No.429 意味不明の世界レポート
まず、魂魄の世界がある。
それは観測不能の世界だ。
観測不能なので「鬼」という字がついている。
魑魅魍魎とか、観測できないけど、作用はある「かもしれない」と思われたものに、古代の人は「鬼」の字をあてたようだ。
魂魄の世界があって、それは「世界知性」だ。
なぜ知性なのかと言われてもおれは知らん。
なんでもかんでもが、人知で納得可能とは限らない。
ハリガネに力を加えると、曲がるが、それが「なぜ」ということに解答できる物理学はない。
「どのように」曲がるかを、物理学は説明できるだけで、「なぜ」曲がるかなんてことを、物理学は説明できない。
物理学は、
「知らんわ、ただそういう世界なんでしょ」
としか回答しない。
まともな大学の先生はそうとしか答えないだろう。
魂魄の世界があって、それは世界知性なのだということに、「なぜ」なんて問いかけは、そもそもあてはまらない。
そして世界知性の側では何かが進行している。
何が進行しているのかはよくわからないが、とにかく「進行」はしている。
初めから進行していて、ずっと進行しつづけている。留まるところがない。
それは壮大な物語だ。
物語の内容は不明だが、言ってみれば、それはすべての物語でもある。
なぜなのかは知らん。
なぜなのかは知らんが、とにかく、その「進行」が続いていることだけはわかるのだ。
わかるといっても、観測できるわけではなくて、ただその作用というか、その体験だけはしてしまう、ということだ。
それについてあなたが、わからないと言うならば、おれは「そうだろうな」と言うしかない。
わからないといって、わからないということが結論で、わからないから否定というのが結論なら、何もそれを無理にくつがえす必要はない。
ただ、経験的には、ここでおれが、
「そりゃ、誰だって、自分は自分の考え方で永遠にいくでしょ」
と言うと、なぜか多くの人があわてて、
「ちょっと待ってください」
と制止するのだ。
それも妙な話だ。
自分が自分の考え方で永遠にいく、ということは、ただのふつうの事実であって、取り消さなくてはならない何かが含まれているわけではない。
ただまあ、じっさいに、人はこういうよくわからないことでけっこうあわてるよねというのが経験則だ。
おれはいま、あきらかに、一般にはまったくわからない話をしている。
この話は、一般的な意味で言うなら、おれにだって「わからない」のだ。
(一般の人にとって、「わからない」ということはただちに「無理」ということなのだろうか?)
おれはいま、世界知性が「進行している」という、わけのわからない話をしている。
そして世界知性がどこにあるかというと、頭上にある。
頭上、つまり空(そら)にある。
空にあるといって、そんなに高いところにあるわけじゃない。
高いところにもあるのかもしれないが、そんな高いところまで窺わなくても、割と高層ビルの最上階ぐらいのところに、
「ゴン!」
と、ものすごいたしかさで存在している。
ただしそれは観測不能のものなので、観測には該当しない。
しかし、その存在感たるや、「ゴン!」と露骨すぎるものなので、それを見て見ぬフリをするというのには、あまりにも無理がありすぎる。
空(そら)にはそうして、ゴン! と世界知性がある。
あなたが頭上を見上げても、そうしたものは見当たらないかもしれない。
あなたはそのとき、「空に、そんなものはありませんよ」と言うかもしれない。
それは、違うのだ。
それは、あなたが見上げているものが空(そら)ではないのだ。
そもそも、空(そら)とは何かというと、その世界知性が「ゴン!」とある、そのことを空(そら)と呼ぶのであって、何も存在しないただの高さ空中は、空(そら)ではないのだ。
タイトルに書いてあるとおり、ここに示される話はすべて、根幹が意味不明だ。
でも、ウソをつかず正直に、世界をレポートしろと言われたら、どうしてもこういうふうになってしまう。
こんな話をして、おれは何も、おれさまが偉い、という自慢話をしたいわけではないし、うそっぱちの権威を言い張りたいのでもない。
そんなもん、こんな話をしなくても、おれさまは一兆倍も偉いのだ。一兆倍はすごいだろう。誰との比較かは知らないし、単位も知らない。
単位は知らないが、その単位だっておれがテキトーに決めるのだから、そんなのなんだっていいじゃないか。
偉大なおるおれさまが偉いなんて話を、わざわざがんばってする必要はどこにもない。
あなたの家の洗面所よりも、太平洋のほうがデカいというような話で、いちいちがんばって主張するようなことではない。
四丁目のおじさんがブンチョウを飼っていることよりも、廃業した◯◯セメント工業の建屋のほうが偉いというようなことで、何の脈絡もない、こんなものただのデタラメでいいのだ。
世界知性が存在し、それは「進行」している。
そしてわれわれにとって有益なことは、われわれの観測している「一般」というもの、あるいはこの「世の中」とか「現実」とかいうものは、進行はしていないということだ。
赤子が幼児になり、青年になり中年になり、老人になり骨壺になったとして、何も「進行」はしていない。
だから、あなたが毎日会社で業務をガンガン進めていても、あなたはなぜか魂として「進行」はしていないよなあ、というむなしさに襲われる。
魂が進行していないのは、それが業務になってしまっていて、仕事にはなっていないからだ。
われわれの観測するものは、観測可能というだけで、観測可能なものは、そもそも進行しないという性質を持っている。
われわれの世の中や現実は、何も進行しないので、むなしく、それを補おうとして、われわれは感情的になってみるが、それは感情的になったというだけで、やはり何かが進行するということはない。
現実的パーソンはなぜ進行しないのか?
それは、進行しないものを信仰しているからだ(ダジャレ)。
黒潮につかまっていれば流れていくだろうが、岩礁につかまっていれば流れてはいかないだろう。
世の中とか現実とか、観測可能なものを信仰している。
観測可能なものは、進行しないので、それを信仰している以上、そりゃ進行はしないでしょうという、当たり前の仕組みだ。
おれはあなたに、信仰の改宗を勧めているのではない。
当たり前だ、おれがそんな気色の悪いことをするわけがない。
ただおれは、このとおり、見ていてわかるまま、「進行しない話をしているわけにはいかない」のだ。
だって、進行しない話なんて、つまらなさすぎて読んでいられないだろう。
進行しなくていい話というのは、たとえば新聞記事とか不動産広告とか、取扱説明書とかだ。
それらはそもそも読み物じゃないのだから進行しなくていい。
おれは、この世界知性が「進行している」ということに気づかないかぎり、進行する話を書きはなすことができないのだ。
かといっておれが、世の中とか現実とかを、まったく理解できないというわけではない。
おれはいちおう、国立大学を出て、就職氷河期に丸の内の総合商社に入ったのだから、現実的にもそんなにバカではないのだ。
ただ、進行しないものと進行するものとでは、引き当たるユニットが違うということ。
進行しないものを担っているユニットは、脳みその扁桃体だが、進行するものを担っているユニットは、「体」なのだ。
現実・世の中に対応しているインターフェイスと、世界知性に対応しているインターフェイスが違うということ。
そんなことはいくらでもあるだろう。
LANケーブルをHDMIジャックに挿しこんでも、壊れるだけで、モニタには何も映らないじゃないか。
アダプタを挟んでも無駄だ。
そもそも取り扱っている信号がまったく違うのだから、アダプタなどの問題ではない。
おれは世界知性を「体験する」と申し上げている。
一方、世の中とか現実とかのほうは、「観測する」とか「認識する」とか、「体感する」とか「感想する」とか、「理解する」とか「分かる」とか、いろんな言い方ができるのだけれど、これらの真相はついに、「絶頂する」と「厭(いや)がる」に行き着く。
扁桃体は、「ズッキューン、最高!」と絶頂するか、「グロい、厭だあああ」と嫌がるか、そういうプラスとマイナスで挙動している。
扁桃体に、そういうプラス汁とマイナス汁が絞られているのだと思え。
この汁のことを「シリアス汁」と言う。
(おれが勝手にそう呼んでいるだけだ)
ズッキューンと、たまらなくなって、絶頂するというのは、生理的におかしなことではないし、逆に、グロい、厭だあああといって厭がるのも、生理的におかしなことではない。
ただ、わざわざ自分でそのシリアス汁という「毒」を、随時にグイッと飲み干しているのは、端的に言ってアホだ。
そのアホというのがわれわれ一般の真相だ。
われわれは自分で随時に「毒」を飲み、「苦しい〜」と言っているのだ。
そりゃ苦しいに決まっているだろ、アホかよ。
そのとおり、アホなのだ。
本当に救いがたいアホなのだ、われわれは、とほほ。
このことを、偉い僧のことばで「一切凡夫」と言う。
毎日生きていれば、色んなこと、さまざまな悲喜こもごもがある。
それで、たとえば悲しいことがあれば、「悲しい」ということにしておけばよいのに、なぜかその横にあるグラスもグイッと飲み干すのだ。
わざわざ毒の入っているそのグラスをグイッと飲む。
そして、
「苦しい〜」
と言い出す。
アホだ。
「悲しいんじゃなかったのか」
と訊くと、
「あ、そうだった、悲しい〜グエエエ」
「いやいや、ウソつくな、それはもう悲しいんじゃなくて苦しいんだろ」
「グエエエ〜」
本当にこれぐらい救いがたくアホだ。
なぜわざわざ毒のグラスを飲むのか。
物心がつくまで、あるいは思春期ぐらいまでは、それがまだ明白な「毒」のグラスなのだと知らないところがあるから、しょうがないかもしれないが、大人になればいいかげんもうそのことの繰り返しで理解している。
感情の横に置いてあるグラスは毒なのだ。
もう「毒」とラベルが貼ってあるのだ。
それなのに、習慣的に、
「あ」
と手を伸ばして、なぜかそのグラスをグイッと飲み干す。
「苦しい〜」
そりゃそうでしょうよ!
仏教では、このことを煩悩といい、煩悩の解説によく「三毒」「貪瞋痴(とんじんち)」みたいな言い方をするが、そんな生ぬるい解説はもはや要らない。
そもそも煩悩なんてまだるっこしい言い方じたいが必要ないのだ。
それはもう初めからあきらかに「毒」だ。
煩悩が毒になるのではなく、われわれはダイレクトに「毒」をドリンクしているのだ。
もちろん、毒の味わいは、そのときによって甘かったり、苦かったりするが、その味と毒性は何の関係もない。
フグの肝にガムシロップをかけて、「甘〜い」としても、やはり食った奴は死ぬだろう。
味と毒性は関係ない、当たり前だ。
われわれは、進行することのない現実・世の中を、このようにして味わい、じっさいには毒をドリンクドリンクして、「苦しい〜」「黒々しい〜」「不安だぁ〜」と言っているのだ。
まごうことなきアホだ。
毒を飲めば誰でも苦しむ。当たり前だ。
言うまでもないが、同じものを飲めばおれだって同じだけ苦しむ。
わざわざ自分で毒を飲む奴には何の解決策もない。
解決策なんてもはや要らないだろう。
なにしろ自分でわざわざ飲んでいるわけだからさ。
苦しいというのは体感であって体験ではない。
体感は体験ではないので、何のストーリーもない。
ふかふかのソファに寝転んで、
「ふかふか〜」
そんなことに物語があるはずがない。
「ふかふか〜」という体感は絶頂にすぎす、「苦しい〜」という体感は厭というだけなので、これらはすべて扁桃体の沙汰だ。
大脳生理学者に言わせれば、大脳辺縁系にはもっと精緻な仕組みがあるとは思うが、われわれはそれに詳しくなってもしょうがないので、「扁桃体にシリアス汁」「自分で毒のグラス飲んでいます」だけでOKだ。
それが現実の能力だが、現実の能力で体験はできない。
世界知性は、常に「進行」しており、その壮大な進行を、われわれは「体験」することしかできない。
われわれが、毒を常飲し、もはや常に全身に毒が回っている状態になると、われわれの「体」はじつにチンタラしたものになり、もう体が「体験を得る」ということにいっさい間に合わなくなる。
それで、扁桃体の沙汰が世界と自己のすべてだと思い込むようになるのだ。
たとえばわたしはいま、このように「書き話し」をしているのだが、同時に、「書き話してはいない」とも言わなくてはならない。
そんなふうに言うと、ふつうそれは「矛盾」に聞こえる。
矛盾というか、禅問答、そもそも成り立っていないように聞こえる。
そのとおり、観測上は、A と not A は同時には成り立たないのだ。
が、それは観測領域のことであって、魂魄領域の話ではない。
魂魄領域では A と not A が「統合」する。
世界知性においては、統合していないものがない、とさえ言っていい。
すべてが統合しているので、すべてがひとつであり、どんなささいなひとつも同時にすべてだ。
わたしがここに、「さざんか」と言うと、それは花の名前であり、あなたは、
「ハハァ、さざんかということは、シマアジではないということですね」
と理解する。
シマアジは魚の名前だ。
花と魚は違う、と、区分され、理解されている。
ところがどっこい、世界知性においては、さざんかとシマアジは統合されている。
さざんかと統合されていないなら、真のシマアジのにぎり鮨は食えない、ということになる。
さざんかではないシマアジを食うのなら、あなたはシマアジを「理解できる」「感想できる」だけであり、体験することはできない。
もちろんさざんかとシマアジが区分できないのはただのアホだ。
「きれいなさざんかが咲いていますね」
「えっ、それは水揚げされたシマアジですよ」
これではただの認知症だ。
このことに、統合ということのややこしさが現れている。
統合というのは、「統合と解体も統合する」ということなのだ。
「統合と解体は正反対のものでしょ」というのは解体なのだ。
統合というのは、「統合と解体は、違うものというか、正反対のものだけど、解体しつつ統合、統合しつつ解体、こりゃどっちでもあるなあ」というものになる。
だからどのようにしても、われわれの認識機能で捉えることは不可能なのだ。
だから先ほどから申し上げるとおり、それは「体験」しかできない。
ええと、ちょっとはわかるような、役に立つ話もしよう。
あなたの家にピアノがあれば、Aの音を出してみるといい。ラの音だ。
Aの音は一般に、 440Hz とか 442Hz とか言われており、たぶんそのとおりに調律されている。ここでは 440Hz だったとしよう。
その音、本当に 440Hz だと思うだろうか。
あなたの家のピアノって、「ピーッ」って音が鳴るのか。
こんどは「ピアノ スペクトル」で検索してみろ。そうしたらピアノの音色を視覚化した波形が出てくる。
するとどうだ、その波形は、440Hz のピーク「だけ」出ているか?
違うだろう。
440Hz と、その倍音群が「目立つ」だけで、その他の音も鳴っているじゃないか。
Aの音が、われわれの認識に「目立つ」だけで、ほかの音も鳴っているのだ。
次に、ダンパーペダルを踏んで、Aの音を出し、手でAの弦だけを止めてみろ。
すると、ピアノ内部に残響音が「ン〜」とあり、五度上の音も鳴っているのが聞こえるだろう。
Aの音だけが鳴るわけではないのだ。
Aの音を「認識」するというのと、ピアノの音を「体験」するというのは別なのだ。
Aの音を「認識」しているせいで、ほかの音が聞こえなくなっているのだ。
Aの音を「認識」して、音を「体験」できなくなっている。
これがいわゆる「音感」だ。
さきほど、体感と体験は違う、と述べただろう。
音感といって、音感は「感」なのだから、体験ではない。
おれは音感が悪いので、音感で比べっこしたらたぶんあなたのほうがずっと優秀だと思うが、ところがどっこい、なぜかおれが出す音のほうがなぜか「いい」と体験されてしまう。
じっさいそういうことがあった。
どうでもいいような会合で、どうでもよいような音を出す機会があった。楽器は五千円のヤマハのミニキーボードだ。ちゃんとタッチレスポンスがついている。最近はミニキーボードでもすごく多機能になっていておどろかされる。
そのキーボードを、スタジオのアンプにつないで音を出したのだが、聴いてびっくり、なぜかおれの出す音が異様に「佳(よ)かった」のだ。
そのときの映像は録画されていて、その映像を観ると、なぜかおれ自身も、
「なんかコイツ、めっちゃ上手じゃない?」
と感心させられた。
といっても、おれは鍵盤なんか弾けないので、出した音はドミソドミソドと、メジャーコードを上昇させていっただけだ。
音感でAの音を感じるとか、音の強弱を感じるとか、テンポ感とかリズム感とか、それらのすべては「感」であって、じつはあまり意味がないのだ。
体感と体験は違う。
精密な音感、正確なリズム感、微細な強弱感、そうしたものがあったとしても、それで何かが体験されるわけではない。
高度な「感」があったら、そこに何が起こるか?
高度な「感」には、たっぷりとした「想」が起こるだけだ。
読書感想文とか言われるときの「感想」、それがたっぷり起こるだけだ。
そして感想が起こるということは、たいてい体験は得られていないということだ。
じっさい、おれがヘタクソなドミソを弾いたとき、人々はそこに何かを体験し、その体験については感想がないのだ。
感想というものが当てはまらない。
体感と体験は違うもので、体験時に「感」は取り扱われていないのだから、そこに「感・想」ということは発生しない。
むりやり何かを想うというなら別だが、そうでもしないかぎり、体験は体験で完結しており、それ以外のことは必要とされていない。
おれは、ドの鍵盤を叩いたけれど、何の音を出したかといえば、「すべての音」を出したのだ。
おれはすべての音を出すことしかできない。
音感がバカだからね。
ドの音、Cの音を出したけれど、ほかのすべての音、全層の音が鳴ってしまっている。
だから感想できない。
体験しかできない。
ドが分かっていない。
これは秘訣ですよ。
あなただって「冬にさざんかの花が咲きました」と話すことができる。
でもおれの場合、そこに「すべて」を話してしまうからね。
さざんかの話をして、そこにシマアジも鳴っているということ。
全層が鳴っているということ。
さざんかが分かっていない。
これは秘訣ですよ。
世界についてのレポートをしている。
世界知性があり、世界知性が「体験」される。
世界知性は、魂魄の領域だから、 A と not A が統合される。
何もかもが統合されるので、すべてはひとつでしかない。
だから、ドを鳴らすときも、全層の音が鳴ってしまう。
それは、ドを鳴らしているとも言えるし、ドでない音を鳴らしているとも言える。
どちらかというとたぶん、「すべての音が鳴ってしまっていてドが消えてしまっている」のだが、それはたしかに、ドを鳴らしているのでもあるのだ。
これが、特異なことではなく、当たり前のことにならないと、あなたの体験は進まない。
だってじっさい、これが当たり前で、これが基本だからね。
この基本からわずかでも逸脱するとき、それはもう体験されない何かだ。
観測され、感想されるだけの何かであって、「進行しない」何かだ。
世界知性は、空(そら)に「ゴン!」と存在していて、これを見て見ぬふりするというのはいくらなんでも無理がある。
世界知性は、魂魄の領域にあり、それは「鬼」のゾーンだから、A と not A が統合されている。
統合されているそれは、認識上は矛盾であり、そもそも認識するということに、あまり意味がない。
観測・認識というのが、われわれの得意技というだけでしかなく、その得意技によって、われわれはすべての「進行」から切り離され、すべての「体験」を失う。
観測・認識という得意技、それはつまり「扁桃体にシリアス汁」だ。それによって、絶頂したり、グロ厭がりしたりする。
すべての体験を失って、何のトクもないのに、なぜか知らないが、わざわざ「毒」と書いてあるそのグラスを飲んで「苦しい〜」と言っている。
観測したけりゃ観測すればいいし、認識したけりゃ認識すればいい。じっさい、認識がまともでない者はアホだ。
さざんかとシマアジの区別がつかないものはアホに決まっている。
ただ、区別がつくのは健常者として当たり前なのであって、それを統合領域へ引き上げられるか、という話をしている。
その、統合領域へ引き上げるはたらきのことを、「主題」という。
たとえば、「花」を主題にするなら、さざんかとシマアジは「花」に統合されるし、「魚」を主題にするなら、さざんかとシマアジは「魚」に統合される。
「季節」を主題にするなら、さざんかとシマアジは――季節違うけど――「季節」に統合されるし、「味」を主題にするなら、さざんかとシマアジは「料理」になる。
「音」を主題にするなら、さざんかとシマアジは「音楽」になる。
「形と色彩」を主題にするなら、さざんかとシマアジは「絵画」になる。
主題に統合されて、どうなるかというと、「体験」される。
体験は、自他に体験されるが、正確には「主客」に体験される。
扁桃体マニアは、体験を分与されても、ただちに扁桃体にシリアス汁を絞り、与えられた体験を解体するだろう。
そのようにして、現実的パーソンはすべての体験を解体し、否定し、失い、扁桃体を増長肥大させ、もう扁桃体の沙汰は収まりようもなくなり、現実における絶頂とグロ厭のあいだをのたうちまわって死ぬ。
まあ、もう、扁桃体マニアのことはいいや。
ちなみに、扁桃体が増長肥大していくということ、これによって育っていくものを、自我・人格と呼ぶ。
もちろん自我人格は誰にだってあるものだ。
ただ、自我人格よ健全であれ。
自我人格が何かを「体験」することはできない。
自我人格というのは本来、「体」というユニットが「体験」したものを基準に、ふさわしく形成されていくべきものだ。
体に何の体験もないのに、その「ガワ」になる自我人格だけ形成されているのは不気味だ。
たとえば、「青春」というガワだけがあり、その内部に青春を体験した体がないとか、「恋多き女」というガワだけがあり、その内部に恋を体験した体がないとか、そういうのはとても不気味なのだ。
ガワをはがしたらどえらいことになりそうじゃないか?
こんにち、たとえば音楽体験のないミュージシャンとか、笑いの体験がないお笑い芸人とか、いくらでもいると思うので、それこそ「ガワだけ」があるような状態だ。
その「ガワ」をはがしたりしたら、やはりどえらいことになりそうじゃないか。
おっかないので、特定の用事でもないかぎり、もうそういうものには触れないほうがいい。
主題において、世界知性が進行的に体験される。
体験され、体験はどうなるか。
体験は、どうにもならない。
体験は、それ以上、どうにかなる必要がない。
体験でおわり、それでいいのだ。
せいぜい、体験によって、体という実物の、存在性は変わる。
「体」という、われわれにとっていちばん身近なものが、じっさい別のものに変わるのだ。
何かそれじたいが貴重な、おおげさに言うと「玉体」と呼ぶべきものに変わっていく。
その玉体に触れていると、あるいはその玉体がそばにあるだけで、何か「進行している」壮大なものの作用を受けるというか、世界が体験される。その分与がたしかにある、ということが起こる。
そのことは、勝手に起こることというか、勝手にそうなることなので、あれこれ考えなくてもよい。
ただ、何らみずからの体にそうした玉体性が見受けられない場合、未だ自分の体は「体験」を得てきてはいないのだろうと、推定、あるいは断定してよい。
進行しづつける世界知性を主題において体験してきていれば、体は何かしら玉体性を帯びているはずだ。
そして、そんな本当のレベルのことは、じっさいにはなかなかないのだった。
絶頂とグロ厭の「臭み」を帯びた "感想が得意" な扁桃体のガワで増長している現実的パーソンと、 "体験に満ち" 壮大に進行し続ける世界に立つ玉体の人がいる。
あなたはどちらがいいだろうか。
どちらがいいか、については、さすがに選択の余地はねえなあ。
どちらになってしまうだろうか。
そのことには、未だ選択の余地が残っている。
以上、意味不明の世界レポートでした。
[意味不明の世界レポート/了]

