No.210 i Fuckin' love you
マジメというのはまったくよくない。マジメという精神状態は、努力の果てにたどり着くのでは実はない。発條(バネ)を失ってみじめになった心が自動的に安着する先がその状態というだけなのだ。それをPTAが褒めるからだまされるのである。
人は遊ばなくてはならない。人は遊ぶとき僅かに卑しくなくなる、と言ったのはたしか高村光太郎だ。僕もまったく同感だ。
僕は酔っぱらいたちが大声で騒いでいるのが嫌いだ。なぜ嫌いかというと、酔っぱらって大声を出しているくせに、精神はなんら解き放たれていないからだ。普段の会話を加熱しておおげさにしているだけで、まったく嘆かわしい。
むかし僕の後輩が、酔っぱらって、童貞のくせに「ちょっとナンパしてきますよ!」と意気込んで立ち上がり、隣で飲んでいた白人女性に声を掛けにいった。どうすんだよと笑ってみていたら、開口一番、「ハローゥ、アイム、チェリーボーイ!」と仁王立ちで自己紹介した。運良く白人女性も十分に酔っぱらっていたから、「オーウ、ファッキン、アイラブユー!」と笑ってくれた。それで、ネイティブの英語になんかついていけないので、彼はすごすご退散してきたが、戻ってきてのコメントは興奮して「めっちゃいい匂いしましたよ!」だった。幸せな奴。こいつは国立大生のくせにアルバイトの面接に四度連続で落ちるという愚かぶりの者だったが……
チェリー・ボーイというのが英語圏にちゃんと伝わることのほうが驚きだった。
そういうふうに精神のフタが開いてしまう酔っぱらいは好きだ。でもそれは、大声ばかりになるというのとは違うし、いくら大声になったって景気の悪いものは景気が悪い。
マジメというのはその精神のフタが開かないということだ。
マジメはよくない、遊ばなくては、なんて思ったって、その発想がもうマジメだ。そういう人がマジメな自分を拒絶すると、どうしたって貧弱なオフザケに堕する。オフザケというのはありふれていてつまらない。精神のフタは開いていない。
マジメな人の言うことや発想することは、みんな同じなのだ。「一般」の発想に全て準じるのである。だから言ってしまえば、マジメな人の発言や発想は必要ない。もう常識の中に組み入れられてあるからだ。
たとえば少年が、「好きな人がいるんです、どうしたらいいでしょう」と言う。そしたらマジメな人は、「思い切って告白したほうがいいよ、そうでないと後になって後悔するよ」とアドバイスする。せいぜい、「相手の気持ちを思いやりつつ」「でもダメモトのつもりでやらなきゃ」ぐらいだ。お酒が入ると、同じ言うことの音量がデカくなるだけである。
僕はそんなアドバイスはしない。僕ならば、「よし、まずアメリカに行ってこい」と言う。なんと有益なアドバイスだろう。
僕はまだアメリカに行ったことが無く、これからの愉しみに残している。
自分が世界で一番偉いと思っているほうがまだマシだ。いや、それでも不十分か、世界で一番というより、世界で唯一オレだけが偉いと思っているほうがいい。そういうのは罪が無くてよろしい。世界中の美女は基本的に全部オレのものだと思っていてよいし、僕なんかまったくそのクチだ。
そこを中途半端に、自分はそこそこ平均的な人物で、その中で割りと人間がデキている、なんて思っているほうがはるかにタチが悪い。謙遜ぶって安全圏に居続けるくせに、こっそり傲慢だから都合の悪いことはねじ伏せて自分を変えようとはしない。そんな男に口説かれたら女は気分が悪いだろう。マジメに湿っぽく迫ってくるぶん、断るにも気持ちが重たいし、かといって受ける気にはまったくならない。
それならまだ僕のほうがマシだ。なにしろ世界中の美女は基本的に僕のものなのである。たまたまそのとき、僕は目の前のその女性を気まぐれに口説いているに過ぎない。
人間は誰でも魔が差して判断を誤ることがあるから、僕が口説いても断る女性が出てくる。それはしょうがない。そのようなとき、世界で唯一的に偉い僕は、さすがに偉いだけあって、出来る限り彼女が気分よくその夜を閉じられるように気を配るのだ。なんといっても気持ちの余裕が違う。僕は人間が小さいので、もし僕が世界で唯一的に偉い者でなければ、フラれたことに気を滅入らせて彼女との空気をしんどいものにしてしまうだろう。余裕なんかこいていられるか。けれども世界で唯一的に偉いのであるから、気持ちのゆとりは無尽にあるのだ。
自慢じゃないが、僕なんか世界で唯一的に偉い者であるからには、目上の人にはきちんと頭を下げるのである。本当に先生と呼ぶべき人には、僕なりに全力で尊敬の気持ちを向けて当たる。そうでなくては偉い者としての示しがつかないだろう。別にそういうルールがあるわけではない。僕は世界で唯一的に偉いので、僕だけはルールにしばられなくていい。ただそこまで偉い者になると、勝手にそういう美意識が芽生えてくるものなのだ。僕は女子中学生に悩み事を相談されたときでも、それを軽薄と舐めてはかからずに、話を聞くからには最後まで聞く。たとえ彼女のブラウスが透けていても、話を聞くときには聞くことだけに集中してしまうものなのだ。そうでないと何も偉くないではないか。
人は常識を知るべきだけれども、常識に縛られるべきではない。あらためて淡々と言うべきに思うが、常識というのはある。厳然としてある。でもそれが「ある」からといって何なんだ? それは永遠不滅の教理か何か、ご本尊みたいなもので、最終的な勝利と法悦を確約したものなのか。誰もそんなことは言ってないだろう。常識は知るべきであるが、あくまで知るべきにとどまるものであって、支配されるべきとは誰も言っていない。好きで支配されたいという人がいたら別だが。
常識が「ある」というのは、外国語の映画に字幕が「ある」というのと同じで、知っていなければただの馬鹿だが、知っていたとして必ずしもそれを使わねばならない理由はない。字幕なしの設定にして映画を観てもかまわない。それでは物語の筋がわからないと言われるかもしれないが、筋がわからなかったとしていったい何の問題がある。しょうもない映画なら、筋がわからないほうがロマンチックに見えることもあるかもしれないだろう。そんなものは好き勝手にすればよいことだ。
くれぐれも言っておくが、マジメというのがまったくそのようによろしくないとして、僕は何も人人にそのマジメさをやめるようにと勧めたり命じたりしているのではない。マジメというのはまったくよろしくないが、そのマジメから離れてあるのは僕だけでいい。もし僕がそのように人人を啓蒙しようとしていたりしたら、それは僕自身がマジメじゃないか。僕は決してそのようなことを発想しないのである。特に男どもにはマジメを捨てて精神のフタを開けられては困る。それでは女を獲得するのにライバルが増えるだけ僕が損だ。だからマジメというのがまったくよろしくないにしても、そのよろしくないものに引きずられる人が多いことは、逆に僕にはまったくよろしいのだ。
だから僕はここに全力でアドバイスする。みんな、これからも一層マジメさを磨くように。もっともっとマジメにならなくてはいけない。背中に「PTA」と刺青を入れろ。
こんなに嘘偽りのないアドバイスも世に珍しいものだ。
どこかで話したような気もするが、このところ僕が気づいて、気づいてしまうと納得のいかないことは、なぜ僕は通りすがりに目に付いた美女・美少女のバストを、その心のままに少し触ったり揉んでみたりしてはいけないのだろうか。女性にもそのときの気分はあるだろうから、なにも強制的にというのではない。僕は女性の幸福を願っている。けれども、僕が通りすがりの女性のバストに触れてはいけないということは、どう考えてもまず直観的に理屈に合わない。これからの世界は、僕が好きに女性のバストに触れていい世界へ進んでゆくべきだ。
その世界像はなんとも平和的ではないか。
他の男についてはそうであってはいけない。当たり前だ、女性の体を好き勝手に触っていいなんて世界がどこにある。そんなのはまったく気分の悪い話である。僕だけがそれを許されているというのでなければ僕は何も楽しくないし僕にとってなんら魅力はない。
僕にも常識はある。あるけど使っていないだけで。そして僕も丸きり馬鹿というわけではないので、この手の語り口が一部の人人にはもう通用しなくなっていることも重々知っている。それこそマジメな人には、聞いていて吐き気がするような話だったかもしれない。吐き気を覚えさせるのは僕の狙いではなかったのでそのようなときには申し訳なく思う。
けれども僕は知っているのだ。体験から、常識よりもっと深い程度において。拍手して、あなたが正しいよ、と笑ってくれる人がいる。「服の上からでいいの?」と、バストを差し出してくれる女がいるのだ。
そうでなければ僕のような奴が恋あいの端っこにも触れられるか。
マジメな精神からアイラブユーがもらえないことは僕にもさすがにわかっている。だから僕は、ファッキン、アイラブユーの声が聞きたいのである。そこにめっちゃいい匂いがすることは僕にもよくわかることなのだ。
[了]