恋あいの運気を上げるために
男は女を「犯す」といい、女は男を「犯す」と言わない。犯す、ということが成立するためには、男が下層で、女が上層でなくてはならない。聖者が下層を歩いたって「犯す」は成立しないからだ。下層の者が高潔の野を踏み荒らすから「犯す」になるのである。つまり「女が上」で、「男が下」。男が裸で路上で寝ていても何もないが、女が裸で寝ていたら犯されてしまう。男が何もされないというのは、男には特に奪うものもないし、男それ自体に価値が付随していないことを意味している。女が夜道を一人で歩くだけで危ないというのは、女にそれだけ奪われかねない価値がもともと付随しているということである。ダイヤモンドは奪われる可能性があるが、石ころは奪われない。
「女が上」という、この明らかな事実を、見落としてしまうと、運気が下がる。運気などというのはオカルトだが、経験上まさしくそうなので、僕はこれを裏切れない。裏切らなくても忘れがちなことだから、ときにこうして書き話して確かめておくほうがよい。女が上で、男が下。この男女が付き合うのだが、男女というのは一般に思われているほどには、本当には親しくない。一種、別の生きものだと捉えたほうがよいかもしれない。ベクトルは根本的に男→女の方向であり、この矢印は逆転しない。男は、そのベクトルの目的方向に立つことができず、女は、そのベクトルの原点方向に立つことができない。男の生に焦点を当てると、それは女の生のスピンオフ作品のようになるし、女の生に焦点を当てると、男の生のスピンオフ作品のようになる。帝国軍と同盟軍があり、帝国が同盟に侵攻するなら、侵攻する側の映画の撮り方と、侵攻される側の映画の撮り方がありうるはずだ。
実は親しくもない男女が付き合うとなると、それはささやかな交流であっても、裏側には「犯す者」と「犯される者」の関係性が内在する。男女の関係は、「どう犯すか」「どう犯されるか」ということに、それぞれ納得のゆく物語が形成されうるか、というような営みだ。どれだけ小さなアプローチであっても、男性が女性に接近するときは、それ自体がすでに犯すことの始まりになっている。このことはたとえば、男が街中で女性に好きに声をかけてよいか? というような問いで明らかになる。答えはノーで、それは声をかけること自体がすでに初期的な「犯す」を形成するからである。
もちろん、かといって、男女を隔絶すればよいのかというと、それでは話にならない。その逆だ。男は何をどう工夫しても、女に向けては「犯す」ということしかできないのだから、その所詮「犯す者」でしかありえないことの自覚を持って、認めるべき値打ちのあるものにしてみろ、ということが要請されているのだ。犯し方のポリシーが問われているのである。一方女性の側は、男性に対しては犯されることしかできないのだから、どう犯されるのか、その犯される者のポリシーが問われる。「俺は節度を守っているから女に迷惑かけてないもの」と言う男は、きっと女性からもっとも不評だろう。男は自分をどう工夫しても(去勢でもしないかぎりは)女を犯す者であることを辞めることはできない。辞められないなら自覚するしかなく、自覚したならポリシーが芽生えよと、そういうことである。これについて女性から言われるとぐうの音も出ない正論は、「犯される者であることを受け入れることの大変さに比べたら、犯す者なんて気楽なのだから、ちゃんとしなさいよ」と。これは至極もっともな話で、男は犯す者である自分を手抜きすることができるが、女性のそれは受動のものなので手抜きすることができない。裸で寝ている女を見つけたとき、それを犯す側はそれをサボることもできるが、犯される側はそれを自分でサボることはできない。絶え間ない負荷という点では、明らかに女性のほうが苦労があるのだ。
男女の関係は、一見すると、男性のほうが上に見える。けれどもそれは上下ではなく、あくまで能動・受動の関係に過ぎない。上下で言えば女のほうが上で、ただ下層側が能動というだけだ。基本的に、女に男が群がり、男に女が群がるのではないのに、男が上だというのは明らかに間違いである。オスは犯したいメスをほとんど選べないのに対し、メスは犯されたいオスを選ぶことができ、さらにはこの中には犯されたいオスはいないと全面的に拒否もできる。オスにはそれはできない。物事を上位で決定しているのは女の側だ。男はこの物事の原動力であるに過ぎない。
このことはいっそ、それぞれに「犯します」「犯されます」という文言を書いたハチマキを額に締め、集ってみたら明らかになるかもしれない。この赤組と白組に分かれたような有様は、両者が立場として画然と違うということを知らしめる。赤組と白組が「仲良く」するというのはいかにも虚構だ。仲良くすることなどできない、それを飛び越えるには特別な力が必要だとされて、その力のことを各文化で愛の語を当てて呼んできたわけだ。
逆に言えば、それが「仲良く」することで済むなら、愛は必要ないわけだ。赤組・白組の帽子を外し、「犯します」「犯されます」のハチマキを外す。すると何かが解決したように見える。運気が下がるというのはこれだと思う。それは我々に与えられた仕組みを否定してかかるやり方であるから。なぜ犯す側と犯される側に分かたれているのか我々にはわからず、またその分かたれている中に特別な結合が起こる、その特殊な力の自然発生があり、それがかけがえのない感激を呼ぶのかも、我々にはわからない。わからないからといって否定すると、力の自然発生と感激も失われる。結果、運気が下がるわけだ。<<うまくいっているのにいいことは何も与えられない>>という状態が続くようになる。
運気などというオカルトを土台にするのは怪論でしかないが、それにしても僕はこの運気説を経験上否定できないので、じゃあどうするとなれば、ハチマキを締めなおすしかないのだ。「犯します」のハチマキを。これを締めなおした途端、ポリシーが問われるようになり、緊張感が起こり、物事が動きはじめる。なんて厄介なことだ、と思うが、別にこの仕組みを自分で作ったわけではないので、致し方ない。
根拠のないオカルトを聞き流してもらうとして、「女が上」、「男が下」、ただ男が能動という、このことを忘れると、本当に救いようがないほど運気が下がる。いいことがまったく無くなってしまう。ただでさえ不景気な世の中なのに、そこまで自ら失ってしまっては生きがいがない。
女性でもまったく同じだと思う。あなたが上なのですよ、と僕はくっきり申し上げたい。上なら上で、上らしい、高貴なポリシーと振る舞いを。受動、「犯されます」のハチマキを締めて、それでも彼女は美しい、ポリシーと振る舞いも含めてとなれば、あなたの運気は向上している。
[恋あいの運気を上げるために/了]