に発生してしまうということ。その急激さは、日常で発生するムンのいきおいとは比較にならない。だからといってやめておけとは言えないけれど、とにかく、気をつけようねということだ。本来、ここで友人やら師匠やら、先輩やら先生やらが必要になってくる。あなたがムンっとなったときにただちに咎めてくれる友人、あなたがムンっとなったときに「なんだコラ」とブッつぶしてくれる先輩、命ということでいえばムンで対抗しても「だ、だめだ、勝てねえ〜」と実力でわからせてくれる師匠や先生、そういったものが必要だ。そういったものに囲まれていれば、あなたのムンはそのたびごとにつぶされて、あなたは何度でも健全なまま、あるべき笑顔とうつくしさで、その命のあるやなしやに挑戦することができる。ただそれも、最近は「かわいい」ということのほうが上回りがちで、「かわいい」ということでちやほやされる人を止めることはたぶんほとんどの人に不可能だろう。まあそれはしょうがないとして、とにかく、作品やら芸術やら、恋あいやら青春やらでもそうだが、命のあるやなしやに挑戦すると、ムンは急加速する可能性があるからそのつもりで向かわねばならない。命のあるやなしやに挑戦した人が、半年後にはスピリチュアルな人になっていて、その二年後にはカルト宗教の熱心な広報係になっていたとしても、おれは何も驚かない。
おれは懐かしいことを思い出す。思い出すというのはウソか、別に忘れていたわけではない。ずっと覚えていることだが、おれは自分が運営するウェブサイトのタイトルを、あまり考えずに Quali, とつけた。なぜ最後にカンマが足されているかなのだが、このことにはおれなりの、どうでもいい含みがある。おれがまだ二十歳やそこらのころから思っていたことだが、物事には、出来のよしあし以前に、まず予選を通過しているかどうかということがあると思うのだ。予選を通過して資格を持っている者のことを英語で Qualified と表記する。
われわれは、自分が生きることに、そうたいそうな願望を抱えるべきではない。誰も彼もが歴史に残る伝説のチャンピオンになれるわけではないだろう。けれどもいっぽうで、しょぼくれて閉鎖した、黄ばんだ目の者になるべきでもない。たいそうな奴ではないにせよ、同じ世界に立っている、快活で夢のある奴であるべきだ。
このあたり、わたしの言いたいことはつまり「予選は通過しようぜ」ということなのだ。決勝に出ればもちろん、もっと勝負にならないような強豪もウヨウヨいるのかもしれず、そうしたエリートたちや天才たちには及ぶべくもないのかもしれないけれど、それと予選落ちはまた話が別ではないか。予選を通過して、"同じ場所" に立つ資格を得ること。その上でフラれろよ、とおれはむかしよく話していた。不気味な男が不気味な態度で不気味に女の子に言い寄っても、ひたすら不気味なだけであって、そんなもの恋あいでも何でもないだろう。「そんなのはそもそも、恋あいという同じ場所にさえ立てていないから」。恋あいうんぬんというなら、冴えない男でもまず予選は通過しないといけないのだ。それからでないとそもそも恋あいにならないし、「恋あいにならないということは失恋にもなってねえんだよ」と、むかしのおれはよく言っていた。その考え方はいまもまったく変わっていない。
そしてその「予選通過」とは何を指しているのかというと、それこそが、今回話してきた中での「傷つく」という場所のことなのだと思う。たとえば恋あいといって、単に恋愛願望の強い人と話をしていてもしょうがない。恋あいの話というと、恋あいで傷つくということを体験してきた、そこで我慢などに膨張せず、命を、世界を見つけてきた、そういう人としか恋あいの話はできない。青春の話といって、単に若かったころの話というのは誰にでもあると思うが、それだけで青春の話にはならない。体育会系の部活動をやっていましたというだけで青春の話になるわけではない。いかにも若いころにある営為の中で、傷つくということを経験した、そこで我慢などに膨張せず、命を、世界を見つけてきた、そういう人と青春の話をするべきだ。そこで傷つくということと、そこから我慢になど膨張せず世界を見つけてきたということ、それをもって予選通過であって、われわれはこの予選通過してきた同士とのみまともに話すことができるのだ。
表面上は同じような経歴で生きてきたとしても、その中で「傷つく」ということじたいを体験してきていなかったり、そのことごとくで「我慢」を膨らませてムンとしてきたという人とは、噛み合ってお話することはできない。予選落ちだ、とおれは率直に思う。予選落ちと予選通過者のあいだには差別があるべきだとおれは思っているし、それを無理やり「みんないっしょ〜」にするのは、不正なだけでなく不気味で、しかもすべての意味を解体することにしかならないとおれは思う。
言ってみればムンは、予選通過していないのに、決勝の会場に首を突っ込んできている奴、ということでもあるだろう。それは、ムンムンしていて当然だ。本当は自分はそこに立っている資格を持っていないということを知っているのだから。周波数が合わないというのも当然だし、ムンはムン同士で共鳴するというのも当然だ。ムンがやがて命の人を攻撃し始めるというのも当然だろう。ムンの人と命の人は、レベルや能力や違うということではなく、そもそも "同じ場所にいない" のだ。そもそも「傷つく」ということにかかわって双方は違うほうへ向かっていったのだから当然のことだ。
予選を通過するのはそんなに簡単なことではない。われわれのような凡人にとっては、万事が、予選通過できたらもうゴールみたいなものだ。決勝で何位になるかなんてたいそうなことは、ほとんどのばあいわれわれは考えなくていい。ただ、予選通過して、同じ場所、伝説の場所に立ちたかったのだ。少なくともおれはそれだけだ。
予選通過はそんなに簡単なことではなくて、予選通過できなかったときはどうする。ムンっとするのか。そんなアホな話があるか。ムンっとして、さらに同じようにムンっとした人たちと肩を組んで、ムンムンして、予選通過した人たちを圧迫して、自分たちも決勝の会場に割り込むのか。そして「わたしたち、かわいいよね」と庇護を求めるのか。そんなアホな話に付き合っていられるか。
どれだけ美少女で、どれだけおっぱいが大きくて、どれだけセンスのある洋服を着ていても、予選通過していないなら恋あいはない。青春もないし芸術もないし、物語もないし場所もない、命もない。まず予選通過の道筋を探せ。どれだけごまかしても、必ず行き詰って、その行き詰まりには必ず同じ「そもそも予選通過していないでしょ」という文句に出くわすから、そのことの回避ルートを探し回るだけ無駄なのだ。どれだけ美少女で「かわいい」とちやほやされても、予選通過していない彼女に物語はない。ちやほやされてアイドル活動として舞台に上がっても、そこに芸術はないし場所も文化もない。我慢で膨れ上がった女子高生には何もないし、彼女についているプロデューサーにも何もないのだ。そこに独特のオーラがあるように誤解しているのは、まさに誤解であって、彼ら・彼女らはただ「ムンっ」としているだけだ。その「かわいい」に対する「ファン」たちも、ムンっとしているだけで何もないのだ。舞台上のアイドルは、客席のファンたちを内心で、「この人たちは、基本すべてに予選落ちしてきた人たちですよね」と堂々と思っているじゃないか。
予選通過はそんなに簡単なことではない。傷つくこと、傷つく場所、その分岐点で、命を見つけること、世界を見つけること、そのような、ともすれば一生に一度の体験というようなやつで、なんとかギリギリ予選を通過する。他人から見たらしょうもないことでも自分にとっては一大事なのだ。われわれって本来そんなものだろう。われわれは本当は、そのちっぽけな一大事の予選通過もできないまま、オピニオン(意見)やフェイバリット(お気に入り)みたいなふざけたものを振り回すのはバカのすることだと知っているんじゃないか。
今回、生命軸と生死軸ということで話をした。最後に予選通過という話をしたが、予選通過はつまり、わずかでも命に触れることがあり、生命軸への縁を持ったという状態を指す。まだ縁を持ったというだけで、それだけでただちに生命軸に所属が転じたとまでは言えないとしても、縁を持っているのと持っていないのとでは大違いだ。その両者は存在じたいが違う。
この生命軸への縁、所属の可能性を、ふたたび断ち切るものがあるとしたらそれはムンだ。かつて予選通過して資格を得たはずの者でさえ、その資格を取り消されてしまうことがある。
いまから十年前、わたしは今とは違う街に住んでいた。違う家屋の違う書斎におり、今とは違う窓からの景色を眺めていた。それらをいつまでもなつかしく思い出すということは素直に自白するとして、それと同時に、わたしはいまも同じ場所にいるということも宣言したい。あのころ、わたしは傷つくということに今よりも鋭敏だったと思うが、今はそのときより鈍感になったのかというと、そんなことはない。ただあのときより強くなったのだ。今はかつてよりもさらに鋭敏になり、ただその鋭敏さは、わたしがかねてから世界に護られてきたということまで発見させたのだと報告したい。わたしはその発見の中でますます真っすぐ立つようになり、それによって、前よりはずっと強くなったのだ。
十年前のあのとき、あの場所でわたしが危惧したのは、メンヘラ文化がどうこうという言い方のものだった。その言い方も現在の状況と比較すれば、ずいぶん柔和な言い方のもので済んでいたのだと思う。いまは「ムン」であって、しかもそれはすでに精神的なことの「問題」だとは取り扱われていない。ウェブ上であれじっさいのことであれ、人々のあいだではマウント合戦が常のことになり、下方への「死ね」の声が大合唱を起こすのも、ふつうのこと・いつものこととされるようになった。この状況下、われわれは偶像を模して形成される「かわいい」を愛でるだけで、癒された気になり・生命軸を誤解した気分に浸り、それだけを頼りにこの現在のすべてのことを無視しきろうという、無謀で勝ち目のない発想の中にいる。
二〇二三年八月十日、増大するアメリカでの自殺者数に関連して、アメリカのベセラ厚生長官は、「アメリカ人の十人に九人はメンタルヘルスの危機に直面していると考えている」と述べたそうだ。国家が国民に対して「九割の人がメンタルやばい」と発言するというのはどういう状況なのだろう。驚くべきことのはずだが、もはやこうしたことに対して市民からのリアクションは起こらない。仮に小学校の担任教師が「このクラスの九割はメンタルヘルスの危機に直面しています」と児童たちに言ったとしたら本来はもっと衝撃を受けるべきことであるはずなのに、もう何のリアクションも起こらないのが現実となった。わたしが十年前に危惧した「メンヘラ文化」うんぬん、涙ぐましいサイズのものとして鳴らした警鐘は、いまこのときまったくの現実になったとも言いうると思うが、そのことを予言が的中したといって誇るような気分にはわたしはなれない。ただわたしはせめてもの抵抗として、わたしが単なる思いつきを自己主張として言いふらそうとしているわけではないのだということに、何でもいいから可能性と説得力を添えたいのだ。現在のわれわれはこうしたことを、なんでもかんでも貧富の格差のせいに括り付けて、話を終わらせて就寝しようとする向きにあるが、いいかげんその説もアテにならないということを本心のところではわかっていよう。われわれは、親しく観ていたはずの明るく快活なテレヴィでの著名人が、十分な所得と立場を持っていながら唐突に自死したというニュースをもう何度も聞かされているはずだ。
生命軸との縁が絶たれてしまい、「死ね」のダウンフォースに晒されているのだ。
「死ね」のダウンフォースが吹き荒れる中、さらには命から下される「生きろ」の声も異軸翻訳されて「死ね」と聞こえてきかねない中で、われわれは引き返して、よりによって「傷つく」ということを恢復しなくてはならないという。ただでさえ耐えがたく困難なそのことを、このダウンフォースの中でやれというのか。命のまるで見当たらない現代の中でそれをやれというのか。それは一歩誤れば、本当にそのまま生死軸のダウンフォースに直撃されて死に転落する危険まであるような行為ではないのか。そのように詰め寄られたとしたら、わたしはそれについて、そのとおりかもしれないと無力な返答をせざるをえない。
それでけっきょく、最後まで言いうる微弱な希望は、「命あるいは命の人は、いまもなお傷ついているのだ」ということになってくる。予選通過などできない、そのやり方もわからないという人は、自分のことの前に、予選通過者が傷つくことに生きたということを知らなくてはならない。それをもとにして対比的に、予選通過していない者は、我慢することに生きたということに気づかなくてはならない。我慢の人の攻撃的な矛先が命の人に向けられるのは、命の人が傷ついた人だということを彼らが知らないからに違いない。我慢の人は、自分が傷つくということに対して我慢の手当てをすることしか知らないため、我慢の手当てをしていない様子の命の人のことを、「傷ついていない人!」と憎らしく思っている。そうではないのだ。十年前にわたしが書き示したところには「陶酔がよろこびに取って代わる」とあるけれど、命の人はいまも世界というよろこびの中にあり、自分が傷つくということに陶酔はしていない。現代の言い方でいうなら、命の人が "エモくない" と言うほうがわかりやすいのだろうか。命の人がエモくないということが、命の人が傷ついていないという誤解を生み出している。命の人は、初め果てしなく「やさしい」と直観され、その直観は消えないのに、我慢の人はやがてその命の人に攻撃の矛先を向けるようになっていく。なぜそんな矛盾したことになるのかと訊かれれば、我慢の人は「わからないです」と言いながらそれを続ける。
さらにさかのぼって、わたしは四半世紀前のことに答えよう。やはり傷つくと言って、その傷つくということには実体がない。傷つくなんて、言いだせばキリがない、言った者勝ちのものにしかならないということは、すでに二十五年も前に知られている。
傷つくというのはどういうことだろうか。二十五年前に答えられなかったことについてわたしは今ようやく答える。あなたを傷つけるためにはどうすればいいだろうか、あなたが遅刻してきたときに、体育教師が、
「このボンクラが!」
と天まで轟くような大声で怒鳴りつければよいだろうか。そのようにすればあなたはきっと傷つくだろう。何しろ遅刻呼ばわりではなく "ボンクラ" 呼ばわりだ、傷つくに違いない。そして、援護を得ればあなたはそれをパワハラだといって裁判所に訴え出るかもしれない。
わたしはそのときのあなたと同じように、かつてその「ボンクラが!」という怒声を浴びたことがある。いまもそのI先生の姿は記憶に刻まれているが、わたしはなぜかそのとき、I先生の怒声に対して自らの魂が "寄った" ということをはっきり覚えている。I先生の怒号は、大人からクソガキに向ける直截のダウンフォースに違いなかったけれども、その声の中には、
「お前らは、これから生きていかなあかんねんぞ!」
という響きがあった。I先生の声はわれわれに「生きろ」というダウンフォースをぶつけてきていた。そのぶつけようが、あまりにも荒っぽいといえばたしかにそうだったが、そのことは苦笑まじりに肯うとして、わたしは、
「じゃあお前も同じだけやってみたらどうだ」
と、代理で反撃する準備を整えている。これはI先生の名誉を護るために、大人になったわたしが責務としてする反撃だ。
一学年で五百人近くいる生徒たちを、一声ですみずみまで怒鳴りつけてその肝をつぶすという、そんな声を日常的に発せるというならやってみればいい。マイクなんかなしだ。しかもI先生は、同僚の教職員からもあまりいいようには思われていなかった。「また説教か、長くなるなあ」と、冷酷な同僚たちからは嫌われていたのだ。
わたしにはとても同じことはやれそうにない。ただ、場合によっては、準じたことはできるようでいなくてはならないのだろうなとは思っている。そうでなければ、わたしは命じられたことに反して、本当の「ボンクラ」になってしまったということになるから。
I先生は体育の教師だったから、それなりに筋骨隆々だったはずだが、わたしはその体の印象を覚えていない。I先生の姿は覚えているし、体つき・体躯という意味ではその造形を覚えてはいるが、体という印象は覚えていない。背丈は高くなく、そのぶん横幅が広い、いかにも頑丈そうな体躯だった。そうしたI先生の、身や姿は覚えているのだが、そこに体という印象は覚えなかった。
I先生がわれわれ生徒たちのボンクラぶりを怒鳴りつけるのが、ていどの問題として過剰だったということにはわたしも同意する。けれどもわたしは、「過剰だったからって何なのだ」と反論する構えでいる。適切に出来る者が99人いて、1人が過剰というならその話もわかる。けれどもそうではなく、出来る人が1人で、他の99人にはそもそも出来ないことであれば、過剰もヘッタクレもないんじゃないのか? 目の前でダムが決壊しそうになっている、その緊急の補修ができるのはこの人だけだ。それでこの人のする補修の処置がいささか過剰だったとして、何を責められるところがあるだろう。「この傷口にこの絆創膏は大きすぎるよ」と言って、「この絆創膏しかなかったの」と言い返されたとき、なおも「でも大きすぎだよ」と攻撃し続けるのか。
I先生がたびたび怒鳴りつけるのに対して、わたしの隣にいたTという女子生徒が、
「マジうっとくない?」
と嫌悪感まるだしで言った。現在の標準語に言い換えれば、「マジうっざ」になるだろう。
「なんで遅刻してないウチらまで我慢させられなあかんの? マジうっといわー」
傷つけるということでいえば、I先生が女子生徒Tを傷つけたのだろうか。
それとも、女子生徒TがI先生を裏口で傷つけたのだろうか。
傷つくことに生きた人は誰だろう。女子生徒Tだろうか、I先生だろうか。
吾我が驕慢しているのはどちらか。
ムンという音が鳴っているのはどちらか。
わたしは奇妙なことを記憶している。女子生徒Tのみならず、同様のタイプが一定数いて、嫌悪感まるだしで「マジうっと」という、言いようと態度を万事について振り回していたのだが、なぜかわたしはそちら側の彼女らの「体」に視線と意識が誘引されたのを覚えている。わたしも当時は思春期だったわけだから、その性的衝動は生々しいものとしてわたしに予感され、わたしを快とも不快ともつかない感触でぞわぞわさせた。
奇妙なことだ、わたしはわたしの精神か魂かにおいて、彼女ら「マジうっと」組を、悍(おぞ)ましいとはっきり嫌悪したのだ。にもかかわらず、その皮膚や粘膜の感触はぞわぞわと予感されて、その予感の淫靡さは、気を抜くと当時のわたしの自慰行為に伴う空想の中にも流れ込んできかねなかった。
ただ当時は、「マジうっと」組が、その体に「かわいい」を作り出すテクノロジーがなかった。あるいは、そのテクノロジーがあったとしても稚拙だった。それでわたしは、彼女らを「かわいい」と思うことはけっきょくなく、さいわいなことに、総じて悍ましいものだという体験でわたしの記憶は結ばれている。
同じ学校、同じ教室、同じ体育館にいながら、わたしと女子生徒Tが「同じ場所」にはいなかったことは明らか。そこでもし、女子生徒Tらが、現代のように「かわいい」というテクノロジーを履修していたらどうなっていただろう。その「体」のぞわぞわする感触の予感に「かわいい」が付与され、わたしがそれに引き込まれることがあったとしたら、そのときは、気づけばわたしの側が女子生徒Tらと同じ場所に立たされることになっていただろう。
現代人はどうあがいても、体、特に女性の「かわいい」をアピールした体に惹きつけられているという事実がある。それは男女の「身」の交合へ向かうものではなく、「体・かわいい」へのぞわぞわした誘引だ。俗には「エロい」「シコい」と呼ばれたりしている。女性の姿がそこにあるのではなく、バストや尻や脚といった部位が、それじたい切り取られた生きものようにムンっと主張を放っている。もちろん男性へ向ける性愛の側でも、そうした体の部位に対する「エロい」の反応は起こっているだろう。現代人の視力はごまかしようなくその部位ごとの「エロい」に引き込まれており、この事実はすでに言い逃れのしようのない既成の文化にまでなりおおせてわれわれの世間に横行してしまっている。
かつてはこのようではなかったのだ。女性が体をかがめたときにシャツの胸元へ視線が入り込むことがあったとして、そのシャツの内側は、かつてここまで異様な誘引力を持ってはいなかった。より生々しい例で言うなら、わたしは若かったころにした女性との交合について、その「体感」を覚えているものはひとつもない。かつて人々はここまで「体」の存在ではなかったのだ。人々が現在のように「体」の存在になりはじめたのはいつごろからだったろうか。それは、仕組み上とうぜんのことではあるが、人々がダウンフォースとして「死ね」を振りまき始めた時期と一致している。「マジうっと、死んでほしいわー」。
現代人は生命軸への所属を致命的に失い、生死軸に転属した。生死軸といって、生きものたるわれわれが、生存本能に逆らって自ら死に向かって進行することを "高み" とすることはできない。だからわれわれは生死軸を反転させて、生に向かって上昇するのだと言い張る。この言い張ることはしらふではできないので、我慢してそう言い張るしかない。ムンという音を立てて、「生に向かって上昇しているんだよね」と言い張る。
そうした「我慢」が体に詰まっているのだ。特に生死軸を信奉しきり、生命軸に唾を吐いた者は、その体に詰まった「我慢」をなぜか視認できる視力を持つようになる。自分の体に我慢が詰まっているので、同じ状態のものが視認できるのだろう。命の人が、他の命の響きを身をもって聞き取ることができるように、ムンもその体をもって他の体の我慢を聞き取ることができる。
ムンにとっては、その体に詰まった我慢の「ムン」という音が、その人そのものだと捉えられているのだろう。
生死軸においては、人々は我慢合戦で、上を取られたら下向きに「死ね」のダウンフォースを受けてしまう、だから水面下でマウント合戦に余念がなくなる。そこで用いられているすべての我慢が体に詰まっていって「ムン」という音を立てるのだが、現代に生きる女性は内心でこっそり考えるだけでいいので次のことを確かめてみてほしい。自慰に用いるイメージがあったとして、あなたは、「我慢に我慢を重ねてきた男、我慢が体に詰まりきって破裂しそうな男、その男の『体』に、性感を加える」というイメージに自慰の衝動をそそられていないだろうか。同じように男性も、自慰に「エロい」イメージを用いるとして、そのイメージの中の女性は身の晴れやかな解放として交合するのではなく、やはり体に詰まりきった我慢という我慢を、ついに投げ出して嬌声を上げる、そういうイメージとして自慰用の空想に当てはめられているのではないだろうか。
体に我慢が詰まっている。その蓄積が立ち上がるときに鳴る音が「ムン」だ。
そうなると、いまやセックスというのも、性的交合というのが本旨ではなくなっている。性的な我慢、その他の蓄積した我慢の一切を、体から一気に叫ばせるというのが現代のセックスではなかろうか。そういうことであれば、たしかに現代の兆候にあるように、セックスをするのに異性や同性ということはあまり関係なくなってくるのかもしれない。その体の我慢の「叫び」をなるべくありったけ解放させてくれるものなら、その対象は器具でもよいということになるし、そのセックスは一般的な形態から逸脱して、いわゆる「性癖」の極端なイメージ・プレイのほうがよいということにもなってくる。
女性の場合、自慰に用いるイメージと、じっさいに交合する相手はまったく別だろうが、それにしても「我慢に我慢を重ねた男の体に性感を加える」というイメージがあなたの情欲を誘うという点に限定すれば、そのセックスの本旨は我慢合戦の咆哮であって、そのムンの叫びに己の体もムンっと誘引されていると言い得てしまうだろう。何でもない自慰行為においてならそのていどのことは何も問題ではないだろうが、気をつけておくべきことは一点、自慰であれ何であれ、ムン・我慢の詰まった体に耽りすぎれば、そのぶんあなたは「傷つく」という場所へ入りにくくなるということだ。これは「原理」として覚えておく必要がある。吾我が驕慢してムンっとなり、もう傷つくという場所には立てませんというとき、その理由が「オナニーへの耽りすぎです」というのではあまりにもまぬけすぎる。
さてようやく、長大な「ムン」についての話が終わった。十年前と比較して、状況はより厳しくなったと言わざるを得ないけれど、わたし自身はそれ以上のものを提出できるまでに、無事進んでこられたのだと、ここに実物をもって報告できる。そのことをささやかながらうれしく思う。
ムンは我慢の音で、その反対のことは「傷つく」という場所にある。その場所に立ったとき、傷つくということはあるけれど、ムンとは逆にスーッと静かになっていく音がする。地の熱気と天空の冷涼が交錯する、静かで広大な世界が現れてくる音。傷つく場所においては、体の弱点がさらけ出される。われわれの体は弱点だらけで、偉容も誇っていないし、万能も誇っていない。だがなぜか、そこに命が降ってきて、世界が現れて、
「お前はそのように生きよ」
と命じられているということに気づく。弱点をもって傷つくということと同時に、それがなぜか護られているということに気づく。
最大の弱点さえついになんとかしてくれよう。
それでは最後に、ことの発端、反転した生死軸を、順方向に戻しておこう。
逆生死軸から転属を考えても、順生命軸に転属はできない。転属先は必ず逆生命軸になってしまう。
順生死軸からしか、順生命軸には転属できない。
このことを菩提心という。
生死軸は死に向かって上昇・進行するのが本来だった。われわれは生きものとして、そのことを受容できないから、その軸を反転させて、生に向かって上昇しているのですと我慢して言い張ってきた。
そこに我慢が必要なのは、やはり体の弱点がさらけ出されているからだ。我慢の端緒、体の弱点の最初にして最大のもの、それは体が「死ぬ」ということだ。体は「死ぬ」ということを最大の弱点として持っている。その最大の弱点を覆い隠すために、われわれは最初の我慢、吾我の驕慢によって、
「生のほうが死よりも上だし」
ということを言い張った。自分の生に我慢スコアを付加し、死よりも上位につけたのだ。
体の最大の弱点は「死ぬ」ということ。人はこの体の弱点によって傷つく。体が死ぬということは、いかにも祝福を受けていないことの確証だと思えて傷つく。
ただ、それを傷つくままにして、傷つく場所に立ち続けるならば、
「お前はそのように生きよ」
と命じられていることに気がつく。命が降ってきて、世界が現れる。世界によって護られて、命が永遠のものとしてその身に与えられるのであれば、体が死ぬといっても、そのことについて我慢スコアを足す必要はなくなる。もとのまま、生は死に向かっているという生死軸でよい。
これでようやく、生死軸は順生死軸に戻った。
体は順生死軸を上昇する。身は生命軸を上昇する。体は死に向かい、身は命に向かっている。どちらも生から始まっていて、体はどれだけ死にきったかという償却を問われ、身はどれだけ命に近づいたかという到達を問われる。あなたの体がそれだけ死にきれば、あなたの身はそれだけ命に及んだだろう。このことにあなたの我慢などはわずかもない。
そのときあなたの身は、命じられたとおりに「そのように生きた」のだ。
[ムン/了]
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