セックス初級講座
中級・上級と続けるつもりはない。そんなものは僕が中級に進めてからの話だ。
バージンの女性が初めに覚えなくてはならないのは、男性を射精させるという行為についてだ。手でしてあげる、ということでいい。陰茎にリズムよく刺激を与え続けると男性は射精する。これは単純な生理現象で、そのリズムと作業は独特のもので他には知りようのないことだから、実際にやって覚えるしかない。単に一種の手作業としてだ。性風俗のキャストはこの手作業のプロである。そして、料理と同じように、あなたはプロではないにせよ、その基本的な手作業を出来るようにならなくてはならない。女性の成長過程のひとつで、この点でもまあ料理と似たようなものだと思えばいい。
この手作業ひとつにしたって、それなりにうまくやるのは難しいのだ。実際のところ、その「手でしてあげる」というので、男性をきっちり射精にまで持っていける自信のある女性はそう多くない。玉子焼きなら任せてよ、と胸を張って言える女性ほどに少ない。それはまあ、手作業のものだから、単純作業として熟練が要るのだ。単なる慣れのもの。それで、そういうことには勘の良し悪しというのがあるので、割と初めからできたわ、という人もいれば、なぜか全然できないの、と長い人もいる。この点だけ見れば、あなたの初めての男は、儀式的なそれを済ませたら、しばらくはあなたの練習台にもなる。それは遠慮なく練習させてもらえばいい。そんなことをイヤがる彼氏なんかありえないし、そういう照れくさいもどかしさはいかにも青春だ。
馬鹿みたいな話になるが、「わたしは手で男性をイカせられます」という自信があると無いとでは、あなたのこれからの恋あいの進みゆきは長きにわたってずいぶん変わってしまう。料理が(本当に)出来るということが台所の女性に自信を与えるように、手でイカせられるということがベッドの女性に自信を与えるのだ。この自信が無いと、恋あいはどうしても概念的になり弱くなる。もちろんイカせてあげるだけが恋あいではないが、「そこは任せて」と言えるほうがむしろ厄介ごとがなく滑らかで、華やかなのである。
このことは、たとえば男が、かつてのように元服して武術を習うとして、「ここをこう突けば人は倒せるよ」というのを、まずは覚えるしかない、ということと同じだ。ここをこう突けば人は倒せる、ということを、知っていて実際できるというのと、できないというのとでは、彼のサムライ道は長きにわたってずいぶん変わってしまう。人が倒せないならサムライ道はどうしても概念的になり弱くなる。あなたが彼を「男」と認めるならどちらだ。そりゃ突いて倒せる男のほうに決まっている。それで、人を突いて倒せる男は、女性を口説くのも滑らかになる、根本的な自信で。それと同じように、手で男をイカせられるという女は、好みの男に近づくのも滑らかになるのだ。
そういう土台が、馬鹿みたいだけど、実際には恋あいの進みゆきにずっと影響してくる。女性の何割かが、ロストバージンを急ぐことがあるのは、その手作業と自信を早く手に入れたほうがいいんじゃないか、ということに決断するからだ。彼女らはまだ自分が男をイカせる自信の無い女であることがダサく感じられてならず、勇敢に先に進もうとするのである。
もちろん、手の次は唇で、舌で、あるいは結合して上になって、あるいはバストで……と進んでゆくのだけれど、どの作業も基本的には同じだ。射精は生理現象だから、作業を貫いているルールは同じである。作業としてイカせるなんて、冷たい気がする、というのも間違いで、男はその作業で射精させられてしまう生理を恥ずかしく持っているので、それに対して「いいよ、気持ちよくなっちゃえ」と言ってくれる女があたたかくてやさしいのだ。逆に、手作業をして彼を射精させて冷たい空気になったとしたら、申し訳ないがそれは単にあなたの性格が冷たい。射精という生理現象を持っている男という存在が根本的に好きじゃない可能性がある。何かその射精自体が根本的に許せない、という女性だって、やはり世の中には少なくない。それはまた大きな問題で、きっと幼少期の父親との関係などが影響していると思われるが、そういう話に今回はしたくないので、そちらを展開するのはやめよう。
まあ、何にしても、「イカせるならまかせて、上手ってわけじゃないけど」と、手のひらをヒラヒラさせられる女性のほうが有利でかつ健全だ。
まずは作業を覚えること。
反復練習、か。それ用の筋肉もいる。
人工呼吸のアレみたいに、作業訓練ができる人形があればいいのかもしれない。
そんなの、誰もやらないか……
さて次に、セックスというのは、健常な異性同士であれば、誰とでもできるものだ。当たり前で、そうでなければ性風俗が成立しない。できなかったらそれは機能障害で、いわゆる不能、インポテンツだ。このことは当たり前で、問題があるとしたら、その誰とでも出来るセックスが、誰とでもしてはいけない、というところにある。そこには文化や本能がいろいろ混じりあっているけれど、簡単に言うと「わたしは何であるのか」という、アイデンティティの問題を脅かすものだからだ。不潔な男に射精用途の筒にされると、「わたしは何であるのか」ということが汚損される、そしてそれが人間にとって存外重大な傷痕になったりする、ということなのだ。
女性の側からはときおり、「なんで男ってセックスにこだわるの、どうでもいいじゃない」というようなことが言われるが、それは正確ではないわけだ。どうでもいいならヤラせてあげればいい。それが「そうはいかない」のは、そのどうでもよさげなことに自分の身体が使われてしまうというのが、「わたしは何であるのか、そのどうでもいいことのための存在なの?」という問いかけになって苦しいからイヤなのだ。
過去にセックスで傷ついた人が、逆に性風俗を職業にすることがある。それは、セックスで「わたしは何であるのか」を汚損させられて、その混乱を修復するために、もう一度その「わたしは何であるのか」を確認しなおそうとしているのだ。射精の用具にされた、わたしは「そのようなもの」であるということを、受け入れねばならないのか? という問いかけと戦っているのである。こんなもの、「そんなことないさ」と慈善ふうに呼びかけたって役に立たないし、あるいはそれが効いたら猛烈な依存状態に入ってしまうし、そもそも女性は初潮を体験して性交の存在を知ったときから、射精の用途に足りてしまう自分についてその問いかけをずっと抱えてはいるものだ。その問いかけを前提に、なんとか女性のアイデンティティを汚損することだけはするまい、と心を砕くのが男性のマナーである。そのマナーが誠実で効果を持つものであれば、別にドスケベでも何でもいい。そんなことで女性はふつう怒らないし、女性はセックスがイヤというよりセックスで自分のアイデンティティが汚損されることのほうがイヤなものだ。
(と、僕は精一杯思っているのだが、所詮男なので、違うわボケという場合はごめん)
それで、「まずは作業を覚えること」としたのは、そのことが逆に、女性の人格を守ってくれることもあるからだ。酔っ払ったり、強引に来られて怖くなったりで、不本意なセックスをしてしまうことが、女性の生きる中ではある。そういうとき、どうにも逃げられないとなったら、「よし、これは作業なんだ」と割り切ることで、女性は傷つかずに済むことがある。後に、「不愉快だったけど、まあ、不本意な作業をさせられたってことよね」「醜い者の醜さを超アリーナで見物したわよ、もう二度とごめんだけど、まあ面白味が無いわけじゃなかったわね」というふうに。
これが、その作業の心得がなかったとき、まるまる概念的なセックスしか残らないので、余計にタチが悪いのだ。「わたしは何であるのか」という問いについて、「そりゃ作業ぐらいはするわよ」と答えられない。
このあたりは、たとえば、僕があなたを口説くとして、「どうしても君のことが」なんて言ったらまず気持ち悪いだろうし、逆に雰囲気を出そうとして「本当はお前もヤリたがっているくせに」なんて言ったら、これはもうオゾマシイの領域に入る。それよりはまだ、「頼むからコスってくれ、作業を、あの作業をしてくれ頼む」と土下座をするほうがマシだ。こいつそこまでして射精がしたいのか、アホか、ということで、なんというか、もう傷つくとかアイデンティティとかそういうシリアスなものが飛んでいってしまうだろう。そういうときは、逆にもう「男らしいわね」と笑われて賞賛されることさえある。別にこういうのは嫌いじゃないわ、と言ってくれて、でも勿論、僕に恋なんかしてくれない。そりゃそうだな。ちなみにさすがに土下座はしない。それは芝居に入りすぎになる。
「クオカードあげるから」ぐらいは言うかもしれない。
やめよう。
それで、作業として、手であっても口であってもヴァギナであっても、やはりセックスは男を射精させるわけだ。その射精について、射精そのものというより、そこに至る一連の作業全てについてだが、確かにそれが単純な作業にのみ終始したらつまらないのだけれど、「あれっ?」ということが中に起こってくる。それは、その行為がセックスだからであって、セックスという行為の特殊性を示している。そしてそれに触れることで人は「これがセックスか」ということを体験として知る。これは快楽だけの無意味な行為なんかじゃないわ、という確信を体験する。
好きな人とその作業をする、というより、その作業をしているお互いのことを、なにか好きになる、ということが起こるのだ。だからこれは単なる作業ではない。作業を始めると、その作業が別の扉を勝手に開いていく。<<わたしたちは、こういう作業をする存在なのね>>ということが、いやにまぶしく、はっきり感じられてくる。
よく、「ひとつになる」と言われるようなこと。簡単に言うならたしかにそのように言うしかないかもしれない。そのよく言われることが、「あれっ?」「これは何?」「今のは何!?」というような感触で起こる。このことはいっそ、娯楽のための作業に徹しようとしたセックスの中で不意打ちのように起こることがよくある。職人でもそうだが、作業に徹そうと、気楽に、かつ本当に徹してしまったとき、人間はある純粋な状態になるのだ。その純粋な状態が接触すると、男女の間にはある結合が起こってしまう。純粋だからあまりに真っ直ぐ入ってくるのだ。それで抵抗できなくなって、結合してしまって「あっ」となる。
余談だが、こういう結合がセックスの中で起こったとき、女性は喜ぶかというと、案外そうでもない。喜ばないことのほうが実は多い。むしろ混乱して、終わったら急にいそいそと距離感を取り始めて、今起こったことを忘れよう、とする。ナシナシ、今のナシ、と。
それは、その女性が持っているセックス観と、実際に体験したものがあまりに違いすぎるからだ。違いすぎて都合が悪いので、ナシナシ、今のナシ、となるのである。ふつうセックスというと、ラブラブな彼氏と時間をかけて、甘くとろけるようなムードの中で、「好きよ」「おれもだよ」と見詰め合って、愛を確かめ合って、二人は将来を約束しあっていて……という、そういうものがホンモノだと捉えている。その幻想的な中でこそ、天国のようなオーガズムと、荘厳な結合の感触があるはずだ、と。確かにそうでなければいろいろ都合が悪い。間違っても、娯楽作業よ、なんだかノッてきちゃったわ、というような中で、そんな結合が起こって感動してはいけない。
ところが、セックスをするのに、せっかくセックスという具体があるのに、セックス観なんてものは余計で、その余計なものは結合への到達を阻害するのだ。むしろセックス観から解き放たれた、「今日だけは例外でいっか」というようなときにこそ、その結合は不意打ちでやってくる。別にお互い、気持ちよくなろうとも思っていなくて、肩の力を抜いて作業をしているし、お互いにイイ女ぶったりイイ男ぶったりすることをやめ、単に作業し、また作業に犯される者でいいや、となっている。それで、気がつく前に、セックスという現象に身をゆだねてしまうのだ。それで「あっ」となって、直後、ナシナシ、今のナシ、となる。余談の余談だが、そういうとき、男の側からも、なんかわかるなあ、今のは何かまずかったよなあ、と可笑しく共感してしまう。
段を区切ろう。
ちゃんと初級の話ができているので、僕は今気分がいい。
***
セックスにはテクニックと才能がある。テクニックとはこの場合、いわゆる技巧的な、ということを指す。音楽の技巧に例えれば、たとえばレガートが上手であるとか、スタッカートのキレがよいとか、音の響きがよいとか、強弱のつけ方が上手いなどだ。それは技巧的に上手なのだが、そうして演奏されたものがグッとくるかどうかはまた別だ。グッとくるかどうかは才能の問題で、いや本当は才能の問題ではないのだけれど、まあ「才能なんだろう」と一般に思われている類のものだ。グッとくるものはたいてい「余計な技巧がなかった」と受け取られる。上手いってわけじゃなかったけど、なんかすごくよかったの、と受け取られる。「本当の意味で上手かった、すごい」と。もちろん技巧があまりにもドヘタクソで不快なほどでは話にならないが、あくまで聴衆は音楽を体験したいのであって技巧を体験したいのではない。
が、中には、音楽にグッとくるということでも、まるで体験しない人もいる。それがどういう感覚なのかは僕にはわからない。でもとにかくそういう人もいるので、そういう人にとっては、いい音楽とはつまり技巧の優れた演奏だ。そしてそういう人にとっての最高のセックスとは、その技巧が優れたセックスということになる。それで当人も、技巧派を目指して、女性を感じさせるテクニックを酒の席でとうとうと話したりするのだが、それにケチをつけるつもりはなくて(そういう技巧が好きな女性もいるだろうからだ)、とりあえず僕に言えることは、僕はそのような技巧は持っていない、すいません、ということだ。
セックスにもそのように、技巧的に感触が大変よろしい、というものと、何かグッとくる、その果てに「あっ」という結合に至る(こともある)、というものがある。単純に言うと、そこには二重の現象があると言ってよい。もちろん両方あるのが理想的だ。両方無いよりはもちろん技巧だけでもあったほうがいい。技巧的なセックスは、他人に語りたくなる一方、グッと来てアッと結合してしまったセックスは、あまり他人に語りたくならない。あのときの二人にしかわかりっこない、というのが初めからわかっているからだ。
絵描きで言うと、セザンヌなんか別に絵は上手じゃないし、ジョン・レノンも別に歌は上手じゃない(ポールは上手だ)。ボブ・ディランも桑田佳祐も歌は「上手」じゃない。もちろん技巧的にはドミンゴやカレーラスのほうが上手い。が、そう並べてみると、われわれは何も上手なものが本当に好きというわけでもない。何か知らんが、<<まっすぐ来るもの>>が好きだ。厳密にまっすぐ来るものは、本当に厳密にまっすぐこちらの奥に届いてくるので、「効く」のだ。効くのであれば、それがそこまで上品に整っていなくてもいいよ、と感じる。
ぜいたくは素晴らしいし、ぜいたくをしたい夜もあるけどね。
ところで、男性の読み手に、いちおう同盟軍として語りかけるけれども、<<まっすぐ来るもの>>がよいとしても、「セックスなんかまっすぐでエエんや!」みたいなものは、たぶん一番曲がっているので、そういう浅はかなのはやめよう。野性的なのがいいわ、と時に女性はリクエストするけれど、ウガーッとなっているのはまさに文明からの野生への思い込みで、野生では誰もそんなウガーッとしていない。ウガーッは文明の作り出した怪獣のイメージで野生じゃない。野生はもっと慎重でスマートで、ときに力を見せ付けあうプロレスだ。ウガーッとやる側は、ストレス発散の意味で気持ちいいかもしれないし、二、三回のうちはウケもいいかもしれないけれど、それは確実に飽きるものだ。ものすごく早く飽きる。それは酔っ払ってカラオケでウガーッとしているのと同じだからだ。たまにそれをやるからヤンヤヤンヤとなるのであって、毎日ライブとして聴かされたらたまったものではない。
じゃあどうするんだと言われても、どうしようもないが、才能の類の話だといったので、まあお互い頑張ろう。
おれはイケている、すごいだろう、みたいなものが、100%誤りだということだけは、少なくとも判明している。そしてそのことに反省して自信を失くすと、さらにマズくなるからやめろ、というのが女性陣からの無慈悲な忠告なのであった。
まっすぐ、というのは、本当に「まっすぐ」だ。「まっすぐだ」という思いは要らない。まっすぐ行けばいいし、そう行くしかない。
このまっすぐなものが触れると、女性はどうも、第一に安心するようだ。少なくとも曲がったものはそこにはないという感触に。安心すると、女性も安心してまっすぐになれる。
逆に言うと、技巧的な(つもりの)ものは、女性を不安にさせるようである。それもまあ、技巧が未完成だというだけなのだろうけれど、そんな技巧はたぶん完成しないし……
(いかん、ただの泣き言みたいになってきた)
まっすぐだ。セックスで結合を得るには、その結合へ向けてただまっすぐいけば良いようである。そのまっすぐさの感触は、日常生活では存在しないものだから、それだけで特別なものとして受け取られる。
簡単に言うと(なんか話がまずい方向へ)、僕のことを好きじゃない女性、ともすればキライよという女性でさえ、そこにまっすぐな感触の愛撫があれば、その愛撫自体はきらいではないし、受け止めてくれるようだ。本能的なやさしさのように、そのまっすぐな感触に対してのみは、どうぞ、おいで、と迎えてくれる。そしてそのまっすぐさのまま行けば、射精の前後で、あるいは女性のオーガズムの前後で、結合はやはり起こる。驚いたことに、僕のことをキライな女性でも、まっすぐに行けば迎えてくれて、結合はしてくれるのだ。そのあと、ナシナシ、今のナシ、になるのだけれど。
そして男の側はバカだから、そうして迎えてくれて、結合してくれたなら、そのあと女性が「今のナシ」になっても、それにあれこれ口出しする気にはならない。それどころか、もしこの場で何かトラブルが起こったとしたら、自分はこのコを守らないといけないんだな、という覚えさえ起こる。どうやらそういうものらしい。人間の「中身」が、異性として結合するというのは。
そんなわけで、初級講座の第二としては、<<まっすぐ>>を求めること。あなたが彼に触れるのでもそうだし、またあなたが彼を高めるのにでも、彼に「まっすぐ来て」というのを呼びかけるのだ。視線か声か身体そのものかで。
セックスは、具体的には、前後や上下や左右で、揺さぶる、という行為が多い。その揺さぶるという行為をまっすぐやるのだ。どう揺さぶるものなのかは、意図的なものではなく、天然で身体の中に入っているようである。愛の結合に向けてまっすぐ行こうとすると、その天然の揺さぶり方が勝手に出現する。女性に言うのは気が引けるけれど、あなたが自慰をするときにでも、そのまっすぐな揺さぶりはあなたの指先に現れているはず。
男性をイカせるという手作業を覚えたら、その作業はいかにも揺さぶる系統の動作だが、それをまっすぐにするのだ。もちろん動作線を直線にするのではない。結合に向けてまっすぐ行く。そのときあなたの手作業はある天然の動きを生むのだ。それは、上手というのと違う、何かグッときてたまらないものを帯びるのである。
明らかに、第二に持ち込んでくる話を間違ったが、まあ別にいいだろ。
ただ揺さぶるんだ、問いかけるんじゃなくて。本当はできるくせに、勇気がいる。
***
手作業のコツをひとつ。手作業だけじゃない、作業全般についてそうだけれど。作業に、いわゆる気持ちは要らない。こんなもの作業よ、という気持ちも要らない。作業の指は、冷たいほど落ち着いているほうがいい。愛撫をよく「攻める」というけれど、本当にやるのはあなたの手と彼のペニスのガマン比べみたいなものだ。そしてあなたの手のほうが確実に勝つのである。だから自信と余裕をもって、ゆっくり追い詰めたらいい。急いでやっても休み休みやっても彼はイカない。追い詰めるというのは、たとえばヤギの群れを小屋の中に追い立てるイメージだ。急いでやってもヤギは走り回って逃げる。かといって休んでもヤギは遠回りして逃げてしまうだろう。その逃げるところを、「はいはい、逃げられませんよ」と言い立て続けるわけだ。なんなら心の中でそれを言い続けてもいい。「はいはい、逃げられませんよ」と。相手のほうが弱いのだから、落ち着いて、自信を持って。何がどうなったってあなたの指先は射精したりしない。
セックスのテクニック(技巧)に、よくジラすのが大事と、本などには書いてあるけれど、そのジラシをしたいなら、その前にまず、いかに早くイカせられるかということを訓練したほうがいい。それも急いでイカせるのではなく、動作自体はゆっくりで、疲れないのに、彼が早くイッてしまうというような。それはつまり熟練のヤギ飼いのように追い立てるのが上手になるということである。それはまた彼氏が練習台だ。
それが出来るようになれば、つまり、「ここをこうするとイクのよね」というのが感触としてわかってくるので、同時に、「でもこうしたらイカない」というのもわかってくる。「これならギリギリでイカない」ということもわかってくる。それをずっとしてたら、さすがに彼も、「ちょっと、まじカンベンして……」と泣きを入れてくる。そのか弱く震えるような声はあなたのSっ気を至極満足させるだろう。
そのことなしにただジラシだけやっても、まあ彼は喜んでくれるし、あなたの工夫をかわいく思うだろうが、理性が決壊する、というようなことにはならない。
こう考えてみると、やっぱり技巧というのも、まったく悪くないなあ。
とりあえず、第一が手作業、その作業を覚えるということで、それがしっかり身に付いたら、自信になるし、恋あいの進みゆきがよくなるということには、たいへんな説得力が伴ったと思う。ああ、それはもう、たいへんな、たいへんな、説得力だ。
***
セックスには意外に「理由」が要るものだ。彼氏だからとか、旦那だからとか、好きだからとか。終電が無くなってどこかで休もうかというとき、「何もしないから」というタテマエを男が言う、それを「オンナは言い訳が欲しいのさ」みたいに言うが、それはきっと三割ぐらいしか本質を突いておらず、本質は女性の側が「ここまできてさせてあげなかったら正直かわいそう」とやさしさを振る舞ってくれるのが七割である。セックスには理由が必要だとして、「だってシタくなったんだもん」というほどには、女性は接触前からそうそうセックスがしたくならないものだし、「寂しかったから」というのも正当な理由だが、その理由付けはあまり女性は認めたがらない。そして、まあ少なからざる割合の女性は、すごい高級な食事をオゴってもらってしまったからとか、本当にバッグを買ってもらったから、という理由で、男性にセックスを許すことがある。それも、「別にイヤじゃないし」というのに加えて、「させてあげないと、正直かわいそう」という女性のやさしさがたぶん本質だ。
だから、男性同志諸君、どうしても寝たい女性がいたら、高級な食事を強引にでもオゴるべきだ……と勧めようかと思ったが、これは誰でもやっているな。高級な食事をオゴってなおイヤと言われたら、本格的にあなたとはイヤ絶対、と思われているか、彼女の側のセックスの理由付けのルールがたいへん強固で厳しいかだ。
バッグを買ってもらったから寝る、というのは、不潔だと嫌悪する男性も多いけれど、僕は特にそうは思わない。少なからざる女性が、それに加え、「まあ、買ってもらったし、なんなら次もあるかもしれないことだし……」という打算を持っているとしても、僕はそれに軽蔑や嫌悪を覚えない。女性はどうしたって、「この手口でどこまでわたしは富めるんだろう?」ということに、一度は関心を持ってしまうものだろう。ただ僕としては、その欲しがるバッグが、漠然と欲しいのではなく、「あれがあったら一つのコーデが完成するのに……」という、燃え立つものならいいのにな、と思うぐらいだ。
女性はどうも、その「どこまで富めるんだろう」というのもそうだけれど、自分がオトコを吸い寄せる花だとして、どこまでの体験ができるのか試したい、とある時期思うようだ。別にイキがっているのではなく、自己確認として。先に言った、「わたしは何であるのか」を確かめる糸口として。このときたまたま彼女を口説けた幸運な男は、あっさり「いいよ」と言ってもらえるので、驚き、いわゆるモテ期が来たのか、そういうのって本当にあるんだ、と感動する。が、そのときにしたセックスのことは、女性の側はほとんど覚えていなかったりする。
セックスには「理由」が必要なもので、その「自分を試したい」というのも、正当な理由のひとつになるのだ。
で、その「自分を試す」というのが一通り済んだら、女性は元通りの身持ち具合に戻るので、件の男がもう一度寄ってきても、「ごめんね」となる。もう済んだの、とはさすがに言えないから、気分じゃないと言い続けたり、好きな人ができたの、とか、うまくいくウソをつく。
そういうのを、見たり聞いたりすると、いいぞもっとやれ、という痛快な気分に僕はなる。
まあそれはいいとして、その「理由」だ。根が真面目な少女は、この理由付けに苦労する。苦労するというか、うまくいかず困惑する。本当には、セックスに興味があり、作業の基本がよく出来ている女に、人より先になりたいのに、セックスする理由が見つからなくて、困り続けるのだ。男性に口説かれると、イヤじゃない、そして内心でセックスにはすごく興味があるけれどそれを言うわけにはいかないし、とにかくセックスする理由がないの、というところで立ち止まり続ける。
別に焦ってセックスしなくてはならない理由はどこにもないが、自分で困り続けるというのはけっこう大変だ。
「付き合うってつもりには、今なれないし、でも付き合っていない人とセックスはだめだろうし」
「させてあげないとかわいそう、でも、かわいそうという理由でしてはいけないのでは」
「付き合ってるけど、好きになったとはまだ言い切れないし、好きじゃないなら、やっぱりしたらダメなんじゃ」
「たぶんこの人とセックスしても、全然イヤじゃない、でもイヤじゃないからってしていいものでは」
こんな感じはよくない。自分がしんどい。
そして、ややこしいことに、そのしんどさにストレスがけっこう溜まっているものだから、飲み会で意外にぐいぐい飲んでしまい、まったく不適当な男性と勢いで寝てしまうことがよくある。まあそれも青春だといえばそうだが、そこまではよしとしても、そのことの後悔が意外にこじれて、その不適当な男性に妙な依存を起こしたりすることがあるから、そうなったらちょっと青春じゃない。またそういう不適当な男性に限って、依存に巻き込まれやすく、なぜか「お前のセックスはイマイチだった」みたいなことを急に言い出して依存を深めていくので、まったくそういうのはしんどくてよくない。
冗談ではなく、そのセックスの理由付けがこじれると、もう「レイプされるしかないんじゃ」みたいなことにも、なることがある。そしてそういう発想が無意識下に起こりはじめると、錯誤行為と言うのだが、知らぬ間にそういうリスクをなぜか勝手に自分が取るようになるのだ。異様に男を挑発してしまったりする。「でも最近の男性って勇気がないから安全ですよね」みたいな言葉がポロッと出る。「あれ、わたしなんで今みたいなこと言ったんだろう」と、本人はノンキだが、言われた男はカチンと来ているので、まあいろいろロクでもないことが起こりがちになる。錯誤行為から出たものは、意識レベルで捉えきれない謎の強い働きかけをもっていて、人の理性の隙間を突いてきがちなものだ。「なぜわたしはドアにチェーンをしなかったのだろう?」みたいなことは本当にある。
ああ、そういうのはとにかくだめだ、昔のコカ・コーラのCMのようなさわやかな路線でいこうじゃないか。
セックスについての理由付けは、女性はこっそりと、早めに、先に、やっておくのがよいように思う。理由を固めておく、というのではなくて……なんというか、自分との対話というやつだ。たとえば女性によっては、「付き合った人とだけしたらいいじゃない」と思っている。思っているが、なぜかその自分の意見にまるで自信がない、ということがあったりする。そういうとき、自分自身がその意見を心の底で否定しているということがよくある。抑圧というやつだ。抑圧してうまくいけばいいのだが、抑圧というのはずっと地の底で脱出のチャンスをうかがっているので、そうなるよりは先に対話して和解するほうがいい。「わたし、実は、本当はたくさんの人としたいんだ」と、認めるなら認めて、その上で、「でも、付き合った人とだけ、というのも、しばらくやってみたらいいじゃない、まだまだ時間はあるよきっと」ということに行きつけば落ち着く。そうなると、「付き合う」ということにも自分なりの気持ちよい重要さが出てくるのでもある。
人それぞれ、どのようにその「理由」が構築されているか、僕はこれまでに、いくつかの話を聞いてきたし、触れてもきた。
自分をきれいにしてくれるセックスなら、喜んでするわ、と言われたことがあり、だってきれいになりたいもの、と言われたので、これはまったく反論の余地がないな、と感じた。どの男と寝たらきれいになれるかわからないなら、それは女としての勘が死んでるのよ、とも言っていて、僕はひれ伏すばかりだった。と、たぶん大昔のコラムに書いているはず。
付き合った人としかしない、という人もあれば、付き合って、かつ大好きだったらする、そうじゃなかったら絶対しない、という人もいる。結婚してからでないとしない、という人だって、やはり今でもいるだろうし、子供を生むと決めたときしかしないわね多分、という人もいた。
イヤじゃなければ、するというか、求められたら、付き合ってあげたい、という人もいたし、「出来る限り付き合ってあげるのが、女の義務だと正直思う」という人もいた。自分が傷つかないなら全然する、という人がいて、どういう人なら傷つかないかと尋ねたら、それはつまり、セックスがやさしい人じゃない、と言われた。
もちろん、若いうちだけっしょ、と照れくさそうに、ノリが合ったらやっちゃうよねー、という人もいた。たぶん好きな人ができたらウチ変わるよー、とも言った。
「自分で決めているわけじゃなくて、よくわからないんですけれど、迫られたら断れないんです」という人もいた。
「尊敬できる人なら」といい、「この人は女を得て当然でしょうと思えたら、寝るのかな、だってそれは自分の恥にはならないから」という人もいた。これは何かカッコよかった。
「別にいいんです、ただわたし、足の速い人でないとどうしてもダメなんです」という人もいたな。僕がもっとも完璧に口説くのを諦めたケースだった。
「あとくされ、というとひどいんですが、一回すると、その後ややこしくなる人って多いじゃないですか? それだけがどうもイヤで」という人もいた。
キスしてみてから考えるという人もいた。「だって何か触れてみないとわかんないし」と。
「わたし割と、応援の気持ちで、するのが好きなんです。だから」という人もいた。
「素敵な人とすると、逆にずるずる、わたしいっちゃうんです、だから逆に、そこまで気持ちの入らない人とならできるんです」という人もいた。
セックスしたら、女の気持ちになってしまって、日常に帰るのに時間がすごくかかるし、その日常に帰るまでわたし自分で何するかわからないの、という人もいた。
「しちゃだめって、わかっているんですけど、頑張って求めてきてくれると、正直男の人ってかわいくって」という人もいた。
「むかしに比べて、わたし怖がりになったの。だから逃げてるんだよ、だめだね」という人もいた。
「何かのリーダーっていうの? 少しでもいいからさ、何か権力を持っている人ならいいんだよね」という人もいたし、もちろん、「イケメンかどうかに尽きる、イケメンじゃないのと寝る理由は無い」と笑う人もあり、「おしゃれかどうかだと思います」という人もいた。身長が高すぎるのはダメなんです、元カレが大きくて暴力があって、というような人、あとはもちろん、こういう体型の人となら出来るとか、ちゃんとした食事とラブホテルじゃない普通のホテルならいいよ、という人もいた。
性風俗のキャストをしている人に、店を通さず仕事をすることがあるかと聞いたが、その人は「うーん、それは考えることもあるけど、なにか違うんだよね」と言った。「そのほうが割がいいのはわかってるんだけど、やっぱ店通してもらってナンボだなって」。それはつまり、彼女はあくまでキャストだということだった。
こう考えると、人がセックスをする「理由」というのは面白い。人それぞれで、それぞれの説得力があったり、無かったりする。
なんというか、その人のもっている地というか、バックグラウンドが、正直に、不思議な形で出るのだと思う。
納得のいくセックスの前に、納得のいく「理由」の仕組みが、きっと自分で必要だ。
それはなんというか……男は女を口説くのに、正当な理由が必要だ。自分のためにではなく、口説かれる側の女性のために。女性は男性に口説かれたいという気持ちが一応あるが、単に口説かれればよいのではない、正当な態度としての口説きを受けたいのである。男の側は、そこに精神を研ぎ澄まし、大胆な説得力を持つ発明を生み出すのに必死だが……
それはどうやら、女性の側もそうなのだ。女性はセックスについて、自分自身を口説く正当な理由が必要なのである。
わたしがセックスをする理由はカッコいい、と感じられたとき、女性は矛盾なくセックスができる。
女性は自分を口説くのである。カッコいい「理由」をもって。初級講義の、第三。
だから、あなたも自分を口説くカッコいい理由を考えて、あら女性を口説くのってすごく難しいわねと、苦悩しろ。それこそ僕が日々格闘している苦悩である。その手ごわさを共有しろ。
そして精一杯の苦悩をした痕跡を僕に認めて、同情からやや甘く採点しろ。ぐっと甘くしろ。
本当に自分で発明したものでないとまるで認めてもらえないんだから厳しいんだぞ。
ではでは、以上、セックス初級講座でした。中級や上級はありません。
[セックス初級講座/了]