No.138 恋愛の資格
東大卒のエミの話。頭のいい人じゃないと、尊敬できないのよ、とエミは言った。頭がいいっていうのは、学歴があるとかいうことじゃ、もちろんなくてね。頭の回転が速くて、判断力があって、発想が豊かな人がいいのよ。たとえばあなたが、このビシソワーズを注文してくれたじゃない? 小さいことかもしれないけど、こういうのが、いいのよ。食後の一押しとして、このスープは本当においしいと思うし、この発想はわたしにはなかったの。こういうとき、ああこの人すてき、ってわたしは素直に思ってしまうのよ。人生が広がることって、具体的にはこういうことじゃない? あなたはいつもダラダラしているように見えて、まあ実際ダラダラしてるのかもしれないけれど、余計なお説教はしないし、本当に面白い話をしてくれるし、いつも新しいことを教えてくれると思う。そういう人が、セクシーってわたしは感じるのよ。そもそもこんなところにあるお店に、わたしなら入ろうとも思わなかっただろうし。
葉山にあるカトラリー・ショップの二階、年季の入った洋食屋にいた。僕は食事する店を選ぶときに、新しい店を選択しない。土地に根付いた店を選び、玄関を観察してそのよしあしを判断する。玄関を清潔に保っている店に劣悪な店はないし、看板や玄関先のメニューなどのありようでその店の商売熱心さがわかる。あとは出来ればアルバイトがおらず、御年配のご夫婦でもなんでもいいから、スタッフが人生をかけて営業している店がいい。
高級店にお金を払うのはさ、と僕は持論を展開する。悪いことではもちろんないけど、なんだか営みとしての喜びが薄いように思うんだよ。それよりはこういうところに、これからもがんばってくださいという気持ちをこめて、お金を払うほうが気持ちがいい。商品に正当な対価を払うという精神だけじゃなくて、いいものに投資して応援するという精神も合わせて持ちたいんだよ。アルバイトに頼って横着をせず、自ら玄関を毎朝きれいに整えている、その誠実な態度にお金を払いたいというか。こういうところは、場所に根付いて何十年も、おいしいものを作ってくれてさ、きっと地元の人にとっては、思い出の場所にもなるわけだし、実際おいしいし、そのおいしさに、いやらしさも無いし。
俺はスコッチが好きだからね、スコッチのためならお金は出すよ。またそうして支払うのにふさわしい、高級だけど素朴な店、というのを知ってる。そういう店を知らないまま、散財してもロクなことにならないものだよ。高級店に来ている客層が、高級であることはむしろ少ないぐらいで、まあギラついて元気な人が多いのだけれど、俺はそのギラつきにぐったりしてしまうタチだから……
ウンウン、と鮮やかな同意の表情をたたえて、エミはうなずく。アップにまとめた髪から、一部をゆるやかに垂らしながら、エミはきれいな頬杖をついている。熱心に話を聴く、若い女の微笑みはとても美しい。エミは夜のお勤めで、ネイキッドバイク一台を男から巻き上げるぐらいの美人だったから、その華やかさはとびきりだ。エミの美しさと、その溌剌とした態度によって、僕は一気にエミのことを好きになる。好きになることについては今さらエミ本人に告げる気にもならなかった。このエミを好きにならない男なんて、世の中にいないのじゃないかと僕は思った。
恋愛の資格、とエミは言った。
恋愛の資格があるのよ。あなたのようにさ、自分の考えを持っていることとか、ちゃんと人とコミュニケートできることとか。ちゃんと女を、セックスの対象として口説けることとか、深いところでリラックスできることとか。わたしの場合は、頭の回転が速いこととか、ユーモアがあることも大事なの。シゲちゃんはね、ああわたし彼氏のことシゲちゃんって呼んでるんだけど、よくよく見てみると、そういうところが根本的に出来ていないのよ。彼はね、そういうだらしない自分のことを、言葉としては認めながら、心根では認めていないというか……ごまかして生きていこうとしているのね。それはもう、本人がそうしようと決めてしまったら、わたしはどうしようもないのだけれど、そのことを思うとわたしは絶望するのよ。一生、自分はユーモアのない人として生きていくなんて、彼自身は絶望せずにいられることなのかしら? わたしはたまにね、フッと、ものすごく怖くなるのよ。わたしは彼と一緒に、実はとんでもなく真っ暗な未来に進んでいるんじゃないかって。誰もそのことを警告なんかしないし、そういう深層のことを抜きにすれば、もちろんいわゆる順風満帆というやつなんだけれどね。
シゲちゃんは、記憶力はいいのよ。今もインターンで、寝る暇もないぐらいがんばっているけど、もともと医学部でも目立って優秀だったぐらいだし、その意味では頭はいいのね。だから、わたしの言いつけはきっちり覚えて、守ってくれるの。いつかテレビで見たレストランがあって、それを見て行ってみたいねなんてわたしが言ったことをずっと覚えててくれたりして、そのレストランに誕生日に連れて行ってくれたりするわ。なんていうのかしら、いかにもサプライズ、というような演出の仕方で。そういうとき、心が少しあたたまる気持ちがあって、同時にどこかが冷めるような感覚があるわ。それがとても悲しいのね。彼が精一杯がんばってくれているのに、それをどこか冷めて眺めているわたしが、ものすごくひどい女のような気がして。
もっとかわいい女の子なら、こんないやらしい気持ちは持たないのかしら。エミはそう言いながら、大人びた微笑み方で僕のほうをじっと見つめてくる。美人に見つめられると僕は落ち着かなくなるけれども、僕はそれを隠す気もなかったので、ウーンそうだなぁとあいまいに応えて眼を泳がせた。
まあ、難しいことは抜きにして、俺から見たエミは気持ちがいいよ。いつもそうだし、今日もそうだ。清潔感があって、でも冷たい感じはしない。いいコだなって思うし、インチキをしていないというか、ゴマカシがないというか……いつも真剣に生きているって気がするよ。真剣っていうのは、必死こいてるとか、ヒステリックとかっていうのとは違う、もっと素直な意味でね。
ヒステリック、という言葉にエミは引っかかったようだった。フーン、と首をかしげて思索に入る気配を見せる。エミは見た目からいかにも頭が良さそうで、また実際に頭がよかった。その頭のよさを、武器に使わないぐらい頭のいい女だった。
ヒステリックって、いい言葉ね。その言葉ひとつで、いろんなモヤモヤの正体が明かされる気がするわ。シゲちゃんはさ、あゴメンね別の男の話ばかりして。シゲちゃんは、実際頭がいいこともあって、そのことが自分のプライドになっているところがあるのね。そのせいで、例えばジョークのセンスがないだとか、そういうことを指摘されたときや、人の気持ちを汲まなくちゃいけないときにそれができないことに直面させられたときなんかにね、ガッと突っかかるような反応をするのよ。ジョークなんて大半が不必要だとかさ、俺は自分らしいやり方しかできないとかさ、取り付く島がない感じになるのね。そのときわたしは、説明できないようなやりきれなさの気分になるのだけれど、それは一言で言えば彼の反応がヒステリックだからなのね。話の筋道が通っているとかいないとか、正しいとか間違ってるとかじゃなくて、ヒステリックであることそのものに違和感というか、疲れる感じを受けるんだわ。そう、ヒステリックなのよ。話の内容じゃなくて、なんだかこう鼓膜に痛く聴こえるような、アラートのような響きが声に滲むのよ。
僕とエミは、ヒステリックということについてしばらく話した。色んな形でのヒステリックがある。頑張らなくちゃ、というヒステリック。彼のことが好きなんです、というヒステリック。自信が無いんです、というヒステリック。こんなもんでしょ、というヒステリック。シゲちゃんなんかは特に、頑張るしかないだろ、というヒステリックがあるわ。ヒステリックっていうのは、なんと言うか、絶望感というか、投げ出している感じというか、ギブ・アップしている感じがあるわ。最近周りの友達からも、そういう話をよく聞かされるの。仕事がしんどい、しんどいけどこういうものだとか、そういう話ね。よくわかる話なんだけれど、どこかギブ・アップしてる話ばかりだわ。わたしはそのことに、ずっと違和感を持っていたの。なぜこう、色んな話をした後、結局はうつむくような気分にしかなれないんだろうって。
ヒステリックって言うのはさ、結局は「反発」なんだと思うよ。例えば、今ある自分のみじめさに対する反発とか。こんな自分は受け入れがたいっていう、感情的な反発。それが人によって、頑張らなくちゃ! と肩に力を入れたり、逆に、これ以上どうしようもないでしょう! と不貞腐れたり、いろんな形になって出てくるんだろうな。
店を出て、黒く丸まったビートルに二人で乗り込む。春先の霧雨が降り、窓を開けるとどこからか森の匂いがした。ねえあれ見て、と運転中のエミが進行方向にある海向こうのオレンジ色の光を指す。きれいね、とエミが子供のように言ったのは、おそらく米軍基地の照明だった。車の中はエミの好きな、レモングラスの香りがする。エミも僕も、まだなんとなく帰りたくはなかったので、エミ、とにかくかっこいい地名のほうへハンドルを切れ、と僕は命令した。エミは笑ってそれを承諾し、わざとらしくアクセルを踏む。
反発っていうのは―――
長い話の中で、どのようにしてここにたどり着いたのかを僕は思い出すことができない。思い出せないのは、実は脈絡なんかなくて、はじめから知っていたことにようやく気づいただけだったからかもしれない。
反発っていうのは、戦いじゃないんだよ。戦わず、ただイヤがっているだけに近い。だから先行きも何もなくて、不毛なんだ。それに疲れるんだろうね。結局僕たちはすべてのことについてね、完全に受け入れるか、真剣に戦うかしか、選択肢がないんだと思うよ。完全に受け入れたらさわやかだし、真剣に戦うのもさわやかだ。
薄暗いトンネルを抜けると、左手にうらぶれた市民ホールがあった。昼間は使われているのかどうかわからないが、その夜は廃墟めいていた。エミは何も言わず、そのホールの脇道に車を進め、徐行し、一番奥まったところで車を停めた。そしてシートベルトを外すと、何も言わず助手席の僕に体ごと覆いかぶさってきた。エミは躊躇無く、熱心なキスをしてくれた。頬を包む指先も唇の具合も、精一杯やさしく、色っぽくあろうとしてくれているのが伝わってくる。そうしてたっぷりキスを振る舞ってから、ひょいと唇を外してエミは僕の様子を伺った。顔が近すぎて、エミは少し寄り目になる。
よかった? このまま帰らせたら、さびしくさせるかなって思って。
外灯の頼りない黄緑色の中で、エミは真っ直ぐな面持ちで言う。どうやら本当に僕のことを気遣ってくれているようで、その大胆なやさしさに僕は素直に胸が熱くなった。よくわかってるなぁ、ありがとうな。僕は照れくささからそのように言うしかなく、せいぜい思い切りエミを抱きしめて、手のひらに感激の力を込めた。エミは子供をあやす気分なのか、おおよしよしというふうに僕の頭を撫でながら、首筋にキスを続ける。
ね、もしイヤじゃなければ、口でしてあげよっか。
エミの口調は引き続き、真剣なものでごまかしがない。エミは僕の答えを待ちながら、打診するようにそっと僕の下半身に指先を這わせてきた。それを受けながらも、僕は性的な感触よりも、エミに対する感激にやられてしまったようだった。いいよ、しばらくこのままでいい、お前はあれだね、本当にいいやつだね。僕はそんなことをヨレヨレの声でこぼしながら、エミの唇をむさぼったり、胸のふくらみをまさぐったりした。エミはそれを全て受け入れ、身じろぎもしない。
あーあ、お前が妊娠してなかったら、これから三日三晩でもやりまくるのにな。
僕がそう嘆くと、そうだね、ごめんね、とエミは応じた。エミはその身体に、現在四ヶ月の子供を宿している。来月の半ばには、ささやかな結婚式を控えてもいる。
ねえねえ、わたしにはさ、さっきの話の、ヒステリックなところはない?
いよいよ全身から女の香りを湧き立たせながら、エミは少し心配そうに尋ねる。ないよ、と僕が即答すると、よかった、とエミは素直に微笑む。いつもは大人びて賢い女であるエミは、肌で触れ合い溶け合ったとき、子供のような顔になる。僕はそれを見て、つい先に自分で言ったことを恥ずかしく思い出していた。受け入れるとか、戦うとか、そのことを実践して生きているのは、僕などではなく明らかにエミのほうだ。
エミ、お前には、俺から言うべきことなんて何もないよ。俺は正直言って、お前のことで気に入らないことはひとつもない。お前に悪いところがあるのかどうかとか、そのこと自体がどうでもいいよ。お前はこれから何をどうしたって、ブツブツ言いながらでも、どうせ幸せになるんだろうし、だから俺からお前に言うべきことなんて、やっぱり何もなくて……まあいいや。お前もたまに、退屈ぐらいはするだろうから、退屈したら連絡しておいで。面白いところに連れて行って、面白い話をしてやる。それだけは任せてくれ。それが俺の得意分野だからな。
エミはなぜか目を丸くして、一拍きょとんとした。
うん、なるほど、それはあなたの得意分野だね。じゃあ、これからもよろしくね。約束ね。エミはそこから、思い切り視線を重ねてきて、思い切り気持ちを込めて微笑んだ。それを真正面から受け止めていると、僕は頭がおかしくなりそうになった。
だから、とにかく、退屈したら、いつでも連絡しておいで。そんで、少し気が早いけど、一応これは、やっぱり言っておきたい。エミ、結婚おめでとう。
それからしばらく、僕とエミは、セックスの匂いが充満した車内で、色んな気持ちをごちゃまぜにして抱きしめあった。祝福の気持ち、感謝の気持ち、惹かれる気持ち、エミの未来を手ごわく不安に思う気持ち。そしてそれらの全てがどうでもいいやという安らかな気持ち。エミさんもついに恋愛は卒業ですねぇと僕が茶化して言うと、エミはおでこを擦り付けてくるようにして首を横に振った。恋愛は捨てないよ、今もしてるし。エミがそのように言うのを、何だよ恥ずかしい奴めと僕が茶化して応じると、別にあなたのこととは言ってないじゃない、それは調子に乗りすぎよ、とエミも混ぜ返してくる。
ああ昔はこんなやつじゃなかったのになぁ、と重ねて茶化して言いそうになって、僕はふとそれを取り下げた。昔のことにさかのぼって話し始めると、思い出は存外たくさんあるようだった。こういう気分はほどほどにしておくべきだ。早く帰らなくちゃな、と僕は思った。
あ、今わかった。恋愛の資格、わかったよ。
独身のエミが言い放った、最後の言葉がある。
恋愛の資格について。
泣かせるやつ―――ってことじゃない?
完璧な結論だと、僕は思った。
[了]