No.116 無題(三十一歳)
ども、九折です。
長い間、更新を怠ってすいませんでした。
理由は色々ありましたが、まあそれはいいとして。
そろそろ、やります。
お待たせして、ごめんなさい。
励ましのメールや気遣いのメールを下さった方、本当にありがとう。
そういうのが、積み重なって効いて、そろそろやるよ、という気になりました。
最近、他にも色々ありましたけど、それもどうでもいいとして。
先の水曜日、十一月七日に誕生日を迎えて、三十一歳になりました。
少しは大人になりました、なんてことは全然無く。
年を経るごとに、どんどん自分が不真面目になっていく気がします。
エネルギーを得るためには、不真面目でなくてはならないからです。
エネルギーを得るためには、どんなことをすればいいか。
胸に来る景色を観にいったり、ハイになる音楽を心臓で聴いたり、きれいなおっぱいを好き勝手に揉んだりしなくてはならない。
そんなこと、真面目にやってられるかよ。
以上、三十一歳の抱負です。
どこまで不真面目になれるかな。
良い子のみなさんは、まねしないように。
これからも、お見捨てなきよう、どうぞよろしくです。
恋愛をモノにした女が、いい女になり、それは失われることがない
物書きとして生きていきたい、と僕はずっと思っている。何年か前、会社を辞めたときにそう決めたのだが、その決めたときの心持ちは、かなりいいかげんなものだった。小説でも書いて、国内と海外でべっぴんさんを連れまわして遊び倒して生きていけば、多分満足だし自分の性格にも合っているだろう、だからやってやろうと何となく決めたのだった。
僕は人生の一大事は、なんとなくで決定するのが正しいと思っている。なにせ一大事なだけに、真面目に考えると大変で、方針を決定するためだけに一生を費やしてしまうからだ。
そのようにして、いいかげんな僕は自分の人生をいいかげんに決定してしまったわけだが、その日から一日として、書くということに興味を失ったり、意識を離れさせたことはない。このあたり、僕は我ながら自分をヘンな奴だと思う。うまくいかない日があったり、うまくいかない時期が続いたとしても、やーめた、という気にはまったくならないのだ。
その点については、僕は自分がいいかげんなのかどうかもよくわからなくなってくる。もちろん僕は、日々たゆまぬ生活なんてこれっぽっちも送っておらず、自意識としては何も頑張っていないのだが、それでも書くということを放棄する意思を持ったことは無い。かれこれ、書くということを自分の人生の中心において、何年が経つのだろう。時間がどれだけ経過しても、なぜか僕は飽きることがない。諦めようという気にもまったくならないし、このまま続けていればオレのことだから結局成功する、と根拠の無い自信をごく自然に信じてしまっている。
そういうところが、真似できない、と僕の古い友人が言う。賞賛と冷やかしが半分ずつだろう。彼いわく、普通は何か自分でやりたいと思うことを見つけても、それをいきなり自分の意識のど真ん中に据えつけられないし、一年も経てば自分の非才に不安になって、飽きてもくるし考えるのもイヤになって投げ出してしまうものだよ、とのこと。
僕は彼の意見に、フウムと奇妙に納得させられてしまった。
あなたの場合はどうだろう。あなたは、一年前の自分の意志を、今も引き継いでいるだろうか。去年こうしようと決めた何かを、今も継続しているだろうか。
このことは、どうも意地悪な質問らしい。何人かにこの質問をしてみたが、先月の意志さえ引き継いでいないなあ、という回答が多かった。
自分のテーマをすぐに投げ出し忘れるのが、僕たちのスタンダードなのかもしれない。
それが別に、悪いことだとは僕は思わない。ただ、それでは何かを「モノにする」ということには、なかなか到達できないのではないだろうか。
僕たちの大半は、小学校から高校までを修学する。もちろん大学を出る人も多い。しかし、その中で学ぶ学問を、モノにしたと言えるほど習得できた人はほとんどいない。モノにはしていないから、どんどん英単語を忘れ、数学に鈍くなり、化学反応式を書けなくなる。もちろん学問だけではなくて、スポーツなんかもそうだ。サークルでちょっとかじったテニスなんて、友達の結婚式に出る頃にはバックハンドが打てなくなっているだろう。
それに比べて、「モノにした」ものは別だ。例えば、五年ぶりに自転車に乗るとして、乗っていきなりスッころぶような人はなかなかいない。それは、一応僕たちが自転車に乗るという技術をモノにしているからだ。このことは、車の運転などでは特にそう。モノにしていれば、一年ぶりでもスイスイ運転できるが、モノにしていない人は、教習所を出て三ヶ月もすればペーパードライバーになる。
物事を、かじった程度とモノにするということの違いは、ここにはっきり現れると思う。かじった程度だとすぐに失われてしまうが、モノにしてしまうと失われないのだ。もちろん時間の経過でブランクが発生し、精度が落ちることはあるにせよ、ひとたびモノにしたものについては根本的な何かが失われることはないのだ。
これは人の好き好きだと思うが、僕はその、モノにしたもの、失われないものが好きだ。あちらこちらに興味を持ち、いろいろ体験して味見するように物事を楽しんで生きるのもひとつの流儀だと思うが、僕はそうではなく、ひとつのことをダラダラと続けて、モノにしていくという生き方をしたい。例えば、僕の手先からは、手品の技術が失われることがないし、大学でやっていた歌唱については、もはや現役当時より上手くなってしまっているが、そんなふうに、自分の中にモノにした何かを残して生きていきたいと思う。
あなたには、モノにしたと言える何かがあるだろうか?
まだ特に無い、という若いあなたには、ぜひ何か一つ、しょうもないことでもモノにしてみることを勧めたい。
もちろん、何をモノにするかなんて、なんとなくで決めるんだよ。
何かをモノにするためには、ダラダラ続けることだと思う。もちろん初期段階で、一気にやりこむ時機、一ヶ月間それに没頭する、ハマる、というような訓練の時期も必要だ。しかし、それは臨時に強化しただけで、そういうものは身についてはおらず、すぐに身体から離れていってしまう。モノにするということは、そこから先のダラダラ継続にあるのだ。頑張って継続するのではない。頑張ってしまうと、疲れて続かなくなる。
何かに興味を持ったなら、ひとまず火がついたようにやりこむのだ。そしてその後も、火が消えたまま、こっそり執拗にダラダラと継続する、そのことが、何かをモノにする極意だといえよう。
このことは、不思議に世間で言う恋と愛の違いに似ている気がする。火がついたように入れ込む時期が恋、火が消えたのち、執拗にダラダラと継続するのが愛だ。
何か一つのことをモノにするということは、恋愛をモノにするということとよく似ている。一度でも恋愛をモノにした女は、その後も恋愛の器量が失われることがない。
恋愛をモノにした女が、いい女になり、それは失われることがないのだ。
それに比べて、恋愛が長続きせず、浮いたり沈んだりしている人は、これから先は気をつけて。
年をとって肌が枯れると、一気に景気が悪くなるよ。
退屈な文章も、退屈な女も、構造は同じ
文章とは言葉の配列だ。その配列は、よくよく観ると奥が深く、追究すれば芸事になる。その芸事をモノにしたのが文芸者だ。
文芸者という意味で言えば、例えば種田山頭火なんかは、本当に見事なものだと思う。それが天賦の才だったのかどうかはよく知らない。ただ、作品は見事だ。
落葉ふかく水汲めば水の澄みやう
例えばこの一句など、なんというか一撃でこちらのイマジネーションに突き刺さってくる。すげえ、と僕は素直に感嘆する。この見事さは、決して真似して真似できるものではない。見習うことはあるにしても。
この一句のどこが優れているか、何が衝撃的なのか、それは多くの人にはよくわからないと思う。それは、わからなくていいのだ。別に分かるオレが偉いというわけではない。普通の人にはわからないまま、それでも心には作用していくからいいわけで、むしろわからせずにそれでもなおすばらしい作用があるというのが一流の作品といえるだろう。それは例えば、ウェグナーの椅子が、普通の人にはわからないまま、それでも美しく身体を支え部屋の景色を清廉なものにするというのと同じだ。
とはいえもちろん、文芸に特別な興味が無くても、そのよさがはっきり分かってしまう人がいるわけで、そういう人はその手のことの良し悪しを見分ける感覚が備わっているわけだ。そのことを、「センスがある」と僕たちは言う。センスがあるということは、感覚があるということだ。
センスは分野によって、また人によって、あったりなかったりだ。無いことが悪いというわけではない。よくないのは、センスが無いくせにあるフリをすることだろう。クラシックコンサートやワイン会などに行くとその手の野暮はゴロゴロいるが、そういうインチキは醜い。若い人は、絶対にそっちに流れていかないように。
さてそれはいいとして、元の話。文章とは、言葉の配列だ。この配列には機微があり、上手くすると文章は美しくなり、大きな力を持つようになる。
それは、単に面白いだけでなく、精神に揺さぶりを掛けてきて、僕たちをドキッとさせるのだ。
よく配列された言葉の連なりは、読み手のイマジネーションを掻き立て、さらには与えたイメージを歪曲して、想像力の爆発を起こさせる。そしてそのことは、どうやら僕たちのいのちの曇りを取り去るはたらきがあるようだ。
よい文章は、僕たちの思い込みや神経の癒着を破砕して、いのちとこの世界の本来性を僕たちに取り戻させるのだ。
その配列のウデを、モノにしたい。僕はずっとそう思ってきて、今もそう思い続けている。
やーめた、と思ったことは、さしあたり今までに一度も無い。
うーん、わけのわからないことを言ってしまった。
これこそ、普通の人はわからなくていいことだ。
余計なことついでにひとつ言っておくと、僕たちの脳みそは、常に横着をしたがるため、何かにつけ認識をパターン化して省力化している。そのことは、ラクチンだがつまらないことだ。僕は文章を書くときに、この省力化を裏切って賦活するための配列をいつも心がけている。イージーな言い方をすると、退屈でない文章を書くのはここがコツだということだ。
例えば、「清く、正しく、美しく」という言葉がある。他には例えば、「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とか、「愛してる、だから君の全てが欲しい」とか、いわゆる慣用句だが、これが脳みそのパターン化の代表だ。これらの慣用句、すなわち言葉の配列の常套手段は、僕たちの脳みそにとってラクチンだが退屈である。
力のある文章を書くというのは、まずこの常套手段を裏切り、パターン化された脳みその退屈を蹴り飛ばすこと、まずそのことが基本になる。
例えば、「清く、正しく、一番美しく」と慣用句を歪曲すると、脳みそはパターンから離れて、新しい意味を探し出そうとする。「立てば芍薬座れば牡丹、正常位なら百合の花」とか「愛してない、だけど今はお前の全てが欲しい」とか、パターン化された脳みそを裏切ることで、文章は人の心を揺さぶり始める。
このことが基本だ。最近、なぜか文章の書き方について訊ねられることが多いので、なんとなくここに話してしまった。
退屈とは脳みそのパターン化で、それを裏切ることで文章は力を生むということ。
もちろん、センスが無いと、単にナンセンスな文章になってしまうんだけどね。
ちなみに言うと、正しい人の正しい意見が大変つまらないということの原因もここにある。世の中には正しい意見が一番ありふれているので、脳みそはそれにうんざりしているのだ。
同様に、清く正しく美しい女が、男心を刺激しない理由もこのことにある。世間に矯正されたいい子ちゃんは、心に揺さぶりを掛けてこない。
退屈な文章も、退屈な女も、構造は同じなのだ。
僕は結局、文章を書くにせよなんにせよ、人の心に揺さぶりを掛ける、そのウデをモノにしたいのだと思う。
あなたはどうか。
あなたは清く正しく美しい女か、それとも、人の心に揺さぶりを掛ける、けしからんかわいい女か?
不真面目になれば、負けることがない
長期間、更新を怠ったので、そのお詫びのつもりもあって、少し個人的な話をした。
お恥ずかしい。
これからまた、面白くやっていくつもりなので、みなさまどうぞ、お見捨てなきようよろしくお願いします。
あと、メールをくれた方たち、返信できてなくてごめんなさい。
もらったメールは、嬉しく読んでるし、時には繰り返して読んでます。
単純な僕は、それで元気をもらってます。
言葉の配列で、人の心を揺さぶり、いのちの本来性に返そうとすること。
僕は相変わらず、その遊びに凝っています。
呆れるほどダラダラやってますが、まずよろしいと自分に思えるまで、こいつをモノにしないと身動きが取れない。
……モノにできるかな?
なんて、真剣に思い煩うこともなく。三十一歳の僕は相変わらず不真面目です。
若い人には、ここで先輩として一言。
不真面目になれば、負けることがないんだよ。
ではでは、そんなわけで。
これからも、よろしくです。
[了]
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