国民の拳がラスベガスに散った日
六階級を制覇したすでに伝説のボクサーであるマニー・パッキャオが、同じくすでに伝説たりうるメキシコのボクサー、ファン・マヌエル・マルケスと、ラスベガスのリングで戦った。「客寄せになる……ファイトマネーだけで数千万ドルのカネが動くんだ、覚えておくがいい、ここがボクシングの聖地なんだ」と、プロモーターの首領は語った。そのことについてのドキュメンタリが放映されるとNHKで予告があり、僕はその予告にでもぐいと惹きつけられていたのである。ところが時刻が丁度切り替わると、若者の歌手がギターと共に映し出され、突然「メンドクセー!」と否定的な声を歌いはじめた。僕は驚き、ハエを払うような手つきで慌ててチャンネルを変えた。あの歌は何だ? と後に友人に尋ねたが、最近の流行らしい。NHKでその歌が流れたということは、世相を反映しているということで特集が組まれたのだろう。そう想像はしたが、それについて追跡して調べようとは思わなかった。パッキャオとメンドクセーを並べたことにNHKのいたずら心があったのかなかったのかは知らない、が、僕の反応は反射的なもので、正当なものだったと感じている。
「国民の拳」。パッキャオはフィリピンの議員にも当選しており、戦いながら、ファイトマネーで自分の村を直接開拓しようとする、現在進行形の英雄だった。フィリピンの人人の、苦しい生活、けれども無邪気で明るさに光っている瞳の、その大群の中心に、パッキャオは照れくさそうにいた。国民の拳というのは誇張でも何でもないと思えた。そのドキュメンタリの本編を見ながら、不思議に、彼は戦っている、という当たり前のことが無闇にまざまざと見えた。なぜ戦うのか? という問いかけが氷解していくのを感じ取りもした。その問いかけをもし向けられるとしたら、彼が戦いを終えたときのみであって、彼の戦いはリングの上だろうがどこだろうがまだまだ続くのだ。もしその問いかけを彼に向けてよい者があるとすれば、まだ戦う義務を背負っていない程度の、無邪気な子どもらだけであったろう。子どもからその問いかけがあったら、パッキャオは普遍的な解答を提出したのではないかと思う。
人生何事も経験、という固定フレーズがあるが、僕は今それから完全に眼を背け、二度とそのようなものは見るまいと誓ってもいる。それは、パッキャオがラスベガスのリングで戦って散ったのは、彼の「経験」などではまるでなかったからだ。人生何事も経験というのは、未来にあるべき本番に向けて今のことを具材にするということである。けれどもこれはいかにもおかしい、ファイトマネーは数千万ドルだから、つまりパッキャオのパンチは一発あたり何百万円もするのだ。彼の人生には具材にしてよい日など一日も存在しないだろう。
「参考になりました」「勉強になりました」「いい体験をしました」「すばらしい経験ができました」……いったい何をやっているのだ? これはそう僕自身が突きつけられる心地だったのである。たとえば、娯楽番組でなくてもよい、個人らの思いつきでもよいので、「ボクシングを体験しよう」というような企画があったとする。それは「勉強になる」かもしれないし、「いい体験」になるかもしれない。見学じゃなく実地体験までしたという心地。好奇心を満たし、新しい知見を得た。造詣は深まるだろう。これから後に続く、何かのための「きっかけ」になることもあるかもしれない。
でもそれがいったい何だというのだ。参考、勉強、体験、経験、そんなものがそんなに必要で、何か価値のあることなのか? 多くの人にとって、そんなことをささやかにでも必要とする時期はとっくに過ぎ去ったのではないのか。われわれはそれぞれ、いったい何になる、参考と勉強と体験と経験を得た人、というようなわけのわからないものは実存していない。日本のサッカーチームが海外戦で負けたら、こぞって「次につなげたい」と、先を競って言うけれども、パッキャオは負けられない戦いに打ちのめされて、間違っても「次につなげたい」とは言わなかった。彼は敗者として帰国したが、フィリピンの人人はやはり彼を「国民の拳」として、ひたすらその存在を喜ぶ振る舞いで迎えた。あの、貧しくも明るさに光っている瞳を並べてだ。
パッキャオには本番以外の日は来ないのに比べて、われわれにはその本番というものが永遠に与えられないのではないか。次につなぐための、参考、勉強、体験、経験。そうして次へ次へとつないでいく先、実はなんにもないのである。パッキャオは年齢と共に衰えを自覚しているだろう。それでもなんとか戦い続けようとする。一方でわれわれは、これからも何か伸びてゆけるというように、さしたる根拠もなく思い込んでいる。次の次の次の戦いではより伸びていると信じていて、それを前向きな発想だと捉えているが、僕はメンドクセーと叫ぶ趣味ではないにせよ、眼を背けることにした。何を見つめればよいのか確信しているわけではないが、こんなものを見ていてはいけないということのみを信じるゆえに。
ラスベガスのリングは神聖に見えた。一発数万ドルのパンチが飛び交い、仮にアナウンスが「静粛に」と繰り返しても、人人の高まりは留まらなかっただろう。僕が立ったら十秒で殺される、無慈悲で厳正な場所。戦いとはそういうものさ、というのを臆面もなく教えてくれている。負けても次につながるという前提なら、そこで倒されるのも「いい経験をしました」になるから気楽だ。でもそれはおかしいのだ。絶対に取り込まれてはならない何か、誤った発想がある。
パッキャオはきっと、「この日だけは失いたくなかった」という強い気持ちであったろう。それでも失うことはあって、その悔しさ、切なさは、想像するだけで心臓が痛む。そのぶん、「この日だけは失いたくなかった」という思いは、何事についてであれ、文言自体が美しい。
「この日だけは失いたくなかった」、これだけが美しい。
[国民の拳がラスベガスに散った日/了]