No.201 スタンド・バイ・ミー
どんな美人であかるい人でも、それだけで恋人にはできない。友達にもできない。セックスはしたいかもしれないが、それも初めのうちだけで、美人を何度か経験すれば、まあいいや、という気になってくる。
なぜ美人なだけではだめなのかというと、人の「痛み」がわからないからだ。人の痛みがわからない人に、心を開いて付き合ってはゆけない。
そんな人怖いもんね。
昨年の大震災で、約一万六千の人が亡くなった。身内も家も失った老婆が、避難所で暮らし、今は仮設住宅で暮らしている。これについて、「マジかわいそうだよねー」というのは、痛みをわかっているということにはならない。「未曾有の悲劇だ」、なんてのも違う。
痛みとはそういうものではないからだ。痛みとは何か? この質問に対する最上の答えは、その場で質問者の顔をぶん殴ることだろう。痛みというのは、痛い、という体験でしかわからない。冬の水の冷たさを知るためには、それに手を突っ込んでみるほかないみたいに。
痛みというのは、孤独のさびしさとか、避難所・仮設住宅暮らしのきつさや貧しさを言うのではない。そうではなく、元あった場所に帰れない、というのが痛みなのだ。半年でも一年でも我慢すれば、あの家とあの人たちのところに帰れる、というなら人はいくらでも我慢するだろう。
そうではなく、いくら我慢しても努力しても、失ったものには帰れない、というのが痛いのだ。正確に言うと、心の「きしみ」が痛いのである。肉体がきしむと痛いみたいに、心がきしむと痛い。
そして人が涙を流すとき、何かしらこの痛みに関わって涙が流れる。
詳しくは後段に明らかになってゆくだろうが、まずカッコ付きで強調するならこういうこと。<<叶わなかった願いに痛みが起こる>>。心は常に、いつの間にかというふうに、願いを抱えて生きている。その願いが叶わなかったとき、その後始末のようなことをする。なんというべきか、人の心は、願いに向けて未来風景のステンドグラスを立てるのだ。願いが叶わなかったとき、このステンドグラスをハンマーで叩き割らねばならぬ。せっかく作ったのに。そして、元の何もなかった状態、その更地に戻さねばならない。この作業は急速で無慈悲、そこで心がきしんで心が痛む。
たとえばとして、僕はこのような空想をつくる。震災の直後、避難所に一人の老婆が立っている。その姿が目を引くのは、彼女が胸元に盆栽鉢を抱えているからであった。何ですそれ、と思わず尋ねるが、老婆はこう答える。主人が大切にしていたんです、コンクールに出すと言って。それで、あの、
「主人はどこにいるでしょうか?」
そう問われたとき、その問いには誰も答えられない。老婆は盆栽鉢を抱えたまま、もう弱くなった膝を強いて歩ませて、ゆっくりと避難所の喧騒を進んでいく。突き飛ばされながら、夢遊のように頼りなげに、金婚の主人の名を呼びながら。
そしてやがては、壁に貼り出された五十音順の死亡者リストの中に、彼女の主人の名前を見つけるのである。その場に崩れ落ちるが、そのときでさえ、彼女は盆栽鉢が床に打ち付けられないよう、とっさに両手でかばうのであった。
痛みというのはここに起こるものだ。痛みは痛みとしか表記できない。心のきしみ。<<叶わなかった願いに痛みが起こる>>。
叶わなかった「願い」とは何であったか。それは彼女のご主人が、今日も明日もこだわって盆栽に鋏を入れ、満を持してそれをコンクールに出品することだった。その結果待ちに色めき立つご主人と温かいお茶を飲むことだった。人はやがて老衰して死ぬにしても、できれば苦しむことなく安らかに、あるいはせめて人並みのありふれた亡くなり方をしてほしかった。
「願い」はいくらでもあっただろう。それらが地震と津波の一撃で打ち砕かれてしまう。先日まで、彼女が当たり前のように描いていた明日の風景、そのステンドグラスはこなごなにされるのだ。眠るとき、朝目覚めるとき、老婆は何回でもご主人に会える気がふとしてしまうだろう。いつもの家で、いつもの居間で。そこに繰り返される願いの粉砕が痛みだ。
痛みというのは、そういう切実なもの。だから「マジかわいそうだよねー」というのは違う。そうして余裕をブッこいていられるのは、他人事として切断しているからだ。仮に、本人の虫歯が急にキリキリ痛み出せば、そんな余裕は消し飛んでしまう。痛くてうずくまるし涙が出てくる。父親に頬を張り飛ばされれば、震災だの未曾有の悲劇だのはどうでもよくなる。「痛み」が直接にくる。
余裕をブッこいて、かわいそうにと同情してみせる、善良家は違うのである。と、ここまで言うとまた僕が嫌われるのだが、まあでも本当は僕はそう思っているのでしょうがない。痛みに同情してみせることが何か大したことであるわけではない。人の痛みがわかるということは、それについて自分も痛みを覚えているということ、人の痛みを共有しているということだからだ。
深刻に「痛い」のに、高みから余裕をブッこいていられるわけがないじゃないか。そんなもの、硬い床に一時間も正座してみればわかる。空元気は見せ付けられるが、背中は汗だくだ。
<<叶わなかった願いに痛みが起こる>>。それはたとえば、遠足に行けなかった子どもだ。遠足の前日から、楽しみにして、興奮して準備をしていた。リュックサックにお菓子とタオルを詰め込んでいた。母親と弁当の打ち合わせを熱心にしていた。母親も幸せそうだった。
ところが、翌朝起きてみれば、窓の外は大雨だ。子どもはリビングの窓から外を見て凍りつくのだった。彼の心には願いに向けて、ステンドグラス、友人らと歩く春の野の風景があった。それがハンマーで打ち砕かれる。何も無かったいつもの木曜日に戻さねばならない。
この心のきしみが痛くて子どもは泣く。泣いて母親に泣きつくのだが、母はこれを受け止めて背中を撫でてやるしかない。ここで重要なことは、この子どもの痛みが母にも共有されていることだ。母もその痛みを感じていなければならない。そうでないと子どもは孤独だ。自分の痛みが、誰にもわかってもらえない、となって世界に失望する。
ただし、ここで泣きついてよいのは、彼が子どもだからである。大人はそうはいかない。痛みの共有と、それに甘えて泣きついてよいかはまた別だ。そのことも、後段にあきらかになってゆくはず。
またあるいは、たとえばこう。ある朝起きると、愛猫がひっそり死んでいる。いつもの寝床で、舌を出し、冷たくなって固まっていた。眠るようにして死んでいったのか。家人はショックを受けるが、踏みとどまる。このコは長生きしてくれたもんね、と、そう納得して、ささやかに葬儀をする。火葬を済ませて、手作りの墓に埋めて、ひとしずくの涙で見送ろうとする。
けれど、まだ痛みは終わらない。冷蔵庫を開けると、やりそこねたカニカマボコが残っている。太るからだめ、と控えさせた分だ。ただちに、あのコのニャーと鳴く声、ごはんをねだって足元にすりついてくるあの感触がよみがえってくる。
それで人は泣き崩れる。冷蔵庫の前で、心のきしみ、その痛みに打ちのめされる。叶わなかった願いとは何であったか。それはあのコがいつまでも健やかに生きてくれることだった。ごはんを食べるときの、あの幸せそうな丸い背中をずっと眺めていられることだった。あるいはせめて、このカニカマボコの二つぐらい、太るでも何でも満足に食べさせてやりたかった。
生きものはやがて死ぬ。死んだものは帰ってこない。それが真理だったとしても、そんな真理はどうでもよいのだ。真理などクソである。クソみたいな真理など曲げて、あのコだけこっそり百年生きてくれてよかったし、何かの間違いでふいっと生き返ってきてくれてかまわないのだ。なぜそうなってくれないのか、ということが痛いのである。<<叶わなかった願いに痛みが起こる>>。願いというのは何も、全部を自分で自覚できているものでもない。
このようなとき、友人や恋人はどうすればよいか。間違っても、元気だしなよー、なんてどこかで拾ってきたハゲマシを放り込むことではないだろう。
痛みを共有することだ。自分も痛みの中に立つことだ。それさえあれば、何を言ってもいいし、何も言わなくてもかまわない。痛みを共有し、共に痛みの中にあれば、そのことはなぜか相手にも伝わっている。わかってくれている、ということはなぜかわかるのだ。それだけあれば他には何も必要ない。せいぜい、自分も痛みに耐えながら、でも自分は泣く立場ではないということで、温かいお茶でも淹れるぐらいだ。涙は、出てもいいし、こらえられていてもいい。所詮自分のことではないのだから、ピーピー泣くというのは違うけれども。
美人であかるいというだけで、その女性を恋人にも友達にもできない。人の痛みがわからない人には心を開いて付き合ってはゆけない。いくら美人でもイケメンでもそうだ。だって怖いじゃないか。痛みのわからない人に、女性は自分の破瓜をゆだねられないだろう。
恋人も友人も土台は同じ。立場の確認じゃない、ただ痛みを互いにわかりあえる同士を、いつの間にか恋人や友人と感じるのである。
大きな痛みを経験したことがない、という人も世の中には少なくない
もし現代の子どもに、人の痛みがわからない、という問題が指摘されたとしても、それは子どもたちの責任ではないし、解決策もないだろう。なぜなら現代は、暮らしから痛みを排除するほうへ推進されてきたからだ。子どもについて、人の痛みのわかる人になってほしいといっても、そもそも子どもたちが痛みそのものをあまり知らないのだ。知らなかったらわからない。教えたかったらぶん殴るしかないのだが、もうそんなことをできる大人はいないし、そんなことをしたら今は犯罪者扱いされる。
痛みは「痛み」だ。何度も言うが、痛みとしか表記できない。もしこれを子どもに教えようと思ったら、遅刻をしてきた者に正座を科し、非行をした者の頬を張り飛ばすしかない。それも結局、シャレにならないほどの痛みを食らわしてやるしか方法はないのだ。要するに、子どもなのだから、痛みでワンワン泣くところまで痛みを与えるしかないのである。かわいそうだがしょうがない。そうして痛みでワンワン泣くことがあってこそ、友人が痛みでワンワン泣いているときに、その痛みを共有できるのである。当人に経験がまるでなしでは共有なんかしようがない。
痛みについての経験。これは、実は個人によって大きな開きがある。実はまるで大きな痛みを経験したことがない、という人も世の中には少なくないものだ。
特に、生まれつき身体が頑健で、病気も怪我もしたことがないという人。これは、健康で何よりという気がするのだが、実は彼から痛みを経験する機会を奪っている。こういう人は一見頼もしそうに見えるのだが、デートしてみると、何かちょっとおかしいということがわかってくる。
たとえば二人で花火大会を観に行くというのに、女の子が靴擦れをしてしまう。そういうとき、彼は「大丈夫?」と気遣ってくれるが、「大丈夫? ゆっくり歩こう?」というあたりに留まる。「花火はやめてタクシー乗り継ぎで食い倒れデートにしよう」という発想にはならない。痛みがわからないのだ。痛みという現象そのものは理解しているけれども、それをどう扱うべきかまでは知らない。
それで女の子は足を引きずって混雑の中を歩く羽目になるが、花火を見上げながら、喜び半分、違和感半分、という具合になる。何かおかしい、足の痛いのを引きずってまで花火が観たかったのじゃなかったはず。そこまでして純粋に花火が観たければ一人で来るわね。だから、何か違うんだけど……
そんな感じで、結局彼女は彼を恋人には選ばない。友人関係だけど、心の底から信頼はしていない。もし彼女が何かしらの理由、焦りやさびしさから彼を恋人に選んだとしたら、彼女はその後、もっと大きな痛みのシーンで、もっと致命的な違和感を覚えて彼と別れる。
自慢じゃないが、僕もそうやって女にふられてきたのだ。だから、思い出の何人かの女性を想うと、僕は今さらながら彼女らに詫びたくなる。人間が調子に乗ると、だいたいこの人の痛みというものがわからなくなる。失念する。それはしょせん、自分の未熟と冷たさ、人間の貧しさが暴露されたというだけでしかないが、それにしても今でもなお詫びたいことがいくつも溜まっているというのが僕の本音だ。まあでも今さら詫びさせてもらえる権利はないので我慢している。それであのときの痛みが今もずっと残っているのだが、この痛みは要するに罪に対する罰なので、少しでも誠実であろうとするなら、ずっと抱えていくしかない。ずっと後悔するしかない。
それにしても許されるものではないけれどね。まあ個人的な話はやめよう。逸脱してしまった。
子どもはなぜビデオゲームで遊んでばかりではいけないか。子どもはなぜ机でガリ勉ばかりしていてはいけないか。そこには身体的な痛みが伴わないからだ。子どもは野山を駆けて転び、鋭い砂礫の地面に膝を打ち付けねばならない。草野球をし、きつい打球を捕りそこねて、胸にガツンとボールを喰らわねばならない。違うグループのガキ大将と殴り合いをして鼻血を出さねばならない。山では蜂に刺され、磯ではゴンズイとカサゴに刺される。父と教師には張り倒され、竹刀で打たれ、正座を科されて泣かねばならない。
そこで痛みを学ぶのだ。痛みを学ぶのはイヤなものだが、学んでいない人は後になってものすごく不利になる。人の痛みがわからなくなるというのもそうだが、学んでいないぶん、痛みが苦手になって立ち向かうこともできなくなるのだ。威勢はよくても怖がりになる。
人に話を聞くとき、昔の痛かったこと、特に子どものころに痛かったことを聞くのは悪くない。意外なことがぽろぽろ出てくる。こんなに上品でずばぬけて美しいのに、子どものころはお尻を竹刀で叩かれていたなんて想像がつかない、みたいなことが結構ある。善良さや正義感ではなく、根本的なやさしさがあるように感じられる男は、探ってみれば過去に必ず痛みを学んでいる。
彼が、どこかやさしい上に、どこか決定的に頼もしいのは、人の痛みがわかる上に、痛みに立ち向かって戦う方法を知っているからだ。風邪ひとつ引きません、というのは、労働者としては強いけれども、人間として強くはない。それよりは、三十九度も熱がある、けれども舞台に立ってそれを感じさせない、という人が強いのである。
痛みが精神を歪ませるのではない。歪ませるのは「不安」と「不信」だ
野暮になるがこのことにも触れたほうがいいのだろう。幼い頃に暴力を受けて育った子どもは精神を歪ませるという。そのことは当たっているが、これは痛みが精神を歪ませるのではない。歪ませるのは「不安」と「不信」だ。いつ暴力がくるかわからない、いつ痛みが来るかわからない、ニコニコしていても信じられない、という不安と不信が精神を歪ませるのである。こんなものは心理学の実験でとうに結論が出ている。
痛みが精神を歪ませるのではない。もしそうだったら、プロボクサーは全員神経症になるだろう。まして痛みといっても拷問にかけるわけでもないしベトナム戦争に出撃するのでもないのだ。
痛みが秩序の中にあれば神経症にはつながらない。たとえば、歯を磨かないと虫歯になって痛い、ということで神経症にはならない。これは、目上に敬語を使わないと父に張り倒される、というのと同じだ。虫歯が痛いのはイヤだから歯を磨く。面倒くさくてもそうする。それと同じで、面倒くさくても敬語を使う。ただそれだけのことだ。
だから、酒乱の父や情緒不安定の教師が、気分ひとつで暴力をふるう、体罰をする、というのがよくない。それは秩序がなくて不安だ。子どもはびくびくするしかない。あるいは、体罰を加える当人が、その痛みを共有できていないのではだめだ。それこそ、自分が張り倒されたことがなければ、その痛みがどういうものなのかわからない。かといって手加減すれば子どもはナメるし、とにかく痛みを知らないものが痛みの罰を取り扱うことはできない。
まして教師なんか、教師なんだから。教師、物事を教える師である。痛みを知らぬでは痛みを教えられない。算数のできない大人が数学は教えられない。別に難しいことではなく、ただそれだけのことだ。
そういえば、僕が中学生だったときの体育教師は、よく遅刻してきた生徒に正座をさせたが、その正座の間は教師本人も壇上で正座して付き合ってくれたものだった。あの人も僕に痛みを教えてくれた恩師の一人であった。
痛みをごまかすにはどうすればよいか。そもそも願いを持たなければよい
人間は痛みにフタをする。願いが叶わなかったとき、そこに痛みが起こるのだが、この痛みがイヤなので、ごまかすのだ。願いなんかそもそもなかった、というふうにしたり、叶わなかったわけじゃない、としたり。あるいは事実を捻じ曲げて認識したり。それは痛みから逃げているだけだと、誰でもわかってはいるのだが、自分のこととなるとそう単純にいかない。歯医者に行くのがイヤなように、ついつい後回しにしてしまう。それでますます虫歯は悪くなっていく。
「痛い人」という言い方がある。いつから出来たものなのか、あまり良い言い方ではないと思うが、これもやはり痛みの現象に関連して生まれた言い方だ。いわゆる「痛い人」は、何かしらの痛みを、受け取ることを避け、ごまかして生きている。そのごまかしが、彼の振る舞いと気配をどうもおかしなものにする。誰もそこまでいちいち読み取ってはいないと思うが、感性が本質を吸い上げて、なんとなく「痛い人」という呼称がふさわしいと認めているのだ。
たとえば、本当は女にモテる人生がよかったのに、そうはならなかった人。その叶わなかった願いに、痛みがあるが、この痛みを受け止めきって、「いやあモテない、くやしいな」とすっきり言うのなら「痛い人」にはならない。それが、痛みを受け止めきれずに、「結局女って、顔と金で男選ぶでしょ。そんなのに興味ないなあ」、なんて言い出すようになると、これは「痛い人」になる。声にどうも険がある。「そんな軽薄は卒業した、男は誰か一人の女を幸せにすればそれでいい」、なんて、言うことは格好よくても、声に情緒の動揺があったら、それは何か痛みをごまかしているから動揺するのだ。
「ポテトチップスって結局さあ」なんて言うのに、動揺したり険があったりする人はいない。
女性でも同じようなことがある。よくあるのは、結婚まで考えていた彼氏にふられた、というような話。彼とこのまま行くだろうし、まあ結婚もするでしょう、ひょっとしたら近いうちに、なんて友人に向けて話してもいた。そして内心にはこっそりと、気に入らない同僚の女性に向けて、あのコより先に寿退社して見せ付けてやるんだ、なんて不健全なことをたくらんでいたかもしれない。
それが突然、彼にふられる。彼女が立てていた未来風景のステンドグラスはこなごなだ。その痛みに彼女は耐え切れない。なんとかフタをしてごまかそうとする。
それで、彼を「裏切り」の犯罪者のように仕立てて、自分をその「被害者」のように扱う。そして、「むしろあんな奴と結婚しなくてよかった」と捉えなおす。「そもそも恋愛なんてさぁ」「結局男ってさあ」「結婚とかある意味負けかもだけどね」というようなことを言い出す。それが純粋に彼女の価値観であればいいが、それにしては声に険がありすぎる。情緒の動揺がいかにもある。それで周囲は、ちょっと事情はわからないが、あまりお近づきにはなりたくないな、と感じる。
痛みをごまかすにはどうすればよいか。典型的には、願いそのものを持たなくする、というのがある。叶わなかった願いに痛みが起こるのだから、そもそも願いを持たなければよい。
それで、願いを禁じた心が無気力・無関心になり、いわゆるアパシーになる。最近よく言われる草食系というのも要するにこれだ。
あるいは、願いがあったとして、それを自ら汚染して相対化する方法がある。大切な想いを告白して肌を重ねて捨てられたとあっては痛みが発生してしまう。だからそれを自ら汚くして、どうでもよいことにまで格下げする。「マジラブだったから告ったけど一回パコられてヤリ逃げされたw」ということにしておく。これならば深刻な痛みはない。
願いを相対化するためには、いかがわしい宗教や、神秘主義に逃げ込むという方法もある。たとえば自分がモテないのは、ついている守護霊があまりに峻厳なため、と言ってもらえばいい。あるいはあなたはもっと重要な指名を帯びていて、宇宙からのメッセージが、あなたにそのような卑俗を許さないのです、と言ってもらえれば痛みは避けられる。
またあるいは、ストーカー的な偏執に陥るパターンもある。単純な話、ふられたことを認めなければいいわけだ。もともとの願いは、あの人と愛し合い、あの人ともっとも親しい関係になる、ということだったのだから、そのステンドグラスを叩き割らなければよい。あの人は自分を愛しているはず、あの人自身が気づいていないんだわ、と決め付けることにする。そして彼の生活にこっそり接近して、誰よりも親しいような状態を作ればよい。それでストーカーになるのだが、要するに自分がふられたという痛みに耐え切れないだけだ。
他には、痛みを麻酔するパターン。たとえば男にふられた直後に、また別の男を彼氏にすれば、痛みを避けることができる。前の男と別れたからこそ、この人と出会えた、というふうにも思い込める。彼女としては、自分は特別に愛される女でありたい、という願いがあったのだ。ただふられただけだとこれは打ち砕かれてしまうが、すぐ次の彼氏がいるのだから打ち砕かなくてよい。それで結局、依存か共依存の関係に陥る。その新しい男と付き合っているのは、ほとんど痛みの麻酔のためでしかないが、離れると麻酔が切れてしまうので、もう離れるわけにもいかなくなる。しかしお互いに、好き合い認め合って一緒にいるわけではないので、ねじくれて衝突が絶えない。衝突が絶えないのに離れられないという状態になる。
こんなパターンを列挙しても意味がないし、この先にはもっと多くの変形があるのだが、とにかく、人は痛みにフタをするということだ。ともすれば、経年でこのフタは強固になり、このフタの維持のために一生を費やす人もいる。ウーマンリブを騙りながら、男性を攻撃するためだけに一生を費やす人なんてのも実際にいる。その背後には、かならず受け止め切れなかった痛みが何かある。なかなか馬鹿にできたものではなく、誰でもそうなってしまう可能性がある。
人の痛みを共有する前に、自分が痛みから逃げてはいけない。いつ逃げているのか、なかなか自覚はないものだから、心がけしかできないけれども。
男が女の前で殴りあいをする。街中でチンピラに絡まれて。それで、腕力がなくて、一方的に殴られておわったとしても、そのことであまり女は男を軽蔑しない。それでお別れになったというのはあまりないだろう。
しかし、男が殴られるときに、ビクッとなって身体を硬くし、目を閉じて怯えてしまったらだめだ。痛みを怖がり、痛みから逃げたことを、女の本能が許さない。この人は弱い、と本能が悟ってしまう。
だから男は、同じ殴られるなら前に出なくてはならんのである。教師にビンタされるなら、自分からそれをもらいに頬を寄せねばならない。
うーん厳しい。まったく出来る自信がないな。
ホテル代もオゴらない男はサイテーだが、オゴっている分の男の痛み、そのやせがまんがわからない女もサイテーだ
飲み会などで、恋愛のおもしろ話を求められたとき、僕はこういう話をすることがある。女性の手の甲をつねる実験で、手の甲をつねられて反発しない女は、恋愛のセンスがいい。またそのときに見せる女の顔は、セックスで感じたときの顔と同じだ、という話。馬鹿馬鹿しい話だが、なかなか人気がある。やってみようぜ、という雰囲気になるが、なかなかそう言われても男が女の肌をつねるのには勇気がいるので、実際はほとんど何もしない。
冗談のようなこの話も、やってみると意外にあなどれない。痛みが嫌いな人や、僕が直接嫌いな人、あるいは男そのものが嫌いな人は、いくら実験だと同意はしてくれていても、「はぁ?」「痛いんですけど」という感じで怒ってしまう。あるいはまるで風も吹いていないみたいに無表情を極める人もいる。これは痛みの拒絶だ。もちろんそれの何かが悪いわけではない。手の甲をつねられた痛みには何の意味もないのだ。
しかし一方には、この痛みをなぜか積極的に受け止めてしまう女性がいる。いたたたた、痛いよ、痛いですと、弱い声で言う。痛みに眉根をきゅっと寄せている。痛いと言うのだが、やめてよ、とは言わないのだ。抵抗の気配がまったくない。目を閉じる人もいれば、目を伏せる人もいるし、こちらの眼をじっと見つめて無言になる人もいる。痛みがあるので、目はかすかに潤む。だから、妙に色っぽい。
これは何も、いわゆるドSとかドMとかいう話ではない。ただ痛みについての話である。そして、世間一般には、女の肌をつねるなんて、ただの乱暴、無意味な蛮行だと捉えられるが、それは隠しているだけで、分かる人には分かっているはず。正直に白状したまえとこれは言いたい。つねられたら、おとなしく、女らしくなってしまうかも、わたしそういうタイプかも、と思っている女性はいるだろうし、男の側も、それで目が潤む女性は何かすごくそそるものがある、と感じる男性は多いはずだ。決して僕だけが変態なのではないし、これはあくまで実験だ。手の甲をつねられて反発しない女は恋愛のセンスがいい。この馬鹿みたいな話に、こっそり納得してしまう人はきっといるはず。
手の甲をつねられたときの、抵抗しない女性の表情、潤んだ目。これとまったく同じものを、別のときに見ることがある。それは例えば、当の女性を含め、僕が後輩などを連れて酒を呑みに行ったとき。スコッチを飲んでみたいというので、そういう店に連れて行く。そしてせっかく連れてきたのだから、もう気合を入れてオゴるしかない。お金持ちではないので、気合を入れてもしょうもない程度だが。
どうせ飲ますなら、上等なものを飲ませないと意味がない。それで頑張ってオゴるのだが、あるとき後輩が手洗いに立つ。そのとき女性が、ちょっと心配して、お金大丈夫? と聞いてくる。正直なところを言えば大丈夫ではない。僕は散財のアイディアが無限に出るタチなので、お金が大丈夫だったことは生まれてこの方一度もない。
けれども僕は、まあオゴらないわけにいかない。というのは、僕自身も、過去に先輩たちにそうやってオゴってもらってスコッチの味を覚えたからだ。だからしょうがない、恩義を受けておいて自分だけ素知らぬふりはできない。そんな奴は自身が上等なスコッチを飲む資格がない。
だからしょうがないし、これでいいんだよ、みたいなことを強がって話していると、はっと目を上げて気づく。なぜか彼女の眼が潤んでいるのだ。それかっこいいね、なんて正面から言ってもらえる。そりゃテメーが酔っ払っているからだ、なんて言うしかないが、彼女の言うところの原理について、今回の話で説明はつく。
僕は出費の痛みをこらえている。軽く見られがちだが、出費というのもなかなかの痛みだ。もし痛みがないなら、人の金を盗んでもまったく構わないことになる。むかし三億円事件があったとき、その被害は保険会社に分散されたため、「憎しみのない犯罪」なんて言われたが(2億9430万円の語呂から)、こういう痛みの薄い犯罪を、人心はなかなか憎めない。それよりはおばあさんが年金を崩して孫の成人祝いを買おうとしているお金をかっぱらうほうがよほど憎らしく思えるだろう。叶うべき願いを叶わせず痛みを負わせる犯罪がもっとも憎まれるのである。
出費というのもそれなりの痛みで、金持ちならいざしらず、そうでない者が一万円をオゴったら、一万円分の痛みをこらえている。実はあれが欲しかった、という願いを一万円分は捨てたわけだ。
僕はその痛みに耐えるのに正当な理由をもっていた。自分もそうやって与えられてきたのだからと。その文脈が彼女に共感されたのだ。それで彼女も、僕のこらえている痛みを共有した。だから彼女は、手の甲をつねられたときの表情――痛みをこらえる表情――を見せたのだ。痛みをこらえている僕はかっこいいと言ってもらえるし、その痛みを共有してくれる、わかってくれる彼女は、僕から見てとても佳い女に見える。どうせ一万円をオゴるのであれば、こういうことであってくれたら実りがある。どれだけオゴってもわかってもらえないなら不毛で悲しい。
だから、誰とデートしてもなぜかオゴってもらえないという女性は、人の痛みがわかっていないから、という可能性がある。マナーがあれば誰だってオゴられたことには礼を言うと思うが、痛みの共有がなければ感謝されてもありがたくないものだ。
あるいは、痛みに耐えるという気がまるでない、ひたすら合理主義の男性とだけデートしている可能性も……
あと、正当には、オゴる金額がカッコイイのではなく、やはり痛みに耐える男がカッコイイのである。金持ちのおじさんがおごる十万円より、高校生がアルバイトをして溜めた二万円をオゴるほうがよほどカッコイイ。金額そのものをカッコイイと思う女性もいるが、そのカッコイイはまた別の種類のカッコイイになる。それは権力に対するカッコイイであって、女性の心には権力そのものに惹かれる性質が、別にゆがみでもない正当なものとしてある。権力のある人が好き、と堂々と言う女性もいるぐらいだ。それは別に貧しいことではないし、女性はそういう心を失うべきではないとも思うが、問題はその権力を手に入れるために自分を貧しくしたという男性がけっこう少なくないということで……でもこれはまったく別の話になるので割愛しよう。
女の手の甲をつねるとか、一万円が痛いとか、馬鹿みたいなことばかり話してしまった。でも実はこういうことが手近には一番大事かもしれない。ホテル代もオゴらない男はサイテーだが、オゴっている分の男の痛み、そのやせがまんがわからない女もサイテーだ。そういうことにしておけば、たぶん実りが一番多い。オゴってあげなよ、わかってあげなよ、うん実に健全だ。お互いに願いと痛みを抱えて生きている。
恋あいは互いをわかりあいながら、互いの自立を励ます
僕は性格が意地悪なので、この話について、そうよ実にそうなのよ! と同意をいただけたとしても、その感触にはウーンと距離を取ってしまうだろう。僕は痛みについて話をしているが、痛みというのは嬉しいものでは別にない。痛みはイヤなものだ。何しろ痛いのだから。ちょっぴりシリアスになって、でもしゃあない、というのが痛みである。
人間はどうしても痛みが嫌いなので、取り扱いには注意を要する。痛くなんかないわい、と強くあれているつもりでいたら、実は痛みを無視して逃避していた、なんてことはよくある。痛みを感じないのが強いのではなく、感じた痛みに減速しないのが強い。
宗教的次元において、願いに関わる欲や煩悩について、なんでもない、と離れられた人は強い。けれどもその強さと、そもそも願いを禁じただけの無気力・無感動のアパシーは別物だ。単に食欲や性欲を遮断して聖人になれるのであれば、そういう薬物を投与した人は全員聖人になるはず。そうはならないので、無欲がイコール聖人の強さというのは浅はかだ。それがどう違うかは、ここで説明する話ではなし、興味の湧く人は故・澤木興道老師の法話集でも購読されたい。
とにかく、痛みというのはそう簡単に乗り越えられるものではない。昨日は乗り越えられても今日はだめかもしれない。乗り越えられる自分になった、なんて思ったらたいていウソだ。痛みというのはそう都合よく決着はつかず、毎回青褪めて向き合うしかないものである。何しろ痛いのだから。
痛みというのは、そのように取り扱いに慎重を要するのだが、この「人の痛みがわかりますように」ということについても、間違いはすぐ起こる。「あの人は痛みをわかってくれないんです!」、なんて声を高めたらたぶん間違いだ。痛みをわかってくれる人はいるし、わかってくれない人もいるが、それはこちらから要求してかかれるものではない。わかってくれる人はありがたい存在だが、むしろそういう人は例外的な存在だと思うべきだろう。何しろその字義のとおり、それは「有難い」人なのだから。
人間には、想像力を媒介として、人の痛みがわかる能力、人の痛みを共有する能力がある。が、その能力が発動されない限り、平常的には人の痛みはわからないものである。もしそうでなかったら、ドキュメンタリー番組のひとつひとつで視聴者は寝込まねばならない。事故で片足を失った、なんてその重大な痛みを全て共有はできない。戦場で少年兵士が撃ち殺されたら、うわっ、と痛ましくは思うが、その痛みの全てを受け取っていたら、これはさすがに廃人になる。実際、人の痛みがよくわかってしまう人は、そういう番組を長く観ていられないものだ。想像力が活発すぎると負担になるのである。だから、想像力の活発である子どもにはあまり見せたくない番組というのが存在する。それがいかに世界の真実を抉り出していたとしても。
人の痛みを共有する。互いの痛みを共有できる。そうなれば素晴らしいことだが、それは要求できることではない。また共有できたとしても、あくまで共有できるということ「だけ」に留まらねばならない。共有しているんだからどうこうしろ、というのは甘えである。これだけオゴったのにヤラせないなんて何だよ、と怒る男と同じだ。
これだけ痛いんだからどうこうしてよ、と甘えていいのは、幼児から母親に向けてだけだ。子どもの泣き方はよく見ると独特で、ビェーンと泣いて母を呼ぶ声の中に、必ず何か要求の響きがある。この響きが甘えだ。これは子どもだから発達の過程で許されるのであって、大人はそれを認められていない。
まあ、長く一緒にいる中で、それは絶対に禁止、というのも何かエグいし、現実的ではないと思うけれども。でもとりあえず、要求するというのは違う。大人なのだから、人の痛みがわかる奴、わからん奴、両方いるな、自分はどうだろうな、と思ってたばこでも燻(くゆ)らせているしかない。
大人同士は、痛みに泣き崩れる人がいても、その立ち上がりに手は貸せない。ただ痛みを共有して傍にいることしかできない。でもそれは無力ということでもない。痛みを共有してくれる人が傍にいるというのは、それだけで有難いし、いざ本当に本人が立ち上がろうとするとき、同じ痛みの中でまっすぐ立っている人がいるというのは助かる。まっすぐ立つというのがどういうことだったか、見失わずに済む。
それがあるからこそ、今こそ痛みを避けずに、正面から受け止めることができる、というのもある。
痛みを共有してくれる人は特別の存在だ。そして恋人も友人も特別なものだ。立場の設定はどうであっても、痛みを共有してくれる人と一緒に過ごせた夜は特別だ。わかってくれる人というのはそれだけで希望になる。痛みと向き合うことが少し怖くなくなって、励ましと勇気を得られる。成長の機会、長く苦しかった自分の不毛を突破する機会が与えられる。
恋あいにおいて、依存はよくないということは広く知られている。これを推し進めれば、恋あいは依存の逆ということだ。恋あいは互いをわかりあいながら、互いの自立を励ますのである。<<あの人がいてくれたから自分は立ち上がれた>>。
恋人も友人も自分にとって特別なものだ。これが、ただ美人というだけでは特別ではない。社会的には特別だが、個人においてはそうではない。だから美人というだけで彼女を恋人にも友達にもできない。
これはこれで、いやな仕組みで、むしろ美しい女性のほうを苦しめている。美しい女性は、生まれつき特別扱いをされて生きている。寄ってくる男はみんな初めから特別扱いの態度で近づいてくる。けれどもそれは社会的な特別扱いであって、人間的な特別扱いではないわけだ。それで優越感に浸れるときもあるけれど、ある夜に一気に、そんな自分に激しく気が滅入るらしい。
「なんであたし何もしてないのに特別扱いなの?」
そう言った女性もいた。いよいよしんどかったらしく、テーブルに突っ伏してうっくうっくと泣いていた。あたしよりあたしの友達を特別扱いしてよ、と言っていた。
美人の魔性というか、吸引力は恐ろしいもので、僕は思わず彼女を積極的に慰めようとしてしまった。その途端、はっとして、美人ゆえの特別な感情が自分にはたらいていることに気づいた。美人というだけで彼女を恋人にも友人にもできない。また美人というだけで人は幸福にもなれないらしい。
誰もがかつてはそうありたいと、一度は願ったことがある。本当の友達がほしいし、本当の恋人がほしい。自分が誰かにとっての本当の友達でありたかったし、誰かにとって本当の恋人でありたかった
そろそろ話の終わりに。人にとって、恋人とか友人とかいうのは何なのか。それは同じ土台の上、痛みをわかってくれる人、痛みを共有してくれる人なのだ。特に選ぼうとしなくても、そういう人を勝手に友人と感じるし、恋人にしたいとか恋人であってほしいとか感じる。特別な人と設定するのではなく、ふと気づけば特別なのだ。特別な信頼と特別な尊敬を向けている。
痛みとは何であったか。それは心のきしみだ。身体がきしむことで学び知った、あの「痛み」。それが心のきしみにおいても起こる。心はいつも、知らぬうちにだが、願いを抱えて生きている。いくらフタをして隠してあっても、願いを持たないわけではない。その願いは叶ったり叶わなかったりする。叶ったときは心は華やぐ。叶わなかったとき、心は無慈悲な後片付けだ。その急速な心のしぼみに、心はきしむ。痛みが生まれる。
この痛みというものは常に厳しく、人間を脅かす。何しろ痛みは痛いのだ。だからこそ立ち向かうにも勇気がいるし、共有するにも勇気がいる。涙の出て止まらぬほうへ向き合うのはいつだって大変だ。向き合って何か得をするわけでもない。ごまかせるものを、わざわざ痛みを受け止めにいって、何の得もあるわけがない。
けれども、ふと気づく。互いに干渉しない二人であるのに、一緒に涙を流している。涙を流すときはなぜかこの人と一緒にいる。この人といるとき、共に勇敢に痛みに向き合っている。ああ、友人だ、と思うのである。涙はこらえられていてもよい。表面にこらえられた涙は、どうせ心のどこかへ流れてゆくだけである。目に見えても見えなくてもよい。なぜこいつは、この人は、こんなにわかってくれるんだろう、そう感じて確かであれば、その他のことはどうでもいい。
醜男が女性に愛を告白する。告白された女性はゲッと思うだろう。ごめんなさい、と手早く断る。それが当然のことに思えるし、それが当然だというのは醜男の側もわかっている。
「あんな男、冗談じゃないわよね」
「好きじゃない人に告られるのって正直迷惑だよね」
友達とそう言って笑い話の種にするかもしれない。けれどもそのとき、目の前の友人は、あなたを友人でないものとして格下げしているかもしれない。特別な信頼と尊敬を与えるべきでない、そういう対象だと見限っているかもしれない。それは意図的でなく、ほとんど本能のような現象だ。
痛みはどこにいった、ということなのである。醜男は告白をした。その交際の求めを、断るのは当然だが、そこにあるべき痛みはどこへいったか。醜男には何か願いがあったはずだ。それがそもそも、叶うことはないだろうと、彼は覚悟はしていただろうが、それにしても願いを抱えるのが人の心だ。彼の心は、ふられてすぐ、その願いの後片付けをした。それを寸分でも共有していたら、人はそうケラケラと笑えないものだ。
人の心は願いを持つ。願いを持っている。醜男の願いならどうでもよいか? そんなことはないはずで、それを忘れていたとしたら、それは本当に忘れていただけだ。醜男の不細工な願いであったとしても、それが打ち砕かれることには痛みが伴う。その痛みがまるで共有されないということもない。それもずっと忘れていただけだ。他に何か大事なことがあると思い込まされて過ごした生活の時間によって。
あの醜男め、告白なんかしてきやがって、と、口ではどのようにも悪し様に言っていていい。それでも、そこに痛みがわずかでも共有されていれば、なぜかそのことはわかる。好きになってもらえるのはありがたいけど、みたいな余計なことは言わんでよろしい。ただ痛みの共有があったら、それだけで周りの人はあなたの性根のやさしさを見抜く。あなたに向けて、特別な信頼と尊敬をこっそり覚える。あなたを見る人の眼がこっそり潤んでいる。もしそれがまったくわからない人がいたら、その人もやはり人の痛みを共有できない人、それをすっかり忘れてしまっている人だということに過ぎない。
この、すっかり忘れてしまっているということが、今はけっこう深刻だ。もともとの痛みの経験が薄弱であるに加えて、生活の利便が痛みの機会を失わせている。メールで告白して、メールでふられたとしても、その痛みは直接に会ってのそれよりずいぶん軽い。デートの約束がドタキャンされるというのは、それだけでもなかなかの痛みになるけれども、昔はそれが冬空に二時間待ちぼうけして、すっぽかされてのキャンセルだった。連絡手段がなかったから。待ち合わせの状況が悪くて、大事な日に「すれ違い」、駆け回ってついに諦める、なんてこともあった。
そこにはいちいち、身体を具えての痛みが伴ったのだ。痛みを科されて、その中で人が深く試された、ということがあった。今すぐ彼に謝りたいと、真夜中に家を抜け出して走るしかない少女がいたのだ。今は利便が進んでその必要がなくなった。利便が痛みを減らしたのである。それは素晴らしいことである。もし痛みに有効成分がまったくないなら、それは本当にただ素晴らしいことだった。
時代は戻らないし、今がどうでも、人は常に次のこと、新しいことを考えなくてはならない。けれど、人の営みの本質が変わるわけではない。恋人も友人も、同じ土台、互いの痛みを共有しあえる、ということにある。それでどうすればいい、というのはまだよくわからない。それがわかったころには、こんな話をする必要はなくなっているだろう。
痛みについての話。ひとつ自白をするならば、僕はこの話をしながら、実は背中にじっとりと、しんどい汗を掻いている。なぜかというと、これ自体が痛みの話だからだ。痛みをわかりあえるのが恋人であり友人。でもそんなことは、本当は誰もが知っている。
そして、誰もがかつてはそうありたいと、一度は願ったことがある。本当の友達がほしいし、本当の恋人がほしい。自分が誰かにとっての本当の友達でありたかったし、誰かにとって本当の恋人でありたかった。その願いは、フタをしていたとしても必ずある。そしてこの願いが叶わなかった時間を、誰もが経験していて、そのたびに痛みを経験してきた。今その痛みの只中にある人もいるかもしれない。いや、そういう人がいるとして僕はこれを話してきたのだ。だから僕は背中にしんどい汗を掻いている。痛みというのはいつだって切実なものだ。
まあでも、これも自白として。僕だってその痛みの中だ。自分が誰かにとって、果たして特別な存在でありえているかどうか。心のやさしい、慈愛の深い人たちに囲まれてはいる。彼ら・彼女らは、僕を特別に扱ってくれるが、果たしてその資格が本当に僕にあるのかどうか。怪しいといったらない。僕は僕の触れる人たちの痛みを、本当に共有できているのか。共有できたつもりで、秘められたもっと深い痛みを、見落としてあっけらかんとしているだけの阿呆なのではないか。実は誰より痛みに弱くて臆病な人、なんて思われているのではないか。
いつだってふとしたときに、そういう気がするものだ。でも気をつけていなければ。もし僕が僕自身に求めるところをこなせていれば、こんなに思い出に詫びなくてはいけない人が蓄積するはずがなかったのだ。
だからなんというか、これはお説教ではなく、一緒にがんばろうねという話。痛いのはいやだね。一緒に背中にしんどい汗を掻きながら。でも分かり合えたときは嬉しいし励まされるね。僕にもう少し物を書く能力がつけば、あなたの傍に立っていられるか。
じゃあ、またね。
[了]