No.129 愛撫が世界を制す
とにかく愛撫すればいいわけだ。愛撫だけが人を励まし慰める。女の子に丁寧に、なめられて吸われて撫でられて、気分を害する男はいない。あなたがガキでもおバカさんでも、愛撫することに不利ではない。愛撫に大事なのはやさしい心とやらしい心、頬が染まる遊び心。不機嫌なままで愛撫はやれない。自分に自信があろうがなかろうが、愛撫さえできてればOKだ。
ここでいう愛撫というのは、何も皮膚や粘膜だけに限って捉える必要は無い。例えば優秀な歌手にとっては、聞き手の鼓膜が性感帯なのだ。歌い手は自分のバイブレーションで、聴衆の鼓膜を愛撫する。だから時にやさしく時に激しく歌い、厳密なリズムとなめらかさで歌うのだ。女の子のやわらかいヴァギナに、指を差し込んでガンガンやっても、それだけで気持ちよくはならない。それと同じように、素人の歌い手が大声でがなって鼓膜をガンガンやってくれても、それでは気持ちよくないわけだ。
あなたは根本的に、愛撫をすることが好きだろうか。これ自体嫌いということではどうにも困る。愛撫自体が嫌いでは、どう工夫しても愛し合うことは難しそうだ。愛があっても愛撫がなければ意味が無いし、愛撫さえあれば愛なんてなくてもいい。可憐な少女が身も心も放棄して、殿方を愛撫して差し上げたいと願う心、そのことを愛という。愛と愛撫があったとしたら、愛が上位ではなく、愛撫が歴然たる上位なのだ。だから愛は自慢してもつまらない。愛撫を自慢することはとても素敵だ。
あなたの人生は、人を愛撫するためにある。僕の人生もそうだ。
あなたの日常、人との関わり、そのどこにでもある風景を見直してみよう。あなたは彼に会釈をしたり、視線を重ねて笑顔を見せたり、言葉を交わして笑い合ったり、互いに励ましあったりする。誰でもそのように生きるわけだが、その中でこっそり上手いとヘタとに分かれるものだ。上手い人というのは要するに、その営みの中に愛撫の心が生かされているわけである。ヘタな人というのはアレだ、おおよそ善意的に生きていても、誰かをうっとりさせることがない。それは別に生来の素質の違いではない。人に向ける根本的な態度、精神的な態度について、誰からも教わらず知らないままに生きているだけだ。
例えばあなたの手元にある、携帯電話を見てみよう。一番最近に送ったメールの履歴があると思うが、そのメールには愛撫の心、受け取った人の言語野が、やさしく撫でられて充血するように、心が砕かれているだろうか。なかなかそんなことはないと思うが、結局ここのところが問題だ。あなたの中にどのような慈愛があり、やさしさが秘められているとしても、それが埋没したままでは意味が無い。それは墓場に眠っている人がやさしいというようなもので、愛は愛撫として実際に営まれなくては意味が無いのだ。
愛撫愛撫と繰り返すと、またこのエロオヤジがと笑われてしまいそうだが、一つ科学的に説明すると、これは実際に動物全体はそのようにして生きているということなのだ。動物は言葉を持たずにコミュニケーションをする。子猫はじゃれあったり、サルはお互いに毛づくろいをしたりする。彼らは肉体を用いてそのようにコミュニケーションするしかないのだから、まさしく関わり自体が愛撫に依拠してるのだ。人間の場合はどうか。人間の場合は少しややこしくなった。
人間はおおよそ、肉体的な接触を遠ざけ、またそれを軽視しようという文化の中で生きている。だから動作としての挨拶や、言葉の交換でコミュニケートしようとする。僕たちがそのように文化的な存在であるならば、その文化の中には愛撫の心が溶け込んでいなくてはならない。あなたもきっと今までに、とんでもなくやさしい誰かに会ったことがあるだろう。その人に見つめられて声をかけられたとき、それはあなたの心をとろかすように伝わってこなかったか。
いかに本能を変形させ、文化の中に生きていたとしても、心がとろけるというような原始的な現象は、やはり本能によって起こるのである。すなわち愛撫を受けなくては、人は誰かを好きにならない。僕たちは人の言葉で人を理解しているような気がしているが、本当はその後ろにある愛撫の心のありようを受け取っているのだ。だからいくら高尚な言葉、かそけき幽玄の詩集の言葉を全文暗記していたって、それだけで人の心に訴えかけることはできない。もしそれができるのなら、文学部の教授はモッテモテにならなくてはおかしいではないか。
これは何も難しいことではない。誰かと愛し愛されて、ウッフンアッハンしながら生きたいのであれば、何事も愛撫をするつもりで取り組むべし、というだけのことだ。例えば僕自身、今これを書いている最中だって、あなたを愛撫するつもりで書いているわけだ。そしてそれがお上手ならば、あなたは僕を好きになる。それがいまいち幼稚で乱暴ならば、いただけないわと僕はフラれる。手口をバラすと、実際僕はこのことだけを心がけて書いているのだ。僕の目的はあなたに気持ちよくなってもらうこと。警戒すべきは、自分が気持ちよくなるだけの自慰に堕してしまわないこと。
あなたの気に入らない誰か、どうも首を傾げざるを得ない誰かは、イメージして思い起こせばすぐわかると思うが、誰かを気持ちよくさせようという意志を持っていない人のはずだ。あげくに自分が気持ちよくなることが大好きであれば、嫌われる効果はテキメンである。よくある自意識過剰やナルシストが、嫌われる第一の原因がここにある。
好かれる人は常にどこか愛撫の気配があり、好かれない人は常にどこか自慰の気配があるのだ。
あなたは愛撫するとき、何に気をつける? 技巧的な上手いヘタはさておいて、まず大事なのは乱暴をしないことだ。力んだり、粗雑になるのが一番よろしくない。大事なのは、力まずになめらかにやること。それでいて、滞らないこと、大胆にやることが大事だ。
あなたが彼を見る目つきは、あなたが彼のペニスを見るときの目つきと、まったく同等がよろしい。
「あなたは素敵な方です、お近づきになりたいです」
というようなことを、あなたは愛撫の心で言う。
滞らず、滑らかに、大胆に言うのだ。
それで彼がおっきくなったら、彼は半分あなたのもの。あなたは清潔なワンピースを着て、誰彼構わず愛撫して差し上げる、感動的にはしたない、文化的な遊女になれ。
あなたの笑顔は彼の網膜を愛撫する
今さら道徳教師のように教条的なことを言って申し訳ないが、最近は何だ、「愛」と「好き」を混同する、というか初めから区別しようとしない、そういう流れが強すぎるのではないか。「愛」というのはあいまいな言葉だが、それでもとりあえず愛イコール好きではないということぐらいは決定できるだろう。それは例えばこのような、裏面を指摘するやり方で説明できる。「好きな人だけ愛せばいいと思います」。例えばそのような発言があったとして、これぞ愛だ、とあなたは感じるか。もちろんそんなはずはないのだ。好きな人でもないのに、愛に引きずられてやさしくしてしまう、そういうやっかいなもの、あなたに取捨選択の自由を与えず、損をさせるのが愛というものの正体のはずだ。この愛というやつがなかったとしたら、僕は全女性の99%にやさしくしてもらえなくなってしまうから、ここのところは是非世間広汎にこの理解が伝わってほしいと思う。僕のことが全然好きじゃない人も、どうか愛をください。というか愛撫をください。
さてそれはいいとして、コミュニケーションは愛撫であるという話。もうその話は大方済んだが、いくつか説明を足して補強しておきたい。僕たちの日常には愛撫が少なすぎるのだ。ここが足りてくれば世の中は明るくなるのだから素晴らしい。日本の社会がメチャクチャになっても、愛撫が満ち溢れていたら、それだけで暗くなりようがないではないか。
たとえばあなたが、友人にでも彼氏にでも、何か冗談を言ってみて、相手がそれで大笑いしたとする。そのときあなたは、ごく無邪気にうれしいはずだ。このような当たり前の現象も、愛撫の心という視点で観ると本質が見やすくなる。誰かを笑わせたいと思って冗談を言うのは、愛撫の心のひとつである。その愛撫が成功して、相手が「感じた」とき、相手は笑う。笑ってくれるとうれしくて平和な気分になるが、これは笑わせる・笑うということが、愛撫という愛の行為だからだ。
このことを僕たちは本能的なレベルで知っている。だから、テレビに出るお笑い芸人なんかを見ているとよくあるが、その冗談なりギャグなりが思い切りスベって、寒い空気になると、僕たちは何とも言えずウワッという気分になる。それは要するに、愛撫を試みたものの「ごめん全然気持ちよくない」と言われてしまったようなもので、どうしようもなくマヌケな感じがしてしまうのだ。そしてなんとなく、そういう人はセックスがヘタなような印象を受ける。一方、人を笑わせるのが好きで、また笑わせることが上手な人は、それだけでなんとなくやさしい人のような印象を受ける。この印象は、単なる錯覚というのではなく、むしろ僕たちの本能が、その背後にある真実をどうしようもなく伝えることから起こる現象だ。
そして先の話に少し絡めて言うなら、人を笑わせるのが好きで、またそれが上手な人は、好きな人にだけそうするのが好きで上手、ということはありえない。人を笑わせることが愛撫であって、愛の営みであるからには、それは相手が誰かということを選ばせないのだ。好きでもない人に、愛によってついつい笑わせたくなってしまう、それが笑わせ好きの人の心境だ。このことに、まったく矛盾はないと見てもらえると思う。
そのようなレベルで、僕たちの日常は、実はその愛撫の心に大きく支配されている。ピアニストの指先はそのまま愛撫しているようにエロティックだし、美しい女優のカメラを見る目はそれだけで僕たちを気持ちよくさせてしまう。近所のおじいちゃんがくれる挨拶は頭を撫でてもらったような感触があるし、背筋を伸ばして歩く美女がウィンクして通り過ぎると、その轍には指笛を吹きたくなるフィーバーが残る。
あなたの所作、立ち居振る舞いや発言の全てが、ひとつひとつ愛撫なのだ。
これは例えば逆から見て、このようにも説明できる。よく当たり前のこととして、汚い言葉遣いはいけませんとか、正しい箸使いを覚えましょうとか、そういうことが言われる。レストランでダラーッと座るなとか、廊下を走るなとかドアを乱暴に閉めるなとか、僕たちが持っているその類の当たり前は無数にある。
これらの一つ一つが、なぜ「ダメ」なのか。それはマナーと言えばマナーだけれども、ではなぜそうすることが「マナー」なのかと問われると、その先を説明しなくてはならない。乱暴やガサツやだらしなさが「ダメ」な理由は、それらの所作が「愛撫的でない」からだ。これだけ情報の発達した世の中でも、女性のヴァギナに指を差し込んで乱暴にピストンする、そういう痛いだけの愛撫を熱心にやる男が本当にいるそうだが、そういうせっかちで騒がしいイメージは、狭い廊下をバタバタ走る雰囲気によく似ている。あなたの来世が箸だったとして、あなたのその全身が誰かの指にゆだねられるとしたら、あなたはやはり正しい指先に包まれたいと望むはずだ。ドアを乱暴に閉める人はセックスの最中、相手の身体に体重をかけて苦しめるだろう。いつでもダラーッとしか座れない人は、ペッティングでも手抜きするに決まっている。
それなりにセックスの経験がある女性なら、あるいは経験のない女性でも皮膚感覚で、どういう愛撫が気持ちいいかは、漠然としたイメージで持てるはずだ。そのイメージを基にして、自分の振る舞いを決定することが大事。
「あなた」という愛撫は、本当にそれでいいか?
あなたの笑顔は彼の網膜を愛撫する。声は鼓膜を愛撫して、言葉は言語野を愛撫する。そういうイメージが正しい。何もかもが愛撫であるということは、考え方の補助じゃない、僕はひたすら事実を述べているのみだ。
若い女の子には多いけれど、例えばメールをごく短い文章でやりとりする。それこそ片手の指で数えられる文字数で、「何してる?」など。それは実用上でやむをえないところもあるのかもしれないけれど、それがあなたによる愛撫であることを忘れてはいけない。まだ女になりきれない女の子がいて、彼の前では照れくさくて野卑なフリをして振舞う、その気持ちもよくわかるけれど、やはり忘れてはならない、あなたはその野卑で彼を愛撫しているのだ。
愛撫の上手いヘタがあるとして、一番ヘタな愛撫はなんだろう。それは女性なら先刻承知、「痛い」と感じられる愛撫だ。
このことは実に象徴的で示唆的だ。僕たちは誰かの所作や振る舞いに対して、その最低の評価を与えるとき、同様に構築した意味において、「痛い人」と表現する。
僕たちはお互いを愛撫しながら生きているのだ。
どうせそうして生きていくなら、ひたすら気持ちよくありたい。
僕は毎日あなたを感じさせたいのだ。
そんなわけで話はおしまい。愛撫を上手になることはむつかしいけど、どうせ僕たちのヒマな時間は結局それしか努力することがないのだ。気長にお互い取り組んでいきましょう。
ここまで長々と話を聞いてくれたあなたは、気持ちよくなってくれたでしょうか。
悪くない気分だと言ってくれる人、またいつか文化的な愛撫でも、そうでない愛撫でも、してやってください。
[了]