No.425 時代を忘れて旅を続けよう
きょう、二〇二四年の大晦日だ。
泣いても笑っても、二〇二四年は、きょうかぎりで戻ってこない。
当たり前のことだが、切ない。
二〇二四年はきょうで終わる。それが良い年だったか悪い年だったとか、そんなことは、
「もういいじゃないか」
と思う。
きょうで終わってしまうのだから。
あしたはもう二〇二五年、令和七年だ。
別に何かの節目というわけではないし、何かの節目である必要なんてない。
ただ、二〇二四年は、きょうでおしまいなのだ。
切ないな、切ないねえということで、なぜか、
「だから旅を続けよう」
と言いたくなるのだった。
えーっと……
わけのわからないことを言っているので、わけのわからないまま、うなずいておけばいいと思う。
正しいか正しくないかは、理解しなくてもわかるということがあるから。
二〇二四年は、書ききれないことが山ほど残った。
書ききれないどころか、書くべきことの大半を、けっきょく置き去りにしてきてしまった。
状況が進行し過ぎで、もうキャッチアップが不可能だった。
船の上で、嵐の乗り越え方を書いておこうと思ったら、もう次の嵐が来てしまい、それを乗り越えたら、舵の切り方を書かなきゃと思って、ペンを手に取ると、また次の嵐が来てしまい、それを乗り越えたら、大急ぎで「そもそも天候を読み取るために……」と書こうとし、でもまた次の嵐が来たので、後回しにするしかないという、そんなことの繰り返しだった。
たとえば、今年は「ミーム」ということについて大きな発見をしたはずだった。遺伝子にはジーンとミームがあり、遺伝子それじたいがわれわれを支配しているということ。
それで、
「けっきょく "親の人生" を生きることになる」
ということを発見した。
「親の人生を生きることになる」という言い方は、なぜか多くの人に直接のこころあたりがあるらしく、多くの人は聞くだけで「げっ」と反応した。
この発見はとても大きなものだったので、ちゃんと書き物にしなくてはならなかったのだが、どんどん次の嵐が来てしまい……
悪霊、という単純なことについても書いておきたかったし、改めて心理学、元型と自我インフレーションということについても書いておきたかった。
しかし、とてもじゃないが、どんなスピードで書いたとしても、状況に追いつくことができなかった。
もう、毎週、世の中の状況が変わるという感じだった。
先週見つかったことが、今週になってもう解決していますなんてことはありえないのに、状況は、すでに次の問題へ切り替わっているのだ。
それで、あたらしい問題のほうに取り掛からねばならないと判断し、急いで切り替えるが、切り替えたころにはもう週が変わっていて、状況はさらに次の問題へ切り替わっている。
こんなものを、いちいち書き物の形に残していくのは不可能だ。
そうして、わたしなりに書き物への落とし込みができないまま、時代は(生成)AIの世の中に変わっていこうとしている。
そんなことも、もう、書き残していられないほど、変化のペースが早いのだ。
たとえばあなたが、不動産業をテーマにしたテレビドラマを観たとする。
それはあなたにとってなかなか面白いドラマだった。
それであなたは、ウェブ上でレビューを検索する。検索すると、含蓄の深い解説を見つけ、あなたはドラマへの理解を深くする。読みやすい文章でわかりやすいレビューだった。あなたはそのレビューに「いいね」をつけた。
あなたは、ドラマから影響を受けて、不動産投資に興味を持ち、大手企業の相談窓口にアカウントを登録した。
不動産投資の企業は、投資の仕組みを動画で説明してくれ、また質問についても、テキストチャットで細やかに対応してくれた。
それで、そのテキストチャットの応答をしているのがAIなのだ。誰か「担当の人」が対応してくれているわけではない。
スーツ姿の女性が、きれいな声で投資の説明をしてくれる動画も、生成AIで作られたものであって、その映像も声も「担当の人」ではないのだ。
あなたが「いいね」をつけたレビューも、生成AIが作成したレビューであって、誰か読み取りの深い書き手が書いたものというわけではないのだ。
そもそも、不動産業をテーマにしたテレビドラマ、その脚本じたい生成AIが作成したもので、脚本家の誰かが書いたものではない。
わたしがいま言っているのは、万博に展示される近未来のことではなくて、われわれが目の前にしている現代のことだ。
一般の人は、「AIなんて、まだまだ、ねぇ」と言うかもしれないが、大手企業の人は、「今まさにそういう状況ですね」と言うだろう。
仮に、きょうNHKで上演される紅白歌合戦の、司会の台本が、すべてAIで作られていたとして、番組の最後にそのことが公表されたとしても、わたしはそのことに驚きはしないだろう。
テレビ局の構成作家が、あるいは賞レースに挑戦するお笑い芸人が、はたまた新連載を持とうとする漫画家が、創作の根幹をAIに投げていたとして、もうそのことは驚くには値しない。
とりあえず言えるのは、わたしがここに書いているものは、生成AIに頼ったものではないし、これから先も、わたしは生成AIなどに頼ることなど永遠にないということだけだ。
おれが書き話すものを生成AIが代行することはできない。
なぜなら、生成AIだけでなく、他の誰もおれが書き話すものを代行で書くことはできないのだ。
おれは知能で書いているわけではないからな。
知能で書いていないものを人工知能が代行できるわけがないし、他の誰の知能をもっても、やはり代行することはできない。
じつは、つい先ほど、一一月に書いた自分のコラムを、自分で読み直した。
読み直そうとして読み直したわけではないが、
「大晦日コラム、何を書こうかなあ」
とぼんやり考えて、なんとなく、今年自分で書いたコラムを見返したくなったのだ。
ちらっと見返すだけのつもりだったが、読み始めるとやめられなくなり、けっきょくぜんぶ読まされたので、われながらすごいと思った。
われながらというか、何も「われ」で書いたわけではないのだなと、改めて思い知らされる。
自分で読みながら、
「なんじゃコイツ、すげえ」
と、正直思わされた。
なぜかわからないが、めちゃくちゃ「読まされる」ということが起こる。
別に読みたいわけではないし、そんなに大したことが書いてあるわけでもないのに、なぜか最後まで読まされてしまうのだ。
すごい。
何がすごいといって、どう見ても、この時代のオンタイムの書き手にはまるで思えなかった。
いつの時代の文体で、いつの時代の話をしてんだよ。
いつの時代の呼吸だよ。
いつの時代の思想だよと、自分で読まされて果てしなく首をかしげさせられた。
もはや自分自身で不気味ささえ感じる。
どう見ても令和六年に書かれたものには思えない。
それは古臭いものというより、
「なんでこんなものが未だ生存しているの?」
という不気味さのものだった。
もし、会社の屋上で、昼休みのOLたちが、輪になってバレーボールをしていたら、
「ええっ?」
とあなたは驚くだろう。
いつの時代の屋上で、いつの時代の昼休みで、いつの時代のOLだ。
もうそんな屋上やOLは存在していない。
なんでこんなものが未だ生存しているのか。
あなたはわけもわからず、ただ「すげえ会社だな」と思わされるに違いない。
ただ、改めて思わされたのは、そんな時空を無視したような文体が現存していたとして、その文体がやはり現代の世の中を賦活するわけではないということだった。
まったく無力なものだ。
未だ生存しているだけですげえとは思うけれどね。
もちろん、田舎のほうにいけば、いまでも古臭いものは残されている。
それは田舎のほうというより、閉鎖的・閉塞的な地域にいけば残っている。
日本のどこかの地域について、わたしが描写するなら、
「このあたりは、昭和が残っているというより、まだ平成が来ていない」
という、そういう空間も残っているのだ。
しかしわたし個人が判定するかぎり、そうした空間は、古臭いものが「死んだ」状態で残っている。
古き良き昭和が残っているというのではなく、死んだ昭和が死んだまま残されているのだ。
もう呼吸をしていない、生きてはいない昭和。
そうしたものが残っているのは、何もめずらしいことではない。
たとえば今でも、後期高齢者はどこかバナナを高級品と思っているところがあるし、女性が大学に行くというと、
「は? 女が四年制の大学に行って何をするの?」
という発想がナチュラルに湧いてくる、そういう人がいくらでもいる。
ロシアの中にいまでも自分はソ連だと思っている人はいくらでもいておかしくないだろう。
そうしたものはいっそ、ありふれたものだと言ってかまわない。
わたしが自分の文体に見つけた不気味さというのはそういうことではない。
新時代の布を旧時代の糸で縫ってあるから不気味なのだ。
それはどういうことなのか、詳しく説明することも不可能ではないが、いまは大晦日の話をしているので、そんなむつかしい話には入り込まないでおこう。
単にわたしが「あのとき」のまま生き続けているだけだ。
しかもそれが、閉塞的でなく開放的に生き続けているから、パッと見、じつにわけがわからないと感じられるだけだ。
これについて、きょうこのとき、思わされることがある。
(大晦日コラムってこんなのでよかったっけ?)
お見送り芸人しんいちさんという人が、いまニューストピックに挙がっている。
あらためて見るとヘンな名前だ。
ニュースによると、お見送り芸人しんいちさんは、部屋に招いた女性には、「性行為同意書」に署名をしてもらっているらしい。
それも、単に手作りした書類ではなく、ちゃんと事務所と話しあって作成した書類らしい。
「私は未成年者ではありません」
「私は結婚しておらず、配偶者もいません」
「私はお見送り芸人しんいちと性行為を行うことに同意します」
そういう項目が並んでいて、丸印をつけて署名するのだそうだ。
ついにこういう時代が来たかと思うと、逆にもう、感慨のようなものを覚える。
もちろんこんな書類を、二十年前に持ちだしたら、目の前の女性に盛大な失笑と張り手をもらっただろう。
しかしこんにちにおいて、特にお笑い芸人というような目立つ職業の人においては、こうしたことはとうぜんの自己防衛策として必要だ。
前もって、ドキュメンタリーで明瞭で、このやり方はいま堂々と、妥当性と正当性を持つに違いない。
これからは、前もってこうした書面を交わすのが、当たり前というかスタンダードになっていくのだろう。
近い未来に、中学校の保健体育などで、
「性行為の前には、お互いに同意書を交わしましょう」
と教えるようにと、文科省から通達が出るのだろうか。
そうなると、以降はもう「同意書が無い=不同意性交」という見方が社会通念になるのかもしれない。
そうして同意書がスタンダードになった暁には、ぜひ通称「しんいちルール」とでも呼んでやってほしい。
いまこの時点、二〇二四年の年末においてはまだ、そうした書面を交わすというようなことは「したくない」と感じる人のほうが、女性においても多いと思うが……
わたしはこのニューストピックを目にして、不意に、ひとつのあたらしい見方を得たのだった。
何か大きな疑問が、たちまち氷解していくように感じられた。
誰でも察しているところだと思うが、お見送り芸人しんいちさんが(名前が長ぇな)、性行為に先だってそうした合意書を交わすようにしていたとしても、最終的にはそれで不同意が問われないということにはならないだろうということだ。
たしか法律上、「瑕疵ある意思表示」というような言い方をしたと思うが、その同意書じたい、何かしらだまされて、あるいは強制されて、不本意に署名させられましたという可能性があるということだ。
「同意書に署名はしましたが、このときお酒も飲まされていて、前後不覚で、言葉たくみにだまされてしまい、署名させられてしまったのです。また、怖くて断れないということもありました」
そういうことになれば、それはやはり不同意性交だったということになる。
だから、同意書を交わすといっても、その書面交付にかかわるじっさいの場面を、録画等しておく必要がある。
といっても、その動画だって生成AIで捏造できてしまうので、
「捏造です。この動画は生成AIで作られた偽物に違いありません。なぜならわたしは、こんな発言をした覚えはありませんし、こんな撮影をしたことじたい、記憶にないからです」
そう言い張られたら、けっきょくその動画も完全な証拠にはなりきらないということもあるだろう。
わたしはこのニューストピックに触れたとき、パッと、ひとつの謎が解けた気がした。
それは、
「現代人には、こころの連続性がない」
ということだった。
あるいはそれは現代人に限ったことではなく、
「こころには、そもそも連続性(同一性)がない」
ということだった。
そう考えたとき、これまで抱えていたひとつの謎が、いくつもの疑問が、たちまち氷解していくように感じられたのだった。
しんいち(略)さんがどれだけ自己防衛したとしても、それは法律的にはいくらか防衛力を高めるとはいえ、根本的には不同意の咎(とが)を超えられないのだ。
なぜなら、たとえばこの大晦日、A子さんがしんいちさんとの性行為に同意したとしても、翌日以降、正月になってまで、A子さんが「こころがわり」をしないという保証はない。
きのう合意したことにきょうも合意できるとは限らない。
こころに連続性(同一性)がない。
きのう作成した合意書に、合意性が担保されているはずだというのは、あくまでこころの連続性を前提にした考え方だ。
こころに連続性がない場合、きのう作成した合意書に意味はないし、五分前に作成した合意書にだって意味はない。
なぜ、きのうときょうとで、こころが連続していると思われていて、そのこころに同一性があると思われているのか。
われわれがいま、いかにも現代という感触で向き合わされている困難なテーマの正体はこれなのだ。
こころに連続性がない。
現時点ですでに、この不同意性交をビジネススキームにしているチームも存在するそうだが、そういう悪徳商法の人は別として、少なからぬ人は悪意なしに、直接この困難なテーマに巻き込まれている。
A子さんはふざけているわけではない。
A子さんはきのう、本心から、こころの底から、確信をもって、輝かしいほどに、しんいちさんとの性行為に同意した。
「あはは、そんな、心配しないで。わたしぜったい裏切ったりしないよ」
と澄んだ目で、しんいちさんに笑いかけまでした。
そこには何のウソもなかったのだ。
けれども翌日になって、
「わたしは同意したつもりはなかった。本心から、こころの底から、確信をもって、これは不同意性交だと思う。わたしぜったい許せない」
としんいちさんを睨みつける。
そこには何のウソもない。
A子さんは、ふざけているわけではないのだ。
ただ、本当に、こころに連続性がない。
きのうのこころと、きょうのこころは、連続していない。
連続していないのだから、きのうのこころときょうのこころに同一性がなくて当たり前だ。
わたしはこのことについてこう思う。
ユング心理学において説かれたところ、人のこころは、無意識の根底において、「集合的無意識」というものにつながっている。
集合的、つまり自分のこころは「世間」とつながっているということだ。
こころの底が、そうした地下水脈とつながっており、その地下水脈は集合的なもので、「本人」のものではない。
じゃあ、きのうときょうとで、つながってくる地下水脈が違ってしまえばどうなる。
きのうはX水脈とつながっていた、だからしんいちさんとの性行為に同意した。
けれどもきょうはY水脈とつながっている。
Y水脈はしんいちさんとの性行為など、
「無理。論外。ありえない、おぞましい、ぜったいにイヤ」
と言っている。
きょう、こころの真実は、しんいちさんとの性行為に不同意だ。
このときA子さんには、きのうX水脈の文脈として、しんいちさんとの性行為に同意したということへの「こころあたり」がない。
本当にこころあたりがないのだ。
このあたりのことは、精神病の人や認知症の人、あるいはアルコール中毒やシンナー中毒の人と、接触したことがあればわかるはずだ。
当該の現場を、たとえ動画に撮っていたとしても、当人にはこころあたりがないので、そんな動画を見せられても、心理的にムカッとくるだけになる。とてもじゃないが受け付けられない。
精神病の人が、妄言や暴言を言いふらし、暴れ回っているのを、動画に撮ったとして、後になってその当人に見せても、
「うーん……?」
と鼻で笑うだけで、当人はその映像を "自分" とは感じないはずだ。ただよくわからないストレスを覚えるだけ、という露骨な表情を見せる。
それぐらい、当人には「こころあたり」がない。
シンナー中毒の後遺症がある人が、発作的に暴言を吐いたとして、その唐突な声音は周囲をギョッとさせる。みんなでおだやかに過ごしていたはずの深夜、とつじょ獣みたいな声を出すのだ。
しかしその数秒後、
「あれっ、いまわたし何か言った?」
と、当人がきょとんとしているということがある。
こころは連続していないし、それゆえに同一性もない。
Xにつながっているこころに、Yのこころあたりはないし、Yにつながっているこころに、Xのこころあたりはない。
わたしは不意に、いくつもの疑問が氷解していくように感じた。
わたしはこころに連続性があるものだと思っていたし、そのこころの同一性こそが、その人の「本人」たるゆえんなのだと思っていた。
けれどもそうではないのだ。
少なくとも一般には、連続していない、それこそが「こころ」なのだ。
連続しておらず、同一性がない、それこそが「こころ」だ。
A子さんにおいて、きのうの同意が、きょうの不同意ということ、それはA子さんのこころがバラバラということではなくて、その不連続性・非同一性こそがA子さんの「こころ」なのだ。
こころとはそういうものなのだ、という見方が、不意にわたしに与えられた。
なぜわたしはこれまで、こころを連続性・同一性のものと思っていたのだろう。
そのことについてはいちおうの説明がつく。
わたしはきょう、自分の書いた文章を見返し、その文体に、不気味さまで覚えたのだった。
それはわたしの文体が、何十年を経てでも連続性・同一性を持っていたからだ。
いつの時代の文体、いつの時代の呼吸、いつの時代の思想だよと、不気味に思った。
「なぜこんなものが未だに生存しているんだ?」
こころにはそんな連続性はないはずだ。
仮に残っているものがあったとしても、それはすでに死んでいるものとして残っているはず。
同一のものが、そのままずーっと生存しているのはおかしい。
それでわたし自身、自分の文体を不気味だと感じた。
わたしはけっきょくのところ、連続性・同一性があるのは「魂」のほうだと思うのだが、そのしつこいテーマは、きょうこのときにふさわしくない。
これは二〇二四年の、大晦日コラムだ。
いまわれわれが向き合っているテーマは、「こころに連続性・同一性はない」ということ、および、「それこそがこころなのだ」ということだ。このテーマの困難さが、現代では苛烈に現れていて、きょうこのときのわれわれを戸惑わせている。
***
大晦日に、こんなことを慌ててまとめるべきではないと思うのだけれど。
いっぽうで、これがじつに、この二〇二四年の年末「らしさ」だとも思う。
どんなスピードで書いても、もう追いつかないんだって。
おれはたぶん、書くのがすごく速いタイプだと思うんだけどね。
それでも、いくらなんでも、限界というものがある。
だいいち、おれは現代の観察を主題にしているわけではなく、おれはおれの世界への学門を主題にしているので、主題以外のことに全力を向けるわけにはいかないのだ。
主題といえば、魂が染みこみ、魄が降り注ぐ、それだけでいいのだ。
それは、おれの主題としてはすばらしい到達点なのだが、もはや、世の中からは完全にどうでもいいテーマになってしまった。
正直なところ、人を混乱させるだけだな。
もはやおれの存在は、ただの混乱の元凶、というようなものになりつつある。
おれはおれなりに、がんばっているつもりなのだが、けっきょくのところすべて「ヨソでやれ」と言われるだけになってしまいそうだ。
それはそれで、妥当といえば妥当なことで、いくらか無念ではあるけれど、不服はない。
「ヨソでやれ」
と言われたら、じつに、
「そうっすね……」
としか答えられなくなっている。
まあそれはいいや、もとの題に戻ろう。
こころには連続性がなく、その同一性のなさこそが「こころ」だ。
そして現代は、集合的無意識(世間)の変動がすさまじく早く、苛烈で、いわば連続性の「無さ」が、われわれの感慨を破壊するまでに至っているのだと思う。
♪そんな時代もあったね、と
そう唄う歌があるが、その「時代」が、毎週変わってしまうのでは、さすがに感慨を持つ余裕もない。
先週バーベキューをしたものが、今週はヴィーガンになり、来週にはQアノンになり、来月はフェミニストになっており、目を離すとボディビルダーになっているようでは、もう感慨もへったくれもないだろう。
こころに連続性はなく、連続性のなさこそがこころだと言っても、それにだって程度や限界というものがある。
たとえばわたしが若かったころ、世の中は「ノストラダムスの大予言」を信じていた。
一九九九年の七月、本当にどきどきして、ビクビクしていたのだ。
「来月はもう地球が滅ぶから、今月からバイト辞めた」
そういう人がじっさいにいた。
もちろん半分冗談なのだが、もう半分はけっこう本気だった。
それだって、予言の七月が過ぎて数か月も経つと、
「あれって何だったんだろうね」
と、肩透かしに笑い、興醒めを味わうのが当たり前になったのだったが。
こころに連続性がないのだ。
数か月前、世界の滅亡を半分信じていたが、数か月語には、「なんだったんだ」と笑い話になっている。
人のこころは、根っこで集合的無意識につながっていて、じつにそういう現象と感慨をもたらすものだと、いまになって理解することができる。
一九九五年の一月、わたしは阪神淡路大震災の起こった神戸で、住み込みのボランティアをしていた。
震災から数日後、生意気にボランティアのつもりで駆け込んだわたしが物資の仕分け所に入ったとき、そこにいたメンバーは七人ぐらいだった。
膨大かつデタラメに届いてくる物資の、段ボール箱の山を目の前にして、
「こんな膨大な物資を、この人数でどうやって届けるんだ、しかもどこに届けりゃいいんだよ」
と、呆然としていた。
しかしそこに集った七人は、かけがえのない何かをこころに共有していた。
無心に、全力で、しゃにむに働き、それでいて疲れることはまったくなかった。
賞味期限切れのパンだけ食べて、物足りなくなることはまったくなかった。
数週間後、春休みになった大学生が大挙してやってきて(福祉系の学生はそれで単位がもらえたらしい)、彼らがろくに作業もせず、仕分け所で勝手に救援物資の中から酒を開封し、宴会を始めたのを見ると、
「あっ……」
とわたしは何かを感じた。
もう、数週間前にあったかけがえのないものは、帰ってこないんだなあと直観したのだ。
それはものすごく悲しく、ものすごく切ないことだった。
あのときのこころはもう帰ってこない。
こころは連続していないのだ。
被災の地に、どこかの小学校から、はじめて千羽鶴と「寄せ書き」が届いたとき、当地にいたわたしたちは感動した。
段ボール箱を開封して、千羽鶴と寄せ書きが出てきたとき、その思いがけなさと衝撃に、胸を打たれて固まってしまったものだった。
「こんなにまで、人と人は、いざというとき助け合おうとするのか」
わたしはいくつかの小中学校に、その千羽鶴と寄せ書きを届けてまわった。そのたびに、教頭先生が走り出てきて、深々と頭を下げられたのを記憶している。
わたしに頭を下げられてもしょうがないのだが、どうしようもなく、そうするしかなかった。
感動していない人は誰もいなかった。
けれども、その千羽鶴と寄せ書きもマスコミに報道され、誰も彼もが真似するようになると、それは当地にあふれかえることになり、やがてどこの避難所も、
「もう置く場所がないので……すいません」
と受け取りを固辞するようになった。
もうあのときの感動はどこにもなかった。
こころは連続していない。
あのときの感動はもう帰ってこない。
考えてみればいくらでも類例があるのだ。
もうちょっとまともな例を出してみよう。
わたしは学生のとき、大学のアホ合唱団に入っていたが、はじめはもちろん一年生だった。
右も左もわからないままに、いつのまにかそのアホ合唱団にすっかり取り込まれていた。
そして、その部活動も一年経てば、四年生は卒団するのだった。
そのときの部長が、初冬、檄を飛ばすものとして壇上から、
「このメンバーで活動ができるのも、あと一か月しかありません」
と言ったのだった。
それを聞いたわたしは、アホまるだしで衝撃を受けた。
当時の学生として、一年生から見上げる四年生という存在は巨大なもので、
「この人たちがいなくなるなんて、そんなことは、まるで想像がつかない」
と感じ、またそのことが果てしなく切なかった。
アホまるだしだが、それで言えば、わたしはいまもアホまるだしだと思う。
そして、定期演奏会が終わり、反省会が終わったあと、たしかに四年生は卒団し、そこにはこれまでの一年生から三年生だけが残された。
そこに残されたものは、まるで全体が抜け殻になったような頼りなさだった。
そのことは、想像以上で、やはりわれわれを愕然とさせた。
それでも次第に、
「このメンバーでやっていかなくてはならないんだ」
ということを、一人ひとりが背負い込もうとし、講堂は粛然とした気魄に満ちていった。
そこから先に起こったことは、わたしとわたしの同期たちを大いに困惑させた。
四年生の人たちがいたとき、先輩の言うことは絶対で、下っ端のわれわれは、とにかく命令されるままに走り回るのが当たり前だった。そのことに、疑問を覚える余地はまったくなかった。
けれどもなぜか、四年生の人たちが抜けたとたん、われわれ下っ端は、先輩たちの命令で走り回ることが「できなく」なったのだ。
なぜだかわからない。
四年生の人たちがいたときも、じっさいに先輩として命令してくるのは三年生の人たちで、四年生はさらにその上にいる重鎮のような存在だった。だから四年生の人たちが抜けても、じっさいにわれわれ下っ端に命令してくる直接の人たちに変動はないはずなのだ。
けれども、なぜか、かつてのこころ、先輩に命令されると無条件でびょーんと跳ね上がってしまうというこころと現象が、消えてなくなってしまったのだ。
そのことはわれわれを大いに困惑させた。
われわれは、先輩の命令にびょーんと跳ね上がることを、いやがっていたわけではまったくなかった(※やたら大量の白菜だけを食わせる等の、一部ひどすぎる例を除く)。
むしろわれわれは、そうした下っ端たる自分たちの反応を愛し、よろこんでおり、さらには誇っていたはずだった。そのよろこびと誇りの思想は消えたわけではない。
けれども、その思想は残っているのに、裏腹に、われわれのこころからその下っ端のあるべきこころの反応は失われてしまった。
なぜなのか、当時のわれわれにはものすごく不思議だった。
あるとき、先輩に呼びつけられて、思想的には、
「走って行かなきゃだめだろ」
と反射的に思う。
それなのに、どうしても途中から足取りが、たらたら歩き始めるのだ。
その板挟みは、とてもしんどくて、われわれは同期同士で、
「なあ、これってどうしたらいいと思う……?」
と、真剣に悩み合っていたほどだった。
それでも、こうしたことは、そこから何か月もかけて、あたらしい形を模索し、獲得していくのだった。
その後に形成されていったあたらしい形は、かつてのような、無条件でびょーんと跳ね上がるようなものとはいくらか違ったかもしれない。
けれども、じゅうぶん誇り得るものだったし、それは敬意と親しみのバランスが取れた、愉快なものだった。
かつてのものへの感慨と、負けず劣らず、あたらしく形成されたものへの感慨がある。そうこうしているうち、また現在の先輩たちは卒団していくことになるから、その次はまたあたらしい体制の模索をさせられるのだった。
それにしても、そうしたことにはかつて、そのたび何か月とか半年とか、そういう単位の時間が与えられた。
そんなことを、三日や四日で形成することはできないし、そのことを翌週になってもう感慨にするというのも不可能だ。
こころには連続性がないにせよ、それでも、かつては以前にあったこころへの記憶を手掛かりに、現在のこころをあたらしく構築していくという、それじたいにきっと価値がある作業が与えられていた。いわば連続性のなさを補完するストーリーみたいなものを醸成させる時間があったはずなのだ。
それが現代にはまったくない。
一年生のわたしが、アホ合唱団に一年間いたとき、その一年間はまったく同じ場所だった。連続する、同一性のある場所だった。四年生が卒団すると、その連続性・同一性がおびやかされ、「これまでと何か違う……」ものになり、あたらしい場所として再構築しなくてはならないという危機があったのだけれど、少なくとも固定の一年間はおおむねずっと同一の場所だった。
当時、未熟で不安定だったわたしは、どうしてもそうした強固な同一性の場所でこそ育まれてきたのだということを、ここに認めなくてはならない。
それが、こんにちにおいては、同一性のある場所が、一年なんて続かない。
一年どころか、帰宅したらもうその場所は消えてしまうというような状態だ。
連続性・同一性のなさが苛烈すぎる。
きょう、永遠を誓い合った「彼ピ」と、一緒に写真を撮った「ズッ友」の三人で、お酒を飲みにいったけれど、帰宅したらもうさびしいというか、帰宅したらもう連続性がないという状態、そういう状態に現代人は置かれていると思う。
帰宅したら消えてしまうそれのどこがズッ友なんだ。
このあたり、たぶん現代のわれわれは、もう自分たちに何が起こっているのか、まったくわかっていないのだと思う。
きのう確信したことが、きょうのこころあたりにはなく、きょう見つけたことは、どうせ明日にはこころあたりになくなっているのだ。
もう「進撃の巨人」にこころあたりがある人はいないだろうし、「鬼滅の刃」にこころあたりがある人もいないだろう。「SPY×FAMILY」にもこころあたりはなくて……だから、来年のいまごろには「ブルーアーカイブ」にもこころあたりはなくなっているのだろう。
わたしは三十五年前に観た「銀河英雄伝説」を、いまでも観ている。われながらアホみたいだ。しかしわたしの中でその「こころあたり」はずっと変わらない。
三十五年前の、ルパン三世のテレビシリーズに対しても、「こころあたり」はずっと変わらない。
連続性のないものはこころあたりから消えてしまう。
それは単に時代だけのせいではなく、世間のせい、集合的無意識に生じる「流行」のせいだ。
だから、いまどき「キン肉マン」にこころあたりを残している人はいないし、「キャプテン翼」や「ビックリマンシール」にこころあたりを残している人はいない。
それらは集合的に「流行」したものでしかない。
集合的無意識に生じる流行を体験した者と、そうでない者とは、表面上は同じに見えても、本質はまったく異なっている。
たとえば、三十数年前に「ストリートファイターU」が二年間ほど流行ったはずだが、多くの人にとってそのことへのアクティブなこころあたりなどすでにないに違いない。
が、わたしにおいてはアクティブなこころあたりは変わっていない。
いまでも対戦しろと言われたらそこそこやるぞ。
あくまで大晦日コラムなので、説明が雑だ。
(そもそもふだん書くものが説明的すぎるんだよ、論文じゃあるまいし)
もともとこころには連続性というものがないらしい。
そして、多くの人にとっては、「こころ」がイコール「わたし」だから、「わたし」にそもそも連続性がないということになる。
しんいちさんと性行為することに同意書を交わしたAさんは、その翌日も同一のAさんではないということ。
きのうのAさんときょうのAさんは連続していない。
そのことが、たった一日、帰宅しただけで起こるというのはさすがに恐怖を覚えると思うが、それでも本質的には同じことなのだと思う。
非連続性が、一日とか一週間とか、あるいは数分とかで起こるから、現代はそのことへの恐怖が浮き彫りになるだけで、その単位を十年ぐらいに置き換えたら、本質的には何も変わっていないのだ。
五歳のときの夢、十五歳のときの小説、二十五歳のときの恋愛、三十五歳のときの野心、四十五歳のときの常識、それらが連続していないということのほうが当たり前だ。
若いころ、髪の毛をとがらせてロックンロールをキメていた彼が、その十五年後には腰の低い営業課長になっていて何もおかしくない。
わたしの知っている、高齢の女性は、たいていが、
「結婚したのが人生の失敗だった」
と言っている。
結婚したのが人生の成功だったと言っている高齢女性にはこれまで会ったことがない。
このことはたとえば、次のように考えられるだろう。
五歳のときは「お嫁さんになりたい」と短冊に書き、十五歳のときは「色んな男とヤッていくから」と中指を立て、二十五歳のときは「男さんとかマジで要らなくない?」と鼻で笑い、三十五歳のときは「いまからでも婚活市場には間に合う」と熱弁し、四十五歳のときは「家庭を持つのがやっぱり幸せだよ〜」と車を走らせ、五十五歳のときは「とにかく早く旦那に死んでほしい」とネットに書き込み、六十五歳のときは「結婚したのが人生の失敗だった」と中年になった息子に言う。
それぞれの年齢で、あきらかにこころは連続していない。
だからこのことは次のように言いうるのだ。
五歳のとき、あれは「けっきょく女は嫁ぐもの」って、洗脳されていたよね。わたしはその被害者だと思う。
十五歳のとき、あれは、この女まだ右も左もわかっていないから、とにかくヤッちゃえっていう、ほとんどが不同意の、レイプみたいなものだったよね。いま思えば、わたしはそれの被害者でしかなかった。
二十五歳のとき、あれは、周囲にセクハラばっかりされて、男に嫌気が差していたんだよね。そのせいで婚期が遅れた、人生損した。わたしはそういう被害者だと思う。
三十五歳のとき、あれは、けっきょく結婚していないと人権ないみたいに圧力かけられて、人生の失敗に踏み込まされたんだよね。あれさえなければって今も思う。わたしその被害者だよ。
四十五歳のとき、あれは、けっきょく子供ができたら、子育ては母親がするもので、何の自由もなくなって、それを幸せだと思いなさいって、刷り込まれていたよね。わたしそういう風潮の典型的な被害者だと思う。
五十五歳のとき、あれは、けっきょく経済力を夫が握っていて、支配されるしかないのが事実だったんだよね。そういう差別と不平等の、わたしは被害者なんだわ。
六十五歳のとき、あれは、けっきょく人生をまるごと結婚に奪われたってことに気づいたんだよね。でも何もかも、もう遅くて。わたしはそういうことの被害者なんです。
このようにして、人は何もかもについてけっきょく「不同意」になるのだと思う。時間軸上、T1時点では同意していても、そのことはT2時点まで連続はしていないのだから、別の時点から観測すればすべては不同意になるのだ。
わたしは何かを馬鹿にして言っているのではなく、大真面目に、どうやらこれがわれわれのこころの真相らしいという意味でレポートをしている。
わたし自身、それなりに経験があるのだ。あまり生々しいことを言いたくないので形式的に述べるが、たとえば若い女性がわたしのところにやってきて、「なんでもいいからわたしのこと抱いちゃってください」と熱烈に言って来、それが荒っぽすぎるのでいったん落ち着こうとわたしが諫めても、「いいから、いいから、ねえ」と言って聞かない。収まる様子がまったくない。
それでいて後日になって、その人が、
「あのさあ、どうしてわたしのこと、あのときあんなテキトーに抱いたわけ?」
とわたしを責め立てるというようなことが、ある意味では定番のようにあった。
そうしたことについて、これまでわたしは内心で、
(そんな、むちゃくちゃな)
と閉口して困っていたのだが、いまはそうではないのだということがわかる。
こころに連続性がないのだ。
連続性を前提にしているから、まるで「言っていることに整合性がない」というふうに聞こえてしまう。
T2時点ではもう、T1時点についての「こころあたり」がまったくないのだから、T2時点ではT2時点のみが整合の対象だ。T1時点での同意なんかまるで何の関係もない。
こうして、こころにはそもそも連続性がないと前提するばあい、すべての人はすべてのことについて、「永久に不同意性を否定しえない」というのが正しい論理となる。
このことはつまり、単純に言うと「何もかもわけがわからない」だけ、とも言えてしまうのだが……それでもさらに言うなら、そうして本当には「何もかもわけがわからない」まま生きているというのが、われわれのこころの真相のようなのだ。
きのう言っていたことを思い出しても意味がないし、きょう言っていることを覚えていても意味がない。
そういうふうに、当事者も感じていて、そのことに対する恐怖が、いまのわれわれ自身を蝕んでいる。
きょう自分の言っていることが、どうせあすの自分においてはこころあたりがない。きょう笑っていたことについて、明日はイラついていると思う。きょう感動したことを、たぶん明日にはディスっているんだろうな。きょうは全力元気だけど、明日は死にそうに鬱な気がする。そのことが連日繰り返されていく。そのことを自覚したとき、きっとかなりの恐怖がある。
連続性のなさが、十年単位でなく、十日単位になり、十時間単位になり、さらに十分単位になると、さすがに自分で怖くなってくるだろう。
わたし自身の場合はどうだろうか。
とりあえずわたしは、十行前に書いたことと違うことをこの行に書くわけにいかないし、十ページ前に書いたことと違うことをこのページに書くわけにいかない。
さすがに十行ごとにこころあたりを失っていたら、まともに読めるものにならないから、これはいかんともしがたい。
けっきょくそのことが、わたしに連続性と同一性を得させてきたのかもしれない。
わたしがあれやこれや、書き話すということを始めてから、来年で二十年になる。二十年もこんなことをやっているのかと思うと、呆然とするというか、なかなか馬鹿げたことで、当惑する。
それで、二十年前からけっきょく、わたしの書き話すことは根本において変わっていない。文体の獲得や、文章を構築する器量の拡大などでは進んできたけれど、「わたし」は連続しており、その同一性は失われていない。
わたしはわたし自身のやることに同意し続けてきたのだと思う。なかなか馬鹿げたことをやってきたと思うし、けっきょくこれが「かけがえのないこと」なのか、それとも「取り返しのつかないこと」なのかは、判然としないままなので自分で失笑してしまうが、それがどちらであったとしても、わたしは自分のやってきたことに疑いなく同意はしているようだ。
さしあたりここまでに、自分自身への同意書に署名するというようなことは必要とせずにやってこられた。そのことはきっと、ありふれた当たり前のことではなく、貴重でありがたいことなのだろう。
***
大晦日なんだから、もうちょっと風情のある話でもしたらどうかね。
うーん……
世の中が生成AIで満ちていくと、連続性と同一性はますます失われると予想する。
だめだ、まったく風情など出てこない。
二〇二四年は、嵐の連続で、きょうこの日も、何かしらの嵐の中にいるのだと思う。
しゃーねえじゃねえか。
なぜ生成AIが入り込んでくると、われわれは連続性・同一性を失うのか。
それはまるで、生成AIこそ、集合的無意識のようだからだ。
これはけっこう新説かもしれない。
(うえっ、こんな大晦日のコラムの後半に新説をブッ込むのはやめろ)
生成AIは、ウェブ上にあるなるべく多くの情報を集めてきて演算するのだから、じつに「集合的」ではないか?
たとえばAIに、次のような質問を投げてみる。
「日本における、男性アイドル事務所のボスが、美少年たちを集め、その美少年たちに性交渉を仕掛けているということがあったとしたら、そのことには問題がありますか?」
これについてAIはどう答えるか。
どう答えるといっても、本当にはAIが答えるわけではない。
AIは情報を集めてくるだけだ。
情報を集めてきた結果、
「はい、その場合はもちろん問題があります。それは性的同意を担えない未成年者たちに手をかける、れっきとした犯罪行為で、しかも世界的に凶悪犯罪と目されるものです。よってそのボスは犯罪者として法律で裁かれる必要があります。また、その被害者は救済されなくてはならず、性犯罪によって受けた被害やトラウマに対してのケアと補償が与えられることが必要です。さらに、そうした男性アイドル事務所は厳重な社会的監視のもと、決してそのような性犯罪が起きないような体制づくりをすることが求められます」
とAIは答えるだろう。
ただ、同じ質問を数年前にAIに訊いたら、
「問題がないとは言えませんが、芸事の世界はそうした特殊性も含めて歴史的に尊重されており、社会的に黙認されているというのも事実です。それよりは、そうした芸事の世界からスターが生まれ、人々を楽しませているということ、および当人たちも栄達と満足を得ているという成果こそが重視されています。また彼らがそうした性交渉を受けているらしいという周知の風聞も、人々に差別的な視点を喚起してはいません。このことは、そもそも芸事の世界の特殊性が、秘匿はされておらず半ば公然たる暗黙の了解とされており、そのことを承知の上で希望者は入所しているので、外部者が差出口をする筋合いではないとも考えられているのでしょう」
と答えが返ってくるだろう。
(念のため、これはわたしが筆記したものであり、AIに訊いて答えさせたものではない)
AIの解答には連続性がないのだ。
そりゃそうだ、AIはただそのとき拾ってこられる情報を拾ってきて総括するだけだから、AIの答えに連続性なんかないし、AIにはこころも同一性もない。
AIに、おめぇ数年前に言っていたことと違うじゃねえかよ、と詰め寄っても、AIは、
「そりゃアンタ、数年前の世間と違うんですもの。そんなの当たり前じゃないですか。あのねえ、あたしゃ世間から情報を集めてまとめるだけなんですよ?」
と開き直るだろう。
AIはそのときの集合的にしか答えない。
無数のツイートやコメントを集合させて総括するのがAIだ。ただそれがコンピューターなのでめちゃくちゃ速いというだけでしかない。
無数の画像やイラストや作文を集合させて、総括した映像や文章を吐き出すのが生成AIだ。
たとえば「エッチな女」という語を検索エンジンにかけると、無数の画像が出て来るが、その無数の画像を集合させ、総括してひとつの映像にして吐き出すのが生成AIだ。
この先、AIがわれわれの意識に日常的なものとして食い込んでくる。
集合的なものが自我に常時割り込んできて意識化されるということだ。
それは構造的に自我インフレーションを引き起こすし、しかもその自我に割り込んでくる集合的なものは、日々のニューストピックのように毎日入れ替わり立ち代わりで変化する。
そんなもの、もはやわれわれのこころに連続性なんて残るわけがない。
数年前は、
「女性のうつくしさは外見がすべてではありませんから、こころ・魂といった内面を磨きあげ、それをもってうつくしさを現せるよう、勇気をもって努力するべきです。その努力を疎んじ、特別な事情もないのに整形手術に頼ろうとするのはよろこばしくないことです」
と言っていたものが、
「女性のうつくしさは外見がすべてではありませんが、こころ・魂といった内面に加えて、お金をためて整形手術に耐えきり、外見までも向上させるということは、何よりも健気で勇気のある努力だとして、いま多くの人に称賛されています」
と言うようになる。
そりゃ、きのう言っていたことがきょうには書き換わっていてとうぜんだ。
連続性も同一性もあるわけねえよ。
その、こころに連続性・同一性がないということ、特にそれが集合的無意識とのつながりによって起こっているらしいということを、じつにAIが浮き彫りにし、加速すると思える。
わたしは、わたしの書き話すものは生成AIには代行できないと断言した。
それはなぜかというと、わたしが魂魄で書き話しているからだ。
魂魄で書き話している、あるいは、本当には、書き話すなんてことはしていないとも言える。
ほれ、このあたりでもう、人工知能には処理不能だ。
おれは書き話しているのに、おれは書き話していないって言っているからな。
人工知能だけでない、人工であろうが天然であろうが、「知能」ではおれの書き話しは処理できない。
おれはこうして書き話しているのに、書き話すなんてことはしていないと言っている。
このことは、あなたの知能から見ると矛盾であり誤りとしか判定できないのだが、あなたの知性はなぜか、おれの言っていることが正しいと読み取る。
読み取るというか、聞こえるというかね。
文字とか言語とか意味とか、脈絡とか、そうして観測できる情報について作業しながら、おれはもうひとつ同時に、観測できない営為も並行してやっている。
もちろん、そちらのほう、観測できない営為のほうが主題だ。
おれは観測できない営為をしており、それは、あなたの観測できない機能へと、情報と体験を送っているのだ。
だから、観測上は「誤り」でしかなくても、体験上は「正しい」ということが起こる。
おれの魂魄は、あなたの魂魄を引き込んで、フィクション上の何かを形成しているのだが、そのことをあなたは観測できない。
あなたの観測できない機能を、おれが勝手に使っているんだからね。
そのことに限って言うなら、今年のこのとき、きょうはじつにすばらしい大晦日だなということになる。
おれはこの旅を続けようと思う。
いわずもがな、移動しまくったからといって旅にはならない。
旅とは移動しまくることだ。特に、慣れない特色のある場所へ移動しまくることを旅という。
けれども、そうして移動しまくったからといって旅にはならない。
こうして、やはりわたしの話を聞いて、あなたはわたしの話を「正しい」と体験するが、知能としては矛盾と誤りだけを発見するだろう。
また、同じことを他の誰かが言ったとしても、そのことはあなたに「正しい」とは体験されない。
「どうでもいい」としか体験されない。
それはわたしが魂魄の営為をしているのに対し、ほかの誰かはそんな営為はしていないからだ。
「移動」は観測できるものだが、「旅」は観測できないものだ。
だからわたしは旅を続けようと思う。
旅とは移動しまくることだ。
しかしわたしは移動なんかしない。
わたしは旅をすると言っているのであり、移動をするなんて言っていない。
旅とは移動しまくることだけどね。
繰り返す、おれは「旅をする」って言っているんだぜ。
なんで移動するんだよ、移動したい奴は勝手に移動していろ……
わけがわからないだろう。わけがわからないのに、「正しい」ということだけが体験される。
観測平原と、非観測平原があるのだ。
観測平原に雨が降ったからといって、雨が体験されるわけではない。
魂魄に雨が体験されるかどうかは別だ。
雨が観測されることは、雨が体験されるということではない。
ずぶ濡れになったからといって雨が体験されるわけじゃないぞ。
何を言っているのか。観測と体験は違うと言っている。
それについて、「どう違うのか」と食いついて聞きたくなるのだが、聞いても無駄だ。
あなたは、「体験とは何か」と聞きたがっているのだが、それは体験とは何かを観測したがっているということであって、それを観測するというなら、観測しようとする時点でそれはもう体験ではない。
観測平原に非観測平原を持ってきたら、それはもう観測平原だからね。
一年のカレンダーの末尾と、大晦日の体験は違うだろう。
まあ、一年の末尾ぐらい、カレンダーも体験に参入させてやっていいと思うけどね。
いちおう、原理的には、一年の末尾という観測は、大晦日という体験ではない。
移動が旅ではないみたいにだ。
おれの言っていることは簡単なことだ。
ただ、じっさいの営為がむつかしいというだけで。
なぜじっさいの営為がむつかしいのかといえば、その体験という営為が、観測不能の機能によって担われているからだ。
観測不能の機能は、観測不能だけれど実在はしており、観測できていなくても機能だけはする。
ただ、機能が止まってしまっていても、それを再起動する方法なんてものはない。
観測不能の機能なのだから、どこに再起動のスイッチがあるかなんて観測できないのだ。
やっかいだよなあ。
やり方なんてないよ。
やり方なんてないというか、やり方はさっきからずっと書いている。
書いてあるんだが、観測できないのだから読み取れないわな。
読み取れないのに体験だけされるんだよね。
だから「教えてくれ」となる。
体験されていないなら「教えてくれ」ともならねえよ。
移動ではなく旅をするにはどうすればいいのか。
観測可能なアンサーが欲しい人はAIに訊け。
観測可能な、それだけに何らの体験も得られない、集合的なものをAIはあなたの自我にねじ込んでくれるだろう。
連続性がないといえば、観測平原じたいに連続性がない。
だからウィリアムブレイクは、ニュートンを非難した。
ウィリアムブレイクにとって、運動方程式は、
「ただそれが "繰り返される" ってだけだろ」
という見え方だったに違いない。
地球上の質量は重力加速度のとおりに落下する。
そのことが繰り返される。
繰り返されるだけであって連続しているわけではない。
ある日とつぜん、リンゴが地上に落ちずふわふわ〜と飛んでいけば、きのうまでの運動方程式はゴミ箱行きになる。
わたしは運動方程式を否定しているのではない。
観測平原にそれが繰り返される「だけ」ということを、いちばん短くまとめたのだ。その意味でニュートンの運動方程式は偉大だ。
ブレイクにとっては、その運動方程式がまるで永遠の真理のごとくに扱われることが良くないと思えたのだろう。
じっさいその懸念は当たっている。
運動方程式といって、数式じたいはそりゃ永遠だが、かといって物理の世界が永遠なわけではない。
数式は残っても物理は消えてしまう。
物理なんか無関係に方程式を立てたら、それについてはブレイクもにっこり笑ったかもな。
何の物理でもない方程式。
繰り返されることのない方程式。
それはまるで旅だ。
旅は永遠に連続する。
旅は繰り返されないからね。
非観測平原は永遠に連続しており、観測平原はただ繰り返されるのみ。
だからニーチェは、人の一生は繰り返されるはずという妄念に行き着いた。
物理は観測平原に繰り返されるが、その観測平原が永遠ではないので……
まあそれはいいや。
お見送り芸人しんいちさんの手元にある、誰かの性行為同意書は、署名者のこころをそこに記している。
そこには他ならぬこころがあるのだ。
そのことが、こころにも観測できるし、さらに書面でも観測できるというわけ。
ダブルで観測できるわけで、そのことでこころが損なわれるということはない。
むしろこころとしては倍増するのじゃないかな。
(たぶんお見送り芸人しんいちさんは、女性からその性行為合意書をもらったとき、こころにじっくりとしたよろこびを覚えるだろう)
ただ、こころには連続性がないので、その書面も、明日にはただの紙切れとインクになる。
ある殺人犯が、無期懲役になったとして、牢獄で五十年過ごしたとする。
その殺人犯が、長い懲役で自分の犯罪を悔い、更生する、というようなことは基本的にない。
きのう殺人をした人でも、きょうはそんなことに「こころあたり」がないからだ。
もちろん法律上は、「そうは問屋が卸さない」ということで、社会的に同一性を押しつける(あたりめえだ)。
そのことはつまり、わたしは犯罪を犯しました、という同意書に署名させるようなものだ。
仮にそのとき、犯人がこころから署名したとしても、明日にはそのことへのこころあたりがなくなっている。
こころあたりがないなんて言い張ったって、同意書ともども、観測できるブツが残っているじゃないかということになる。
それはそのとおりだが、同時に、観測できるからこそ、それには連続性がないということなのだ。
反省を、繰り返すことはできるかもしれないが、どれだけ繰り返しても反省は完了しない。
反省も、その元になることについても、翌日にはこころあたりがないんだから。
繰り返されるだけだ。
(ああ、こんなことであなたは悩んではいけない、こんなことで悩むとあなたはニーチェになってしまう)
ニーチェはそんなに頭が良くないのだ。
典型的に、知能で物事を捉えようとした人だ。
それは知能にすぎず、知性ではないので、あんまり頭としてはよくない。
だから多くの人は、ニーチェを理解することができ、結果、世の中にはニーチェのファンが増える。
ニーチェが何を言っていたかなんて、それこそAIに要約してもらったら内容はすぐにわかる。
それに比べたら、おれの言っていることは、マジでわけがわからんだろう。
AIに要約してもらったら、さらに何を言っているかわからないものになる。
おれはもはや、人に混乱をもたらすだけの奴になりつつある。
観測平原に提出する情報と、非観測平原に起こす事象が、けっきょく同一ではありえないため、どうしても観測と体験がズレるのだ。当たり前だ。
おれはおれで、そのことが極端になってしまったのかもしれない。
ブレイクの言っていることなんてまるで観測不能だものな。
おれの言っていることは、表面上、観測可能にはしてあるので、それが余計に人を混乱させてしまうのかもしれない。
時代は、AIと連続性のなさ、ということに突入しようとしている。
それぞれのこころはAIを通して集合的な観念の植民地になり、きのうときょうとでこころの連続性がなくなっていく。
さっきまでごきげんだった人が、とつぜんギャーと叫びだし、何を叫んでいるのかと訊くと、「わたし叫んでいないです」と言い出す。
とにかくがんばって、と励ますと、ありがとうと言って泣き、翌日には「パワハラを受けました」と告発される。
連続性がないのだが、その連続性のなさについて、誰も驚かなくなり、
「そりゃそうだろ」
ということになるのだ。
それでいいかげん、この「時代」というやつに、付き合いきれないと感じる人が多くなってくるだろう。
おれは、時代を忘れて、旅を続けるべきだと思っている。
この先の十年間が、どういう時代なのかは、また十年後にAIに要約してもらえばいい。
本当にそれで済むからね。
おれは旅を続けようと思う。
二〇二四年がまもなく終わる。
もう、きょうかぎり、あと少しの時間で、もう二〇二四年は帰ってこないので、そのことは切ない。
ここに大晦日のコラムとして書いたものも、また後日読んだら、やはりなんだコイツと、不気味なものに見えるのだろうか。
どうせ令和六年の文体とは思えないのだろうね。
なぜこんなものが未だに生存しているのか。
後日のわたし自身に向けて、および、いまこれを読んでいるあなたに向けて。
なぜこんなものが未だに生存しているのか、率直に言って不気味だと思うが、それについてはこう思ってくれたまえ。
「ああ、まだこの旅を続けていらっしゃるんですね」
そのとおり、旅は連続する。
あのとき(どのときだよ)、わたしは旅を始め、あのときのまま旅を続けているというだけだ。
あなたも、よい旅を。
そしてよいお年を。
本年はまことにお世話になりました、新年も何卒よろしくお願い申し上げます。
[時代を忘れて旅を続けよう/了]

