N0.109 OLは女子高生に勝てない
女子高生には色気がある。
若い肌には精気が弾けているし、心臓は新鮮で抱きしめられるだけですぐに高鳴る。
麻布の安酒バーなんかで目をキラキラさせてしまう。
きれいな顔はまだあどけないが、化粧とラメを覚えてすでに目を惹くほど美しい。
短すぎるスカートの中は敏感すぎるくせに無防備だ。
首筋に唇をあてがうと、それだけで彼女は日常を離れてしまう。
さっきまでの生意気なふうはどこかに霧消してしまう。
少女の匂いの中に、オンナの匂い、そしてケミカルな香水が馴染まないまま重なっている。
折れそうな指でしがみついて、好きです、と振り絞ったか細い声で言う。
自分のセリフに耳まで真っ赤になり、震える。
古いナイト・クラブの音楽に、彼女のサンダルとペディキュアは安物だが清潔だ。
忍び寄る愛撫を、彼女は受け入れもせず、拒絶もしない。
幼い彼女は自分のいのちとオトコの慕情にただただ服従するのみ。
女子高生とはそんなものだ。
そんな彼女らに色気が無いわけがない。
そんな彼女らにOLが勝てるわけがない。
十八歳以上立ち入り禁止、そういう恋愛の区域があるのだ
女子高生は若い。
青春を現役で生きている者たちだ。
若い肌と真剣な表情と苦しいまでの動悸の中に彼女らは生きている。
そんな現役の彼女らに、アンチエイジングのOLが勝てるわけがない。
女子高生には色気があり、OLにはそれがないのだ。
ここで大事なことは、OLが女子高生に張り合わないことだと思う。
張り合っても、どうせ勝てない。
プロ野球がどのようにイメージチェンジしても、高校野球のひたむきさは手に入らない、それと同じだ。
女子高生はガキなので、女子高生の色気とは、すなわちガキの色気である。
ただし、このガキの色気というのは強烈なのだ。
ボーイソプラノが歌うサンクトゥスに不気味なまでの力が宿るように、女子高生の色気というのは強烈なのだ。
この、ガキの色気という野蛮な力に、OLは勝てない。
これはもう、どうしようもないことだ。
ここで「勝てるわけないわよね」とすんなり認められるのがオトナのオンナだと思う。
OLにとって大事なことは、やはり女子高生に張り合わないことだ。
女子高生とOLはオンナとして別の存在なのである。
オンナはオトナになるにつれて、女子高生を卒業しなくてはならない。
少女漫画を卒業し、浜崎あゆみを卒業しなくてはならない。
少年少女合唱団に、おっさんが一人混じっていたら醜悪なように、いい年のねえちゃんが女子高生マインドにしがみついていたら醜悪だ。
そういうオンナが、加齢と共に急速にオバサンになっていく。
オバサンは、オバサンとして積極的に育っていくのではない。
しかるべき成長を得られなかった、オンナとしての脱落組が、自然とオバサンになっていくのである。
十八歳を過ぎてなお、少女漫画以外の恋愛のモチーフが手に入らないと、オバサンになり、やがては韓国映画のベタベタ恋愛に胸を熱くするしか人生の楽しみがなくなる。
そうなるとオシマイだ。
何度でも言うが、OLと女子高生はオンナとして別物、オンナと少女は別の生きものなのである。
オンナはもう少女に戻れないし、戻ろうとすると見苦しくなる。
世の中にはR指定というものがある。
十五歳以上でないとダメとか、十八歳以上でないとダメとかだ。
このR指定というのは、逆もあるものなのだ。
恋愛の逆18R指定。
十八歳以上立ち入り禁止、そういう恋愛の区域があるのである。
オトナのオンナの微笑みは切なく、やさしさは深い
OLはオトナのオンナだ。
しつこいようだが、このことは何度も確認していいと思う。
二十代半ばのOLは、人に恋愛を教わる年齢ではない。
本来は教える側の年齢だ。
教室があったなら、生徒ではなく教師の立場だ。
OLは女子高生に恋愛を教え、尊敬されなくてはならない立場なのだ。
「年齢相応」ということで考えれば、これは当たり前のことなのだが、最近どうもこの当たり前が行方不明だ。
このことはもちろん、オンナに限ったことではない。
男女いずれであっても、二十代半ばになって、まだ自分は教わる立場だと思っている人が少なからずいる。
そしてそういう人はたいてい、永遠にオトナになる気がなかったりする。
「まだまだ自分はコドモだから」と永遠に言っていたいらしいのだ。
そういう人は、まあそれが望みなら、こちらから口出しする筋合いではないかもしれない。
ただし、まだまだコドモのOLは、まだまだコドモの女子高生に絶対に勝てない、そのことだけは明言しておきたい。
言うまでもなく、コドモがオトナになるということは、単純な自然発生的な現象ではない。
どこかでオトナになる覚悟をしなくてはならない。
自己愛から離れて、「自分はこう生きる」と自己決定し、孤独と寂しさを引き受けなくてはならない。
そして、その過程を踏んだことが、同時にオトナのオンナとしての魅力を形成することにもなる。
オトナになるということは寂しいことだ。
女子高生には勝てないわ、と認めることにはどうしようもない寂しさと切なさがある。
しかし、逆説的ながら、そのさびしさと切なさを知っているということが、オトナのオンナの魅力なのだ。
「夏が来るね」とオンナが言う。
女子高生がそう言うときは、心の中は夢と希望とエロスでいっぱいだ。
「また夏がくるね」とオンナが言う。
オトナのオンナがそう言うときは、もうあの夏は帰ってこないけどね、という暗喩を深いところに隠し持っている。
女子高生は、無限の未来と盲目の愛で唇を結んで水着の紐を解く。
オトナのオンナは、有限の未来とかそけき愛でやさしく微笑んで水着の紐を解く。
何度も言うように、少女とオトナのオンナは別の生きものだ。
夏が来て、水着を解いて抱き合うということ、そのワンシーンの裏側で、少女とオンナは別のことをやっているのだ。
オトナのオンナの魅力とは、オトナの恋愛ができる、ということである。
オトナのオンナの微笑みは切なく、やさしさは深い。
それだからこそ、オトナのオンナは女子高生に張り合わず、尊敬されて、いいオトコと骨髄までぬるぬるで愛し合えるのである。
幼稚なオンナたちは、恥じて焦れ
実際、二十代も半ばになって、恋愛経験ゼロ、バージンのままで、正直オトコと話すことさえかなり苦手です、というオンナは世の中にたくさんいる。
そういうオンナに対して、これはミもフタもない残酷な言い方になってしまうが、そういうオンナはまず、単純に自分を恥じなくてはいけない。
どうしても僕たちには、世間の根深い洗脳が残っているから、「ウブは純潔なり」と、そういうオンナを庇護して美化さえしてしまう傾向がある。
しかし実際のところ、ウブは純潔でもなんでもない。
アニメオタクのデブオトコを、シャイな理想主義者と捉えるぐらい現実離れしている。
だから今回はもう、はっきり言ってしまおう。
年齢に比して、あまりに経験がないオンナは、恥ずかしいオンナなのだ。
そういうオンナは、自分を恥じて、さしあたり焦るしかない。
この場合、焦るのが正常な反応だと思う。
焦ってあわてて苦し紛れに、なんとかしなくちゃと切羽詰る、もうそのことをスタートにするしかないのではないかと思う。
経験の無いオンナは、人生のシーンでことごとく逃げを打ってきた、ダサくてみっともなくて恥ずかしいオンナなのだ。
なぜこんな当たり前のことを、誰も一言も言わないのだろうか?
なぜ、臆病に引きこもっていく情けないオンナを、かわいいでちゅねーと甘やかす風潮がはびこっているのだろう?
甘やかしたって彼女らが不幸になるだけだ。
僕は女子高生も好きだが、オトナのオンナも好きだ。
オトナなのにコドモのオンナだけがキライである。
誰だってそうだと思うが、そのオトナなのにコドモのオンナをそのまま甘やかしておく風潮はまったくいかがわしいと思う。
誰かそういうオンナを愛しぬきたいと思う人がいるのだろうか?
いないと思うけどな。
ここで無数のオンナが、僕のことを大嫌いになってくれてかまわない。
ただ、コドモのままのオンナは、そのままでは絶対まともに愛されない、そのことだけをはっきり言っておきたい。
幼稚なオンナたちは、恥じて焦れ。
僕にムカッときながらで結構、そんなことよりオトナのオンナになるという意志が大事だ。
オトナのオンナは「わかっている」のが魅力だ
女子高生には色気があると言った。
これは圧倒的な事実で、このことを否定するオトコは、輝いている女子高生に迫られたことがないのだ。
女子高生というのは、今の日本ではブランドだし、実際彼女らの性的な力はぬるくない。
余裕のあるふり、生意気なふりをして、「触っていいよ」なんて言われたら、それはもう前頭葉が焼け焦げるものがある。
彼女らは、愛し合うということもよくわかっていないし、付き合うということもよくわかっていない。
セックスをすることの意味と、そこに生まれるものも、わかっているようでやはりよくわかっていない。
わかっていないから、不安げなくせに大胆だったり、繊細なくせに無謀だったりする。
女子高生の魅力、その色気は、おそらくその「わかっていない」というところに集約されるだろう。
「わかっていない」というのは、例えば生まれて初めて海外の空港に降り立ったときの気分がそれだと思う。
不安と勇気が入り混じって、静かなアドレナリンが体に満ちてくる。
それは間違いなく、人の心を打つものの一つだ。
そしておそらく、「わかっていない」の逆、「わかっている」に集約されるのが、オトナのオンナの魅力であり、色気なんだと思う。
オトナのオンナは「わかっている」のが魅力だ。
オトナのオンナも悪くない。
余裕があって、生意気を演出して、「触っていいよ」なんて言うものだから、それはもう前頭葉がピンク色に染まってしまうものがある。
オトナのオンナは、愛し合うということや、セックスをすることの意味をわかっていて、その上で「触っていいよ」と言うのだ。
欲情と感激が入り混じって、金色のドーパミンが体に満ちてくる。
これはこれで、やはり人の心を打つものの一つだ。
本当に愛し合えるのはオトナ同士の恋愛だ
気になるオトコに声が掛けられないオンナがいる。
気になるオトコに声を掛けてもらえないオンナがいる。
オトコを誘惑できないオンナがいて、下着の見せ方がわからないオンナがいて、マナーのある断り方ができないオンナがいる。
そういうオンナは、「わかっていない」のだ。
何がわかっていないかというと、人の機微がわかっていないのだ。
わかっていないから、声を掛けられないし、掛けてもらえないし、誘惑もできなければ、誘いを断るときの心配りもできない。
そんなところに、テクニックなんて実のところ存在せず、実際にあるのは「わかっている」と「わかっていない」だけである。
できるオンナは、そのあたり、ちゃんと「わかっている」のだ。
どのタイミングで声を掛ければいいかわかっているし、どういう手続きをすれば声を掛けてもらえるかもわかっている。
そういうオンナは、オトコと仲良くなっていく方法もわかっているし、欲情させる方法もわかっているし、オトコをイカせる方法もわかっているし、じらして泣かせる方法もわかっている。
オトナのオンナは、「わかっている」ということが魅力だ。
逆に言うと、何もわかっていないオトナには何の魅力も無い。
何もわかってないオンナというと、例えばこういうのだ。
クラシックコンサートで、死ぬほど眠いベートーベンを聴かされたのに、それについてステキだったわーなどとアホ丸出しのコメントを吹聴しだすような人だ。
グラン・クリュとセカンドワインの区別もつかないのに、パーカーポイントだけを暗記して、知ったふうな顔をして論評を始めるような人だ。
そんなオンナには、もちろんまともな恋愛はできない。
そういうオンナは、素っ頓狂な会話をして、一撃で顰蹙を買い、オトコに軽蔑される。
「オレようやくわかったよ、この仕事、かったるくてしょうがない仕事だけど、これがオレの仕事なんだな。仕事ということから、オレは今まで逃げ回っていたよ」
「そうよ、人生何事も前向きに考えなくちゃ!」
例えばこういう会話は、わかっていないオンナの典型例で、こういう会話をカマしたら、もうそのオンナはオトコにとって完全に圏外の存在になり、ハダカで飛びついても見向きもされなくなる。
(めまいのするような会話例だが、実際にいるのだ)
わかっていないオトナには、何の魅力もないのだ。
わかっていないオトナとは、要するにアホウのことで、オトナの世界ではアホウは差別されるのだ。
オンナはオトナになるにつれ、少女漫画を卒業し、女子高生の恋愛から脱却しなくてはならない。
わかっているオトナにならなくてはならないのだ。
あなたは、わかっているオトナとして魅力的になることと、わかってないアホウとして少女漫画の恋愛を求め続けることと、どちらを選択するだろうか。
僕は前者を勧める。
「オレようやくわかったよ、この仕事、かったるくてしょうがない仕事だけど、これがオレの仕事なんだな。仕事ということから、オレは今まで逃げ回っていたよ」
「……いい顔してるよ。もっと、その話聞かせて」
女子高生には色気があり、その色気にはどうしてもOLでは勝てない部分がある。
しかし、思春期の恋愛は傷つけあうばかりで、本当に愛し合えるのはオトナ同士の恋愛だ。
「わかっている」オトナ同士だから、わかり合えるのだ。
「わかっている」オトナ同士だから、銘酒も飲めるし名曲も聴ける、お互いの慕情を確かめ合って、お互い力尽きるまで肌だけでつながりあうこともできるのである。
オトナのオンナは女子高生の色気に負けるが、その代わりに愛と快楽を手に入れるのである
ふと、素に戻って考えてしまう。
なぜ最近、世の中はこうも幼稚になってしまったのだろうか?
なぜオトナがオトナとして振舞おうとしないのだろう?
オトナがオトナとしての自意識と誇りを失ってしまった。
だから教師も痴漢するし、警察官も盗撮するし、母親は育児を放棄してしまう。
そんなオトナたちを見て、少年少女は絶望するしかない。
彼らはますますオトナになりたくないと思うようになるだろう。
あなたは自分をコドモだと思うだろうか?
僕は自分をコドモ扱いするのはイヤだ。
未熟なのは自覚するが、自意識を「コドモ」には絶対したくない。
何せ、僕はもう三十歳だからな。
ボクまだ経験がなくて、全然コドモなので、なんてことを臆面もなく言うようなクズにはなりたくない。
そういえば、僕は中学生の頃から、自分をコドモ扱いはしていなかったように思う。
中学生というと、十五歳で、十五歳といえば昔で言うと元服の年齢だ。
自分がコドモだなんて自意識は、十五歳で捨てる、それぐらいが自然だと僕は思っているが、世間ではどうなんだろうな。
僕としては、「自分はコドモ」と臆面もなく言いふらす成人男女が溢れかえる、最近の風潮は正直よくわからない。
時代が変わったのだろうか。
あなたが二十歳を超えていれば、あなたはオンナであって少女ではない。
オンナのコでもない。
子供を生んで育てていい、成人女性だ。
ここまで話してもなお、自分はコドモだという自意識から離れられない人はいるだろうか?
もしそうなら、国家はあなたから選挙権を剥奪するべきだろう。
あなたは社会的にコドモと認定され、無能力者として選挙権を剥奪されるのだ。
もし本当にそうなったとき、それはあなたにとって屈辱ではないだろうか?
それが屈辱でない、全然かまわないというならば、もうそういう人はしょうがないのだと思う。
そのときは、もう何もかもがしょうがなくなっているだろう。
(げ、暗い話をしてしまった)
最近はオトコもオンナも、「若いねー」と言われたくて必死になっているように感じる。
若々しいことは大事だと思うが、若いというのは果たしてどうだろうか。
いくら若いつもりでいたって、所詮現役の女子高生には勝てっこないのである。
そのあたり、年増の若さ競争が不毛だということ、それに気づけないのは、いよいよ精神が老け込んで若さとは何かということを見失っている証拠だと思う。
(僕の場合、高校生とかと直接話す機会がけっこうあるので、若さについてはそこでかなり生々しく思い知らされている。若さは気合では手に入らないよ)
若さについては、女子高生に勝てっこないし、そこにまつわる胸が痛くなるような色気についても、やはり女子高生には勝てない。
その、勝てないということをさっさと理解して、オトナはオトナになるべきだ。
オトナとして「わかっている」人にならなくてはいけないのだが、これだってそんなにのんびり取り掛かれることじゃない。
物事を本当にわかろうとすると、努力が要るし機会が要るし意志が要るしエネルギーが要る。
そのことと本当に向き合えば、若さがどうとか女子高生のレベルで張り合っている場合ではないはずなのだ。
話が飛ぶようだが、僕はスコッチが好きだ。
グレードの高いスコッチが、どういう味わいのものなのか、ようやくわかるようになったと思う。
しかし、ここまでわかるようになるのに、飲み始めて十年近く、ざっくり見ても確実に百万円以上はスコッチにつぎ込んでいる。
これはたとえ話だが、僕がスコッチを「わかっている」人になるにはそれぐらいの時間と費用が掛かったということだ。
オトナになるということ、わかっている人になるということは、それぐらいエネルギーを要するものなのだ。
(なんか説教くさいな)
恋愛について言うならば、僕の場合、一人のオンナを口説けるようになるまで、百人のオンナにフラれなくてはならなかった。
オトコとしてオンナを求めるということ、それを自分として「わかっている」ところにたどり着くまで、それぐらいは失敗を重ねなくてはいけなかったのだ。
こういうことは、もちろんあなたにおいても同様である。
例えば、あなたがオトナとしてセックスを「わかっている」オンナになるためには、何回もセックスで痛い目を見なくてはならない。
痛い目を見て、その中でなお、目を曇らせずにセックスを見つめなおさなくてはならない。
それは道中、かなり苦難の道のりだが、そうしてセックスを手に入れたオンナは、確実にセックスで人と愛し合えるようになる。
オトナのオンナと女子高生の差は、まさにそこだ。
オトナのオンナは女子高生の色気に負けるが、その代わりに愛と快楽を手に入れるのである。
僕もオトナだから、寝るならそういうオンナと寝たいと思う。
女子高生の色気に惹かれて、勢いで寝るのもロマンだけど、僕ももうオトナだから、そんなことより寝ることでオンナと愛し合いたいね。
(あ、明るい話になった。よかった)
じゃあ、そんなわけで。
またね。
[了]
→このページのトップへ