恋愛その他の絶対条件
そんなまさかと馬鹿にされるようなことでも、本当のことだから、やはり話しておきたいと思う。仮に僕があなたをデートに誘ったとして、あなたはそのデートを断ってはいけない。なぜかというと、<<あなたは僕の誘いを断る権利なんて持っていない>>からだ。これは何も、新しい思想を面白く提案しているのではなくて、実は忘れ去られただけの、本当のことだ。
あなたは僕に、デートに誘われて、行きたくないと感じる、でも断る権利がない。どうしたらいい? そのときは「困れ」。困ったあげくにごめんなさいと出るか、困るけど断る権利が無いからイヤイヤでも待ち合わせに出てくるか。どちらでもいい。
あなたには僕の誘いを断る権利なんかないのだ。この言い分が、意味不明に聞こえることは承知している。でも本当に、あなたは、この言い分に何の心当たりもなく、何も奥底に感じないか。あなたを目の前にしてでも、僕ははっきりと言うことができる。
「あなたさあ、何の権限があって、誘いを断ったりしてるの?」
そこにはきっと、まだよくわからないけれど、あなたを揺さぶる何かが潜んでいる。そっちが真相だからだ。
あなたは、自分の好みによって、自分の気分によって、自分として望ましくない誘いを断る権利がある、と思っている。でも、本当にそうか? すっかり確信しているつもりでも、そういう権限をはっきり与えられた記憶は特に無いはずだ。
あなたには誘いを断る権利がある……そう思うように刷り込まれたのだ。歪んだほうのフェミニズムの勢力によって。
携帯電話が新しいアイテムとして人の手に届き始めた、そのころの記憶を残している人がいたら尋ねてみたらいい。彼女はきっと、こういう会話をしたことをどこかに記憶しているはずだ。
「携帯メールって、断りやすいからダメよね」
僕自身の話をしよう。十年前の僕は、誰かに誘われたら、内容に関わらず、断らない、ということを決めていた。なんでもかんでもOKしていたのである。それで一度、フットサルの試合があるから出ようと誘われて、何も考えずに「行きます、お願いします」と言ってしまった。
スーパービギナークラス、なんて銘打ってあるから、別にド素人でもいいんだろと思うじゃないか。しかも僕は当時、フットサルというのがどういうスポーツなのかわかっていなかった。それで当日僕は、サンダルを履いて現場に行ってしまい、ちゃんとユニフォームを着て円陣を組んで気合を入れている正当なチームと戦うことになり、ぐちゃぐちゃに振り回された。
ひでえ恥を掻いた、と赤面の至りだったが、それでもその習慣、誘われたら断らないという決まりごとは変えなかった。「僕は、誘われたら断らないんですよ、何であれ」。僕がそう話すと、それまで一度も僕を褒めてくれなかった事務職OLのお姉さんが、そのときだけ唯一「えらいね」と真正直に褒めてくれた。
あのときから時代はずいぶん変わったが、僕自身はあまり変わっていない。僕はいまだに、<<誘われたときに断る奴の神経がわからない>>のだ。何の権限があって断っているのだ? もちろん、誘われて乗り気がしないことというのはある。それでも誘いは受けるのだ(なんだ、「乗り気」って、そんなしょうもないこと関係あるかよ)。受けてから、「うええ、いやだなあ」と落ち込むのである。落ち込みたくないから、断ればいい、かというと、そうではない、僕にはそんな権限は無い。
断るというのは単純に、わかりました行きますと了承しつつも、でもちょっと待ってください、どうしても外せない予定とかぶってしまっています、という場合だけだ。
たとえばこう想像してみてほしい。あなたがある公共の部屋に、A子さんと一緒にいる。そこに友人B君が、ドアをバタンと開けて入ってくる。
「お、A子。行こう、焼肉喰いに行こう」
「……はい。今日ですか」
「うん、今夜。バイクで迎えにきてやるから、携帯の電源入れておいて」
「わかりました」
「じゃあ、また後でな」
「はい」
(B退室)
「あーあ、焼肉だって、毎晩しんどいなあ」
「断ればいいじゃない」
「うん……でも、断るのは、何か違うじゃない」
「しんどいのに」
「しんどい。あーあ、しんどい。けど、まあしょうがないよね」
「そんな、ブーブー言うぐらいなら、断ったほうがいいよ」
「そう? うーん、でもなあ。いいよ、わたし行く。A子も行く?」
「わたしは、どうしようかな。行っても別にいいんだけど。うーん、でもいいや、今日はあまり気分じゃないし」
「そっか」
こういう関係性があったとき、あなたから見てA子さんは異常か。またこの作中にヒロインがいたとしたら、それはあなたか、A子さんか。
もうずいぶん長い時間になる。「誘う」「受ける」ということが、大きく誤解され始め、誤解されたままになった。
「誘う」という行為は、原則として、相手に断る権利なんか与えていないのである。また、その断る権利がない前提だからこそ、人は人を誘うことが可能なのだ。
受けるか断るかが前提としてあるなら、それは「交渉」だ。それは交友関係の営みではない。ビジネス上の関係だ。家に宗教団体の勧誘が来たら、それはビジネス上のことだから断っていい。
とても大切なことを話したい。いくら了解されづらくとも、僕はこれを話さないわけにはいかない。あなたは人に誘われたとき、それを断る権利なんか持っていない。それを誤解しているから、あなたはこれという決定的に魅力ある何事にも誘ってはもらえないのだ。「誘う」の営みから脱落しているのである。
誘われたものを全て受けていたらしんどくてしょうがない、と思える。けれども、真相は逆だ。誘われたものを、いちいち受けるか断るか、審議して、交渉事として取り扱う、そのことのほうがはるかに疲れるのだ。受けるか断るかの交渉事として取り扱うから、そのうちもう、誘われるということ自体がうっとうしくもなってくる。
僕があなたをデートに誘ったなら、あなたにはそれを断る権利はない。原則、行くしかないのだ。そのままベッドに誘われても同様である。その先で、断る権利はない、「といっても」……という場面が現れる。そしたら僕は引き下がるけれど、それはあなたの権利を認めて引き下がるのじゃない。あなたが話した、あなたの心境に、共感できるところがあるから、僕自身が誘いを取り下げるだけだ。あなたはそれで救われるのであって、よくよく見れば、あなたはやはり何も断ってはいないのである。
だからこそ、女性はまともな男としか付き合えないんじゃないか。女が誘われたとき、女に断る権限はない。権限はないけれど、心も事情もある。だから、それを話したら、わかってくれる、そういう人としか関わることはできないんだろう。
僕のこの話は、そうなのよ! と痛快に受け取られる気がする一方で、徹底的に意味がわからない、狂人じみて聞こえる、と否定的に受け取られる気もする。どちらでもかまわない。ただ、この話は困ったことに、いわゆる本当の本当という類のことなので、わかりづらければ、さしあたり仮想でもいい。仮想的に、「わたしは誘われたら断る権利がない」という自分に、入り込んでみたらいい。
そこにはスリルと、奇妙な力と、<<真実味>>が湧いているはずだ。
別に男女に限ったことではないけれど、特に男は、あなたが誘いを断る権利、好みと気分によって断る権利があると思い込んでいるので、あなたの好みと気分に初めから「合わせて」くることになっている。でもそれはもう「誘い」ではない。それがちゃんとした誘いではないので、どう誘われてもあなたはときめかない。
本当のあなたは、誘われるのが好きで、あなたの好みや気分に「合わせて」かかってくる男なんか大嫌いなのだ。大嫌いなのに、そちらのほうが都合が合っているからと、そちらを認めてしまっている。
あなたがこの話を信じなくても、あなたの女友達に、あなたが直接言ってやればいい。「あなたに断る権利なんてないのよ」と。その言がどれほど友人をハッとさせるか、あなた自身で驚くだろう。
***
あなたが、僕にデートに誘われたとき、それを断る権利がない理由は、端的には、あなたより僕のほうが「面白い」からだ。面白く生きるためには、面白い側が主導権を持つ必要がある。これは別の話に置き換えれば当たり前だとわかる。健康に生きるためには、健康な側が主導権を持つ必要があるし、意欲的に仕事をするには、意欲的な側が主導権を持つ必要がある。
これを、主導権などない、イーブンだからといって、助手席にまでハンドルを付けたりするものだから、もうその車はどこへ向かって走るのやらわからない。たぶんどこにも辿り着かないだろう。どちらが主導権、ハンドルを持つべきか? それは当然、ドライブに詳しく、センスと判断力のある、つまり面白い側が握るべきだ。面白くない側に主導権を持たせて得をすることは何もない。
あなたをデートに誘った、あなたは来た。それで、「これでいいのかしら」というと、そうじゃない。まだ終わっていない。誘うというのは、デートの最中こそ数多く現れる。あの店に入ろうか、観覧車に乗ろうか、あの海辺を歩こうか、ソフトクリーム食べようか、などなど。そのどれ一つをとっても、あなたに断る権利はない。「受けなくてはいけない」ではなく、「断る権利がない」のだ。断る権利がないので、誘ったらそれで完了である。「どう?」と聞きなおすフェーズは無い。事情がある場合はもちろん説明したらいい。ソフトクリームと聞いて、お腹が冷えているの、という事情があれば、説明したらいい。そしたら僕は理解して誘いを取り下げる。それはあなたが誘いを断ったのじゃない。ただ僕が「それでは面白くないな」と判断して、気が変わるだけだ。
スコッチでも飲みに行こうか、と僕が誘う。あなたは、ぱっと喜んで、是非、と言ってくれるかもしれない。でも僕は、あなたのそういう反応をいちいち見ていない。そんなもの、待ち構えて注目していたら気持ち悪いだろう。僕は誘ったのだし、あなたに断る権限は無いのだから、一緒に来るに決まっているのだ。待ち構えて注目すべきことは何もない。もしそこであなたが断るようなことがあれば、そのときだけ例外的に「ええっ!?」と注目する。ありもしない権限を越えて主張をしてきたのだからそれは驚く。
冗談ではなく、あなたが幸福になるためには、本当にこの方法しかないのだ。あなたは孤独癖の持ち主ではないだろうから、なんだかんだ、人間関係の中で幸せになるのだろう。そして人間関係というのは、この「誘う」と「断る権限はない」という状態でしかありえないのだ。
受ける・断るが存在しても人間関係というなら、それはキャバクラの呼び込みとも人間関係ということになるじゃないか。でもそんなところに人間関係は無い。僕があなたに対して、デートの「呼び込み」であったなら、つまり「おトクで、楽しめまっせ、どないです一杯!」という呼び込みであったなら、それは断っていい。あなたの友人の全員も、しょせん呼び込みの類でしかないというのなら、いちいちを受ける・断るで審議していい。でもそんなこと真剣に思っている根暗なやつはそうそういないだろう。だからただ誤解しているだけなんだ。
僕のこの話は横暴に聞こえる。が、「あなたに何の権利があって」というのはおかしい。僕は僕の権利について語っていない。あなたの権利について、それが「無い」ということを語っている。僕にあなたを強制的にデートに付き合わせる権利があるのじゃない。あなたにそれを断る権利が無いというだけだ。どこでそんなまやかしの権利幻想を植え込まれたのか、早く眼を覚ましてほしい。春夏秋冬、どんな失敗続きのテイタラクでもいいと思うが、それが誤解だけのニセモノの幸福というのでは、さすがにいいとは思えない。
あなたがちょっとでも本当に楽しいことを得たければ、この本当のことに気づき、このままにやっていくしかないのである。本当に、ここを避けての抜け道はないのだ。それで「絶対条件」というタイトルをつけた。
***
僕のほうがあなたより面白いから、主導権は僕にある。僕があなたをデートに誘ったら、あなたにそれを断る権利はない。どうしようかしら、と考えたら、その思考が起こること自体が間違いだ。悪い習慣に染まっているのである。早く抜け出そう。
それで、あなたはデートに来た。僕は、僕がふだん遊ぶように、遊ぶところに、あなたを連れて行く。それら全てについて、あなたは自分の心境を話してもよいけれど、受ける・断るの前提は無い。
どういうことかというと、たとえばあなたがオステルリーに行く、そのときあなたは厨房に顔を突っ込んで、「もう少し強火で……ストーヴはサラマンドルがいいわ、あっ、コショウが多いわよ! 付け合せはマッシュポテトのほうがいいと思うわ、あとフュメにセルが足りないんじゃないかしら」と口出しするかということだ。口出ししてもよいが、それで料理が旨くなることは絶対に無い。もしそのほうが旨くなるというなら、あなたが主導権を取るべきで、つまりあなたが厨房に立つべきである。シェフ帽をかぶってサーシェフらをコキ使えばいいのだ。でもそんな話は馬鹿げている。
シェフはせいぜい、肉料理か魚料理かだけを聞いてくる。どっちを選んだって、もちろんシェフ側が主導権だ。そしてあなたは、肉料理か魚料理かだけを考えるのであって、「やっぱり食べないです」と断る権利を持っていない。
あなたはどう思う? わたし、料理は食べません、でもコース料理の料金は払うのだからいいでしょ? という理屈は、人間として許しうるかどうか。信義誠実の範疇に収まるか。僕にはとうてい許し難く思える。前に、男女の関係について、女が上で男が下、そこは問答無用、という話をしたと思う。それと同じで、店と客なら客のほうが上だ。けれども上の側が傍若無人でいいという話にはならない。
僕のほうがあなたより面白いから、主導権は僕にある。それであなたが付き合って、面白くなかったとしたら、それは僕が面白くない奴なのである。コキおろしていい。僕は二度も三度もあなたを誘うから、あなたは二度も三度も付き合う。何しろあなたには断る権利がない。そしたらいよいよあなたは僕に対し、「あなた、とにかくつまらないのよ」と真っ向言う権利が出てくる。付き合わされるのだから、それぐらい言わせてもらって当然だ。
何がいいかといえば、ここからなのだ。僕はあなたに、誘いを断る権限を与えていない、だから、
「つまらなかったら来なければいいだろ」
とは言えないのだ。じゃあどうするかというと、すまん、と唇を噛んで謝るしかない。
これは男にとってキツいのである。何しろ、主導権をしっかり認めてもらっている上に、つまらないのだから、言い訳が利かないのだ。
さあそうなると、四度目に誘うのには、いよいよ根性が要る。誘ったら断られない。向こうには断る権利が無いのだ。必ず面白いと言わせてみせる、満足というか、目覚ましい思いをさせてやる、と奮い立たねば、四度目の誘いはもう自分の側の心が折れる。
そんな中で、男は、本当に面白いこととは何なのか、自分の持てる自信とは何なのかというのを、真剣に、実用的に、逞しいものとして、考え始めるのだ。これに比べれば、「いまいちだったら、断られるだけさ」なんて気楽なものだ。
「付き合う」というのは、何も擬似夫婦の合意を交わすことでは本来なくて、その「誘う」「断る権利はない」という状態を、真正面からやりあうことだ。人に付き合っているのである。あなたは僕に、つまらないならつまらないと言っていい。付き合っているのだからそれぐらいの権利は当然あるし、あなたもその付き合いを無為なものにしないために積極的なのだ。付き合っているからこそ、「抜き差しならない」、そこには関係が生まれる。
僕とデートしてつまらなかったら、それはオステルリーの料理が不味かった、というのに似ている。ビジネス的にいくなら、もう行かなければいい、で済む。でもその段階では、実は店と客とは言うほど付き合っていない。もし店の側があなたのメールアドレスに、また来てくださいという誘いのメールを送る。そしたらあなたが来た。こういうとき、店側が誠実であれば、店側はたいへんなプレッシャーと戦うのである。
「来いっていうから、来るわよ、でもおいしくないじゃない、なんとかしてよ」
そう言われてしまったら、やはり店側は唇を噛んで反省するしかないのだ。全員が自分の修行の足りなさに悔しく歯噛みするのである。
そこで、
「当店の料理がお口に合わなければ、どうぞ他のお店に」
と言うようでは、どうだ、これはどうにも不誠実だ。違うだろ、店は店構えと広告で、いらっしゃいませ、と誘っているではないか。
最近は、精神がモンスター化した、クレーマーなるものの存在に焦点が当てられるけれど、そんなモンスターを土台に物事を考えるのはどうかしている。前もってバケモノ扱いしているものを文化の検討に持ち込むな。客が店にクレームを言っていい正統な理由はただひとつ、「また来るんだからちゃんとしてくれ」だ。もう来ないのならクレームなんて腹いせでしかなくなる。そうではなくて、これからも来る、何度も来る、おれの人生の一部なんだ、ということだから、その抜き差しのならなさが正当になるのだ。
「誘う」「断る権利はない」ということの、何がいいかというと、その抜き差しのならなさで、本当の付き合いができるということだ。どうしてもつまらない奴は、「あ、この人、本当にどうしようもなくつまらないんだ」というのがわかるし、「この人面白いんじゃん」という人は、じっくり探らなくても初めからフルボリュームで体験できるということだ。それがいい、というべきなのか、それ以外の時間なんて、正直何をやっているのかよくわからないじゃないか。
***
ある女性が、「小芝居」という、すばらしい言葉を僕に与えてくれた。この女性はずいぶん可愛らしい人で、小動物のようなところがありながら、ごく自然にこちらの汗をハンカチで拭いてくれたりする女性なのだが、その可愛らしさから「男の人って、小芝居しなければいいのにね」と放たれるから、なかなか強力なのである。
この「小芝居」、つまり男性が、「オレってさあ」と演出的に話すようなことや、たいして詳しくもないことについて詳しそうに話すこと、男らしい強さをさして持っていないのに重視しているふうをアピールしてやまないこと、何か特別なものを持っている自分ですということを頑なに言い張るふうの振る舞いをすることだが、この「小芝居」を剥ぎ取るのに、今回話している手法はとても有効だ。唯一、かつ、無慈悲で、しかも正当な方法だ。あなたが自分に断る権利を認めなければ、男は小芝居の手段を潰されるのである。
なぜか? それは、男が小芝居をする手法は、そもそも女性とビジネス的な関係、競争し、比べあいをし、勝利して納得させる、ということを土台にしているからだ。たとえば、「おれのやっている仕事はね、まあ、女にはわからないものだけれどさ」というふうな口ぶり。これは女性が競争意識を持っているからこそ刺激的な言い方になるのであり、競争意識を持たずに向き合われては、ただ「一人でどこかに向けて競争意識の豊かな自分を見せつけている」という有様になる。それで男はスッ転ぶわけだ。
たとえば合コンで、そうして小芝居を振る舞う男性がいても、あなたは競争意識がないので、「でもそれってさあ」と噛み付いてくることもなければ「そういうところは、認めざるを得ないわよね、男性は」みたいな反応もない。男は何に向けて話しているのやらわけがわからなくなる。
そこで、別の男が気を利かせて、
「その料理、残るならおれが食うぜ」
「あ、ほんとですか」
「おう、おれはいくらでも食えるから、好きなだけ注文していいぜ、残したら全部おれが食ってやる、わはは」
「わー、すごーい。それうれしいな」
という会話にでもなったなら、小芝居をしていた彼はもうどうしようもない。口から泡を吹いて倒れるしかなくなる。
このように、この方法は、小芝居の男、つまり本当には面白くない人をもっとも短期に撤退に追い込む方法なのだ。
僕は実に単純な話をしている。小芝居の男をもっとも困らせるのは、白紙を差し出されることなのだ。そこに前もって難しい問題が書いてあれば、それに解答してみせたり、ばっちりな小論文で受けてみせたりして、恰好をつけることができる。でも白紙を渡されて――つまり、完全な主導権を与えられて――、面白いことが出てくるとキラキラ期待されるのが、一番エグいのである。エリートで、仕事ができて、信用されてっからうんぬんは、ややこしい問題が前もってあるから強そうなのであり、強そうも何も、競い合ってやっつけるものがなかったら彼には何もできない。弁護士は係争の問題があれば説得力ある多弁になりうるけれども、係争がない白紙で何を語れるか、またそれが面白いかどうかは別のことだ。
僕は、こうして文章を書くことをしているけれども、「何を書くんですか」「どうして書くんですか」みたいに聞かれるのが嫌いだ。いわゆる、それは「話題」の設定なのだけれど、その途端、僕のやる気はしゅるしゅると後退していく。僕は白紙を喜ぶ人間で、問題設定が初めからある、つまりテストは、嫌いな人間なのだ。
まあ、僕が心底テストを嫌っているのではなく、そのテストに見事に解答したとして、あなたは感心なり尊敬なりしてくれるかもしれないけれど、好きになってはくれないでしょ、それがいやだ、ということだ。
「話題」、こんなものもつまらない。話題がなくて話が続かなくなったというのは、きっともっとも貧しい会話の例だ。それで、話題をもっと用意しようという、ありふれた話し方教室の教えは、人を貧しいほうへ誘導するよろしくないもので、そこで鍛え上げられてしまった「話題の豊富な人」は、ビジネス上の関係、つまりキャバクラの女の子たちを飽きさせずに話すことに長けてしまった人になる。
ビジネス上では、主導権がどちらにも譲られないので、そこには「話題」が必要になるのだ。会社勤めの人が毎朝日経新聞を読んでいるのは、社会情勢を知るためじゃない、来客との打ち合わせの第一声の話題が必ずそのペーパーが提出されると、世間的に決まっているからだ。だから社外と折衝することのない社員は、意外に日経新聞を読んでいない。
日経新聞の第一面なんて、本当に、デイリーで変わるその日の合言葉みたいなものだ。知っておくよりしょうがないから目を通しておくのである。
それはいいとして、あなたに「断る権利はない」ということ。これで剥き出しになる、本当の関係、本当のその人の地力のあたりは、一番わかりやすいのは、女性をベッドに誘う部分で出てくる。それはまったく、無慈悲なほどだ。
何しろ、誘ったら断られないのだ。じゃあどうする? 正午にデートの待ち合わせをして、十二時五分にはもうホテルに誘うのか。それでいいと言えばいい、が、それで「面白く」できる? ということが問われてしまう。じゃあ逆に、ランチをして、映画を見て、お茶をして、それからいよいよ、というふうにするか。それでも、いいと言えばいい。が、それが「面白さ」になるの? と。
あなたが断る権利を持たないとき、あなたの全身は、彼の真実を丸写しにすると言っていい。高性能のフィルムみたいにだ。それで、彼が面白ければ、その面白さがバッチリ写るし、面白くなければ、その面白くなさもバッチリ写ってしまう。だから怖いのである。
あなたが自分に、断る権利を持たせたとき、あなたは安全を得るような気がする。確かに、状況に可否のチェックを下していけるのだから、その意味では安全は増す。
けれども実は、その仕組み自体が、まずい男につけこまれるスキになるのである。彼はあなたにノーを言わせないように、安全ですよ、あなたは尊重されますよ、ということを吹き込んでくる。それで結果、あなたは<<デートを捏造される>>のだ。男のつけこみ方は、つまり「別にいいじゃん?」というノリと、あなたに気弱なところがあったら、「だっさ」「それってありえなくない? マジ腹立つんだけど」と、脅かして動揺させることとで、だいたい終始している。
「○○ちゃん、あのさ、聞いてほしい話があって。いちおう、普段のお礼というか、いやいやお礼って言っても俺の一方的なものでね。これは単に俺の主義だよ。それで、ちょっとした店を予約したからさあ、来てくれない? 来てくれないと俺すげー落ち込むよ? 俺こういうこと慣れてない、ダメ男なんだからさあ」
こういう誘い方は、小笑いを誘われて、いいよ、と受けやすい。そして実は、誘う側も誘いやすい。自分の誘いやすさ、自分の気楽さのために工夫を凝らすとこんなふうになっていく。
あなたはどうだろう、先に示した話、
――そこに友人B君が、ドアをバタンと開けて入ってくる。
「お、A子。行こう、焼肉喰いに行こう」
というのと、どちらが本当に好ましく感じるか。
どちらが「面白い人」で、面白い体験を与えてくれるか。
また、こうも考えてほしいのだけれど、あなたに「断る権利」を前提して立ち回る男と、自分が主導権として誘う、それからどうすっかな、と考える男と、どちらが勇気を必要とするか。
どちらがあなたに心を向けて付き合おうとしているか。
僕自身の、正直なところを言うと、僕だってバカじゃない、あなたの断る権利の上で、あなたが受けやすい誘い方も、考案できる。
考案できるし、それで誘い出して、小芝居だって少しは気の利いたものにできるし、それでなんだかんだ、それ自体が好きな人であれば、セックスに持ち込むこともできる。
けれども僕は、そういう手法へ自分が流れたとき、たいへんいやらしい感じがして、地面を蹴りつけたくなる。
何がいやかって、そういうやり方は、あなたを侮辱しているとしか思えないからだ。
あなたには、断る権利があるんだよ、なんて言い出したら、僕はあなたを侮辱しているのだ。
そんなことをするぐらいなら、僕はこの意味不明な主張をして、変な奴、と笑われるほうを選ぶ。そう思ってこんな話をしている。
僕があなたをデートに誘ったら、あなたには断る権利はない。
出てきて、つまらなかったら、またデートして、つまらないじゃない、と文句を言え。
まちがっても、提案なんかしないでくれ。
面白くなかったら全部おれの責任だ。
そういうのがデートじゃないか。
***
僕が出会った中で、おそらく最上級に賢明だと思われた女性は、しなやかで、「おまかせします」と言った。話しながら、「あれ? 僕はあなたを、抱いていいの」という感じになり、そこで彼女は、もうずいぶん手前でそう決められていたようで、「あの、おまかせします」と言ったのだ。凛々しく、これが正しいです、というきらきらした確信の光に満ちていた。
まかせる、か……と、僕は強く打たれた気分だった。なるほど、このままフライング気味にセックスするのが、人として美しいのか、その逆なのか、「あなたが理屈を超えて賢く、面白い人であるなら、あなたの選択こそ正しいはず」と。そのときはしみじみ考えさせられた。といっても、数秒ぐらい。
「おまかせします」と言った彼女は、間違いなく勇敢で(何しろ、本当に「まかせた」のだ)、問題は僕がどうするかにあった。即座に問いかけは、おれは何だ? というところに行き着く。生きている、やがて死ぬ、オスだ、目の前の女性はとても美しい。そして僕は、世間体にムフフするために生きているのではなく、特別な歓喜を得るために生きている。そのことは、もうこの十数年、見失いようもないほど明らかにしてきた。
そうして辿り着いたホテルで、勇敢な彼女の肌に触れるとき、やはり馬鹿みたいに誠実な心持ちになる。フライング気味の、セックスという、この普通のことを、普通に、普通に、丁寧にしなくてはならない。小芝居なんぞが入り込む余地はまったくなくなる。普通さと当たり前さを精一杯心がけるという、特別な時間は歓喜だった。美しい人がいて、美しいことがあるものだ。この、いつまでも忘れようのないことを思うとき、僕は小芝居で作り出すロマンチック風味を憎むのである。
僕は不意に、「スコッチの周囲には風景があるな」と言い出すかもしれない。それは多くは銀座で、紳士らの姿、あるいは半分闇の中にある、喧騒の姿。新聞記者はいつも酔いつぶれてカウンターに突っ伏していた。スコッチの風景が、面白いところに結ばれている、知ってる? インドでは牛は神聖なものだけれど、水牛は食っていいんだ、お酒はダメだけどマリファナはいいという国で、水牛のステーキを食いながら印度産のウイスキーを飲んだ、バターの味がやたらに旨かった。そもそもあそこは、砂埃とクラクションの街で……みたいなことを言うかもしれない。
それは、あなたが僕の話を断る権利を持たないときだ。僕に主導権があり、あなたには断る権利がない。それなら、僕は僕の話をする。<<あなたに合わせなくていいからだ>>。
あなたに断る権利があったら、僕は絶対そういう話をしない。
しないのではなく、出来ないのだ。
あなたに断る権利があれば、僕は断られないように注意しながら、ひとつひとつ、あなたの審議結果を確認しながら、話さなくちゃいけない。「ね?」とか「どう?」とか尋ねながら。あなたが、インドはどういうところでした、と尋ねたら、面白いところだったよ、と僕は話すだろう。それなりに、ガイドブックに書いてあるような、コラム風味に技巧をこらして。
でも、僕が本当に体験したこと、僕の中にある特別な話は、あなたにしない。できる権利を、あなたが与えてくれないからだ。僕の見た本当の風景の話や、僕の本当のあなたへの触れ方、キスの仕方、それらもすべて、あなたの審議基準をうかがって、傾向と対策に準じたものにしなくてはならない。
それを、僕はやったっていい。何も難しいことじゃない。ただ、それであなたは僕のことを好きになってはくれないし、それ以上に、あなたが苦しむ。つまらないというのは苦しいことだ。自分の時間も、心も、お金も、工夫も、いろいろ費やすのに、つまらないというのは苦しいことだ。
あなたが僕に主導権を与えたとき、僕はそれを敏感に感じ取って、自動的に、あなたが聞いたこともないような話を、聞いたことのない話し方で話す。そりゃ当たり前だ、僕が体験したものを、他の誰かが話しているはずがないし、僕の話し方は僕の独自のものだ。僕の中でずっと吹き抜けている言葉群がある。誰にだってある。
僕に限らず、あなたが誰かと本当に触れ合うことがあるなら、それはその人それぞれの本当のところに接触することだ。一般に言えば、あなたにはもちろん、誘いを断る権利がある。それが一般だけれど、一般だから、特別じゃない。特別な話や特別な関係、特別な時間は与えられない。
一般にあるデートの概念をなぞるだけで、一般にある話を自分流にコピーするだけ。だからあなたは、彼とのデートがどうだったかを、特に疑問なく人に話す。一般のものだから話せるのだ。僕があなたをデートに誘うときは、その一般ではない、あなたが人には話せないような、秘密として抱えていくしかないような、特別な時間を一緒に過ごそうと誘っている。
なぜ二人きりでなくてはいけないかというと、三人以上になると、あなたの意志だけでは僕に主導権を与えられないからだ。三人でいると、あなたに断る権利がなかったとしても、主導権は残りの二人に分散されてしまう。そういうのは、うまくないんだ。三人以上の複数でそれが成立するためには、ちょっとした仕組みを練り上げる必要があって、アドリブではなかなかその関係は作れない。
僕があなたをベッドに誘う。あなたは、僕に抱かれるのがいやだったとしよう。そしたら、いやなんだから、泣けばいい。いやなことをされるのは、とてもいやなはずだ。いやなのに、それを断る権利が無いというのは辛い。だから泣いたらいい。いやがって泣くのじゃなく、辛さに泣け。あなたが泣いたら僕は考える。そこでまた、僕がどういう奴なのかというのも、あなたにはっきり見えるわけだ。
そのときどうするかは、僕だってわからない。一般にどうかという考えは、もう否定したはずだ。そのときになり、互いにどういう関係か、というのが直接得られるときまでわからない。辛くて泣いているあなたを、僕はそれでも犯すかもしれない。それであなたを深く傷つけるかもしれないし、逆に、してみたらイヤじゃなかった、となったとき、あなたから見て僕は、セックスを与えてくれた人、になるだろう。あるいは、あなたが泣いたとき、あなたの泣き方を見て、何か別のことをしよう、と勝手に切り替えるかもしれない。それであなたは、逆にがっかり、失望や落胆という体験をするかもしれないし、逆に、自分の声を伝えるということが、こんなに素敵で大切なこと、というのを知るかもしれない。どうなるかはわからないけれど、そうしてやりとりするのであれば、そのとき僕とあなたは人として互いに付き合っている。あるいは男女として向き合い、付き合った。それは、三ヶ月で消えていった交際の契約なんかより、ずっとお互いの中に残っていくものだ。
そのようにして、人は互いに、傷つけあう可能性と、与え合う可能性を、どちらも等しく持っている。当たり前だ、与えることだけができるなんて都合のいい話はない。そんな話、直感的におかしいってわかるだろう。虫が好すぎる。誰だって、相手を傷つけたいわけではなく、真に与え合う関係になりたい。でもそれが出来るかどうかは、その人が本当に面白いかどうか、本当にやさしいかどうか、というあたりにかかっている。素材がどうでも、そのときの切れが鈍っていたり、気をまずくしていたりしていたらだめだ。人を傷つけるだけになってしまう。
だからこそ、人は、人を傷つけないため、本当に与えられる人になるため、この自分というのを、なんとかしたい、マシな奴にしたいと、けっこう真剣になるんじゃないか。
そこを、工夫したつもりで、よく考えたつもりで、傷つけず与えることができる……そういう方法があると、妄想に喰われて出来上がるのが、小芝居だ。ボクはキミに与えたいんだ、という小芝居。それは確かに、人を傷つけない。そのぶん、何かを与えることもない。
僕があなたを誘ったら、あなたには断る権利が無い。ひどいことになるか、すばらしいことになるか、それは僕の意志ではなく、僕の器量次第だ。僕の意志はいつだって、そりゃすばらしいことになりますようにと願っている。でも器量がなければロクなことにはならないというだけで、いくら願ったって無力なものだ。
すばらしいことにならかったら、あなたは僕の器量について、容赦なく抗議していい。僕は唇を噛んで反省するだろう。たぶん、言われるまでもなく勝手に反省しているけれど。でも、抗議してくれていい、それはお互いが付き合い続けているということだ。
さて、抗議を十分にして、また今日も、おまかせします、とあなたは言ってくれるか。僕はもう両手が痙攣しているかもしれないけれど、あなたへ感謝を思う気持ちはずっと忘れないでいるだろう。
[恋あいその他の絶対条件/了]