自我膨張の仕組みの中で
<<向こうから頭を下げてやってくる>>というとき、人の自我は膨張する。あるていど健全には、たとえば売れている企業の社長などがそうであるように。
女子高校生がブランド品扱いされ、都心を歩けばすぐにナンパなり売春の誘いなりの声が次々に掛かってくる、ということが一時期あった。女子大生がもてはやされる時期もあった。今ではかなり翳ったが、それでもその傾向は依然として残っている。別に学生でなくとも、若く美しい女性がそれだけで男をやたらに吸引することは昔から変わらない。合同コンパで「まだ十七歳です」という少女がいたら、なんだかんだで男は頭を下げて擦り寄って来がちだ。
女性の多くは、早いうちにそれをうっとうしいと感じるようになる。慣れたか、飽きたか、そもそも美醜において受け入れ難いか。それをうっとうしいと感じる女性はきっと健全の範疇だが、それにしても、<<向こうから頭を下げてやってくる>>という事実はある。この事実の中で、人の自我は膨張する。小さい自我から大きい自我を眺められれば、その変化は視認できるが、自我が膨張した後は、それを観察する自我も大きくなった後なので、それを自分で眺めて大きすぎるとはなかなか捉えがたい。
女子高生だからモテるんだよ、という程度のことなら、ありふれて実害のないことかもしれないし、また当人もうすうす「制服着てるからね」という程度に、自我の行方に警戒を保つことができる。ところが、この<<向こうから頭を下げてやってくる>>というのが、知らず識らずのうちに刷り込まれてしまうと、その作用には抵抗しがたい。
現在そのことでもっとも特徴的なのは、スマートフォンや携帯電話。モニタ付きのPCでも同様である。SNSの機構を持ったウェブツールや、アカウントを登録する動画サイト。それらは画面を立ち上げた途端、情報が<<向こうから頭を下げてやってくる>>という仕組みを持っている。社会問題や、面白げなニュース情報、笑い話の飽きないまとめや、新作動画がアップロードされた報せなど。
この中で人間の自我は膨張する。当人が膨張させているのではなく、状況に適応して膨張する機構がもともと自我にあるのだ。友人や有名人のツイートが、次々に、どことなく「読んでくれ」と媚びるふうに、頭を下げてやってくる。なんであれば、コメントや評価をつけてほしい、あるいはこれを題材に意見を書いてほしいとまで、頭を下げてやってくる。
これらを、ただの暇つぶしの娯楽として、ふうんと聞き流しているつもりでも、そうではないのだ。その「ふうん」と暇つぶしできる状況を受け止め、自我の機構は適応せざるを得ないのである。この自我膨張の仕組みの中で、我々はたとえば人の話を、ただ黙って聞くということができなくなった。シャツやズボンのそれと同じで、サイズが合わなくなったのである。漫才話がひとつあっても、それをただ聞いて愉しむというのは、すでに現代人の自我のサイズに合っていない。その漫才が、品質としてどうであったか、評価は、意見やコメントは、という膨らまし方にしないでは、我々の自我にピッタリ嵌らないのだ。なんであれば、自分が評価や意見するために与えられるそれらは、最高品質でなければ常に気に喰わない、腹が立つ、というようなところまでいく。
「成人式でした、こんな晴れ着を着ました」というような、日常の報せのツイートが、画像と共にアップロードされる。受け手は、それを何気なく受け取る。いちいちコメントや評価は返さないかもしれない。けれども元々は、そのような報せと晴れ着姿を拝見できるのは、その女性と親しくあれる、何かしらの器量の男のみであるはずだった。つまり、モテる男だけの特権だった。
それが、人格的には未熟でひねこびているところがある男性にも、何の隔たりもなく届く。晴れ着姿の影像が、<<向こうから頭を下げてやってくる>>のであれば、彼の自我は膨張する。その膨張反応は、生理的にはいっそ正しいことだと言ってよい。
あなたが帰り道に偶然彼を見かけて、背後から声をかける。気まぐれに、一緒に帰ろうか、とあなたが提案する。おう、と応えた彼は、内心では嬉しいだろう。けれども、<<内心で飛び上がって嬉しい>>ということでは、すでになくなっている。彼の自我のサイズは、すでにそうして飛び跳ねるほどには小さくない。
あなたはせっかく声を掛けたものの、さして嬉しく感じてくれているわけでもなさそうな彼について、何も文句はないけれど、これという感興を覚えない。彼がもし、内心で飛び上がるほど喜んでいて、それを賢明に隠して紳士ぶろうとしていたなら、あなたも内心で、かわいい人、と赤くなるところがあるかもしれないが、そのようなことは起こらず進む。
あなたと別れた後、彼はあなたについて、「すっごいイイ子だよな」と、混じり気なく思うだろう。彼はそのとき、久しぶりに純粋な気持ちになったな、と自分の心境を喜んでいるかもしれない。彼の自我のサイズはそのように、あなたについて「すっごいイイ子だ」と、評価しコメントし裁定することをやめない。彼はあなたのやさしさや器量や、その感激に、打ちのめされたりはしない。気分を良くするだけだ。彼はあなたを、「すっごいイイ子だから」という評価において、デートに誘うかもしれない。打ちのめされて、ものが違う、でも自分にはこうするしかないという心地で、あなたを誘ったりはしない。
そういう構造的環境が今あり、これから逃れられるかというと、それは実質不可能だ。小論文として書かされるなら、これは自我サイズの新しい「スタンダード」だと書くべきである。
もしこのスタンダードから自分限りは逃れようとする人は、何かしら、わざわざ自分を打ちのめす、自我縮小の機会を、定期的に自分に与える仕組みを持つしかない。膨らむ自我にたびたび風穴を開けるような。今のところ、それぐらいか。
[自我膨張の仕組みの中で/了]