第五講 自己中心性 /Quali,恋愛レクチャー集
問1.自己中心性の実際
あなたの肉親が入院してしまい、多額の医療費が掛かります。それについて、友人Aは「うわ、お気の毒」と言いました。友人Bは「カンパするよ」と一万円をあなたに渡しました。Aさん・Bさんはそれぞれ自己中心的ですか。答えなさい。
×誤答例
・Aさんは冷淡で他人のことを考えないので自己中心的である。Bさんは他人の状況に思いやりがあるので自己中心的ではない。
○正答例
・二人とも自己中心的である。
■解説
意外な答えだと思います。丸暗記してください。
Bさんは善意的ですが、そのことは自己中心性と背反しません。むしろ善意にこそ自己中心性が浮き出ることはよくあります。
問2.自己中心性の実際2
Bさんはあなたに、「カンパするよ」と一万円を渡しました。Cさんはあなたに、「寄付するよ」と一万円を渡しました。Dさんはあなたに、「これを使え」と一万円を渡しました。このそれぞれの一万円にある感触の違いを説明しなさい。
×誤答例
・Bさんは常識的で、Cさんはどこか高飛車。Dさんは気取っていないからかっこいい。
○正答例
Bさんは、自分のお金を、「カンパ」に使った。
Cさんは、自分のお金を、「寄付」に使った。
Dさんは、自分のお金を、あなたに使わせようとする。
■解説
BさんとCさんは「お金を使って」います。Dさんの一万円は、「まだ使われていない」ことに注目してください。
Dさんから渡された一万円は、あなたのお金でしょうか。そういう感覚はないはずです。また、あなたはBさんとCさんにはお礼を言うはずですが、Dさんへお礼を言うのには躊躇(ちゅうちょ)があるはずです。
ここの違いが重要なので、よく感じ取ってください。
問3.自己中心性の実際3
Dさんの申し出が恐縮に思われたので、あなたは「いいです、お気持ちだけで」と謝絶しました。その謝絶を繰り返すと、Dさんは「お前うっとうしいぞ!」と怒りました。Dさんはなぜ怒りましたか。答えなさい。
×誤答例
・自分の善意が受け取ってもらえなかったから。
○正答例
・自分のお金の使い方に口出しされたから。
■解説
Dさんのお金はDさんが自由に使う権利があるはずです。そこに差出口をされると「うっとうしい」という怒りが正当に起こります。
ピンとこない場合は丸暗記して進んでください。復習のときにわかるようになります。
問4.自己中心性の実際4
Dさんに「善意」が無いことを指摘し、あなたの謝意が彼への侮辱になりうることを説明しなさい。
×誤答例
・Dさんはいい人ぶるためにそれをしたのではない。わざとらしい謝礼はときにあてつけの慇懃無礼になる。
○正答例
・Dさんにとってその一万円は、「自分が使ってもこいつが使っても同じ」だった。どちらの手で消費しても「同じ」なので善意は介在しない。そこに謝意を持ち込むと、「いいえ、Dさんは善意により損失をしました」と捉えなおすことになるので、侮辱になりうる。
■解説
「同じ」ということ。たとえば冬場に、インスタント・カイロを右ポケットに入れていたとします。それを、左ポケットに移したとしましょう。右ポケットは冷え、代わりに左ポケットが暖まります。が、それは「別にどちらでも同じ」です。そこに「善意」や「謝意」が介在したらおかしい。
Dさんにとってはそういう感覚です。右ポケットから左ポケットに移すように、一万円を、Dポケットからあなたポケットに移したのです。そこに善意や謝意など介在するはずがない。もちろんDポケットは一万円分冷え込むことになりますが、「別にどちらのポケットが暖まっても同じ」です。
問5.自己中心性の実際5
Dさんとあなたは家族ではありません。他人です。他人であるのにも関わらず、「どっちが使っても同じ」と捉えてくれた、このDさんに起こっている心を何と言いますか。第四講を思い出して解答しなさい。
×誤答例
・善人の心。いい人。
○正答例
・自他峻別の上に成立する兄弟愛。
■解説
家族なら、「どっちが使っても同じ」ということは、たとえば夫婦などでよく見られます。けれどもそれは甘えの関係に根ざしていると説明しました。甘えの関係においては、自他の峻別がされていないので、まるで物理的に「どっちが使っても同じ」になります。
「甘え」においては、「右ポケットと左ポケットがつながってくっついている」と捉えてください。それはもう、右ポケットも左ポケットも無いということです。これは一見良さげに見えますが、同時に、左右ポケットそれぞれの独立的存在を否定します。左右ポケットは互いに「包み込み、出られなく」されてしまうのです。
問6.自己中心性の実際6
Dさんに謝礼を言うべきでないとすると、あなたはどういう態度を向けるべきですか。答えなさい。
×誤答例
・お礼を言わなくても、内心でしっかりそれを言うべき。感謝すべき。
○正答例
・彼のような人がいてくれることの「喜び」を伝えるべき。
■解説
「ありがとう/有難う」の本来の意味は、「なんと有り難いことだ」です。そのようなことはありふれていない、有り易くはない、という意味です。
あなたがビルから転落したとき、たまたま、布団を満載したトラックが通りがかり、あなたはその荷台に落ちたので助かった……そのようなことは有り易いですか。いいえ、有り難いことです。そこでその有り難さに喜びが伴います。
Dさんに向ける「ありがとう」は、「このような人の存在は、有り易くない、有り難い」の意味で使われます。喜びを伴って。このとき、あなたの「ありがとう」は彼を侮辱しません。
逆にもし、Dさんの存在に喜びを覚えなかったら、あなたの感性が故障しているか、ほどこされてきた教育が間違っています。本レクチャー集を丸暗記するのはその修正にも有用です。
問7.他者性と知能
AB二匹のサルが向かい合っています。Aは白衣を着た獣医がこちらに歩いてきているのを視認しました。Aにはそれが視認されましたが、Bからはそれが見えません。
Aは警告の声をあげ、危険の接近を知らせ、自身も逃げました。このサルAの行動について、[他者性、知能]という語を使い、注目すべき点を述べなさい。
×誤答例
・Aは獣医が危険だとわかるほど知能が高かった。だから警告の声をあげた。
○正答例
・Aには、危険が近づいてきたことと、「それがBには見えていない」ということがわかった。だからBに、危険が接近していることを報知した。サルAは他者性を持っていると言える。また、他者性は知能に比例せず、サルの知能でも他者性を持ちうると言える。
■解説
このサルの話は、実際に為された心理学の実験結果です。
「コウガイを見てこの本を買ったよ」というとき、意味がわかりますか。わからないと思います。「梗概」というのは、文庫本の裏に書いてあるあらすじのことです。けれども、自分が知っている言葉を他者が知っているとは限りません。そこで他者性においては、「あらすじを見てこの本を買ったよ」と言うほうを選択します。
問8.他者性と知能2
ある三歳の子供に、キャンディの箱を見せます。何が入っているかと聞くと、「キャンディ」と答えました。ところが中身は前もって入れ替えてあり、中にはチョコレートが入っています。それを彼に見せました。彼はチョコレートが入っているということを理解しました。次に彼に、「友達の○○君は、この箱に、何が入っていると思うだろうね?」と聞きました。すると「チョコレート」と彼は答えました。この三歳児の認知について、[他者性、知能]という語を使い、注目すべき点を述べなさい。
×誤答例
・三歳児だからまだ知能が発達していない。
○正答例
・「チョコレートが入っている」と、自分は知っていても、他人は知らない、ということがわからなかった。この三歳児は他者性を持っておらず、また他者性は知能に比例しないと言える。
■解説
これも実際に為された心理学の実験結果です。そして問1のサルも年齢は三歳です。他者性の発達は、三歳の時点では人間はサルに劣っていると言えます。知能といえば、三歳児でも、言葉を話し、ちょっとした読み書きや足し算ぐらいはするので、サルよりはるかに上です。けれども他者性は知能に比例せず、精神の成熟に依存します。
問9.自己中心性からの離脱
5人で掃除をしますが、1人だけ重たいゴミを遠くに運ばねばなりません。「しょうがない、ジャンケンで決めよう」という流れになったところ、Dさんは「おれがやるよ」と自ら申し出ました。Dさんが自己中心的でないことを説明しなさい。
×誤答例
・Dさんは献身的で、チームワークに積極的であるから、自己中心的ではない。
○正答例
・Dさんは、全員でジャンケンをするという手間を削減した。
■解説
「自己中心性」は、心理学者ピアジェの提唱した語ですが、彼は発達認知の心理学でそれを用いたのみで、人文的な問題に用いたのではありませんでした。けれども我々がその語を使うとき、「自己中心性をどうしよう」という、人文的な問題に充てます。ここで語と問題の齟齬が起きるため、自己中心性ということを睨みつけていても、なかなか我々が実際に求めるものに辿り着きません。
Dさんの捉え方は、問4のDさんと同じです。「誰が運んでも同じだ」です。誰が運んでも同じなのに、何をジャンケンするのでしょうか?
Dさんは自己中心性から離脱して、「ゴミを運んだ」のではありません。「ジャンケンする不毛を削減した」のです。
問10.自己中心性からの離脱2
DさんよりEさんのほうが力持ちで、ゴミを運搬する能力に秀でています。Dさんは「献身的」ではないということを念頭に置き、Dさんの心中の動きを述べなさい。
×誤答例
・Eさんが運ぶのがベストだけど、Eさんは献身的ではないので、自分がやろう、とDさんは思った。
○正答例
・「Eさんが運べばいい」と内心で思っていたが、ジャンケンなんかするぐらいなら、「もういい、俺がやる」と判断した。
■解説
Dさんは献身的でも善人でもありません。「誰が運んでも同じ」なので、最も適役であるEさんが運べばいいと判断します。
けれども、「Eさんが運べばいい」という合理よりも、「ジャンケンは掃除じゃない」という合理が勝ちます。そこでDさんは大きいほうの合理を選びました。
「誰が運んでも同じ」という上での、彼は最大の合理を選んだに過ぎません。
問11.自己中心性からの離脱3
5人のうち、献身的なCさんがいたとします。彼女が自発的に重たいゴミを運んだとき、彼女の自己中心性を指摘しなさい。[他者性]という語を用いなさい。
×誤答例
・Cさんは献身的で、自分を中心にして、主体的に考えている。他人のために積極的に動いている。
○正答例
・Cさんは「献身的な自分を振る舞う」ことしか持たないため、自己中心的である。「Cさんが運べばよい」と思っているのはCさん本人のみであるが、他者性の欠如によりCさんはそのことに気づかない。
■解説
意外な答えだと思います。が、間違いありません。自己中心性から離脱して考えれば、「誰が運んでも同じ」です。誰が運んでも同じなら、なぜ不向きなCさんが運ぶべきでありえますか? そこにはCさんの、実は「わがまま」があるのです。
Cさんの自意識によって、Cさんは、「自分は献身的に振る舞うこと」を重視しています。全員で掃除をする場面であるのに、Cさんはそこに自分の思いを優先して持ち込んでいます。あくまで善意的にですが……
このように、「自分の思い」を優先的に持ち込むことを自己中心性と言います。
合わせて、その「自分の思い」が、「他人にはわからない」ということがわからないことを、他者性の欠如といいます。
Cさんの献身ぶりは、「Cさんにとって」は重要でしょう。が、その他のみんなにとっては、重要ではありません。
その他のみんなにとって重要なのは、その場面では「掃除」だからです。
問12.自己中心性からの離脱4
Cさんが自己中心性から離脱したとき、どのような振る舞いがありえますか。[わがまま]という語を使って答えなさい。
×誤答例
・わがままをやめて、目立たないように掃除をする。
○正答例
・「わがまま言っていい? わたしには重たくて無理だから、Eさん運んでくれる?」とお願いする。
■解説
少しひねってみました。このように、表面上はわがままぶって見えても、実は自己中心性からもっとも離脱できている場合があります。Cさんの行為は「掃除」という全体利益に沿っていますし、力持ちのEさんに女性であるCさんが甘えたふうにお願いごとをするのは、物事を滑らかに進捗させます。
Cさんにある「不本意」に注目してください。Cさんは自己に献身的な振る舞いをさせることを重視していますから、Cさん自身がゴミを運ばないのは不本意です。彼女はその不本意に耐え、逆にEさんをわがままに使役するふうを装っています。けれどもそれこそが、全員で掃除をしているその場の「本意」に沿います。
これを本レクチャーでは「個的本意」と「公的本意」と呼びます。「本意」は、個人だけにあるのではないのです。
公的本意を設定する存在を一般にリーダーといいますが、リーダーの特徴は、彼の個的本意がそのまま公的本意になりうる性質を持っているところにあります。たとえばマハトマ・ガンジーの場合、彼の個的本意が世の中の非暴力改革にあったので、彼はリーダーとなり得、またマハトマ・ガンジーそのものを人人は公的本意のシンボルとしたのでした。
問13.公的本意の形成
映画監督が俳優陣に向けて、「よい映画を作りたい」と言います。これを受けて、公的本意が優先される場合と、個的本意が優先される場合とで、俳優陣はどのような様相を現しますか。答えなさい。
×誤答例
・よい映画をつくりたい、という公的本意を、みんなが共有したら、みんな頑張る。個的本意が優先されると、みんな「早く帰りたい」と思う。
○正答例
・公的本意が優先されると、それぞれ「適役」に就こうとする。個的本意が優先されると、それぞれ「自分のやりたい役」に就こうとする。
■解説
「よい映画を作りたい」というのは、「目的」としては当たり前ですが、それが「本意」となりえるかどうかはまた別です。リーダーである映画監督がそれを個的本意にしていなかった場合(つまり内心で、「どうでもいいや」と、うっすら投げ出していた場合)、リーダーは公的本意を形成できず、それぞれは個的本意のみで動くことになります。
ときに俳優が、「あの監督の下でなら、どんな汚れ役でもやるよ」と言うのは、その監督の個的本意が強力に公的本意に重なっているからです。
問14.愛するということ
なぜ人は人を愛さなくてはいけませんか。[わたし]という語を用いて答えなさい。
×誤答例
・わたしは好きな人を幸せにしたいから。
○正答例
・人も、わたしのひとつであるから。
■解説
丸暗記してください。自己中心性という心理学用語を、我々の実際の人文的問題に結びつけるのには跳躍が必要です。約束できるのは、本レクチャーは役に立たないことを暗記などさせない、ということです。
問15.まとめ
以下の空欄を埋め、選択肢は正しいものを選びなさい。
人は自己中心性から離脱すると、「誰がやっても( )だ」という捉え方に行き着く。このことはしばしば、人を混乱させる。人や世の中に良くしようという( )や、そのために身を費やそうという( )さえ、自己中心的なのだと気づかされるから。たとえば川べりのゴミを掃除する……なるほど、これはよくよく見たら、確かに「誰がやっても( )だ」。自分がそれを為し遂げたら、自分が偉いように感じるかもしれない。けれどもそれに熱意を燃やすのは( )本意でしかない。( )本意としては、「川べりがきれいになればいい」ということしかないのだ。
人々は、「川べりをきれいにしよう」と思い立つことは、あんがい容易にできる。けれども、その(1.目的 2.熱意)は当然にわかりやすくても、それがそのまま本意になるとは限らない。これを持ち上げて本意にまで形成できる人を、一般に( )という。彼は人人を口やかましく指導する者ではない。ただ彼の( )本意が( )本意に重なっているので、人人は「彼についていく」という感触になるだけだ。その中で人人は、( )本意から離れ、( )を甘受し、そのことを不当に感じなくなる。なにしろ、もっと大きな本意が、達成に向かっているのだから。
ある男は、電車で老婆に席を譲った。けれども、彼は自己中心性から離脱しているので、( )が無い。何しろ彼は、「誰が座っても( )だ」と思っているのだ。礼を言われる筋合いがどこにあるだろう? さりとて、彼は老婆に親しみを覚えているわけではない。老婆はただの( )だ。彼は自他を( )しているが、その上で( )の心を起こしている。
誰にでも「わたし」という感覚がある。その中でたとえば、「わたしは立派な教師になりたい」という思いがあったとする。その思いは、(1.彼女 2.人々)にとって重大かもしれない。けれども、(1.彼女 2.人々)にとって重大ではない。このように、自分にとって重大な思いも、他の誰かにわかるわけではない、という当然の認識を、( )という。これは知能に比例(1.する 2.しない)ものだ。三歳児を比較すれば、人間よりサルのほうが(1.優れている 2.劣っている)。
立派な教師は、確かに世の中に必要だ。重大なことだ。けれども、自分がそれになることは、人々にとって重大ではない。自分にとっては重大だったとしても。つまり、「誰がやっても( )だ」という捉え方は、( )に合致している。子供たちはただ(1.立派な教師 2.彼女)を必要としているのだ。
人は人を愛さねばならない。でなければ、寂しすぎるから。「誰がやっても( )だ」という捉え方は、確かに自己中心的ではないかもしれない、けれどもそれでは「わたし」が寂しすぎる。「わたし」の(1.思い 2.力)が……。この解決には唯一、人を愛するしかない。誰がやっても( )というけれど、その誰もが( )のひとつなのだ。つまり、自己中心性からの離脱は愛によって、次のとおり言い換えられる。
「誰がやっても、( )がやったのと( )だ」。
○解答
人は自己中心性から離脱すると、「誰がやっても(同じ)だ」という捉え方に行き着く。このことはしばしば、人を混乱させる。人や世の中に良くしようという(善意)や、そのために身を費やそうという(献身)さえ、自己中心的なのだと気づかされるから。たとえば川べりのゴミを掃除する……なるほど、これはよくよく見たら、確かに「誰がやっても(同じ)だ」。自分がそれを為し遂げたら、自分が偉いように感じるかもしれない。けれどもそれに熱意を燃やすのは(個的)本意でしかない。(公的)本意としては、「川べりがきれいになればいい」ということしかないのだ。
人々は、「川べりをきれいにしよう」と思い立つことは、あんがい容易にできる。けれども、その(目的)は当然にわかりやすくても、それがそのまま本意になるとは限らない。これを持ち上げて本意にまで形成できる人を、一般に(リーダー)という。彼は人人を口やかましく指導する者ではない。ただ彼の(個的)本意が(公的)本意に重なっているので、人人は「彼についていく」という感触になるだけだ。その中で人人は、(個的)本意から離れ、(不本意)を甘受し、そのことを不当に感じなくなる。なにしろ、もっと大きな本意が、達成に向かっているのだから。
ある男は、電車で老婆に席を譲った。けれども、彼は自己中心性から離脱しているので、(善意)が無い。何しろ彼は、「誰が座っても(同じ)だ」と思っているのだ。礼を言われる筋合いがどこにあるだろう? さりとて、彼は老婆に親しみを覚えているわけではない。老婆はただの(他人)だ。彼は自他を(峻別)しているが、その上で(兄弟愛)の心を起こしている。
誰にでも「わたし」という感覚がある。その中でたとえば、「わたしは立派な教師になりたい」という思いがあったとする。その思いは、(彼女)にとって重大かもしれない。けれども、(人々)にとって重大ではない。このように、自分にとって重大な思いも、他の誰かにわかるわけではない、という当然の認識を、(他者性)という。これは知能に比例(しない)ものだ。三歳児を比較すれば、人間よりサルのほうが(優れている)。
立派な教師は、確かに世の中に必要だ。重大なことだ。けれども、自分がそれになることは、人々にとって重大ではない。自分にとっては重大だったとしても。つまり、「誰がやっても(同じ)だ」という捉え方は、(他者性)に合致している。子供たちはただ(立派な教師)を必要としているのだ。
人は人を愛さねばならない。でなければ、寂しすぎるから。「誰がやっても(同じ)だ」という捉え方は、確かに自己中心的ではないかもしれない、けれどもそれでは「わたし」が寂しすぎる。「わたし」の(思い)が……。この解決には唯一、人を愛するしかない。誰がやっても(同じ)というけれど、その誰もが(わたし)のひとつなのだ。つまり、自己中心性からの離脱は愛によって、次のとおり言い換えられる。
「誰がやっても、(わたし)がやったのと(同じ)だ」。
あとがき.
さあさあ、丸暗記しましょう。自己中心性について正しい知識が得られましたか。
本稿の内容が、宗教的だ、というのは当たっていません。哲学的だ、というのは当たっています。それはそもそも、自己中心性というものを、心理学用語から取り外し、我々が人文的問題に持ち込むからです。人文的には「自己」という現象そのものが、哲学そのものの性質を持っています。
本稿では、哲学的になってもしょうがないので、可能な限り、体験上で納得しうるようなケーススタディを盛り込みました。一方、哲学的に捉え切っていなければ、未完成なので、最後は哲学的にも漏れのないように締めくくっています。
哲学的な部分を省略してはいけません。その哲学は仮想の遊びではないのです。今日から未来に続くあなたの日々の、一秒ごと、その身に常に関わっている、現実的な問題です。
付録として、「自己」についての問題を載せておきます。
問.自己のありか
あなたは外傷によって死なないものとします。あなたの身体を「横」に切断したとき、あなたの「わたし」、つまり自己は、上半身に帰属します。「わたし」から見て、「下半身を切り離されてしまった」となる。
では、あなたの身体を「縦」に切断したとき、あなたの「わたし」、つまり自己は、左半身・右半身のどちらに帰属しますか。厳密に中心を切断されるとします。答えなさい。
×誤答例
・縦に切断されたら、人間は生命を失ってしまう。
○正答例
・わからない。
■解説
この問題を誰かに投げかけてごらんなさい。慌てて、反発的に、「それは死ぬだろ」と答えます。「死なないものとする」と前提しているのに、前提を破って、「いや、死ぬ、前提が無意味だもん」と言い張ります。それはもう、見苦しいほどに。
なぜかというと、人はこの問題を考えるのが怖いのです。ふだん我々は、自分の身体を土台にして、ここに「わたし」がある、と認識しています。このことに安心しきっています。
ところがよくよく考えると、その「わたし」は、本当はどこにあるのかよくわかりません。脳みそにあるのか、顔にあるのか。あるいはこっそり、首から下にあるのか。
仮に「わたし」は脳みそにあるとしましょう。では、脳みそのどこにあるのでしょうか。脳をスイカのように八等分したら、どのパーツに「わたし」が入っていますか。「脳を八等分したら死ぬ」と言いたくなってきます。
あるいは、よろしい、逆に考えましょう。八等分した脳みそのパーツのうち、どれとどれをくっつけた瞬間、「わたし」は発生しますか。脳のパーツをくっつけるなんて、バカなことを……とごまかしてはいけません。我々は誰もが、精子と卵子という一細胞が卵割を繰り返した先に出来上がっています。精子と卵子はただの細胞です。が、それが分裂して、増えていくうちに、どこからともなく「わたし」になっている。一細胞はいつから「わたし」になりますか、というと、バカなことを、という気がしますが、そのバカなことが我々の事実です。宗教的でもなんでもなく、理科の教科書に載っています。
人はこの問題を考えるのが怖い。だから考えないようにしますが、逆に子供のほうが、怖いもの知らずから真剣に考えはじめます。
自己中心性ということを考える、それ以前の、「わたし」という現象の問題。この結論は、怖いですが、見え透いています。つまり解答はまず「わからない」が正しいですが、合わせて言うなら、「この身体に入っているとは限らない」。
「縦に分割したら、『わたし』は身体から出てしまうかもしれない」。
論理的に考えて、「わたし」が、それぞれの身体に入っているという根拠はありません。我々はどうやら、この身体をあるていど操作できるというだけでしかありません。
我々が知りうるのはここまでで、「わたし」なる魂があるというのは宗教ですし、「それでも身体のどこかに『わたし』が入っているんだろ」と決め付けるのも、逆に宗教です。人がこの問題を考えたがらず、また考えると恐怖を覚えるのは、むしろこの「自己は身体のどこかに依拠する生理だ」という宗教を引き剥がされるからなのです。
この問題は付録なので、暗記していただく必要はありません。が、レクチャーについて言うなら、「どこからか忍び寄る恐怖に打ち克って」、問題と解答を丸暗記してください。ではお疲れ様でした。
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