個性……いや、「コ性」について
人間中身が大事というが、中身とは「身」のことである。精神や心のことを言うのではない。精神や心というのは、実は人間の中身ではなくむしろ上っ面の側なのだ。このことはあまりに一般に慣れた捉えられ方と違いすぎるので、にわかに仮説としても了解されがたい。それでここでは、「個性」という語を扱うのに、あえて「コ性」という表記を用いる。個性というと、いわゆる性格やキャラクターのことを指すと捉えられている。けれども個性というのは本来そうではない。個性とは本来、当たり前である「それぞれ別個である」ということの、個別性を指している。「個」という「性質」が明らかにあるから個・性。この言葉を洗いなおすために、たとえば僕はこう言う。
――ジャンケンでグーを出せば、相手はパーを出すかもしれない。こちらからは相手の手を決められない。それはそれぞれコ性だからだ。
コ性というものを、どう取り扱えばよいか。それは言わずもがな、<<コ性は放っておけばよい>>。なにしろ、こちらからは手を突っ込めない、操作できない、放っておくことしか物理的にどうしようもないのが、個別性、コ性だからだ。われわれは、相手の性格を知らないと、相手のコ性を知らないかというと、そうではない。こちらがグーを出してもチョキを出してはくれないということを知っている。そうして個別だと知っていれば、すでにそれぞれがコ性であることを知っている。あるいは逆に、朗らかによく笑う人がいたとして、それでその人の「中身」を知ったとどうして言えよう? 役者の才能の持ち主で、完璧にその「笑う」という動作が適宜できるだけかもしれないではないか。その疑いについてを、手を突っ込んで確かめることはできない。それはそれぞれが別個、コ性のものであって、そのコ性の内側のことはどうしても知ることはできないからだ。
<<コ性は放っておけばよい>>というのは、そのように、放っておくことしかできないからコ性なのだ、ということがひとつあり、もうひとつには、コ性が自他にしっかり掴まれてあれば、われわれは<<自分はコ性のものであるということ自体に悦びを覚える>>からである。コ性がどのようかとか、コ性をどうするかではなく、コ性がただちに悦びの原因であり、それ自体善なのだ。人間の「中身」とはそのコ性の「身」のことであって、これがあること自体、またそれを自分で感じ取れること自体、悦びなのだ。人と人との関わりはむしろ、そのそれぞれがコ性のものであるということを、より磨き上げて明瞭に感じさせることで、それが貴重なものとなる。B'zの"Calllng"という歌の詞の中に「きみといるとき ぼくはぼくになれる」とある。これはその恋人との関わりの中で、他にはありえないほど明瞭に自己のコ性が磨き上げられ感じ取られるということを感激的に歌っているのだ。そしてじっさいそういうことがあるからこそ、この歌曲は人人を改めて打ったのでもある。
人間の中身、その「身」は、たとえば太いサラミのような「身」であったとしよう。そのサラミに比べれば、いわゆる外見や服の装いなどは上っ面のことにすぎない。また心や精神というのも、そのサラミの上に張り付いたものでしかない。そして、上っ面のこと、たとえば人間は肉体で取っ組み合いもできるし、精神や心について言葉や態度で攻撃しあったりすることもできる。けれどもその内側で、手を突っ込むことのできないコ性、放っておくしかないコ性は、互いにそうして反発する機能を持っていない。このことが疑わしければ、食品店でサラミを二本買ってきて互いに並べてみればよい。その距離を近くしても遠くしても、取っ組み合ったり反発しあったり、支えあったり励ましあったりはしないはずだ。それはただの「身」でしかないからである。
もちろん人間の中身は本当にはサラミではない。あえてサラミという馬鹿げたものを取り上げたのは、そうでもしないと、どうしても心や精神が人間の中身だろうという思い込みが解けないからだ。心や精神が人間の中身ではない。心や精神に比較すれば、じっさいサラミのほうがまだ人間の中身に近いものだ。人間の中身はきっと「生きているサラミ」という類のもので、これは生きているからこそ、我々のよく知らない特別な性質を持っている。サラミが心や精神を持っているのではない、サラミに心や精神はないのだが、ただその身には特別な性質があるのだ。
このサラミには、なにやら<<出合い、感応し、受け止めあう>>というような機能があるようなのだ。人間の上っ面、外見や心や精神がジタバタしている一方で、それとはまったく別のことのように。つまり、<<出合い、感応し、受け止めあう>>というようなことは、実は心や精神の機能ではない。ましてや思念の機能でもない。このサラミの持つ機能なのだ。なぜそのようなのかというのは誰にも説明できない。何しろこのサラミは人間が自身で作ったものでも育てたものでもないからだ。気がつけばこのサラミは、それぞれ個別に元々与えられてあるのである。サラミはコ性のものだ。コ性であるのに、相互に<<出合い、感応し、受け止めあう>>というようなことをする。
一部の人間に、一般の人のそれとは違う、何か心地よい美のような、否定し難い善の現われがあることがある。その顔つき、体つき、たたずまい、身のこなし、振る舞い、あるいはその服の装いまでが、一般のそれとは違う説得力を持っていることがある。それらは人人の趣味の領域を超えて、どうしようもなく「いい」という感興を覚えさせる。
何がそうまで「いい」のか。それはその人間が、中身であるサラミに素直に支配されており、サラミの存在が表面上にまで現れているからなのだ。よほど鈍感な人間でないかぎり、その表面上にまで現れて出たサラミに、自分の中身のサラミも、<<出合い、感応し、受け止めあう>>という感触を覚えるのである。
一方で、われわれ一般の者にどうしても愚鈍さが残ってしまうのは、われわれの本当の構造である、そのサラミの上に精神や外見が上っ面として張り付いているという構造に対して、われわれのありようが歪(いびつ)であるからだ。精神や心を中身だと思っており、外見だけを上っ面と思い、サラミのことなどすっかり忘れている。いわば精神や心が「吾こそ中心」と居座っている形で、本当の構造から歪んでいるのだ。そこに歯噛みして居座っている精神や心のことをコダワリという。そのとき精神や心は、自分の持っていない機能、<<出合い、感応し、受け止めあう>>というようなことを、吾の機能だと言い張ってでしゃばるのだが、とにかくその機能はそこにはないので、そこには偽りの出合いと感応ふうと受け止めあうふうが捏造される。
それで、今僕が強く思うのは、たとえば好感触のものに触れてドキッとすること、逆に悪感触のものに触れてムカッと(イラッと)すること、これらはどちらも自分の中身の反応ではない、精神と心のコダワリだ、ということだ。人間の眼は心が思っているようには人間の真相というべきその「中身」を見てはいない。目は自分のコダワリを見ている。平たく言えば、一般の状況下では、人の眼は全てコダワリしか見ていないと、これはいっそ言い切ってしまってよい。ドキッとしたら引力、ムカッときたら反発、というのは、コダワリに振り回されているだけで、何も中身の真相には到達していない。サラミを二本並べてみよ、どちらもドキッとしたりムカッとしたりしない。われわれは本当に生命の底からこのことを知らないわけではない。だから、「ドキッとしたの」と浮かれている人も、「ムカッとしたんだよ」と頭に血を上らせている人も、「よくわかるよ」と応じながら、どこか奥底で冗談じみた馬鹿らしさを感じ取ってはいる。その馬鹿らしさから遠い本当の荘厳もどこかにあるはずだというのも、なんとなく知っている。
心や精神が上っ面だとして、それが存在していない、というわけではないのだ。むしろ上っ面として確実に存在している、それは服の装いと同様に。だからこそ、その上っ面でその人がどう遊んでいるかということを、人は知らず識らず感じ取っている。それが上っ面だと正しく捉えているならば遊ぶ余地ばかりがあるのであって、いわばそのサラミはどのように着替えさせてもよい。中身、そのサラミは変質しない、外からは変わらないコ性なのだから。そのことを正しく捉えている人の、心や精神、あるいはその外見や服の装いにまでついてを、「自由」にやれていることを見たとき、人はそれ自体にではなく、その奥にあるコ性のサラミに感銘するのだ。人がサラミでなく心と精神を中身とする者であったなら、それはコダワリばかりを持ち、味方で徒党を組むか、敵と戦争をするしかなくなる。サラミはそのようなことはしない。サラミには徒党を組む機能も反発する機能も無いからだ。
人の外見や、心や精神、あるいはそのドキッとした表情なりムカッとした表情なりを、無視しろ、というのは現実的ではない。それは確かにそう存在しているものなのだから、無視というやり方は当たっていない。ただしあくまで、そのような上っ面が実在する、と見るのだ。上っ面なのだからさして重要ではない……はずが、重要に思われてならないときがある。「コダワリ」だ。このコダワリがけたたましいとき、本来の構造は歪み、中身が<<出合い、感応し、受け止めあう>>ということは騒音の中でかき消される。このかき消しによってどうしても全てが虚しくなるというところに至れば、人はいっそ、上っ面の全てを、実在しているにせよ、無視する、という決断をするしかなくなるだろう。その方法は強引だが間違っているとも言えない。人の中身と中身が互いに荘厳を起こす、それ以外の一切をわたしは無視する、というようなところへ一度行かないと、やはりその荘厳は体験されないのかもしれない。
われわれに刷り込まれた思い込みの根は深い。中身と中身の荘厳……ということが理解されても、この理解がひたすら頭に保存され、新たなコダワリになった、というお粗末な進みゆきはいかにもありうる。そのような滑稽劇から脱却するにも、結局一度は心や精神という上っ面の虚しさに、心自身が一度絶望することが必要なのかもしれない。これ以上はなんとも言えないが、心がその絶望の淵でどうにかなろうが、中身のサラミはやはりコ性で、何も変わってはいないのだった。やはりコ性はそれ自体が人間の悦びである。
[個性……いやコ性について/了]