No.174 女の差、女の味
女子中学生とセックスしてみたいという男は多いけれども、実際にやってみると、そんなにいいものでもない。話が話なので、フィクションとして話すしかないが、中学生なんてのは逆に、エネルギーに穴が開いていて面白くない。中学生が主演している映画を観たいと思うか。それと同じで、実は触れてみてもあまり熱くなるところがない。ふとしたときに、強烈な青春の匂いがすることはあるけれど。
男は女を、ひとつのエネルギー体として見ているところがある。無意識にそういう感じ取り方をしている。漆塗りの調度品などでも、部屋に置くと落ち着いて冷厳なエネルギーを放っているのがよくわかる。このエネルギーというのは物理的に計測されるものではなく仮想だ。仮想だが、上等なものからはそのようなエネルギーが出ているように感じられてならないものだ。ものすごく上等なナイフなどもそう。部屋に置けばその存在感が空間を圧するかのようになる。名画というのもそうで、たとえレプリカであっても、サイズの大きいものを部屋に飾ってみればその存在感が空間をエネルギーに浸すのだ。
人はこのエネルギーに憧れる。焦がれる。男が女を選ぶときも、この憧れが深く作用している。ただ顔かたちが整っているだけの女を部屋に持ち込んでもなんでもないが、エネルギーの高い女を部屋に持ち込むと空間ごとが変質する。うるおい、輝いて、綺麗に、豊かになる。それは女を工芸品扱いしているのではない。そうではなく、高度な工芸品のほうが、人間の放つエネルギーの美に接近しているのだ。
このエネルギーが何なのかといえば、ひとつには、明らかに人間の持つ集中力のちからである。これは一般的に思われている集中力とは少し違うかもしれない。多くの場合、集中力は熱中の現象と取り違えられている。頭に血を上らせて躍起になっているものを集中とは言わない。集中力については、そのまま「集中」という語に注目したほうが正しい理解が得られよう。
人間の、核のようなものがあるのだ。あると仮定して、それは彼女の胴体の真ん中にある。そして彼女のエネルギーが、その核に集中して保たれている。穴が開いて漏れていたりしない。だから静かである。触れれば表面は冷たそうなのに、奥のほうは熱く融けていそうだ。
典型的には、一流のアーティストにそれが伺える。彼女らの表面上には何らの騒がしさもないのに、そこから放たれる声には、日常に見かけない強い力と熱が乗っている。まるでアンティークのグランドピアノのように、静物めいてそこにあるのに、鍵盤を叩くとすさまじく深い響きが返ってくる。そのような楽器はどこか神器めいていて、荘厳さえ漂っている。
僕がここで言うエネルギーとはそのようなものだ。死ぬまでに一度は触れてみたい女というのは、そういうエネルギーの高い女なのである。
ヒントは、制限、ということにある
ごく短い期間ではあるが、僕は手品師を、アルバイト風情としてやっていたことがあるので、わかることがある。超一流というのでなくても、客前で手品師というのはエネルギーに満ちている。表面上は静かであるが、内には燃えるものを持っていなくてはならない。そうでないとやれないのだ。それは手品師という立場の宿命にもともと備わってあるものだ。
手品師というのは、客前に至近で立ち、にこやかにしていても、実際には見た目よりも三倍の作業をしている。タネがあるのだから当然だ。客に見えている作業はごくわずかだが、見えていない作業が無数にある。そしてこの作業は客側に見えてはならず、秘匿され続け、またその秘匿があること自体も悟られてはならない。だから自然に、自分の内側、その核にエネルギーを燃やして、それをこぼさないようになる。そうならざるを得ない。エネルギーがこぼれると、それは即座に客に伝わる。いま何かしたよね、ということがバレてしまう。そのようなことが、徹頭徹尾ないように、と覚悟を決めているのが手品師だ。多く、手品を趣味にしようとした人は、技術的なことではなく、このプレッシャーに敗北するものである。衆人環視の中、秘匿された作業を極秘にやりぬき、幻想としての嘘を貫き通すことは精神的に容易ではない。
女性の場合なら、敬語を完璧に使いこなせる女性というのはエネルギーが高い。みんなそれぞれに敬語は使えているつもりでいるが、本当に完璧に使いこなせる人はほとんどいない。職業ごとの現場でも、暗記されたフレイズを習慣として使いまわしているだけということがほとんどだ。そこから離れて、自分個人として、自己のハートから完璧な敬語で話せるという人はほとんどいない。ときに、良家の子女などでは徹底的に訓練されている娘がいて、そういう女性はやはりいざというときにうつくしく、内に直観されるエネルギーはありふれたそれとはやはり物が違う。
ヒントは、制限、ということにある。たとえば俳句などは五七五の音数に表現が制限されており、その中に季語まで含めること、という制限もある。だからこそ出来上がった詩句に清潔なエネルギーが保たれている。そのような律を持たない文を散文というが、制限された韻文はどのようにしても散文で作りうるようなクタビレきったものは作りえない。韻文にはエネルギーの穴をそこまで開けられないのだ。
男性は女性の制服姿が好きだ。それも、あくまでその着用が義務付けられた者として着用するその制服姿が。この制服というのも、その字のまま制限性を持つものなのである。これがもし単なる装いの趣味、ファッションとしての嗜好であれば、成人が女学生の格好をしていても値打ちに差はないはずである。けれどもそうならないのは、男性は単に制服が好きなのではなく、制限された中にある女の、エネルギーの漏れず保たれている様に憧れるのだ。
テーブルマナーの無い女性よりは、テーブルマナーの美しい女性のほうがよいではないか。このテーブルマナーというのも制限のひとつである。いまどき、よほどのことでないと、テーブルマナーがまるでないという人はいないけれども、マナーという義務についてはそれだけでよいわけだ。けれども誰もが知るように、その先にはテーブルマナーによって美しくさえなる女性がいるのである。その女性はより高度に振る舞いを制限されることで、自己のエネルギーを核に集中させて保っている。それに憧れるというのは、何も男性に限ったことでも本当はなかろう。
内在するエネルギー量も重要である一方、それよりもよく知られるべきは、人がエネルギーに満ちて美しいというのは、そのエネルギーが漏れ出さず、自己の核に保たれているということなのだ。穴が開いてエネルギーが漏れ出さないよう、制限によって保たれている。それはいっとき、品格と呼ばれてブーム的にもてはやされたが、品格という懐かしい語に一過性に振り回されるのはつまらないことだ。本質はこのエネルギーの内在、核に保たれてあることの美にある。だからどのような装いをして、表面だけしどけなく振る舞ってみせても、何かが美しい、憧れうる女がありうるのだ。
自分は学歴がちらつくような振る舞いは決してすまい、ただの一人の女であり続けるんだ、とまで自己を制したら、話はまったく変わってくる
男の差、ということは厳しく語られるべきである。いまやそれに倣って、女の差ということも厳しく取り扱うならば、このエネルギーということについて、女は知らず識らず差別化されてゆく、と指摘されるべきである。たとえば少女は思春期のうちから、ハイレベルなクラブ活動に取り組むこともあるし、数ヶ月から年単位で受験勉強に取り掛かることもある。
ここに、そもそもそのようなことに、取り掛かるエネルギー自体がないというのでは、まずそこから女は差別化される。そこには、家庭の事情もあろうし、金銭的な面や、健康面で不利だったという人もいるはず。ここに僕は、誰でも本当は、何かに真剣になりえるはずとして、性格面での不利というのは決して認めないけれども……
しかしいかなる事情があろうとも、そのようなエネルギーの求められる何かに、取り掛かったか、やりぬいたか、ということは事実として残る。そして誰もが知るように、その中ですぐにでも弱音を吐き、しんどいし、無理と言い出すようなことは、まず第一に不潔である。エネルギーに穴が開いて漏れ出した。また、そうしてしまえば楽なのだと、彼女は知ってそうするのでもある。ここでまた女の差がつき、差別化が起こる。
しんどいけれども、しんどいとは決して言わない。自分の矜持においてか、あるいは先輩にそう習って引き継いでか、色々あるだろうけれども、とにかくそうして自分を制した少女がいた。この少女は、凛々しさと共にうつくしくなる。自分の核にエネルギー保つ、ひとつの覚悟をすでに持った。
それだけに留まらず、しんどそうな顔も見せない、と決意する少女もいる。疲れた顔を見せて平然としている、そんな女になりたくないの、というひたむきな矜持によって。これもまた、彼女はひとつ自分を制した。
よく、女のくせに学歴なんかとか、女にはむしろ学歴なんかないほうがいい、男受けする、などと言われるが、これは純粋に間違いである。その指摘はあくまで低次元においてしか通用しない。女がひとり、唇を噛んで勉強した、弱音を決して吐かず、疲れた顔も見せてたまるものか、と自らを制して勉強した。それで東京大学に入って、そこからさらに、自分は学歴がちらつくような振る舞いは決してすまい、ただの一人の女であり続けるんだ、とまで自己を制したら、話はまったく変わってくる。ここまでくると、もう彼女の眼から放たれている光はありふれたそれとは物が違う。内在するエネルギー、核に保たれて漏れ出さないエネルギーが、瞳の内側に映し出されている。
彼女が、一流ホテルのホテルウーマンや、航空会社のCAといった職業に就く。彼女は制服を凛々しく纏い、来日客には外国語で話し、完璧な敬語を使いこなすようになるだろう。彼女は一流の人間でありたいと望んでいる。マニュアル色ばかりがにじみ出た野暮な振る舞いで仕事を済ます者にはなりたくないと決意するだろう。だから自分から業務の冷たい気配が漂わないようにと、それも隠す。あたたかみのある、一人の女性としての振る舞いとして、サービスが受け取られるようにと、なおも自分を制してゆくだろう。
このような女性が、藤の椅子にただ座っている。そのたたずまいはおそろしく静かだ。けれども彼女のその存在感が、空間ごとを変質させるのである。男は叶うならば、そのような女に触れてみたい。頬に触れ、その静けさと内に保たれてあるエネルギーに触れてみたいのだ。事実、そのような彼女と肌を重ねれば、自分の生きる世界そのものが空間ごと変質するようなのである。彼女の裸身に、宝石めいて瞳の光るのに、こちらの眼の奥まで貫かれると、彼女の核のエネルギーを、直截に流し込まれるかのようで……
自分は集中力だけは負けない、という気概は持つべきだし、持つ権利があるはずだ
過剰な猥褻を商品にしている漫画本などでは、まだ年端もいかぬ純粋な少女を汚らしく犯し、そこに男性本能の満たされる官能がある、というような描写がされている。けれども、そのような官能は事実ではない。言わずもがなではあるが、あのような商品は、受け手がどん底まで疲れきった者であるという想定から、そのような彼らに受け取りやすいように描かれている。本来自明のことではあるが、あまりに溢れかえるそれらに、知らず識らず常識の座を与えるべきではない。
本当の美と官能は、茶の間には届けられないであろう。それは映像作品に創り出すことがまず難しいし、それこそ一流の作り手が精魂を込めねば生まれぬものだ。そしてまた、そのような本当の美と官能は茶の間にふさわしくないのでもある。だからこれは個々人が独自に出合い、触れるしかないものだ。その触れる触れないでも差別化は始まっていよう。
今ある日本の女性像、安直に言えばセックス・シンボルは、たとえば親しみやすいアイドル・グループが愛嬌を振りまくそれであろう。けれどもそれらもやはり、茶の間の、今や疲れてゆく勢いに歯止めが無い人人に向けての、受け取りやすさを前提にしていることが忘れられてはならない。<<それらを知らず識らず模倣すれば、疲れきった人に好まれるばかり>>。
集中力の話である。人によりそれぞれの立場はあろうけれど、自分は集中力だけは負けない、という気概は持つべきだし、持つ権利があるはずだ。集中力は、エネルギーの集中である。人それぞれに、本当に自分の底に問うてみれば、よほどの老齢か病弱でないかぎり、エネルギーはあるものである。
そこに、自分を制すること、制限すること、エネルギーの漏れ出す穴を与えないこと、が思い出される。友達ウケのいい弱音や泣き言、あるいは愚痴の習慣も断たれねばならない。
なぜ勉強せねばならないのか、なぜ鍛えられねばならないのか。なぜ漠然と就労に向き合うのにも、給金以上の何かを求める、そのはたらきかけをむしろ自分の内から感じるのか、それらの問いに対する答えはこれである。
美と官能のためだ。制限というのはあなたからエネルギーを奪うのではなく、むしろあなたの核にエネルギーを保たせるためにあるのである。
[了]