No.431 あの青い海のように
あの人がおれにこう言う。
「あなたはあの青い海のような人でしょう」
やや照れくさいが、そうです、とおれは応える。
「さあ行きましょう、せっかく来たのです」
そう誘ってもらって、おれは旅の一同となる。
おれはさまざまなことを見聞きし、さまざまなことを思い知らされるが、そのことはいつまでも、おれの主体にはならない。
どこまでいっても、おれはおれなのだから。
そのようにありなさいと、ずっと言われてきたのだから。
そのときにのみ、世界を与えてもらってきたのだから。
これをわざわざかなぐり捨てることなどついにありえなかった。
人々はまるで消費者が世界の主体であるかのように思い込んだ。
消費者たる自分こそが世界の主体、世界の中心、すべてを律する者だと思い込んだ。
そのように、思い込みたくて思い込んだのではない。
なぜそのようになったのか、成り立ちは不明だ。
ただ、それぞれ、本当はいつだって本来の世界に帰ることができた。でもなかなか、そのようにはできないものだ。
わたしが知ったのは、関心とこころは違うものだということだ。
関心は、むしろこころを閉ざすことで生じる心境だ。
江戸時代、徳川幕府は、あちこちに「関所」を設けた。
外様大名たちを信用していないからだ。
「入鉄砲、出女」を関所でフィルタリングした。
徳川幕府の、本丸を揺るがされないために、関所を設けてバリアした。
関心とは、読んで字のごとく、そのこころの関所を意味している。
関心とは、こころが「通じ合わない」ということ、こころに「通じない」ということ、こころに「通じさせない」ということだ。
人は、関心を強めることで、むしろこころに何も通じてこないよう、みずからをディフェンスし、安定させている。
わたしはこのことを、便利な言い方として、「関心安定」という四字熟語にしておきたい。
徳川幕府が関所安定をしていたように、われわれのこころも関心安定をしている。
ここ十数年、人々は、ウェブやSNSを介してでも、あるいはそうでなく直接のことでも、万事に関心を強くした。
著名人のスキャンダルから、見ず知らずの女性の似合う髪型、コンテンツ演者の熱愛と失恋、気弱な男性が食べる牛丼の種類まで、激烈な関心を向けるようになった。
すべては関心安定のためだ。
本当には、何にも通じていない、何らこころに得ていない、本当に通じて遊んだことのない、そういう致命的な危機にある人が、危機に向き合いきれず安定を欲した結果として、人々は異様な関心モンスターになった。
見ず知らずの未成年が飲酒をしていた、赤の他人が赤の他人と不倫をしていた、会話することもない少女の下着を覗き見て推し活をすることにした、しかし彼女の箸使いが拙劣だったのでコメント欄から注意することにした。
人々は関心モンスターになってしまった。
激烈な関心が「こころある人」になりうるわけがない。
激烈な関心は人に孤立した信条をもたらす。
男はしょせん◯◯、女はしょせん△△、勝ち組、親ガチャ、××カス。
こころのまま、どのような嵐をくぐり抜けてきたというわけでもなく、さらにその嵐の中に身を投げ出して遊びきったというわけでもなく、電脳端末個室で鼻くそをほじくりながら、もう溶解することのない酸鼻な信条だけが結晶した。
一般についぞ知られることがなかったのは、「こころ」はそもそも、外側に?つながらない?ということだった。
こころはそもそも、閉塞部に存在している。
われわれはそもそも、子供が宿題を忘れてきたとして、それが「うっかり」なのか「わざと」なのかさえ、そのこころのうちは知りえないのだ。
子供が、「うっかりです」と言い張ろうが、「わざとです」と言い張ろうが、けっきょくそれが真実の言なのかどうかをたしかめる方法はない。
なんでもない小旅行について、「楽しかったです」と言っているのが、本当なのかウソなのかさえ、その本当のこころは、外部の者には確かめようがないのだ。
このことを、プライヴェートという。
われわれにできる、せめてまっとうなことは、そのプライヴェートをプライヴェートのままに取り扱うことだったろうのに、このごろわれわれは関心モンスターになり、そのプライヴェートを関心で食い破れるのだと思い込むようになってしまった。
このことはもう、現代のわれわれが、「こころ」というそれじたいに盲になり、視力を失っているということを意味している。
こころはもともと閉塞部に存在しており、外には出せないもので、そもそも孤立して存在するものだ。
その孤立が、耐えがたくて、人はそのこころを外側に出すという虚妄にすがることになった。
それで、こころの代わりに、こころの出張所が出張ることになった。出張所は「関所」だ。
それでわれわれは、「関心」が自分のこころなのだと誤解するようになり、その誤解の分厚さにみずから呑み込まれていくことになった。
こころは閉塞部にあり、そもそも、外部とつながるという性質がない。
にもかかわらず、このあわれなこころを、孤立から救ってくれる仕組みが与えられていた。
本来はそれが与えられてあったのだ。
それは「遊ぶ」ということだった。
閉塞部と対比して、遊び部が存在している。
こころは閉塞部にあるが、そのこころに、遊び部の上下のストリームが吹き抜けている。
遊びの風、稽古の風、可能性の風、教えと導きの声が、縦向きに吹きあげ、吹き下ろしている。
それは与えられたものであり、われわれに宿されたものではない。
われわれの自家製にはありえないものだ。
人と、犬がいたとして、人が何を言っているかは、犬には理解できないし、犬がどういう匂いを嗅いでいるかは、人には共感できない。
それでいて、人と犬は、愛しあうなら、これほど遊びあうのに向いた仲はない。
そうして、遊び部で通じるということ、プライヴェートで、こころの真ん中でこそ通じるということが、われわれに与えられていた。
決して自家製の気持ちで、そうしたことが引き起こせるわけではないのだが、われわれは電脳端末個室で関心モンスターになってしまったので、すべてのことは自分の関心でのみ引き起こせるのだと、誤解するようになってしまった。
わたしが無言で、呼びかけると、よその犬でさえ、ハッと気づいてこちらを向く。
「遊ぶの?」
「遊ぶぞ」
遊び部へのアクセスがあり、その信号を、犬は聞き取っているのだ。
心理学者ユングは、もともと当人が超心理学への傾向を有していたので、このことを集合的無意識説で明かそうとしたが、そのことはどうやらあまりうまくいかなかった。
集合的無意識という言い方で説明されているものはむしろ、「関心」、孤立したこころが孤立を食い破ろうとして、相互にプライヴェートに侵入し、自我インフレーションを起こすということに見られる。
遊び部でこころの真ん中が通じるという、単純なことの中にいるかぎり、集合的無意識という?不穏な?それのことは考えなくてよい、まったく無縁なことだ。
ユングはそもそもが精神医学の徒で、精神医学ということは、つまりは精神的な病人を相手にしてきたものだから、精神的にこじれた者の文脈が、主体にならざるをえない、そういう背景もあったのだろう。
犬とよく遊べている人の精神分析など、医者はするものではないから。
わたしが犬に、無言でも呼びかけると、犬はハッとして、「遊ぶの?」と立ち止まる。
人も同じだ。
人の遊びは、犬ほど単純ではないかもしれないが、同じだ。
「遊ぶの?」
「遊ぶぞ」
無言のうち、これだけでも、泣き出す人をわたしはたくさん見てきた。
こころの真ん中が通じるということ。
こころの真ん中で、声が聞き取れるということ。
些末なことでも、むつかしげなことでも、何を言っているか、こころの真ん中ではっきり「わかる」ということ。
そのとき、自分のほうからも、こころの真ん中から、つまりプライヴェートな、笑みと、声と、ことばがあふれてくる。
ポロッと、本当にあふれてくるのだ。
われわれには本来、そういうものが与えられていたということ。
自家製で起こせるような現象ではない。
関心という、ひどく汚らしいものを持ち出す必要はない。
汚らしいものを持ち出していないので、それを糊塗する、作り物の笑みを貼り付ける必要もない。
どのようにしたらよい、という、あさましい関心を捨てなくてはならない。
もともと与えられてあるものに、どのようにしたらよい、というような考え方は必要ない。
遊ぶといえば、ほ乳類は、乳飲み子でもすでに遊んでいる。
子猫は、まだわけもわからず、目の前にあるもので遊び続けるだけだが、そうした子猫について「こころがない」とは誰もみなさない。
子猫には信条がないだけだ。
どのようにしたらよい、という、定番の発想が湧いてしまうのは、われわれがすっかり、自家製の「信条」に染まりきってしまっているからだ。
信条を得、関心を向けたら、意欲的で、そのことが出来るようになると思っているのは、どこまでも自家製ですべてが出来ると思い込んでいる思い上がりだ。
どのようにしたらいいか、また、じっさいどのようにしたのかは、わたしとあいつだけが知っている。
すべての場合において、わたしとあいつだけが知っている。
なぜなら、遊ぶというのはこころの真ん中のことなのだから。
遊び部は、われわれの自家製のものではなく、もともとこの世界のわれわれに与えられてあるものだが、その縦向きのストリームが、われわれのこころの真ん中に吹き抜けている。
こころの真ん中、それはつまり「あいつ」だ。
目の前の「こいつ」、またそこにいる「おれ」。
どのように通じ合い、どのように遊んだのかは、おれとあいつだけが知っている。
?プライヴェート?なのだから当たり前のことだ。
「どのように」ということは、すべての個々に、そのときごと与えられているのであって、信条のごとく、類型されて概念化・パターン化されているということはない。
メソッドはないのだ。
そもそもわれわれの自家製のものではないゆえに。
また、そもそも与えられてあるものに、メソッドなど必要ないゆえに。
この、与えられてあるものは、それじたいが美であり、それじたいがやさしさだった。
嘆くべきは一点、この美とやさしさに対する盲があるということに尽きる。
見ず知らずの飼い犬に呼びかけ、犬はハッとし、
「遊ぶの?」
「遊ぶぞ」
というやりとりがなされる。
そこに現れているのは、美であり、やさしさだ。
動物愛護の精神が現れているのではない。
むしろ言うならば、そこに現れているのは「愛」という単体の、シンプルなものであって、動物好きとか動物愛護とか、情操というような、いかがわしくややこしいものではない。
シンプルに言うなら愛、体験的に言うなら美とやさしさで、それらはすべて、われわれの自家製のものではありえない、もともとはわれわれに与えられたものだ。
愛にせよ、美とやさしさにせよ、われわれはあまりみだりに、そのことを口に出すべきではない。
なぜならそれは、われわれの自家製のものではなく、この世界とわれわれに与えられた、天地と場所のものだからだ。
自家製の信条を言うようには、愛や、美とやさしさを言うべきではない。
先に述べたとおり、本質的には犬に向けるそれと変わらず、わたしが呼びかけるとき、それだけで泣き出す人をたくさん見てきたと述べたが、そのことについて、「やさしかった」と言わない人はいない。
けれども、世の一般で言うなら、やさしいも何も、わたしはまだ何もしていないだろう。
われわれの往く先は、大きく言えば次の二手に分かれる。
ひとつには、遊び、稽古し、稽古してまで遊び、こころの真ん中が通じあい、美とやさしさを豊かにして、つまりこの世界とわれわれに与えられたものに恭順して生きる。またその彼岸にまで往く。
もうひとつには、与えられてあるものが信じられず、疑い、その醜さをみずからに閉ざすため、関心安定法を用い、関心は孤立した自家信条を形成し、つまり自分内部に湧き立つ孤立閉塞したものに恭順して生きる。またその彼岸にまで往く。
すべての始まりは盲によって。
光よりも盲を選んで愛したことによって。
盲のくらやみ、その中に湧いてくる自家製の信条、それを権威として抱きかかえて進む。
もともとこの世界のわれわれに与えられているものよりも、みずからの信条を上回らせ、与えられているものを否定するのが、身を賭しての使命となる。
閉塞部の奥にいるマグマの王に謁見するのだ。
閉塞部のすべてはそこから湧き出しているのだから。
かつて、誰かがそのようにしてきてくれたように、わたしもここに、ひとつのまとめを示そうと思う。
こころはもともと閉塞部にある。
こころはもともと孤立している。
それがさびしくて、人はこころを、外側に出してつなげるという虚妄に囚われる。
それで実際に押し出されるのはこころの関所だ。
これが「関心」となる。
「関心」を強く押し出すと、そのたびに、こころは孤立していない、という錯覚を得ることができる。
それによって安定が得られるので、この方法は「関心安定」と呼んでよい。
とはいえ、この関心は、けっきょくこころのつながりではなく、むしろこころの閉鎖だ。
だから、それさえも踏み破ろうとして、つまり「関所破り」をしようとして、闇のうちのはたらきを認可しはじめる。
そのことは、心理学では集合的無意識と呼ばれ、関所破りをしたさまざまな元型たちは、自我に侵入して自我インフレーションを起こす。
これらの関心が、当人に慰めと諍(いさか)いをもたらし、その慰めと諍いの蓄積から、当人の内部(閉塞部)には「信条」が形成されていく。
そのことを、当人はまるで、さまざまな人生経験から、いろんなことがわかるようになった、大人になった自分、というふうに捉える。
こうして当人は、じつはどこにもつながっていないこころと、何にもつながっていない自家製の信条を抱きかかえたまま、その重みがもたらす世界へと進んで往かねばならない。
重みがもたらす世界へ進むというのは、直接的に言うなら「落下」だ。
果てしなく落下していく。
閉塞部の地底には、マグマの王がいて、やがてその王に謁見することになり、これまで自分が何に仕えていたのかを、そのときになって知ることになる。
これらのことは、すべて一点の盲から起こっている。
美とやさしさの盲。
やさしいということがわからなかった。
やさしいということが視えなかった。
やさしいということを視たくなかった。
それを視るということが受け容れられなかった。
うつくしいということを視ると、自分がそれではないということ、自分は醜いということも、同時に視なくてはならなかった。
信条を捨てられなかった。
しかし信条を抱えたままうつくしくなることはできなかった。
信条を抱えた自分が醜いということがどうしても自分を破綻させる。
だから盲を選ぶことにした。
美とやさしさが、そもそも視えなければ、自分は構造的破綻に至らずにいられる。
信条を抱えた自分が、うつくしい「はず」という、本当かどうかわからぬことを、盲のくらやみの中に隠しておくことができる。
しかしその虫の好い考えは、さらに多大な罪を犯していくだろう。
やさしさをないがしろにし、美を踏み汚して進んでいく。
それが視えないのだから。
盲なのだから。
やさしさを、破れたビニール傘のように扱い、美を、矢を投げつけるダーツボードのように扱う。
もともとこの世界とわれわれに与えられた、自家製でないものを、またそのことに身を投げた人たちのすべてを、そのように平然と踏みにじっていく。
そうしないと自分が破綻するから。
とつぜんだが、この話はいきなりここで終わってしまう。
あまりにもとつぜんだ、わたしもまったくそのような予定ではなかった。
しかし、いましがた、決定的な「お知らせ」が来てしまったので、わたしはここで引き上げなくてはならない。
あのときからずっといらしたのですか?
よくよく考えれば当たり前のことではあります、話はもともとひとつですから。
ああ、これがそのストリームで、それはあのときからずっと続いているのですね。
古今、ということに、いま気づきました。
それで、あの青い海のような人でしょうと、言われたのですね、よくやくその意味が聞き取れました、ありがとうございます。
[あの青い海のように/了]

