過去を振り切るために未来が要るのだ
これは何でもない話。個人的な……
後になったら削除してしまうかもしれない。
書き話すと落ち着くというのは悪い性分だが、本当は落ち着いてなどいないのかもしれない。
色々と、胸が張り裂けそうな心地がして、耐え切られないところがあるから、こうして書き話している。種類としては、最もみっともない類だ。
胸が張り裂けそう、といって、僕が不幸の只中にあるのではない。
むしろその逆だ。
幸福なこと、楽しいこと、大切なことが、何一つなかったという人間なら、わざわざ胸が張り裂ける心地もしないだろう。
幸福ということは、この時間が無限に続けばいいのにと、心底から願っているということであって、それでも時間は過ぎていくものだし、万事は変化していくものだから、そのせいで胸が張り裂けそうになるのだ。
明日なんか来てほしくないし、来週なんか来てほしくない。
その点、幸福や楽しさや大切なことが何一つなかったという人は、案外、まるきりの不幸ではないのかもしれない。
そういう人は、別に今日が過ぎていってもいいし、明日が来てくれて構わない、と、無関心でいられるだろうから。
この、胸の張り裂けそうな痛みには無縁でいられる。そのことは、今思えば、割とフェアでよいのかもしれない。
僕みたいな者は、幸福を得るのが得意きわまるので、明日が来るということが、正直イヤで仕方がない。
別におれが望んだことではないのに、明日なんか来ないでほしい。
なぜおれが望んでもいない、明日などへ、自分は連れていかれてしまうのか、本音を言えば悔しくてたまらないのだ。
しょうがないのはわかっている。
そして、だからこそ、未来が必要だ、ということもわかってきた。
未来を、自分で描いて、自ら明日を自分のものとすることで、ようやく今日という日から訣別できるのだ。
本当には、訣別したいわけではないが、まあ、無理やりにでも、一応そうできる、ということだ。
子供が、夏休みに、川や山や海に行って、あるいは遊園地に連れられて行って、夜になって「帰るよ」と言われたとき、猛然と「いやだ」「帰りたくない」と駄々をこねだす。
あれと同じだ。
なんでこんな幸福なところから、よそへ行かないといけないの? と、理屈を超えて、当然の理非を主張しているのだ。
まったく、なぜ今日がこんなに幸福なのに、明日や来週などに行かねばならないのか? と、腹を立ててゴネたくなる。
こんな奴こそ、死んでも死にきれなくて、地縛霊になったりするのかもしれない。
だから、ウソでも、明日に目を向けて、明日を自分のものにしてゆかねばならない。
過去を振り切るために未来が要るのだ。
よろこんで生きていくには、どうしてもそうするしかないのである。
本当にそうしたくてそんなことをするわけではないのだ。
「まあいいか、何でもしてやる、常識はずれな」と、思って信じられていないと、とてもじゃないが、今日が過ぎて明日が来るという、無慈悲に、対抗できる気がしないということでしかない。
その点、僕はまだ、自分で自分の未来を、思い描き、企むことができるようで、よかったと思う。
これができなかったら、もう悲嘆に暮れるしかないわけで、それはつまり、そこからはもう生きているというより、どう死んでいくか、というフェーズに入ることになる。
老人が、晩年に、思いがけず発狂して死んでいくことが多いのも、よくわかる気がする。
悔いのないように生きなくてはいけないな、と思う。
悔いのないように、明日にしがみつく必要がどうしてもあるのだ。今日にしがみつく必要はない。しがみつかなくても、今日は今日として実在している。今日という日が実在しているから幸福なのだ。しがみつこうとしなくても、すでにしがみついている、幸福に……
「明日」のほうは、実在していないので、これは自分からしがみつきにいくしかないのだ。
そうでもしないと、本当に、まったく動けない。動く理由がなくなってしまう。
本当に、全ては、時計の針やらカレンダーやらが、勝手に進行しやがることが悪い。
未明に、女子フィギュアの浅田選手が、ショートプログラムで転倒するところを見た。
ただでさえ、胸が張り裂けそうでいるところに、見ていて耐えられない心地がした。
僕は、スポーツファンではないので、勝ち負けというのはどうでもよいと思うし、また僕は当人ではないのだから、勝ち負けはただ仕方がないとしか思わないのだが、そこに不本意が残るのは、胸が痛むからいやだ。
悪口になるが、ああいった選手に向けて、練習や調子の出来不出来をねちっこく観察したりして、その上で"応援"するなんてことは、しないでいてやってほしかった。今回だけでなく、いつもそう思う。
ただでさえ難しいジャンプを、応援をぶら下げてまで跳べるかよ、と思う。
浅田選手は、いや浅田選手でなくても、ああいった選手はみな天才なのだから、その天才を凡人に付き合わせてはいけない。
凡人に付き合わせると、選手は凡人の程度にいったん合わせなくてはいけないわけで、そうすると、今度は天才の感覚に戻るまでに時間が掛かってしまう。
現代日本は異様に「応援」するのが好きだ。
我々は、マイケルジャクソンを「応援」はしなかったし、フォン・ノイマンやホーキング博士を「応援」はしなかった。佐村河内とかいう人の場合は、誰か「応援」している人がいたかもしれない。
つまり我々は、天才だと認めさせられている人間については、尊厳を向けるのみで、「応援」というような心性を起こさない。
ところが現代日本は、異様に「応援」をしたがるため、浅田選手のような天才についても、それをアイドルとして取り扱いたがった。それについては、浅田選手の側も、いわゆる"空気を読んで"、期待に(しぶしぶ)応える形でインタビューに返答していただろう。
けれども、そんな「応援」をされるような、アイドル的な状態のまま、氷上に独りで放り出されて、難しいジャンプをしろと言われても、そんなことアイドルに出来るわけがない。天才の感覚で、天才のタイミングで、天才のファインプレーの連続でしか、あの場所の戦いで勝利などできないだろう。
ショートプログラムで、浅田選手は、天才としての滑走をしていなかったように思う。アイドル「真央ちゃん」として跳ばされたことで、足を引っ張られたのではないかと思う。
全て僕の思い込みかもしれず、的外れかもしれないが、僕には今、そういった広い洞察ぶった考え方を気取るだけの余力がない。
十五歳の、ロシアのリプニツカヤ選手でさえ、「メディアが邪魔だったけど」とはっきり言った。
ロシアの文化環境、気風、あるいはリプニツカヤ選手の環境においては、そのような発言がまだ可能なのだろう。現代の日本では、そのようなことは実質不可能だと思う。そのことについて日本人はきっと世界で一番心が狭い。「メディアが邪魔だった」などと言えば、たちまちスポンサーが離脱の気配を示して、CMのオファーは一本も来なくなるだろう。
勝ち負けはともかくだし、転倒してもしょうがないと思うが、あくまで僕は、天才としての浅田選手の滑走を見たかったと思う。
男子の羽生選手は、荒れた試合の中でも金メダルを取れたが、その事実が示すように、天才は応援によっては生まれていない。我々が今、羽生選手を「応援」したがっているのは、すでに羽生選手が天才ぶりを示してから後のことだ。我々が応援していないところに、勝手に天才は出現している。
でもこれからは、羽生選手にも、「応援」が向けられていくだろう。彼が求めてのことではない。我々の側が求めてのことだ。我々があまりに「応援」をしたいので、応援を受けることを彼に強いるだけだ。
僕は、競技者はプレッシャーに耐えるべきだと思うし、それに耐えられるからこそ競技者なのだと思うが、そのプレッシャーはあくまで試合会場にあるべきで、試合会場の外から聞こえてくるべきではないと思う。
第一、プレッシャーというのは、張り詰めてくるものであって、粘っこく足を引っ張りにくるものではない。
プレッシャーに関連しては、「メンタル面の弱さが」「メンタルの強化が」という言われ方がされるけれど、僕自身は、オリンピック選手に向けて、そのメンタルの強度がどうこうと、言う気になれない。自分にそんなことを言える資格があるようにはまったく思えない。
メンタルの弱さと強化を言うなら、日本人全体が異様に「応援」をしたがる、それで選手をただちにもアイドル化せずにはいられないという、この浅ましさのほうをこそ、節度において自己抑制できるメンタル強度を持たねばならないのではなかろうか。
オリンピック選手は、国の威信のために戦うという側面を持っているとは思うが、そのことは何も、我々をいい気分にさせるために戦っている、ということではないはずだ。
日本にずっといて、日本で「応援」され続けて、好いことになっていった人って、果たしているのだろうか? 阪神タイガースの選手はさすがに、いつも狂乱している外野席のファンに向けて、「こいつらのためにいっちょブチかましてやろうか」と思うことはあるかもしれないが、そうでない芸術的なプレイヤーの多くは、「応援」に対して「こいつらのために」とは思えなかったはずだ。
応援といっても、日本の場合、実際のほとんどは、何らチアリング性を持っていないのでもある。
しかし、まあ、何にせよ、済んでしまった。結果は出てしまったのだった。僕は僕の未来にしがみつきにゆかねばならない。
僕はさしあたり、明日の予定も、来週の予定についても、すでに十分な幸福が見込まれているのだけれど、それでも今日や過去と訣別しがたいと感じるからには、この程度の幸福見込みでは、きっと足りないのだろう。
もっとしがみついて、傲慢になって、これなら自分のものにしていいやと思えるぐらいの、未来を思い描かねばならない。
高品質、高性能、夢のような、ということは、今日から明日へ乗り換えるための、よい動機になるだろう。
そうか、つまるところ、今日このときでさえ、僕は自分の幸福に、「おかしいな」と首をかしげるぐらいだから、そのせいで、明日により破格の幸福を描くということを、しにくくなっているのだ。
だからつまり、人は一日ごとに、自己の幸福とは何なのか? ということについて、より詳しく、より確信を得るように、なっていかねばならないのだ。
今より以上の幸福……ううむ、今より旨いものを食って、今より、自分を好いてくれる女性が倍増したとして、それをよろこぶうんぬんの以前に、僕の身が保つだろうか? ちょっと余裕がないので、この際は破廉恥な言い方は見逃してもらいたい。
今より以上の、能力は、得たいと思う。そうだな、それは間違いないから、そのことを思い描こうか。
[過去を振り切るために未来が要るのだ/了]