レベル差の友人
言わずもがな、僕は一人の男であって、女ではないので、完全な存在ではない。
何をどう頑張っても、僕は男であって、女ではないので、完全な何かになることはできない。
仮に、世の中は、男が半分、女が半分で、形成されているとしたら、僕はそのうち半分をしか知ることができない。
何をどうしたって、世の中の、過半を知ることはできないので、何もかもについて、根本的には、「知らん」というのが、本来の正しい態度になる。
たまに、同性から、「女の子に好かれるにはどうすれば」と、訊かれることがあるが、そんな方法は知らないし、そもそも、女の子に好かれるということが、男の役割だとは、僕は思っていない。
むしろ、男の役割はというと、女に嫌われることが、男の仕事なんじゃないの、という気がする。
女に、嫌われること、プラス、それによって、女を女として元気にする、ということが、男の役割なんじゃないのか。
僕が、男として、女に嫌われて、女が「ああいう男ってサイテーよね」という気持ちで満たされるとき、その女は、女としての気持ちに満たされているわけだから、ある意味、純粋な「女」として、そのとき存在しているわけだろう。
そうしたら、少なくとも、性的に純粋な時間を持てたということには違いない。
僕などが少々、女に嫌われたとしても、女の側に残るストレスなんて微細なものだ。
それは、女はたくましく、僕のことなんか数秒で忘れてしまうからだ。
僕のことなんか、数秒で忘れてしまって、ただ女としての純粋な気持ちが残り、女として元気になれば、それでいいではないか。
いいではないか、といって、こんな話から、女性の賛同が得られるとはもちろん思っていない。
男が、まともな男であったとき、女から「賛同」を得ることなんて、ありえるのだろうか?
まあ、とはいえ、こんな話、同性に賛同を求めるつもりも勿論ないので、せいぜい、誰にも気にされないように、目立たないように、わかられないように、僕はやっていきたいのだった。
男なんだから、女に嫌われてこそ、まともだ、と、僕はやっていくわけだが、そんなことをしていても、たまには女に、好かれたり、愛されたり、することもある。
それは、奇異なことなのだが、最近少し、なぜその奇異なことが起こるかがわかってきた。
そうして、僕のことを好いてくれる女がいた場合、その女は、自分が女であることがうれしいのだ。
自分が女であることを、愛していて、自分が女であることをはっきり体験させてくれるということについて、僕のことを気に入ってくれるのだ。
彼女は、僕のことを、「男」として無性に軽蔑するから、そのとき、ハッと、
「そうか、わたしは『女』なんだ」
という感触がして、「女」として目の前の「男」を無性に軽蔑できるということに、よろこびを覚えるのだ。
だから、「あなたのこと好きよ、わからなかった?」となる。
その証拠に、というとおかしいが、そうして僕を愛してくれる女は、決して僕のことを、他の女性に紹介しようとはしない。
それは、当然で、正しいことだ。
女が、自分の女友達に、わざわざ軽蔑すべき男を紹介なんか、するわけがない。
紹介された側が、「どういうつもりよ」となって、怒るだけだろう。
そんなわけだから、僕はたまに、女に愛されることもあって、軽蔑されながら、「あなたはそのままでいてね」と言ってもらえる。
女に堂々と嫌われて、軽蔑されて、対話の余地なんかない、賛同から最も遠い、そういうあなたのままでいてね、ということだ。
確かに、夜が暗くなければ、昼が明るいとは言えなくなるように、男が軽蔑すべき女の敵であってこそ、女は愛されるべきうつくしい女になりえるのだろう。
難しい話をしてしまった。
誰も聞いていなければいいのに、と思っている。
(じゃあわざわざ人に見える形で書き話すなよ、というところだが、そうはいかないのだ)
前に、「肝心なことは全て、レベル差なんだ」という話をした。
人間のすることなんて、みんな同じで、方法も同じ、経験も似たり寄ったりだが、「レベル」が違うので、結果的に得られてくるものの、レベルも違うんだ、という話だった。
たとえば、人と人は、心を開いて、向き合えば、お互いをちょっと親密にする。
そんなことは、誰でも当たり前で、そのやり方は? というと、やり方なんて誰でも同じだ。やり方は、そういう感覚で、そういうふうにする、というだけだ。
方法なんてない。探しても無駄だ。
ただ、その同じ方法で、心を開いて向き合うといっても、人によってレベルがさまざまなので、ものすごいレベルで心を開いて向き合うことができれば、結果的に、ものすごい勢いで親密になる、そういうことが起こってくる、というだけだ。
あるのはただ、レベルの差なのだ。
中学生の習う数学も、ポール・ディラックの駆使する数学も、方法としては同じ、数学だ。
ただ、レベルが違うから、解かれる数式と、得られてくる知見のレベルも違う、というだけに過ぎない。
レベルというのは、典型的に、○人に一人、という言い方で表すとわかりやすい。
少なくとも、きれいな女性に相手してもらうためには、どこかの部分で、「こんな人、百人に一人もいないわ」という程度には、思ってもらえている必要がある。
そうでなければ、女としては、目の前の男を相手してやる動機がないだろう。
何か、不正なことでもしない限りは、どこかで「群を抜いている」と感じてもらわない限り、人にまともに相手はしてもらえない。
僕がこうして書き話すことも、中には長年、気に入って読んでくれている人があるが、それだって何か、他で読む話より「群を抜いて面白い」と感じてくれているから、わざわざ読んでくれているのだろう。
一時的にならともかく、数年がかりで、となると、何かしら群を抜いていないと、付き合ってもらえない。
○人に一人とか、「群を抜いて」とかいうのは、とても厳しい話だが、事実としてそうなのだからしょうがない。
少なくとも、レベルアップを目指して努力するという場合は、その「群を抜く」ということを念頭において、それに向けて努力するしかない。
レベルアップしない努力には意味がない。
「群」というのがつまり、現在の「レベル」ということなのだから、レベルアップするということは、まさにその「群を抜く」ということだ。
誰がやることも、方法は同じ、経験も似たり寄ったりで、ただ、どこまで群を抜いているか、ということだけがある。
そこで、自尊心の高い人は、まず、自分の群、自分のレベルが低いということを受け入れられないため、レベルアップということにまともに向き合えず、努力が空回りしてしまう。
別にそれが、悪い、とかいうことではない。
そういうことを、前に話した。
ただ、そのことについて、付け足して話したいようなことが、少し残っている。
それは、レベル差があるということは、何もその間柄で、友人になれないということではないよ、ということだ。
レベル差があっても友人にはなれるし、友人でいることはできる。
むしろ、レベル差があってこその友人だ、とさえ言いたく思う。
ただ、そのレベル差が、「わかっていない」のはだめだ。
「わかっていない」のは、心底のアホウか、よほどのコドモだからだ。
あるいは、そのレベル差を、「見たくない」とか「認めたくない」とかで、目を背けて、無視しているようなのもだめだ。
そんな虫の好いやり方で、誰かと友人であれるわけがない。
自尊心の高い人は、ひょっとしたら、レベルの高い人に向けて、「怖い」とか、「怯む」とか、そういった情緒反応を持っているのではないだろうか。
たとえば、ときどき言われるように、「イケメンが苦手なんです」という女性が、世の中には少なからずいるらしい。
実際、そういう女性から、直接話を聞いたこともある。
そういう女性は、たとえば、
「イケメンの人と歩いていると、周りの目から、『釣り合っていない』とか思われていそうで、怖いです」
という。
この話は、よくわかるが、どこからどう聞いても、根本的におかしい。
イケメンとブスが歩いているのだから、どう考えても、釣り合っているわけがないし、傍目には、「釣り合っていない」と見えているに決まっている。
そのことの何が「怖い」のやら、意味不明だ。
初めから、釣り合って見えるわけがない。
僕だって、友人に、特級の美女がいるから、特級の美女と並んで歩く機会はある。
しかも、その特級の美女は、遠慮なく愛情と信頼の眼差しを、僕に向けて歩くので、それはもう傍目からは、「なんだこりゃ」というほどに、釣り合っていない、と見えているだろう。
それは、当たり前だ。
僕自身、そのときに鏡を見ると、「なんだこりゃ、釣り合わないにもほどがあるな」と、つくづく思わされる。
それはもう、見るからに、逆に写真に収めたくなるぐらい、「レベル」が違う。
たまに、僕自身、女性と話すのに、
「こうして、目の前にして話すと、バカだって思われそうで、怖いです」
と言われることがある。
それについても、やはり意味不明だと思うのだが、本当ならそのとき、
「こいつバカだ、って、僕が思っていない、とでも思っているの?」
と言ってやりたい。
言ってやりたいし、実際、そう言い切ってしまうこともある。
そのことの、何がおかしいだろう?
レベルの差があるのだ。
レベルの差があって、低レベルの女が、目の前で僕に向けて話しているのだから、それは「バカ」に見えているに決まっている。
レベルの低い女が、バカだと思われないようにする方法、などというものが、この世にあるだろうか。
あるとしたら、もう、ひたすらうつむいて、黙っているしかない。
あるいは、僕のような男が、特級の美女と並んで歩いて、見劣りしない方法、なんてものがあるだろうか。
そんな方法は、ないに決まっている。どう工夫しても、物理的に見劣りしているものを、いったいどうしようというのか。
方法があるとしたら、もう、光学迷彩でも着て、透明人間になって歩くしかない。
透明人間になるか、全身を黒一色のペンキで塗って、見劣りもへったくれもない、というゼロの状態にするしかない。
ここのところを、どうも、勘違いしているのかな、と思わされることがよくある。
レベル差があって、低レベルなものを、どうして、同レベルに見せかけることができると思うのか?
どこの誰が、そんなごまかしをして許されるだろう。
低レベルな自分が、誰かに会いにいくということは、低レベルをお見せしにいくということであって、そんなことにごまかしは利かない。
ごまかしは利かないし、そんなところをごまかそうとすることほど、女々しいことも他にないだろう。
レベル差があるのはいいのだ。
レベル差があって、そのレベル差が、お互いにわかっていたら、それでいいのだ。
そのレベル差が、わかっていない、というのはだめだし、見たくないとか、認めたくないとか、そういうのはもう論外だ。
レベル差があること自体は、当たり前であって、何の問題でもないが、「同レベルのふりをする」のは、最悪だ。
そんなわけのわからないことをされたら、友人でいられるわけがない。
人間が、人間として、みんな平等だということは、言われなくても誰だってわかっている。
人間がみんな平等なのは当たり前だが、かといって、じゃあイケメンにひざまずく女は、僕にも平等にひざまずいてくれるかというと、そんなことはありえない。
人間は平等でも、レベル差はあるのだ。
むしろ、人間がみんな平等なんだとわかっていれば、レベル差などということに、今さら怯む必要もないし、目を背ける必要もないだろう。
レベル差から目を背ける人は、自尊心が高くて、心の内では、実は「優劣主義者」なのではないか。
優劣主義者が、自分が劣等のほうへ押しやられることを恐れて、レベル差から目を背けているだけではなかろうか。
そんな荒んだ状態では、誰もまともに友人づきあいなんかできない。
いいじゃないか、レベル差ごとき。
レベル差があっても、人間は平等だ。
ただ、レベル差があって、レベルが低いと、誰もまともに相手はしてくれない、というだけだ。
男なら、女に、せめて「百人に一人よ」と思わせないと、話にならないし、就職の面接だって、倍率が百倍のところはいらでもあるだろうし、何百本もある映画のうち、レンタルして観るのは数本だし、オリンピックの百メートル走に希望者の全員を走らせるわけにはいかないから、各レベルで選別して絞らないといけない。
レベルが低い場合は、そうして注目してもらえるとか、相手してもらえるとかの、華やかなことがなくなる、というだけで、別に人間の価値が下がるわけではない。
人間はいつだって平等だ。
僕はただ、僕自身、誰にも相手してもらえないのはさびしいので、いつの間にかレベルアップを目指すようになった、というだけだ。
僕なりのレベルアップを重ねた結果、人間が偉くなったとか、価値が出たとか、そういうことはまったくない。
ただ相手してくれる女の子が増えただけだ。
そんなしょうもないことを、と言われるのかもしれないが、それは僕にとっては重要なことだったので、それでよかったのだ。
他の誰かにとって、重要なことだとは思わないし、他の誰がどんなことを重要に思っているのかは、他人のことなのでわからない。
僕は、一人の男であって、どれだけ頑張っても、どうせ世の中の半分のこともわからないのだから、せいぜい自分にとって重要なことを積み重ねていくしかないし、そのことを笑われても、正直何を笑われているのかさえよくわからないし、興味も今さら起こらない。
そんな、世の中の、超越的なことなんて、超越者に任せて……
レベルの差が「わからない」というのは大変まずい。
レベルの差を、「見たくない」とか「認めたくない」とかいうのは、さらにまずいが、それでも当人がそれを選ぶ場合は、致し方ないだろう。
そうなると、レベルアップはしないし、誰とも友人づきあいできなくなるが、それは当人にとって大したことではないのかもしれないし、それよりももっと大切なことがある、と言いたいのかもしれない。
僕にはわからないので、僕はただ、僕にも一応わかることとして、「レベル差があっても友人にはなれる」「レベル差をわかってさえいれば」ということを、話しておきたかった。
***
今回話していることは、僕自身の、個人的なことと、関連しているのもかもしれない。
最近あまりにも、相談事をされたり、頼られたりということが、多すぎる、異様だ、ということがある。
相談されたり、頼られたりとかいうことは、基本的にどうでもいいことだが、オスがメスのお願いを聞かないというのは不自然なことなので、わざわざ拒絶するようなことでもなし、なんとなく、言われたままに相談を受けたりする。
相談事はどうでもいいが、どさくさまぎれに、イイコトができるかもしれないから、あまり理知的に断らないようにしている。
それで、最近は特に思わされるのだが、僕は医師ではないので、不具合の訴えを持ち込まれても、そのことに対する処方とか治療とかいうものはないということだ。
誰かの何かを、治療したいとか、癒したいとか、そんなことは、これまでに一度も思ったことがない。
そういうことは、そういうことが大好きな、慈善家のところに持ち込めばいい。
大量のお菓子と、大量のお茶を出してくれて、根掘り葉掘り、相談事を聞いてくれるだろう。
と、そうまで言うと、あまりにも冷たすぎるか。
そうだな、どう言えばいいのか……たとえば、
「どうして九折さんは、そんなにブッサイクで、清潔感もなく、オシャレのセンスはホームレスみたいで、頭も悪そうだし、セックスも下手そうだし、無能な旧時代の、ただのオジサンというだけで、直観的には『死ね』としか思えないのに、なんだかんだでちゃんと友人がいたり、きれいな女の人と遊べたりしているんですか?」
と、そういう形で訊かれるとしたら、その話はよくわかる。
なんであれ、「ああ、こいつは、おれのことに注目しているんだな」ということがわかるので、それでいいのだ。
少なくともこの女は、僕に向けて訊いているのであり、自分の何かを訴えているわけではない。
少なくとも、どんな人間だって、医者のところに行って、医者に向けてこんなことは言わない。
どんな形であれ、この女は、自分と目の前の人間との、「レベル差」に注目して、「レベル差」のことをわかろうとしている。
「レベル差」を、きちんと受け止めるために、目の前の人間を手探りしているのだ。
そういうことならわかるし、そういうことなら、何も問題はない。
彼女の問いかけを受けて、僕からの回答は、
「そうだね、あなたは、そんなに美人で、清潔感もあって、オシャレのセンスは読者モデルみたいで、頭もよさそうだし、セックスも上手そうで、この時代の、有能な、目立つほどイイ女で、直観的には『イケてる』としか思えないのに、なんだかんだでちゃんとした友人がおらず、好い人と遊んだりできていないんだね」
「はい。何が違うんでしょう」
「何が違うんだろうね。違いは、あなたが今、目の前に見ているとおりのはずだけれど」
ということになる。
そのようにして、レベル差を見に来た、知りに来た、ということならわかる。
「レベル差」が、わかっていて、受け止められるなら、友人でいられる。
レベル差があると友人になれない、ということではないのだ。
友人になれないのは、レベル差が「わからない」とか、同レベルのふりをする、とかいう場合だけだ。
それでたとえば、彼女が、ふとしたときに、
(ああ、そうか)
(この人は、世界の半分以上を諦めて、世界を半分以下に切り捨てて、男だから、ということで生きているんだ)
(だから、こういう表情で、こういう声になるんだ)
(わたしは、そうは思っていなかった。わたしは、人間として、この世界の全体を体験できるのだと、勝手に思い込んでいたわ)
ということに気づく。
それで彼女は
、
「すいません、わたし増長していました」
と頭を下げる。
僕が、
「よろしい。なんだそりゃ」
と言う。
以降、彼女は、自分の世界を半分に切り捨て、「わたしは男じゃない」「女だから」ということで生きるように努める。
そして、「女だから」と生きている女の声、女の表情が、自分のものになるまで、努力を続ける。
そうしたら、彼女にも、いつのまにかちゃんとした友人ができていて、いつのまにか、好い人と遊んだりするようになっている。
レベルアップしたのだ。
そうしたら、彼女はもう、僕に用事などないだろう。
用事はないだろうけれど、もしどこかで、ばったり会うことがあったとしたら、そのときは「あ!」と、よろこんだ顔を見せてくれるのではないだろうか。
そうはいかないかな、別にいかなくてもいい。
僕は男なので、女を女として元気づけるのが、役割だと勝手に思っているし、その役割のために、むしろ女に嫌われることが仕事だと思っているから、しょうがない。
仕事というのは、いつだってイヤなものだ。
人と、レベル差があるのはかまわないし、レベル差があるから友人になれない、ということはまったくない。
レベル差を、わかって、受け入れて、引き受けて、付き合えれば、ちゃんと友人になれるし、友人でいられる。
レベル差が、わからないとか、見たくないとか、認めたくないとか、そういうのは本当にいけない。
レベルアップがどうこうという以前に、友人を得られなくなってしまう。
逆にこうだ。レベル差を、よろこべばよろこぶほど、それは、友人のことをよろこぶ、ということになる。
だから、レベル差をよろこべばよろこぶほど、これからの友人は数多く、より確かなものになっていくだろう。
[レベル差の友人/了]
←前へ 次へ→