No.435 おれは成長したので来年はあなたもレベルを上げよう
年末のスケジューリングを失敗した。
ついさっきまで、新作コラムを完成させようと、必死こいて書いていた。
やっと完成し、A4で 232 ページ、二十九万字になった。
原稿用紙でいえば 750 枚ぐらいか。
ふつうそんなものを、コラムとは呼ばない。
わたしが書いた中で、文字数としても、取り掛かった時間としても、最長のものになった。
たしか十一月初旬ぐらいから書いていたのだ。
それがまさかこんなに膨張するとは思わなかった。
いま、わたしは、世界一どうでもいい文章を書こうという、熱いモチベーションで昂っている。
だって考えてもみろ、正気の沙汰じゃない。
誰が年末に、徹夜して、大晦日に差し掛かってまで、二十九万字のコラムを書き上げようとするのだ。
完全にスケジュール調整をしくじっている上に、それを書き上げたいま、
「さあ、大晦日コラム書こうかな〜」
という、そんな馬鹿げた暮らしはないのだ。
季節感を覚えろと言われても無理がある。
2025年が終わるらしい。
この一年はすごい一年間だった。
毎年言っているかもしれないが、とにかくもう、何もかもが膨大な一年だった。
あまりにも無数の到達点を得て、もう、何が何だったのかを思い出せない。
いま、大晦日のはずだが、もうクリスマスのことさえ、けっこう昔という感じがしている。
わたしがよろこびを覚えるのは、こうして書いていても、こうした書き話しが、もう行方不明になることは決してないと、わたし自身に確信されることだ。
いっそ、わざわざへたくそというような書き方をしているのだが、それでももう、行方不明になることはない。
性懲りもなく、文章力が上がっているのだ。
文章力というパラメーターの発想は、死ぬほどダサいが、まあダサい表現をしてもかまわないだろう。
信じがたいことに、この一年間だけでも、わたしの文章力は格段に上がっている。
面白い文章の書き方、そのコツは、面白いことを書かない、ということにある。
面白いことを書かないし、面白いふうにも書かない。
面白く書くのではなく、面白く生きる必要がある。
さすがに、面白く生きていない者が、何かを書き話して面白くしようというのは無理がある。
(無理があるというか、限界がある)
面白く生きて、トピックスなんかないほうがいい。
いや、トピックスは、あっていいのだが、面白いトピックスを持とうとするのが的外れなのだ。
今年、この冬の、圧倒的トピックスは、何といってもメリノウールだった。
2025年はメリノウール元年だ。
元号を羊にしてもいいぐらいだ。
メリノウールに興味のある人は、まずワークマンに出向けば、安くて厚手の、あたたかいインナーが買える。
ユニクロのヒートテックとは違うのだ。
ヒートテックももちろん、優れた素材だが、どうもわたしの知る限りでは、汗をかく用途には向いていないように思う。
汗冷えをするのだ。
わたしはこの冬、汗冷えに妙に困らされた。
温泉に行き、根こそぎ湯につかると、帰り道に湯冷めするのだ。
わたしはここで、とても含蓄のあることを話そう。
(われながら、ヘッタクソな文章でかつ、あまりにもどうでもいい話が続いており、サイコーですばらしいと思っている)
温泉は、長湯する者が湯冷めするのだ。
一般には、長湯すれば、しっかりあたたまり、湯冷めしないと思われている。
けれどもそうではない。
わたしのように、温泉というか、地面から湧いているものに何か霊的な供給を受けることを必要としている者は、長湯というか繰り返し湯に浸かって、もはや体の真ん中を温泉に同化させるということまでをしなくてはならない。
体の真ん中が温泉になるのだ。
体の真ん中が温泉になるということは、もう、肉体としての熱生産を放棄するということだ。
それで湯冷めする。
全身がもう、温泉の熱でしか活動しません、と生命活動をボイコットするのだ。
それで、帰り道に夜風を浴びて、湯冷めする。
長湯したから、あたたまってはいるのだが、そのぶん汗はかき、それでいて体内はもう熱生産をしないので、汗冷えで冷えるだけ冷えてゆき、最後は凍えるのだ。
わたしはそれで、考えた。
どうすればこの湯冷めを回避できるのか。
考えて、思い至ったのが、冬山登山の装備だった。
わたしには登山の趣味はないので、知識がまったくないが、最近は Youtuber の人がよくそういう情報発信をしてくれているだろう。
冬山に登る人は、とうぜん汗をかくだろうし、それで冷えたりしたら死んでしまうので、入念に装備を整えているはずだ。
つまり彼らは、汗冷えをしないガチ勢のはずだと、わたしは考えた。
そして、近年の冬山装備では常識となっているらしい、レイヤリング・システムのことを知ったのだった。
レイヤリング、つまり重ね着だ。
2025年の重ね着のテクノロジーを甘く見てはいけない。
わたしがそっち方面の人だったら、ここから先には「有料級」という激ダサのサムネイルをつけるところだ。
まず、ベースレイヤーとして、メリノウールのインナーを着る。
次に、ミドルレイヤーとして、裏起毛のフリースなどを着る。
次は、アウトレイヤーだが、じっさいに冬山に登るわけではないので、わたしはトレーナーを着る。
その上に、トップスとして、冬用のジャケットなりコートなりを着ればじゅうぶんだ。
メリノウールのインナーは、それだけで、おどろかされるほどのあたたかさを持っている。
が、それだけでなく、このレイヤリング・システムは、とにかく汗冷えを回避させてくれるのだ。
どういうことかというと、温泉を出てしばし散策後、アウトレイヤー、トレーナーを脱ぐと、トレーナーが汗でじっとり湿っているのだ。
ベースレイヤー、ミドルレイヤーは、湿っている感じがしないのに。
外側の服が湿っている。
すごい。
ベースレイヤー、ミドルレイヤーは、汗を吸い上げて放出し、ドライを保ってくれているのだ。
それでわたしは汗冷えをしなくて済む。
じっとりと湿ったトレーナーに触れるたび、
「不思議だなぁ」
と思わされる。
そしてメリノウールは、ウールの特性として、抗菌作用があり、着ていてもまったく臭くならない。
この抗菌作用というやつは、ちょっとびっくりするほどで、何しろ着替えようと思ってインナーを脱ぎ、新しいインナーと並べたところで、
「あれ? さっきまで着ていたのって、どっちだっけ」
とわからなくなるのだ。
脱ぎたてのそれが洗濯済みのそれと比べてちょっと見分けがつきづらいというほどに抗菌性能を持っている。
こんなすばらしい素材にまみえては、これはもう、メリノウール元年と言うしかないだろう。
浮かれてしまい、わたしはつい、ベッドの敷パッドまでメリノウールのものに替えてしまった。
温泉に長湯し、湯上りに、メリノウールのインナーを着込むときには、一種の快感さえある。
どういうことかというと、わたしとしてはまさにここというところではあるのだが、ふつうの綿のシャツだと、風呂上りには、しばらくのあいだシャツを着たくないと感じるのだ。
なぜかといって、熱いから。
「あっつ、あっつ」
そう言って、シャツの裾を指でつまみ、パタパタと空気を送り込んでいるというさまが容易にイメージできるだろう。
そうして、熱がるゆえに、湯上りになかなかシャツを着ないので、ヘンな冷え方をするのだ。
メリノウールだとそれがない。
もういっそのこと、温泉施設の側で、メリノウールのインナーを販売したほうがよいんじゃないかと思う。これはけっこう、冗談ではないかもしれない。
湯上りに、メリノウールのインナーシャツを着ると、「あっつ、あっつ」にならない。
汗が吸い上げられ、発散され、まさかのまさか、
「涼しい」
になるのだ。
そして、涼しいのに、冷えない。
湯上りとメリノウールの組み合わせはもう、ドライジンとドライベルモットの組み合わせぐらい、妙境を為しているところがある。
メリノウールの、唯一の弱点は、当たり前だが洗濯時にはおしゃれ着洗いをしなくてはならないというところだ。
それはまあ、ウールだからしょうがないし、いまどきおしゃれ着洗いといって、服装に気を使うお姉さんならすでに誰でも日常的なルーティンに組み込んでいるだろうから、そこまでの負担にはならないだろう。
おしゃれ着洗いをするので、多めに洗い替えを用意しておかないといけない。
あと、着ているあいだに、若干「ねじれてくる」「よれてくる」というところはあるかもしれない。
そんなもの、都度にちょっと裾や袖を引っ張り出して調整すれば直るので、気にならないが、こういうことは、気になる人は気になってしまうかもしれない。
そして、ウールなので、どうしても肌に対するチクチク度はゼロではない。
きょうびの技術において、そのチクチク度もほとんどなくなっているように感じられて、すごいと思うが、それでもウールのチクチクが「すごく苦手」という人は、やはりだめなのかもしれない。
インナーというのは試着ができないので悩みどころだ。
といっても、ワークマンのそれであれば、それはたいした金額ではないが。
(そのぶん、なぜかワークマンはそれを通販してくれない。店舗に買いに来て、他の品も見ろということか)
今年は、わたしは、さまざまなところの温泉に行った。
もういいかげん、認めるしかないのだが、なぜか理由もないままに、わたしは地面から何かが湧いているということじたいが、どこか好きでたまらないらしい。
温泉も好きだし、なぜか湧き水も好きなのだ。
正直、ため池に少量のメタンガスが噴き出ているのさえ、わたしにはそれが「好き」という謎の感情がある。
地面から大きなクスノキが生えているだけでも、何か知らんが救われるここちがするのだ。
畑から野菜がニョッキリ生えていて、それが近くの道の駅で売っているとか、そういうのもいい。
地面から何かが出ているということにわたしは救われるらしい。
何なんだろう、これではまるで原始人みたいだ。
おれは原始人なのかもしれない。
温泉というのも、見ていくとけっこうわからないもので、いかにも山の中に湧いているものは、いかにも温泉ということでわかりやすいのだが、たとえば山梨の街中に唐突に湧いている温泉などに行くと、「なんでこんなところに」と思えて不思議だ。
しかも、その街中に、ちょろちょろと湧いているのではなく、きゅうにドバドバ湧いているのだ。
山梨は、山の中には湧き水がとても多い土地ではあるが、「だからといって」という気がする。
地面の中がどうなっているのか、わからない、不思議だなあと思わされるのだった。
不思議といえば、埼玉の温泉も不思議だ。
埼玉の温泉は、強塩泉なのだ。
海水のようにしょっぱい温泉だ。
それもまた、街中に唐突に湧き出ている。
地面の中、地層のどこかに、岩塩でもあったりするのだろうか。
しかし、東京の温泉は、強塩泉ではないし、群馬も、茨城も千葉も、強塩泉ではなくて、埼玉だけが強塩泉なのだ。
強塩泉といえば、熱海も強塩泉寄りというか、かなりしょっぱい塩化物泉だが、それだって、隣の湯河原や伊豆は、ぜんぜんしょっぱくはないので、まったく温泉というやつはよくわからない。
前日や数日前に大雨が降ると、もう湯が洪水みたいに湧き出てくるというような温泉もあるし、箱根の山の上のように、地下水に火山ガスを当てて作り出している温泉もある。
あと、どこまでいっても、草津はやはり別格だ。何度行っても、そんなバカなと思わされる。
あれだけのパワフルな湯が、あんなに大量に湧いているというのはちょっと異常だ。
ふつう温泉というのは、ドバドバ出ているものは濃度が低めで、ちょろちょろ出ているもののほうが濃度は高めなのだ。
ドバドバ出ているのは、いわゆる「アル単」、アルカリ性単純泉ということが多い。
しかし草津は、ご存じ湯畑の湯だけでも、あれだけ大量に湧き出ていて、さらには湯畑の湯よりも万代の湯のほうが湧出量は多いというのだ。
加えて、白旗の湯、千代の湯、地蔵湯、煮川の湯、綿の湯、等々、自家源泉まで含めれば、ものすごい数の源泉がある。
どれも殺菌力が強く、レジオネラ菌が生存できないので、検査の必要もなくレジオネラフリーという、夢のような温泉地だ。
それら草津の源泉群は、温泉に慣れていない人にとって、「どれも同じじゃん」と思えるかもしれないが、それが存外そうでもないのだ。お湯がピリピリしてきついという人でも、なぜか地蔵の湯だけは入れたりするし、代表的な湯畑の湯と万代の湯を比べると、やはり万代の湯のほうが当たりはずっと強い感じがする。
草津の湯は、強いので、帰り道に「なおし湯」「仕上げ湯」といって、沢渡温泉などに寄って帰るのもオツだ。本当にひなびていて坦懐に耽れる。
なかなかにひどい、温泉フリークぶりを開示してみたが、だからといってわたしは、温泉めぐりが趣味というわけではない。
いや趣味だろと、言われてしまうと、抗弁できないかもしれないが、それでもわたしにとっては、それは別に趣味というわけではないのだ。
そもそもわたしに趣味というものはない。
料理はよくするので、調理器具はビタクラフト等を使っているが、だからといって趣味というわけではないし、微妙にオーディオ機器に入れ込みがあり、ノイマンのマイクやアンテロープのオーディオインターフェイスや、グレートリバーのマイクプアリンプやゴールデンエイジプロジェクトのコンプレッサーやベイヤーダイナミックのヘッドホンがあったりするが、だからといってこれも趣味というわけではない。キャンプ場ではタープを立てたり、コットに寝転がったりするが、それが趣味というわけではないし、ニコンのフルサイズ一眼とソニーの APS-C 一眼を持っているけれど、それが趣味というわけでもない。
趣味というわけではなく、ただずっと、毎日、なるべく本気で生きて、なるべく全力で遊ぼうとしているのだった。
趣味にまで手を広げる余裕はいまのところない。
そしてこのように、面白く生きることによって、ここに世界一どうでもいい文章をじつに示すことができ、おれはなかなか気分がいいのだった。
面白い文章を書くコツは、面白く生きることで、それはつまり、面白く書くなんてことをしているヒマはないという奴になるということなのだった。
***
上手な文章を書くコツは、とにかく睡眠不足は避けることだ。
わたしはいま、徹夜のまま昼過ぎにこれを書いているが、こういう状態で書くのは本当によくないので、みんなはちゃんと睡眠をとってから書こう。
長いこと書き話しをしているが、どうしても、書くということには途中で睡眠が必要になる。
いや、もちろん途中から、脳みそがどこかおかしくなってしまって、寝ていなかったのになぜかそこから原稿用紙百五十枚も書き、それでいて読み返すと、文章にまったく破綻がなかった、不思議だなあみたいなことはある。ただ、その脳みその状態を長期間続けることはできないし、そうして書いた場合、何をどうやって書いたのかまったく覚えていない(記憶が飛んでいる)ので、価値があるのか無いのかもよくわからない何かになってしまうのだ。
そういうのは、よくないので、基本的に睡眠不足は文章創作の天敵だ。
いま書いているのは、大晦日コラムなので、きょう書いてしまうしかなく、やむをえず寝ないまま書いているけれど。
文章を書くことは、どこか、車の運転に似ているところがあるように思う。
目的地に向かって進んでいるのだ。
そして随所で、左折したり右折したりしなくてはならない。
曲がるところを誤ったり、曲がるべきところで曲がりそこねたりすると、しばらく行方不明になってしまう。
行方不明のまま、別ルートにたどり着けなかったら、「しゃーない」と言って、来た道を引き返して元のどこかの地点まで戻るしかない。
ふらふらしている運転は、同乗者が酔うし、車線変更が乱暴だと、クラクションを鳴らされたり、ヨソの車にぶつかってしまったりする。
文章を書くこととよく似ている。
睡眠不足の運転はとてもよくない。
睡眠不足では、車の運転は「無理」になる、それととても似たここちで、睡眠不足では執筆は「無理」になる。
これは、車の運転中にある「判断」と、執筆中にある「判断」が、性質として似ているからだと思う。
執筆における「判断」は、進みながらの判断で、動的なのだ。
車の運転とじつに似ている。
もうちょっと先に進んでから右折する予定だったが、きゅうに道幅が狭くなって渋滞してきたので、
「もう先に右折しちゃおうかな」
と考える。そこで、右手に路地を見つけ、パッとハンドルを切ったとして、その路地がはたして次の大通りにまでうまくつながっているかどうか。
後続車が来ているので、停まって考えるということもできないし、つぎに曲がるべき交差点を、じっくり見て確かめてから曲がるということもできない。
こういう動的な判断を、正しく、かつ楽しくやり続けるためには、どうしても一定の睡眠時間が要る。
( Break )
そんなことを言っていたら、ついに意識が切れ、寝入ってしまった。
さきほどまで、正午だったのに、もう17時になってしまった。
車の運転だったら、ちょっとサービスエリアに停めたところ、寝入ってしまって朝になってしまった、というパターンだ。
2025年が終わる。
(やはりあきらかに、睡眠をとったほうがまともに文章が書ける)
いまさらになって気づくが、文章を書くというのは、愛の営為なのだと思う。
愛のある人は、愛のありようが文章になるし、愛の無い人は、愛の無さが文章になる。
わたしはいま、この大晦日に、むしろ春のおとずれを聞くようだ。
真冬の空気の底に、気の早い春の尖兵が潜んでいる。
またあの季節がやってくるのか。
地球がほころびはじめるあの季節が。
地球が天体をこっそりやめるあの季節が。
気温がどうこうなんていう話はぜったいにウソだ。
温度を変化させただけであんなことが起こるわけがない。
文章を書くのは、愛の営為であり、愛が現れるのであって、それと同じように、春というのも気温の上昇ではなく、愛の営為だ。
春は愛が現れているのだ。
いま、むかし読めなかったショーペンハウアーの「意志と表象の世界」を読もうとしているので、ちょうどいい。
気温というのは、空気の温度であって、空気の温度は、気体分子運動で説明されるが、そんなもので春はやってこない。
愛の意志なのだ。
そして愛というのは、客観的な値打ちを持たない。
他人宛ての表彰状を額縁に飾っても自分には何の値打ちもないみたいにだ。
美少女A子ちゃんが、おれのことを愛し、その後B男のことを愛したとしても、おれから見れば、A子からB男に向けられているそれは、愛ではない。
愛はそれを受ける当事者にしか愛ではない。
それでも、ボクもA子ちゃんに色よくされたいよぅ、A子ちゃんにグッと迫られたいよぅと望んでいる男がいたとしたら、彼が欲しがっているのは、本当には愛ではなくて「品(しな)」なのだ。
品(しな)は、誰が受け取っても同じだ。
たとえばドラッグストアでトイレットペーパーを購入する場合、それはおれが購入しても、A子が購入しても、B男が購入しても、同じ品(しな)だ。
だからおれは、トイレットペーパーを買うときでさえ、品(しな)なんか買わず、愛を受けようとする。
それでおれが、エリエールのトイレットペーパーを持っていたら、あなたはそれがうらやましいのだ。
「えー、いいな」
もちろん、トイレットペーパーという品(しな)がうらやましいのではなく、愛を受けていることがうらやましい。
そのトイレットペーパーのように、また春がやってくる。
おれはまたその愛を受けるのだ。
おれは、おれに向けられた愛のみを受け取る。
この世界が、わけのわからないほどの巨大な愛を、おれに向けてくれているのは知っているが、他の誰かがまたそのように愛を向けられているのかどうかについては、おれは知らない。
おれには知りようがないのだ。
おれは、おれに向けられた愛しかキャッチできないので、他の誰かがどのようになっているのかは、おれからは直接知りようがない。
おれのメールボックスに、他人宛てのメールがバカスカ届いたとして、それはもう「メール」ではない。
おれ宛てのメールではないものを、おれが内ポケットにぎっしり溜め込んだとして、それはけっきょくおれには届かない。
おれ宛てではないメールをおれに届かせるというのは原理的に不可能だ。
おれ宛てでなくてもかまわないものというのは、やはり「品(しな)」であって、たとえばTシャツなら、サイズさえ合っていればよく、わざわざおれ宛ての品である必要はない。
逆に、おれ宛てのものが、おれ以外の誰かのところへは届きようがないので、「えー、いいな」とうらやましがられても、それは品ではないので、あなたが横からかっさらっていくようなことはできないのだ。
2025年を振り返って、おれはまあ、とんでもなく飛躍したと思う。
いろんなことに、到達点を得て、突破し、解決し、わからなかったことが「そうだったのか」と一気に知られ、出来なかったことが一気に出来るようになった。
ここから先のおれは、確実に、この2025年を足場にするだろう。
偉そうに言うなら、おれは今年で、一定の完成を得たのだと思う。
まさか自分が、こんなはちゃめちゃな理論の果てに立つことになるとは、かつてまったく思っていなかったけれども。
今年は友人が、絵画個展をひらいたのでもあった。
初個展だ。
それはとても佳いものになった。
羽ばたいて、空を飛ぶたぐいではないが、とにかく羽ばたいた。
われわれが、組織や共同体に担保されず、自分自身として芸術を現わすということは、ただならぬことなのだ。
とにかくめずらしい。
たとえば、◯◯芸術大学を卒業していれば、そのことをこっそり看板やチラシにデカデカと書くことができるし、その◯◯大学の同級生を、個展に呼ぶことができる。
あるいは、父親が日本画や水墨画の有名人なら、「△△先生の息子さんやね」ということで人は来てくれるし、当人も「△△の長男です」と身分を言い張れる。
それを、何の担保もなしに、「わたし」がやるというのは、まったく別次元に困難だ。
どこの誰、と訊かれても、どこの誰でもないです、コイツです、としか答えられないのだ。
それはとてもむつかしいことで、人は、そういうときには「ネタです」とごまかせることしかやれないものだ。
そういえば、おれがこうやって書き話しているのも、何にも担保されていないものだし、「どこの誰」と訊かれても、「ただのコイツです」と答えるしかないものだ。
そういうことはむつかしいのだ。
あなたが勝手に小屋を建てて、勝手に脚本を書き、勝手に客を集め、勝手に新作の歌舞伎を上演し、「一代目」を名乗ってイヨォーと見栄を切るというような、そういうわけのわからなさだ。
あなたは、何をまかりまちがっても、そんなわけのわからない行動には出ないだろう。
なぜあなたが、そんな行動には出ないかというと、
「そりゃだって、僕は歌舞伎の家柄とかじゃないし」
ということ。
つまり、封建制だ。
そういう家柄だからそういうことをするとか、そういう専門学校を出ているからそういうことをするとか、そういうプロダクションにいたからそういうことをするとか、それらは権威主義であって封建制だ。
アイドルになりたいという人が、まずオーディションを受けて事務所に所属しようとしているのは、むかしで言えば、まず「ギルド」に入ろうとしているということなのだ。
ギルドに所属せず、ギルドの許可なしに、勝手に仕事をしてはいけないというのが、中世・封建制の世の中だった。
アイドル活動をやりたければ、自分でホールを借りて、自分で作詞作曲し、自分で音源を作り、自分で衣装を制作して、自分でダンスのふりつけをし、自分で客を集め、自分でひらひら踊って唄ってもいいのだ。
しかしじっさいには、事務所がホールを借り、事務所が作詞作曲をどこかへ発注し、音源も発注し、衣装もデザイナーに発注し、ダンスのふりつけを振付師に発注し、それでアイドルが「どうしたらいいですか」と言って、そのお仕着せをちゃんとこなすということになっている。
よくよく見ると奇妙なことだ。「アイドルがやりたいんです」と言ってそこにたどりついた彼女たちだが、その活動で何をするかにつき、彼女たち自身が作り出して決定している部分はどこにもない。
それでどこか、アイドルというのは、「学校」っぽいのだろう。
学校というのは、特に中学・高校に紐づけられるが、学校の側で教室が定められており、黒板や机や椅子といった什器も定められており、時間割も定められていて、何時にチャイムがなるかも定められている。制服も定められていて、運動会や文化祭をやるということも定められている。生徒が作り出して決定する部分はどこにもないのだ。文化祭で何をやるか、クラスのみんなで決めようという、お仕着せの「ボクたちで作ろう」があるのみ。本当にはすべてが教頭先生のもとで職員会議で決められており、すべてが関連する業者へ発注されていて、あとは文科省が下知したカリキュラムを生徒たちに課し、それを教職員が指導・管理するだけだ。「学校」が成り立つのに、生徒側からの供出成分は一切ない(もちろん親御さんは授業料を収めているだろうけれども)。
学校には生徒会があり、民主的な投票によって生徒のうちから議員が選出されるようだけれども、そもそも生徒たちはその民主制の樹立を自分たちで獲得した歴史を持っていないのだから、その民主制ふうのものも、お仕着せでしかない。
何もかもが「大人」に決められている。
アイドルは、その「学校」とすごくよく似た形で成り立っている。それがオタクたちにとっては "受け取りやすい" ということなのかもしれない。オタクたちだって、そのほとんどは中学・高校の時間を経験してきているだろうから。
これが、ビリー・ジョエルだと、自分で作詞作曲してしまい、自分で楽器を持ち込んでしまい、自分でセットリストを組み、自分でPAや司会や演出家を呼び、自分で演奏してしまうので、そうしたことは、オタクたちの受け取れる範囲内のものではなくなってしまうだろう。
企業に勤めて、仕事に意欲のある人が、じつは構造的にはこの「学校」に留まっているということがけっこうある。
「何でもやります」
と、意欲的なふうなのだが、
「何でもやります。だから、わたしが何をしたらいいか、ぜんぶ用意して、ぜんぶ教えてください」
と言うのだ。
きらきらした眼差しで。
学校だとまさにそうだったのだ。
何をしたらいいか、ぜんぶ用意されていて、ぜんぶ教えてもらえた。
教科書がぜんぶ用意されていて、学習範囲もぜんぶ決められていて、八時半から始まる授業が用意されていて、自分はどこに座ればよく、テストも用意されていて、自分は何年で卒業するということまで、ぜんぶ用意されており、ぜんぶ教えてもらえた。
その中で、がんばることができた。
この、高校生の世界観を脱出して、「自分で決めていく」「自分で作っていく」ということは、思いがけず、多くの人にとってむつかしく、手ごわいことのようだ。
何がむつかしくて、何が手ごわいのか。
それはつまり、主体性だ。
この「主体性」というのは、きっと多くの人にとって「越えられない壁」なのだろう。
まして、「学校」にいたときには、ぜんぶ決められたとおり、ぜんぶ教えられたとおりにすることで、
「いい子だね」
と褒められてきたのだ。
おれは逆に、何ひとつをするのにでも、決められたとおり、教えられたとおりにするのがいやな子で、学校ではずっと白い目で見られてきた。
型稽古は、教えられたとおりというか、与えられたとおりにやるが、そうではない規律訓練は、おれにとってはすべてただのパノプティコンでしかなかった。
おれは何もかもを主体的にしかやらない。
いっそ、何もかもを主体的にしかやれないという、一種の病気に罹っていると思う。
おれは、九折絵画展をやってもいいし、九折劇場をやってもいいし、九折文学をやってもいいし、九折歌劇をやってもいいし、九折魂魄流をやってもいいのだ。
主体的にしかやれないという病気に罹っている。
いきなり自分で脚本を書いて、勝手に歌舞伎の新作なんかやり出さないだろハッハッハというのは、一般の話であって、おれの場合、今日このときからそれに向かったとしても、別にこれという違和感はないのだ。
おれのやることはおれが決める。
おれが、誰と遊び、何をして遊び、どうワークするかは、おれが決める。
他の誰にも決めさせない。
核兵器が頭上に降ってきたとしても、それぐらいでおれが死ぬわけではないし、他の誰にも、おれのことは決めさせない。
核兵器の二発や三発で死ぬような奴は、虚弱体質だし、仮に死んだとしても、その後復活すればいいだけのことだ。
だからこそ、そんなしょうもないミサイルは撃つべきではないのだ。
核兵器を撃つことと、ここにあるような面白い文章を書くことと、どっちがむつかしいと思うのだ。
そりゃ後者に決まっている。
だから、自分で面白い文章が書ければ、人は核兵器を撃つなんてイージーなことには向かわないのだ。
核兵器を撃つというのは、ファミリーマートでレジ打ちをするということより簡単なことだ。
世界観が高校生で止まっている。
よく知られているように、ヒトラーは、絵を描くものの、自分では個展がひらけなかったので、しょうがなく、世界を統べる総統閣下になろうとした。
世界観が高校生で止まっている。
わたしの友人は、個展をひらき、それはとても佳いものだったので、あっさりとヒトラーより上だ。
ヒトラーより上というのは、つまり、個展をひらくという主体性のほうがむつかしいということで、彼女はそっちのほうを為し遂げたということだ。
2025年、振り返って覚えているのは、ずっとわたしが、
「エッセイを書きたい」
と思っていたことだ。
たしか、去年の大晦日に、そんなことを書いていなかったっけ。
そこまで詳しく覚えておらず、いまになって確かめるのも癪なので、確かめないけれど、きっとおれはそんなことを書いたのじゃなかったか。
そのことをずっと忘れずに、一年を過ごしたのだが、けっきょく書きあがったものはというと、やれ自己愛がどうだとか、ナルシシズムがどうだとかという冊子だった。
あげくに、話と色(しき)といって、いまさらサルトルをタコ殴りにするという、長大な論を書いてしまった。
ナルシシズムを話題にしたときに、ひさしぶりに加藤諦三先生の名前を取り出し、それに引きつられて、むかしに読んだいろいろな哲学の本を思い出した。
むかしに読んだというか、むかしに無理やり読んだつもりになっただけのものなので、記憶はまったくあやふやなのだが、こんにちインターネットですぐ内容を調べることができるので、その点はまったく便利になったものだと思う。
かつてだと、いちいち、大学の図書館まで出向かなくてはならなかったから。
おれは今年、ひさしぶりに書店に行き、そこでひとつの歓喜を得た。
ひさしぶりに書店に行くと、さすがに、どうでもよすぎる本が居並びすぎているという、それこそショーペンハウアー的な嘆きを覚えずにはいられなかったが、それはさておき、おれは成長したのだ。
かつて読めなかった本、若いころむつかしすぎて読めなかった本が、いまは素直に手に取ることができ、素直にすっと読み取っていくことができる。
おれは成長したのだ。
おれは、読みたい本、本当に必要な本を、本当に読み取れるまでに成長したのだ。
やったぜ。
これはなかなかすごいことだ。
書店に行き、図書館に行き、特殊な専門業種の本を除いては、わたしに読めない本はもうないということだ。
すごい。
人はなかなかそんなことに到達しないだろう。
西田幾多郎が「善の研究」と言い、純粋経験を唱えているが、西田が言う善というのはキリスト教圏の善ではなく、ソクラテスやストア派が言っていたほうの善だろう。最高原理としての善だ。
そういうことが、かつてまったくわかっていなかったが、いまはわかる。
誰に入れ知恵されたのでもなく、おれ自身が得てきた体験によって直接わかる。
読めるようになったのは、おれが書いてきたからだ。
おれ自身が追究してきたから、他の誰かの、追究してきたことが読み取れる。
むかしのおれは、面白い奴ではあったが、いまのおれと比べると、あきらかにレベル差がある。
それはどうしようもない、隔絶された、補いようのないレベル差だ。
おれは、成長したのだ。
ずっと書いてきて、気づけばあれやこれやを何十年も追究してきて、今年になって書店のフロアに立ったとき、見わたす景色はむかしとはまったく変わっていた。
何十年もやってきたからだ。
このことは、人工知能に相談しても無駄だし、人工知能に要約してもらっても無駄だ。
物事は、自分が追究してきたていどにしか、読み取ることはできない。
逆に言うと、ここまで書いてきて、ここまで追究してきて、ようやく、読みたかった本の一冊も読み取れるようになるのだ。
このことは単におれが、色んなことに手を広げすぎという向きもある。
なんでもかんでもを追究しようとするから、こんなにたいへんになるのであって、ふつうはもうちょっとおとなしくして、自分の専門のことに腰を据えるものだろう。
だが、おれがそうやって無節操に手を広げてきたからこそ、おれの中で、そのちりぢりのジャンルがひとつに統合されつつある。
ジャンルは多岐にわたっても、すべてを統括しているひとつの原理が、すでに理論的に見つかっており、それの具体的実践・実演も、初期段階としてはほとんど完成したのだ。
それがおれの2025年だった。
温泉ばかり行っていたわけじゃないぞ。
おれはたしかに、むかしからエピキュリアンだが、隠れて生きつつも、まだまだしゃしゃり出て煩悶しようと思っている。
一年間、エッセイを書きたい、くだらないエッセイを書きたいと思い続け、じっさいには「違うやん」としか言えないものを創出し、ぜんぜんエッセイなんか書けないまま、その代わり巨大な規模といってよいほどの、一定の自己完成を得た。
その2025年が、まもなく終わろうとしている。
ああ、ようやく、そんな気がしてきた。
いま時計を見ると、19時すぎだが、ここにきてようやく、おれは2025年をやりきったと自分で認めたようだ。
いいかげんやりきったでしょう。
ようやく、大晦日がやってきた。
たしかに、なぜか窓からは春の力が香ってきているが、まあいい。
帳のむこうは新春ということでもあるのだろう。
2026年はどうしていこうか。
2026年は、概念的には、さらなる大きな飛躍が企まれているのだが、いまこのときにそれを考えると、ひたすらゾッとするだけなので、そのことはまた年が明けてから考えよう。
シリアスなことは、考えたくないが、世の中にはずっと、シリアスなことは続いているのだと思う。
そこで人々は、そうしたシリアスなことにつき、「ウチらには関係ないよね」と目を逸らし続けようとしているのだが、たいていの場合そうした人たちはシリアスさの当事者なのであって、シリアスさを見つめていてもしょうがないにせよ、シリアスさから脱却できるだけの蓄積は、いまから企図して実行していったほうが良いように思う。
けっきょくのところ、人がシリアスさの暗雲から逃れ出るためには、成長するしかない。
おれが書店のフロアに立ち、
「あ」
と言い、かつてとはまったく違う景色に立っていたということ、そういうことでしか、人は救われない。
少なくともおれは、マインドフルネスだけでなんとかしようという発想には立たない。
単なるレベル不足ということがあるのだ。
自分がレベル不足のまま生きていて、自分がレベル不足だとも教わらないまま、そして本来のレベルにあればまったく違う景色が見えているはずということもまったく知らないまま、
「いろいろキツいよね、マジ」
と言いながら生きるしかないというのは、そりゃあもう、暗雲に包まれるに決まっている。
絵描きでもないあなたに、「絵を描いて個展でもひらきますか」と提案してみると、あなたはまず何をするかというと、あなたはまずゲボを吐くのだ。
ゲボ、あるいはゲロを吐く。
絵を描いて個展でもひらきますかと言われると、あなたは雄たけびをあげて、嘔吐する。
意味不明だ。
あなたは何もわかっていない。
レベル不足で、何もかもわかっておらず、挙動がめちゃくちゃなのだ。
あなたが思っている絵画個展と、正統なレベルから見る絵画個展は、まったく別のものなのだ。
そのままでいることはまったくおすすめしない。
あなたは、「開かない扉」のことをえんえんと話してくれて、それが開かないということに、みずからで追い詰められてゲボを吐くのだが、そんな暗雲パフォーマンスをしてくれなくても、こっちはもう仕組みを知っているのだ。
「そのレベルの鍵ではその扉は開かないですよ」
というだけのことだ。
多くの人は、自分のレベルを漠然と「到達済み」と前提していて、それで開かない扉は、もともとから閉ざされた呪われし開かずの扉だと思っているのだ。
そうではない。
あなたのレベルが、まったく「到達済み」ではないので、各種の扉が開かないだけだ。
鍵のレベルが低すぎる。
ウェブサイトの奥のほうに、おれが書いた二十年前の文章が残っているだろう。
それと、きょうおれがアップロードした、「話と色」の文章を比べてみろ。
そもそもページ数がぜんぜん違うだろう。二十年前にはまだおれは、「ページ数」というほどの文章が書けなかった。
二十年前の当時、それでもおれにとっては、その文章が「全力」だったのだ。
全力といって、全力を出し切ることなんかできないというほどに、おれのレベルは低かった。
やっていることは変わらない、レベルが違うだけだ。
あなたが現時点の自分を否定する必要はまったくない。
ただ、漠然とレベル的に「到達済み」と思っている、その思い込みが馬鹿げているというだけだ。
ここに書きなぐっている、ヘタクソでテキトーな文章でも、あなたが同じように書こうと思ったら、
「ものすごい長文を書いた〜」
ということになるのだろう。
参考までに言うと、この時点でだいたい一万五千字だ。
原稿用紙に表示切替してみたら、四十八枚になった。
それは、あなたにとってはものすごい分量なのだろう。
そして、二十年前のおれにとっても、それはものすごい分量だった。
長文を書いていると、途中でどうしても行方不明になる。
「何を言おうとしていたんだっけ」
そりゃそういうものだ。
けれども、おれはもう、先に述べたとおり、文章が行方不明になることがない。
そもそも、何を言おうともしていないので、行方不明になるわけがない。
行先は、あるのだが、見えてくる先を行先にしようと決めているので、行方不明にはなりようがない。
もう、でたらめに進んでも、しかるべき青野にたどりつくことは、経験と予感でわかっている。
正月はきなこもちを食うぞ〜。
チョロギをかじり、鬼がら焼きをむさぼるのだ。
レベル差において、いまここに書かれているものは、おれにとってはまるで長文ではない。
そして、真のレベル差というのは、ふつうここにきなこもちや鬼がら焼きは挟めないということだ。
どう考えても、いま取り扱っている話を済ませてから、つぎにきなこもちの話をするべきだろう。
だがそうではないのだ。
人にとって文章というのはそういうものではない。
そんなことは、レベルが追いついてこないと取り扱いようがない。
まさかのまさか、あなたはここでの話が、レベルうんぬんではなく「きなこもち」によって進められているとはわからないだろう。
それはあなたが、自分の読んでいるこれが大晦日コラムだということを、明瞭に体の真ん中に保持していられないからだ。
わたしは、文脈はむちゃくちゃでも、文体は処理してあって、文脈で「言いたいこと」を示そうとしているのではなく、まさかのまさか、わたしはあなたの体の形そのものをいま変えているのだ。
そんなことが、この2025年まできて、ようやくわかるようになった。
ちょっとわざとらしいヒントでも書いておくか。
もう時計は20時を回ってしまった。
さてこの文章は何によって進行しているか。
ここであなたはどうすればいいかといって、「ゲボを吐きます」というふうに答えるあなたは、やはり何もわかっていなくて、レベル不足だ。
あなたのレベルで見えるものはないし、あなたのレベルで開く扉もないので、まずは根本的なレベルをあげよう。
なぜ、誰も彼もが、いつのまにか自分のレベルを「到達済み」にしてしまったのだろう。
2026年は、人々が、単純なレベルで物事を超えていく、暗雲を脱却していく、そういう一年であってほしい。
現状のレベルで悩んだり、現状のレベルで人生観や世界観を構築するのが、あまりに無意味ということが多すぎる。
あなたはこれから何をかんがえればよいか。
そしておれはこれから何をかんがえればよいだろうか。
2026年に向けて。
そのことについては、すでに先ほど、結論を出した。
まもなく年が明ける。
では、ここで必要な、われわれの考えるべきことは、おれにおいてもあなたにおいても同じであり、明らかだ。
いわく、
「きなこもちを食うぞ〜」
本年はたいへんお世話になりました、新年もよろしくお願い申し上げます。
[2025大晦日コラム 〜おれは成長したので来年はあなたもレベルを上げよう/了]

