第四講 営みの魅力が失われる/現代と恋愛
ここまでの復習を少ししましょう。ある意味、当たり前のことばかり話しています。標準語と大阪弁をあなたは聞き間違えるわけがない。マネキンの手と人間の手を、握って区別できないわけがない。東大生がハモとサヨリを間違えることはありえても、お母さんがそれを間違えるわけがない。日本人のあなたは、海苔をカーボンペーパーに見間違えることもなければ、三味線をギターと見間違えることもありえないのでした。「どう違うのデスカ? ヒョウジュンゴと、オオサカベンハ?」。外国人にそう聞かれたら、説明はしにくい。けれど、あなたの脳は間違えない。「だって全体的に違うもん」。脳はそうして"全体的"情報を処理しており、それは自意識のするパケット情報処理とはまったく機構が違います。脳は心身に浴びた情報を全体的に吸い上げるだけなので、あなたは仮に誰かに説明されても、イギリス英語とアメリカ英語の訛りの違いに自信がもてません。それは標準語と大阪弁のようには英語を心身に浴びていないからです。
模型の手と本当の手は区別がつくのに、模型の笑顔と本当の笑顔の区別がつかないということがある。模型の愛情と本当の愛情の区別がつかないことがある。なぜそんなことになるかというと、言うほどそれを心身に浴びてきていないから、脳がその全体的情報を知らないのでした。模型のそれと本当のそれは「どう違うのデスカ?」と訊きたくなってくる。ですが訊かれても説明はしにくい。「だって全体的に違うもん」としかいえない。全体的情報は、情報量としてパケット情報の一兆倍あるので、それをパケット的に説明しきることは不可能です。
パケット情報をすばやく取り扱うのに、便利なテクノロジーの革命が起こりました。IT革命です。これは大いに便利で、またパケット情報を処理する自意識機能を大いに夢中にさせました。夢中になり、そのぶん自意識は発達します。ところが一方で脳の機能のほうは長い飢餓にさらされることになりました。飢餓によって脳は弱くなっていく。それはやがて、弱りきった足腰のように、もう本来の機能を失ってしまいます。そうなると自意識の機能が残るだけで、こういう人はもう自意識だけの人、パケット専門の人、という具合になります。
パケット専門の人は、パケット情報だけを処理し、また自身もパケット情報のみを発信します。これらの人同士が多く交流することで、そこにはパケット人間界が生まれました。パケット人間界ではパケット・コミュニケーションが行われ、一方の脳人間界では全体的・コミュニケーションが行われます。パケット情報と全体的情報では情報量として一兆倍の差がありますから、そこにある両者を「どちらもコミュニケーションだろ」とは言えません。どちらにも人同士の関わりがあるには違いありませんが、「どちらも人の関わりだろ」とはやはり言えない。
現代と恋愛という大タイトルです。恋愛は、人の関わりであり、コミュニケーションであるに違いない。でもそれを自意識が担うか脳が担うかで、そこにある関わりとコミュニケーションはまったく別種になるのでした。あなたは選べるならどちらを選びたいか。その選択は簡単です。ですが、その選択は簡単ですが、実現は簡単ではありません。特にこの現代においてはとてもむつかしくなりました。とはいえ、簡単でないからあきらめよう、ともあっさりは言えない。そういう話をしてきています。
では第四の講義を始めましょう。人人はこれまで無条件に恋愛をしたいものだと思われてきました。けれども本質を言うなら、人は"脳をやりたい"のであって、単なる恋愛をしたいのではありませんでした。恋愛に限らず、全ての営みは、"脳をやりたい"ということだった。ところが現代は全ての営みが自意識化しています。それで、現代に営みは残っているし、何なら活性化もしているのに、営みの魅力は失われているのです。
脳に触れられるよろこび
あなたにとって最も有益な講義になるために、あなたはひとつのことを鵜呑みにする必要があります。それは人間にとって「脳に触れられることはよろこびである」ということです。夢のように美しい景色があり、すばらしい清涼さの空気が吹き抜けています。遠く活気のある市場から外国語の雑踏が聞こえる。「なんて美しいのかしら」とあなたはわけもなく震えて感動する。このようなとき、何がどう「良い」というのでもないのでした。全ての情報が脳に受け取られて、身の回りの全てがあなたの脳に触れてくる、そのことがひたすらよろこびなのでした。
コメディアンがいわゆる「ボケ」をかまします。コンビニで客が雑誌を買う。店員がそれを会計し、「こちら暖めますか」と訊く。客は「なんでやねん」と突っ込む。これは初歩的ないわゆるボケと突っ込みですが、この漫才がわずかにでもあなたを喜ばせるのは、あなたの脳にこれが触れてくるからなのです。コンビニで雑誌を買うというところまで脈絡は正しい。店員の接客態度も脈絡は正しく、店員のそういう口調をわれわれはよく知っています。ただ一点、雑誌を暖めるというのはおかしい。そこだけ脈絡が壊れているので、そこだけあなたの脳に入り込んでくるのでした。気の利いたツッコミなら、「なんでやねん、暖めたら記事がホットになるんかい」とでも言うでしょう。つづいて店員が「そんなわけないでしょう!」と急に笑う。ツッコミが「いやいや、お前が初めに暖める言うたんや」と重ねて言う。
これは脈絡と非脈絡を混ぜ込んであなたの脳に触れてきているのです。脈絡としては、雑誌を加熱しても記事の内容は変化しません。当たり前です。が、脳の側は、加熱する→ホットになる、という脈絡を「全体的に成り立つな」と認めてしまう。だから可笑しい。同時に、そこは脈絡が壊れているのに、言い出した当人が急に「そんなわけないでしょう!」と脈絡の立場に戻る。そして彼が脈絡の立場に戻ることが、今度は脈絡が合わないので、これもまたあなたの脳に触れてくる。漫才というのもそういう機構で成立しています。漫才師はもちろんそれをパケット情報化して分析しているのではなく、脳で"全体的"に発想しているのでした。
まだ少年のような特攻隊員が出撃していく飛行場があります。あなたは女生徒として彼らの出撃を見送ります。隊員たちの表情はどのようであったでしょう。今から死にに行くという悲しみを表しているか、投げやりになっているか、あるいは死んでやる、殺してやると、闘志に燃えて怒っているか。
でもあなたが見上げた先、隊員の誰かはさわやかに、透き通った笑顔であなたを見返してきました。むしろ彼のほうこそ、あなたのことを気遣うような、やさしく思慮深い眼差しがあった。あなたは、「元気でいなさい」という、彼の声を聞き取ったような気がした……
そのようなとき、あなたはそこにものすごい物語を見つけるのでした。今から特攻にゆき、もう帰ってこないというなら、そこにさわやかな笑顔や人を気遣うような眼差しがあったらおかしい。脈絡としては合わないことになります。ですが、あなたの脳はハッと気づき、そこにあるもっと大きな全体的脈絡に到達するはずです。じっさい当時の記録には、そうして超克した笑顔で飛び立っていった少年たちがいたという記述もあります。
このようなことはいくらでも例があります。例があるというよりは、見逃せない全てのことはこれで成り立っているのですから、あまり例を挙げていってもキリがありません。だからあなたには、なにはともあれ、最短経路としてこのことを鵜呑みにし、鵜呑みにしたら直ちに納得していただく必要があります。「脳に触れられることはよろこび」です。
脳的会話とパケット的会話
男が「好きだよ」といい、女が「わたしも」と言う。それで二人は抱きしめあう。これは悪くないように見えますし、実際悪くありません。なかなかよいものです。ですが、そこには脈絡が成立しています。好きあう二人が抱きしめあうのは当たり前のことですから。もちろん脈絡があるのが悪いわけではなく、ただ「脈絡しかない」ということについて、あなたには慎重になっていただく必要があります。
男が「バカ」といい、女が「バカ」と言い返す、ところが、二人はそのまま抱きしめあった。とするとどうでしょう。こちらは脈絡が合いません。脈絡が合わないのに、「あれ?」と、あなたはここに何か本当に愛し合う二人の気配を感じ取るはずです。彼女は夜眠るときに、彼のことについて、「もう、いつもバカだね、わたしの大切な人……」と心につぶやきながら眠ります。脈絡で言うなら自分の大切な人をバカ呼ばわりするのはおかしなことです。けれどももちろん、あなたは彼女のその心のつぶやきに、否定的な気持ちをぶつけようとはしないのでした。
人間は自意識の機能と脳の機能を持っています。そして自意識だって大事です。自意識がなければ青信号を「進んでよし」とは判断できないのですから、社会的に生きてゆけない。ですが、自意識の機能と脳の機能、その両方があるのに、自意識「だけ」、脈絡「だけ」というのでは、営みが片手落ちになっています。それは例えるなら、「ドライブに行こう」と言って、ドライブの一日中、決して車から降りないというような偏りです。確かにドライブというのは車を乗り回すことを一般に言います。でも「ドライブなのに車から降りてどうする」と、彼が大真面目に言ったらどうですか。その人はただのアホじゃないですか。確かにドライブという言葉を厳密にみたら、車から降りないほうが脈絡としては正しいのかもしれない。でもあなたは、その脈絡「だけ」ということのむなしさについて、きっと彼に説明する気もなくなるでしょう。
脈絡を、わからない人はもちろん困り者です。赤信号で飛び出したら事故になるという脈絡がわからないではひたすら困る。でも脈絡というのはあくまで人間の機能の片方でしかない。しかも小さいほうの機能であり、ずばり行って本質の側の機能ではありません。だって本当は、信号など無いところを走るほうが楽しいのですから。
脈絡なんかにこだわることはないのです。ドライブの最中、海岸線に叙情的な単線電車がゆっくり走っているのを彼が見つけました。「あれ、乗ろう!」。そう切り替えたって何もおかしくない。車なんかそのへんに停めてしまって。
それで遊んで帰ってきて、「いやあ楽しい"ドライブ"だった」と彼が言えば、あなたはきっと「そうね」と笑って喜びます。「おれは運転が上手だったろ」と彼が言うと、あなたは「しびれちゃった」と答える。彼は「早く煙草を吸わないと酸欠気味だ」と言ってもいいし、「冷静になるためにまずビールを飲もう」と言ってもいい。そしてあなたを押し倒して「この犯罪者め」とあなたに言ってもいい。そうして脈絡を外されるたびにあなたの脳は新しい全体的脈絡を結びます。それはあなたのよろこびです。
脈絡においては、1+1は2だという話を前回しました。それは世界中誰に聞いたって同じ会話になりますが、あなたと彼のデートにおける会話は世界中のどこを探してもありません。それはあなたと彼だけの会話です。脈絡を外したとき、人の脳がどう遊ぶかというところに、その人の個性が表れてきます。その個性を互いにぶつけあい、それを重ねていくことで、二人だけの"特別な脈絡"というのが育ってゆきます。
彼の脈絡というのはテレビ裏に電気配線をするときにだけ発揮されればよいのです。こんなものは、彼がやっても父親がやっても電気屋がやっても同じです。配線の仕方は電気物理の脈絡においてひとつしか選びっこない。
僕とある女性と、年少の男性とが、お店でお酒を飲んでいます。あるときアクシデントで、女性がロンググラスを倒してしまいました。そのとき僕は、彼女の隣にいた年少の彼を責めることにしています。もちろん責められた彼にとっては、一瞬何のことだかわかりません。
でも僕が、「いかなる理由があれ、女性のグラスが倒れたら、それは隣にいる男の責任だ」と言います。そう言うと、全体をハッと気づく男性がいましたし、また、「よくわからないんですが」と理解に苦しむ男性もいました。
その全体をハッと気づくということを、これまでもっとも鮮やかにしてみせたのは、ある十八歳の男性でした。まだ子供のようなところもありましたが、彼は実に賢い少年だった。
「いかなる理由があれ、女性のグラスが倒れたら、それは隣にいる男の責任だ」。彼はこれについて、直後、まったく鮮やかな表情に切り替わって、「まったくそうですね」と言いました。そして彼は倒れたグラスと周囲を手早く片付けてから、「たいへん失礼しました」と、その女性に小さく頭を下げたのでした。まだ子供のはずが、見事、女性に「物も言わせぬ」凛々しさで、それを押し切ったのです。
もちろんグラスを倒したのは彼ではありません。彼がそうして謝罪する脈絡はありませんが、じゃあこの少年は「バカ」でしょうか? 彼には何の魅力もなくて、彼の振る舞いは意味不明の無脈絡で、ひいては、そこに起こった営みには何の魅力もなかったでしょうか。
僕はそうではないと思うのです。そしてこれは"講義"なので、「そんなわけはない」と僕はあなたに言うのでした。
ふつう女性がグラスを倒せば、隣の男性は気遣って、「大丈夫?」「濡れなかった?」「気をつけなよ」「いいよ、おれが拭くから」と言ってくれます。重ね重ね、それは何も悪くない。ですが、そろそろズバリ言いましょう、それは実は面白くもなんともないのです。僕にとってではなく、あなたの脳にとって。その彼のいい人ぶりはわかりますし、いい人だなあとあなたも思うのですが、喜ばしいように見えて、実は脳はなんにも喜んではいないのです。
この講義があなたに有益になるように、言い方をこう工夫もしてみましょう。あなたの脳の話ですが、「あなたの脳がそんな簡単に喜ぶと思ったら大間違いだ」。いい人だったとか、気を遣ってもらえたとか、好意的に振る舞ってもらえたとか、そんなことは、あなたの自意識を喜ばせるかもしれませんが、あなたの脳を喜ばせはしないのです。
「そんなチマチマしたことであなたの脳が喜ぶかよ」。はっきり言って、男がいい人ぶるのは一時的にものすごく簡単なことです。女性がいわゆるぶりっ子をしたり、天然っぽく振る舞ったりする、その一時的なことと同じぐらい、男がいい人ぶるのは簡単です。そんな簡単なことであなたの脳は喜んでくれない。できるのはせいぜい、あなたの自意識をだまくらかしてあなたにゴマをするぐらいのことです。グラスが倒れたのは隣の男の責任、そうでなければ重力の責任です。「女がグラスを倒すわけがないだろ?」。せめてこれぐらい脈絡は壊していかないと、あなたの脳は喜んでくれないのです。
恋愛であっても、それ以外のことであっても、人の営みは、脳の営みであることに魅力があります。営みのジャンルに魅力があるのではありません。ですからいかなるジャンルであっても、またそこにいかに良心的な態度を盛り込んでも、そこに脳に触れてくるものが無いかぎり、営みは魅力を失っていきます。
脳と自意識とではセックスまで変わってくる
講義なのでこのこともはっきりお話ししておきましょう。自意識でも脳でも、どちらでもセックスすることはできます。が、自意識でするセックスは別に楽しくありません。これははっきり申し上げてよいことです。楽しくないし、別に言うほど気持ちよくもありません。
パケット人間界のセックスと、脳人間界のセックスは、まったく別物です。セックスは本来、互いの全身を互いの全身に、生身で浴びせあうものですが、そうして浴びせたところで、パケット専門人はすでにその浴びせられた情報量を脳で処理することができません。だから官能がないのです。
あなたの思い込みを破壊するために、強調しなくてはならないのはこうです。「セックスは身体でするものだから、それは脳うんぬんと関係ない」というのは誤解だということです。キスにせよ愛撫にせよ挿入にせよ、その具体的な感触が変わります。「身体でするものだから関係ない」というのは大嘘で、人間の身体というのは、脳と全身がつながっている全体をさして「身体」というのです。
あなたがベッドに寝転がったとき、シーツの感触は気持ちよいでしょう。ですが、そのベッドの中に入っている綿やスプリングは関係ありませんか。あるいは地面がナナメになっていてもベッドは気持ちいいですか。そんなことはないはずです。水平の床の、清潔な部屋に、どっしりした造りの土台があり、しなやかなスプリングが機能していて、それが綿を支えて、上にシーツが敷かれていること、それが「ベッド」であるはずです。人間の身体というのも、そうして内部の機構である脳との接続まで合わせてを「身体」と言うのです。
中のスプリングがぐにょんぐにょんで、バネに穴が開いているようなベッドを、「別に中身は関係ないでしょう」と、あなたは高値で売りつけられてよいでしょうか。あなたは納得しないはずです。あなたを包み込むような、というなら、別に身体の大きな人間なら誰でもできます。身体の問題は脳の問題とは別だというのは、あなたを包み込むためならゴリラでいいだろというような話の仕方です。
セックスは身体でするものですが、身体とは脳と全身の接続された全体のことを指します。
パケット人間界では実際のところ、たとえば男性はもう、女性とセックスするより"オナホール"のほうが気持ちいい、と断言しています。彼らは強がりでそれを言っているのではなく、本当に正直な本音としてそれを言っています。そういう器具はシリコン技術の発達に合わせて発達していっているでしょうから、単なる人間の粘膜より具合良く作り上げるのは難しくないことでしょう。女性のヴァギナよりもオナホールのほうが気持ちいいのはいっそ「当たり前」だと言ってよい。女性のほうもすでに、電動のマッサージ器を股間に押し当てられるほうが「たまらなくいい」と正直に告白してやみません。彼女らも嘘を言っているのではない。電動器具のような、細かく安定した刺激を、人間の手指で作り出すのは不可能ですから、いわゆる「電マ」のほうが気持ちいいのは当たり前です。彼女らが求めるのはただ、それを男性の手によって股間に押し当てられるという淫靡な雰囲気作りだけです。淫靡な雰囲気は、自意識を陶酔させるので、より電動の刺激に没頭するのに具合が良いという、ただそれだけのことでした。
針で皮膚を刺されて痛くない人間はいません。それと同じように、性感帯を摩擦なり振動なりさせられれば、その感触は当然にあるのですが、その感触自体は別に大したものではないのです。男性は射精するときの筋肉の動き、女性も似たような筋肉の動きでオーガズムに到達しますが、これだってただ筋肉の動きにつれて快感が伴うというだけなら、正直どうでもよい。それはどうでもよいことなので、人は自慰をしたり器具を使ったりして、遊んだり気を紛らわせたりします。それはカラオケ遊びと似ています。ワーッと声を出せば、すっきりしますし楽しいです。またそれを聴く側もヤンヤヤンヤとやる、これだって楽しい。
でもそれは歌手や音楽家が歌うというのとは違います。技術の問題ではなくて、「何か根本的に違う」ということを、あなたはどこかで知っているはず。特に往年の歌手の名前は、一種の伝説のようになり、音源と共にその名前は保存されています。彼は声と歌を通して、多くの人人と脳でつながれる人たちでした。優れた歌手のレコードを数回聴いていると、聴き手は不思議なことに、その会ったこともない歌手について、「自分はこの人のことを知っている」という感触を得ます。まるで古くからの友人のように、その人のことを「知っている」という感覚になる。それは彼の声と歌を通して、脳と脳とがつながりを持つことができたのでした。脳の処理できる情報量はパケット情報の一兆倍もあります。それだけの情報を脳が得たなら、自分はもう彼のことを「知っている」のです。これに比べれば、履歴書やプロフィールのパケット情報がいかに大量に書かれていたとしても、それらが一兆ページもあるわけではなし、パケット情報では誰かのことを「知っている」という状態には到達しません。
歌手の歌声がカラオケ遊びの歌声と感触が違うように、脳人間界でするセックスとパケット人間界でするセックスは感触が違います。触れる指先や唇や性器の感触が具体的に違うのです。歌手の歌声と同じように、あなたはそれを体験すれば、やはり「何か根本的に違う」と感じます。それの何がどう違うか、パケット化して誰かに説明する必要はありません。ただ、何かが根本的に違うわけで、だからこそ、そこに電動の器具を使うような遊びは、本質的じゃないし、ほどほどにしてよ、ということになります。最近は歌手といっても、人間の声を非常に上手に真似てあるボーカロイドというのが出てきました。それはとても聴きやすい声に聴こえます。でもこれもいわば電動器具のひとつです。彼の愛撫より「電マ」のほうが気持ちいいという、パケット人間界の感覚なら、やはりボーカロイドのほうが気持ちいいということになるでしょう。
そして、歌手の歌声がそうであるように、脳と脳をつないでセックスができたとき、あなたはやはり「自分はこの人のことを知っている」という感触になります。たとえ、名前も知らず、年齢も職業も住所も知らなくても、自分はこの人のことを知っていると。パケット情報はゼロでも、全体的情報を直接得たからです。自分はこの人の「何を知っている」とは言えない。そういうパケット化で説明できるところは何もない。ですが、自分はこの人のことを知っている、そのことには間違いない感触が残ります。
人間は古代にも暮らしていましたし、国や地名や民族名がまだ定められていない時代であっても、彼らには彼らの「地元」があったでしょう。自分のよく知っている町、あるいは村。それが「何であって」「何を知っているのか」ということは説明できません。まだパケット化された情報が与えられていないのですから。ただ彼が自分の生まれ育った町や村のことを知らないわけがない。
あなたも一度、自分の地元のことをスマートホンで検索してみたらよい。それなりに情報がワッと出てくるはずです。でもそれらのパケット情報を見て、スマートホンはあなた以上にあなたの地元のことを「知っている」と言えるでしょうか? 仮にSFのように、神経を直接インターネットにつないで、ダイブした電脳世界からダイレクトに情報を得られたとして、その人はあなた以上にあなたの地元の町を知りえるでしょうか。秋の夕方に駅から路地をいくとビル風が強くて雰囲気が暗くなる、身体が冷える。でもなぜかそれがきらいではなかった……というようなことを、ネットダイバーは得ることがあるでしょうか。
脳人間界でのセックスではそのようなことがあるわけです。この人に触れられると、何か不安な気持ちになる、身体が冷えてプラスチックのようになる、でもなぜかそれがきらいではなかった、身体の芯だけが熱で溶けそうになる……というようなことを身体で得ます。そして地元のそういう町を知っているように、彼のことを知っている、という状態になる。
それが、生を豊かにするということですし、そうして「脳に触れられることはよろこび」なのでした。セックスに限ったことではありませんが、「セックスはこういうもの」「性感帯を刺激すると、男性は勃起し、女性は濡れて」「刺激を加え続けるとオーガズムに到る」「愛し合っているからそれを確かめあうためにするのよ」みたいなことは、全てパケット情報です。脳が弱った人がこれに頼るだけです。パケット人間界でセックスをいくら重ねても、セックスについてのパケット情報が無数に得られるだけで、セックスを知ったり誰かのことを知ったりすることがありません。そのようなことに官能はないのでした。
仮説、娯楽メディアの変質
パケット専門人が増え、パケット人間界が人口の全体のうち多くを占めるようになったとします。すると、たとえばマスメディアは「マス(大衆)」のメディアなので、以降はパケット人間界向けに情報を発信することになります。それは彼らの業種形態なのでしょうがありません。娯楽情報を発信するとして、これまで脳に触れてくる娯楽であったものを、自意識に触れるような娯楽に切り替えていかねばならない。
そのことが今まさに、我々の知っている範囲で進んでいます。中には完了しているところもあります。
たとえば、マスメディアのうち、テレビはよく漫才を娯楽としてオンエアします。ところが、パケット人間界は自意識専門の世界で、基本的に脈絡を最優先するのに対し、漫才の本質は脈絡を外すことにあります。では、漫才があまりに大きく脈絡を外すことがあると、パケット人間界からは「意味がわからない」と言われるようになってしまう。かといってもちろん、その脈絡を外すところが冴えないと、今度はそれ自体が漫才ではなくなってしまいますから、今度は脳人間界から「面白くない」「漫才じゃない」と言われてしまうことになります。
その二律背反を整合させるにはどうするか。それにはたとえば、漫才に審査員をつけて、その獲得スコアを競争させる、というようなやり方があります。漫才そのものは脈絡を外す娯楽であっても、その審査結果、獲得スコアを競うというのは、競技であって脈絡の範囲内のことです。審査員が何点をつけたか、その総計はどうで、誰が結局一位か、そのことは単純な数字の算数なので脈絡の外れようがありません。自意識の側にもわかりやすいことです。
だから、実際のこととして、漫才やコントと言ったものに興味がない人でも、それの「グランプリ」には興味を持ちます。漫才の内容は見ていないが、審査結果が出たとなったら、「誰が一位になったの?」ということは聞きたがる。それで、その一位の漫才を観たいかというと、「それは別にいいや」というのです。あるいはそれを観るにしても、「審査結果は妥当だろうか?」いう視点でそれを観ます。それは純粋に漫才が好きな人の見方ではもちろんありません。
今のところ、そういうグランプリがあったら、果たして全体のうち何割の人が、そうしてスコア競争をメインに観ているのか、実際には誰にもわからない状態です。仮に、そうしてスコアで評定する「漫才グランプリ」と、評定をしない「漫才大会」が、まったく同品質で同じ時間にオンエアされたとしたら、人人はどちらを好み、またどちらに注目を集めるのか。もし実験できたら興味深いですが、きっと勝つのは今グランプリのほうです。わからないというのは、その両方でどれほどの差がつくのかはわからない、というところでしょう。
もちろんこのことは漫才やコントだけの話ではない。
あなたにひとつ、イメージでけっこうなので、「怒った人の顔」というのを、想像してください。許せない! と怒っている顔です。簡単な空想だと思います。この空想がこの先あなたの理解に少し役立ちます。
たとえば「刑事コロンボ」というアメリカのテレビドラマがありました。ピーター・フォークという名優が刑事を演じています。演技が達者すぎて、もはや彼をフォークと呼ぶ人はいなくなって、どこに出ても「あ、コロンボだ!」と呼ばれるようになってしまいました。それほどの名演がそこにはあったのです。すでに他界されて故人ですが、亡くなられたときにはロサンゼルス警察から「偉大な同僚の死を悼む」というコメントが出されています。
さてこのコロンボ警部なのですが、普段は温厚で、素朴な、田舎っぽい、穏やかな人です。それでいて事件の捜査となると、頑固で、手のつけようがないほどまっしぐら、というところもあるのですが。それにしても、コロンボはどう見ても怒りっぽいような男ではない。非常に好感の持てる、困り者だが憎めない人です。
ところがこのコロンボ警部、殺人犯に自分がおちょくられるようなことがあったりすると、内心ではものすごい怒りの炎を燃やします。また、訳あっての殺人というのでない、情状酌量の余地がない身勝手な殺人に対しても、その怒りは燃え上がります。そして特にですが、自分の犯人への追求が間に合わず、犯人に第二の殺人を許すことになった場合、コロンボはもう猛烈な怒りの炎を噴き上げます。犯人を「許せない」と感じ、また自分の力不足で罪の無い人を死なせてしまったと、自分自身に対しても「許せない」のです。
こうなるとコロンボは、もう犯人と刺し違えてでもこいつを有罪にしてみせる、という血相になります。コロンボは全身全霊のプライドの炎を噴き上げて、犯人と正面衝突する。
……のですが、このときのコロンボの「顔」はどうかというと、別に怒りに引きつったりはしていません。「ああこの人の顔は怒っているな」という、記号的な表情が出てくるわけではないのです。
ただ、明らかに気配が違う。コロンボの詰め寄り方、話の切り込み方、動作、目の色、使う言葉、口調、声、全てがもう、「温厚なコロンボ警部」ではない。怒りに煮えたぎっているのがわかる。温厚なコロンボが突如本性を露わにしてきたので、犯人もさすがに青ざめます。これからコロンボ警部を甘く見た報いを受けるであろうことを、むしろ犯人が一番感じ取っているというような青ざめ方。そこからドラマはいよいよクライマックスに入っていくのでした。
そこまでの全体を含めての「コロンボ像」があるので、「刑事コロンボ」は大ヒットしたのでした。大ヒットというよりは、コロンボという刑事が世界に出現して、人人に愛された、といってよいでしょう。ロサンゼルス警察の追弔コメントはいかにもそのことを反映しています。
ところがです。そうして同じ「刑事コロンボ」を観ていても、コロンボのその猛烈な怒りが、見ていてわかる人とわからない人がいます。パケット情報としては、彼は記号的な「怒り」の表情をしていないからです。「許さんぞ!」と大きな声を出すわけでもないですし、殴りかかったり襟首を掴んだりするのではないからです。全体的な「コロンボ」という人間を理解していなければ、彼の所作が改めて怒りに満ちているということが感じられません。
コロンボはどんくさい「ふり」をした、その実きわめて冷徹で怜悧な刑事であり、犯人と"勝負する"男ですが、その彼が怒りを露わにしたときはすごい迫力です。冷徹の極限と炎の極限を同時に持っているような。何回かそのドラマを観ているうちには、こちらもコロンボのことをもう「知っている」ので、むしろ犯人を心配するような心情になってくる。「そんなことしたらコロンボは絶対に余計に怒るよ……」と、犯人の悪だくみを諌(いさ)めたい気持ちになってきます。
こうしたドラマは娯楽として優秀です。脳に触れられることがよろこびですから、これがあるのはよろこびです。ただ、パケット人間界化が進行していくなら、ドラマ一つにしてもそういう作り方はできなくなります。「怒っているなら怒っていると言えよ」、あるいは「怒っている顔をしないとわからないだろ」ということになります。
マスメディアとしてドラマ娯楽を提供していくならば、そのように、自意識に理解のしやすい造りのものに、切り替えていかないといけない。それで、例えば誰かが怒るシーンとなれば、「この野郎!」と激しく大きな声、殴りかかるような動作、怒りに引きつった記号のような顔を、わかりやすく示すしかなくなるのでした。ただこれらはわかりやすいぶん、脳には触れてこない。大きな罵声→殴りかかる→引きつった顔→これは怒りだな、と、脈絡で理解されるだけです。ベンチに座り込んで俯くコロンボが、犯人のそらとぼけるのを無視して、「あんたが犯人だ」とボソリと言うときのような、ぞっとするスリルはありません。初めにあなたに想像していただいた「怒っている顔」のイメージとは、きっとコロンボの顔つきは違うのでした。
僕はマスメディアに携わる人間ではないので、現場の実際がどうであるかの視点から、このことをレポートとしてお話しすることはできません。ですから仮説としてお話しする程度のことになります。ですが同時にこの仮説は、じっさいに我々が目にする違和感についてよく説明すると思います。テレビメディアが視聴率を下げているのは事実のようなので、メディア娯楽を楽しむという営みから魅力が失われてきたというのも事実ではあるでしょう。
巻き込まれるという前提において
パケット人間界に、営みが無い、ということではありませんでした。パケット人間界にも営みはありますし、脳人間界にも営みはある。ただ、自意識のパケット情報処理と、脳の全体的情報処理では、処理される情報量が違いすぎますから、同じ営みでもまったく別物になるということで、パケット人間界はその営みの魅力を失うということでした。
そして最も注目すべきは、パケット人間界がどのようであれ、営みはあるのであり、我々はそれぞれに、その営みに巻き込まれざるを得ないということです。多数の人人で我々は暮らしていますから、それがどのようであれ、営みに参加しないわけにはいかない。仙人か世捨て人のようになるか、あるいは特別な立場を築き上げるのでなければ、我々は世間一般の営みから自分だけ無縁であることはできません。そしてそうして巻き込まれるのですから、そこから受ける影響がゼロというわけにもいかない。脳人間界に飛び込めば脳人間化が鍛えられるように、パケット人間界に飛び込めばそのぶん自意識人間化が鍛えられます。
本講義は、一番初めに、IT技術を槍玉に挙げましたが、単にIT端末というなら、ご老人はあまりそれを手にされることがありません。携帯電話は使っていても、動画サイトやSNSに入りびたるということは無いでしょう。せいぜい家族とメールするぐらいだと思います。ではご老人はパケット人間化に無縁かというと、そうでもない。むしろ、心身に新しく物事を浴びることがなくなった、ご老人のほうが直撃されます。ご老人はよくテレビをご覧になって過ごされますし、割としょっちゅうマクドナルドなどにも行きます。若い人より行くかもしれない。
テレビ娯楽は、気楽に楽しめる娯楽として、ご老人の時間の多くを占めていますから、先ほど「娯楽メディアの変質」で申し上げたとおり、テレビメディアの提供してくる情報がパケット人間界のそれになれば、ご老人はそれに直撃されます。一日に何時間も、それを毎日ということになるでしょう。それだけテレビを観るからにはむしろ、そのテレビを「楽しめる自分」にならないとしょうがない。営みに巻き込まれるというのはそういうことです。
たとえば大学生が新たに就職します。彼の指導員が鋭いビジネスマンだったとしましょう。
「君のキャリア構築だが、どうする? ゼネラリストにゆくか、プロフェッショナルにゆくか。そういうことは早く決めておいたほうがいい。どの専門知識を身につけるか方策が変わってくるから。また結婚はどうする? 海外の長期出張となれば数年は帰ってこられないからな。所帯持ちと所帯なしじゃ実際会社の人事は変わってくるのが常識だ。あと財務の実地を積みたいなら簿記会計の資格を取ったほうがいい、それを取ったということが転属希望の意志として会社側には受け取られるから。なんであれ不明瞭なのはいけない、社会人なんだから自己PRをクリアに持たないと、プランも立たないし外に向けても説得力がない」
こういうふうに彼は指導を受けます。この指導は何も間違っていません。青信号は「進んでよし」という、その脈絡世界の、もっと複雑な実践版です。
彼にはその他、指導員から、実務上の指示や確認もビシバシ飛んでくるのですから、それに早く即応できる人間にならないといけない。そうでないとただのボンクラです。ビジネスなのですから、これは正しいことです。仕事を「自意識ではっきり」掴んでいなくてはいけない。そうでないと、いわゆる大人になれません。
彼に親身になってくれる指導員は、彼を食事や飲みにも誘ってくれるでしょう。そしてまた、そこで大人としての話を、ビシバシ彼にぶつけてきます。彼にとってはありがたいことです。そういう経験を一度も与えてもらえない人もいるのですから、それに比べれば本当に恵まれています。だからこそ、その受ける恩には応えてゆかないといけない。
でもそうして鍛えられていくのはやはり、基本的には自意識のほうです。彼は自分をフェイスブックに登録して、たとえば「三年以内に会計士を取りたい人のコミュニティ」みたいなところに所属するかもしれません。そこで情報交換会の告知があれば、彼はフットワークを軽くして参加するかもしれない。もちろん、だからといって生活が仕事のことのみになるわけではない。フェイスブックに登録したら旧友との接続もあるでしょう。ジョギングやフットサルをしているという旧友のチームがあれば、彼も参加するかもしれず、その中で誰か魅力的な女性を見つけるかもしれない。自分は○○の仕事をしていてさ、という話があって、会計士を取らなきゃ、というと、彼女は簿記の一級なら持っているという。それでお互いに、「この人をパートナーにアリかも」というようなことを思う。そこからお付き合いしようかということになり、翌年には"ゴールイン"というのは、何も珍しくない。お互いに、「いよいよ地盤固めができたって気がするね」と通じ合っている。
それがいわゆる「リア充」です。もちろんこうして「リア充」になることに、何も悪いことはありません。ただ気づくと彼は、長らく自意識の機能ばかり発達させている。よくよく見てください。初め彼に恩恵を与えた指導員の指導も、いかにも現代的であって、十数年前にはそういう理念やマインドはわれわれの世界にあまりありませんでした。彼にしてもその指導員にしても、常識に沿っているように見えますが、それはあくまで"現代的常識"に沿っているにすぎません。本当にそれで人間全体はよいのかという問いについては、人類社会まるごとがまだ解答の出掛かりさえ得ていないところです。
昔はたとえば、新人が来たら、頭をぐしゃぐしゃに掻きむしって、「よく来た、地獄の底まで付き合え」と、ヒゲがぼうぼうになるまで泊り込みの仕事に付き合わせたりしました。それでフラフラで客先に行くと、客先は絶句して、でもプッと笑います。彼が今どういう状態にいるのか、どの程度でこの仕事に向き合っているのか、何も言わなくてもわかります。新人だからといって軽視する気もなくなるでしょう。
でもそれは、電子メールがなくて、いちいち客先まで足を運ぶことが多かった時代です。現代はそんな悠長なことをしているヒマはありませんし、そんなことに不毛なコストを割いていられません。商用の的確な情報を電子メールで送れるのだからどんどんそうする。そうするのですが、そうして送れる情報はパケット情報のみでした。彼がフラフラのヒゲぼうぼうであることは伝わりません。フラフラだと、「こいつのメールは文面がおかしい、バカなんじゃないか」としか受け取られないでしょう。
だから彼だって、フラフラのヒゲぼうぼうだが眼差しは鋭い、というような説得力を自分に宿すのではなく、自意識ではっきり仕事を把握できているというスマートさのほうを、説得力として自分に宿そうとします。彼がそう望んだというのではなく、そうすることでしか役に立てないからです。彼はまったくそうなっていくのですが――今回の講義の主題です――やはり営みの魅力が失われていく。なぜとはなく、しかし確実に、「なんでこんなことしているんだろう」という感触が、やがて避けがたく迫ってくるのでした。
ビジネスはビジネスなので、基本的に脈絡のカタマリです。採算、利益、道義、安全、合理化、社会的貢献、そういった脈絡でプランを立てて実践していくのがビジネスですから。ただ人間の生来の機能というのは、純粋にビジネスに特化するには不向きなのです。人間はきっと、過去の芸術家や宗教家のように、すべての脈絡のこだわりから離れて、ひたすら歓喜の中をゆくということが、突き詰めて言えばできます。ですがその逆、過去の芸術家や宗教家を否定して、すべてを脈絡で捉え、ひたすら陶酔を求めてゆくということが、突き詰めて言えばできないのです。生来に与えられた機能の問題として。
脈絡世界を行き、リア充になり、それを拡大していくことに、陶酔はあってもよろこびはない。人間は本当はそのことを知っています。生まれたての赤子に「リア充になりますように」とは母親は言わないからです。「この子に多くよろこびがありますように」としか母親は願えません。
もちろん、かといって、脈絡世界を行かずにゆくわけにはいかないですし、リア充にまったくならないというのも、実際に生きていく上では問題です。ですから、巻き込まれていくしかないし、巻き込まれてよいのですが、かといって巻き込まれるだけでは、どうやらやはりよくないようなのでした。
「営みの魅力が失われる」という題で、この講義を進めてきました。リア充になって、営みは増えていくのに、その魅力は失われているというのでは、本末転倒です。われわれは、それでもこれに、巻き込まれる側面をどうしても持たねばならず、かといって、それに身をゆだねてよいということでは、決してないのでした。ただ何を考えるにしても、やはり巻き込まれることが前提です。その前提の上で、われわれは考えなくてはなりません。
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第四講は以上です。お疲れ様でした。
「現代と恋愛」という大タイトルで講義していますが、もし現代がどうあれ、恋愛その他の営みが魅力を失わないならば、何も講義するような必要はないでしょう。旧態の価値観など老人に任せて、ひたすらその魅力ある営みの中、よろこびに満ちてゆけばよい。ただ、その肝心のよろこびが無いのだ、ということがシリアスです。陶酔とよろこびは違うということも、また以降の講義で説明することができるでしょう。
営みに魅力があることは重要です。営みによろこびがなければ、人は自分が何をしているのか、自信を失って徐々にパニックになるからです。そこで「脳に触れられることがよろこび」と、せめてそのことだけでもわかっていれば、実現はむつかしいにせよ、慌てずに済みます。
特に女性にとって、セックスしたのによろこびがないということは、積み重なると、少なからず恐怖に育つようです。自分は無料で性風俗行為をしているだけなのではないか、と思えてきますし、自分がこれからずっと生きてゆくのに、何もよろこびは無いのじゃないのかと思われて、それが怖くなるのです。ですから方法論はともかくとして、誰もが一度は、脳と脳でつながった官能を体験されることがあればよいと、ひしひし思います。セックスに限らず、全てのことについて。よろこびの予感こそが希望であって、それ以外に希望なんて持ちようが無いのですから。
今あなたが眼をチカチカにして、それでもここまで読まれてきたということは、誇ってよいことです。権威あるスクールで受講したというならともかく、そういう品質の担保が何もないところに、あなたはただ自分の直感を信じて、ここまで労力を割いてこられた。それは誰に教わったわけでもない、あなたの判断だったのです。ここには読み取るべきものがあると。そしてその判断はあながち間違いでもなかったと、あなたは感じていらっしゃると思います。端々まで全部覚えてやろうとは思えなくても、少なくともわかる、「自意識と脳は別だ」ということ。「こんだけしつこく言われりゃそりゃ覚えるよ」と、あなたは苦笑されるかもしれません。ですがそのようなことを、明確に知っている人がはたしてどれだけいるものでしょうか。自意識と脳の区別などというのは、にわかに話そうとすると厄介な、あいまいに思えるものです。ですがあなたは今それを、明確に人に話すこともできる。「たとえば標準語と大阪弁があったとしてね、あなたはそれを聞き間違えないじゃない? でも外人さんにはそれは聞き取れないことでしょう?」。すでにそうしてあなた自身の口から話されることに、重要な希望の断片が浮いています。わたしたちの営みはもっと巨大なよろこびを得うるのでは、という予感の希望です。
ではお疲れ様でした。引き続き第五講にどうぞ。
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