No.221 communication, オレらの言葉3
「オレら」は物語を生きないといけない。そうでないと、自分が生きたことにはならないし、そこに物語がなかったら、生きるのはしんどいばっかりだ。週に五日、学校から就労へ、勤労が始まれば四十年間、これが物語じゃなかったらただの苦悶だ。女性が早くに結婚して、子どもを産んで気楽に過ごせたとしても、その五十年間が「よくわかりませんでした」というのでは虚しすぎる。そんなことはありえない、あってはいけないと誰だって知っている。それは子どものころにはもっと生きている実感があったとどうしても知っているからだ。
物語というのは、何もたいそうな、ドラマチックに仕立てた筋書きのことを言うのじゃない。もっと当たり前の、生きることそのものだ。そうでなかったら子どもの夏休みの何がまぶしかったはずがあるか。
僕はずっとそのことを考えてきた。誰だって疑問に思ってきたんじゃないか。物語というのは手ごわい、意識したって手に入らない。
生きる上で一番手ごわいのが、この生きることの手応えだというのだからやっかいた。この生きることの手応えがないまま五十年が過ぎることはいくらでもある。むしろそっちが主流のスタイルとしてまかり通っている。それは「オレら」には関係ないが、つい引き込まれてしまうこともあるから注意が必要だ。
物語というのは、まだ白紙の一ページ目を指す。物語を体験するということ、物語を生きるということはそうだ。自分でその白紙に自分の生きることを書き連ねてゆく。これが前もってあれこれ書いてあったら自分の物語を紡ぐことにはならない。
自分の物語を生きるのではなくて、誰かの物語を「観察」することは別にできる。前もって書いてあるものを読み取るということは簡単だ。それはテレヴィでよくやる「ちょっとイイ話」みたいなコーナーにいつでも見れる。それに涙を流してしまうこともあるが、それはあくまで観察の涙であって自己が物語を生きることの震えではない。当然だ、自分が物語を生きるとすれば、自分はむしろ観察される側なのだから。「オレら」は観察される側であって観察する側ではないのだ。こんなことさえ、気をつけていないとすぐに見落としてしまう。
物語に必要なものは何か。それは「白紙」だ。まっさらの、まだ手の入っていない、二人きりの(つまり登場人物のみ、オレらのみの)広大な沃野だ。こいつが発想を変えないと手に入らない。発想を変えるというのも、ものすごい大逆転だから、まず普通は受け付けてもらえない。物語を「観察」するものだと捉えている人には特にだ。
まっさらの、「白紙」、これはまだ何も書き込まれていない。だから、何の価値もない。この何も価値がないものを店に探しに行くのは困難だ。また、もしそれが道端に落ちていたとしても、それは価値がないものなので誰も目に留めない。それよりは、これには価値がありますよとふんだんに誇張されたものを大慌てで漁ってしまう。
つまり、我々が本屋に行ったら、この小説はすばらしい、この物語は感動的だ、と喧伝されているものに、その喧伝をあるていどアテにして本を手にとってしまう。そうして手に取った物語は確かに観察する上では滋養の豊かなものだ。だがそれをいくら吸い上げても自分の物語を生きたことにはなっていない。あなたは書店に行って新しい物語小説を手に取った、わけではない。「読書という趣味は有益で、高品位で、この小説は優秀で価値がありますというものを、人は手に取るべきです」というのを、あなたはなぞっただけに過ぎない。
ずばり言うが、そんなことで人の生きること、生きる実感、物語を生きることは、なんら豊かにならない。錯覚だ。価値あるものを吸い上げていたら自分にも価値があるように錯覚するだけだ。そこに楽しみがないではないが、自分の生きたことにはつながっていない。ショーペンハウエルははっきり言っている、読書なんかに耽る奴は基本的にアホだと。あなたは子どものころ夏休みに高品位なものを吸い上げて自分の価値を増そうなどとしなかった。だから生きることそのものの手応えが毎日にあふれていた。毎日、何も企まずに家を出て、毎日の景色を手づかみにしていたはずだ。子どものころに誰が風光明媚の観光名所に興味を持つのか。
同じ書店に行くなら、「迷いこめ」。あれがいいはず、これはだめなはずとか、大人ぶった知識など使わず、手に取ったそれに「迷い込め」。そのことには何の価値もない。読書の利益は非効率になるだろう。ただ生きることの実感が取り戻される。生きるというのはそういうもので、自分の物語は効率的にはできていない。効率を求めるというのは物語を諦めるということだ。
かといって、これが手ごわいのは、じゃあそのようにしてみましょうとしたって、それは僕の話を鵜呑みにしただけに過ぎないということだ。だから僕は前に言った、「俺の話なんか聞くな」と。
「オレら」ということの、何がいいかというと、それは冷めてないってことなんだ。無益だ、というのも冷めているし、有益だ、というのも冷めている。その無益とか有益というのはつまり価値観なんだが、その価値観は過去とか常識とか現実という感覚などによって引き起こされている。
それぞれに、「自分」という感覚がある。ごく当たり前の日常的な感覚だ。これは過去とつながっているし、常識を豊かに持ち、現実という感覚と強固に接続されている。現実という観念もひとつのカルト宗教みたいなものなんだが、これを外側から指摘しても当人は絶対にわからない。カルトの当人がそれをカルトと理解できるはずがないからには。
それでどうなっているかというと、
「現実的に、普通の幸福になりたいでしょう。それ以外はマジありえないっていうか。常識的に考えて」
というふうになる。このことにいちいちオタオタする必要はない。ごくありふれていて、とうの昔に聞きなれたものだ。
ただそこに、自分の生きることの実感とか、自分の物語を生きるとかいうことは伴っていない。だからあまり深く考えないようにして、習い事や趣味を増やしたりするのだけれど、そんなことで自分の生きる実感なんて絶対に手に入らない。
必ずしも、その自分の生きる実感などが、必要とは限らないけれども。ただ僕はそれがどうしてもいやで、何十年も生きたけどよくわかりませんでした、生きること自体が、なんて結果にポカーンとしておしまいなんてのはいやなのだ。それこそ趣味の問題かもしれないけれど。でも誰だって本当はそうじゃないのかと思っている。生きることの実感、自分の物語を生きることが取り戻されたら、その途端にそれを抱きしめるに決まっている。僕はそう確信しているし、そうでない可能性を考えることさえ馬鹿馬鹿しい。
僕が「オレら」という現象に注目しているのは、それが物語に接続するものだからだ。「オレら」というのはそれ自体がcommunicationで、そこから言葉が生まれてくることもある、花火のように、と話した。僕は自分の確かめてきたことからそう確信しているが、僕はそのcommunicationということだけでゴールにしたくない。それだけでもすごく身体を熱くしてくれるものではあるけれども。
「オレら」の現象は「物語」に接続している。それは「オレら」の現象が「自分」を踏み潰してくれるからだ。「自分」を封印してくれるといってもいい。「自分」というのは、過去を引きずっていて、常識に染め上げられていて、現実という観念に強固に縛られている。そうでなくてはもちろん人は社会を生きていけないが、この「自分」だけで生きていくということは、自分の生きる実感と物語を奪ってしまう。全部が世間の教本をなぞることになってしまう。これは恐ろしいものだ。「世間の教本なんかに縛られてはだめだ」ということさえ、もう教本に書いてある。
こいつを、バサァ、と、地面に落としてしまうこと。そのことが「オレら」の現象の入口にある。何しろ、たとえば僕とあなたがあったとして、そこにあったはずの「オレ」「あなた」が破棄されて、新しく「オレら」という存在になるのであるから。
もちろんこれは、複数人が集まって、「自分」をそれぞれに持ち寄ったって駄目だ。それは社交とかダベりにすぎない。それはファミレスでダラーッとしていても、上品なお茶会でオホホと言っていても同じだ。同じ社交なら上等なもののほうがよいかもしれないし、異業種交流会とかパーティとかには価値がある。あくまで社交としての価値が。これができないようでは常識人・社会人として失格だが、そのことと今話していることはまったく別だ。
「オレら」というのは社交ではないので、子どもでも、老人でも、美少女でも、僕のような人間の屑でも問題なく加わることができる。自分が子どもだとか老人だとかいうのは「自分」だ。その「自分」を持ち込まなければ子どもも老人も美少女もない。「オレら」しかない。もちろんその常識的なギャップが大きいほうが、その現象を起こすのは難しいけれど。
僕は自分を屑だと思っているから、自分が誰かより偉いとも思わないし、誰かが僕より偉いとも思わない。社交のときはまるで逆で、僕は社交ではけっこう保守派だけれど。でも「オレら」の中では僕が中学生に説教されておかしくないし、老人に「てめー足弱ええな」といってけしかけてもかまわない。それがひどいことのように聞こえるのは「オレら」じゃないからだ。「オレら」の中であれば「ひでえなテメエ」ということも全的な肯定において受け取められる。ただそこに乱雑な言葉は出ることがあっても、「俺的にはさぁ」というような不潔な言葉は出てこない。
それぞれに「自分」というものがあって、これはそれぞれにもうメモ書きでいっぱいだ。何をしたら良いことか、何をしたら悪いことか、こういうことは普通のことであるとか、ぎっしり書いてある。それが「自分」だ。
ただどうだろう、こんなわかりやすい話でもいい、僕とあなたとで、コンビニで一冊のノートを買う。100円ずつ出し合ってだ。「オレら」の行為として、「オレら」のノートを買った。その「オレら」のノートに、僕がまったく自分のことを書いてよいか? 自分がこれまでにメモ書きしてきた「自分」のことを、こっちにも書き写そうとして書き写してよいか? 自分のものではないのに。それは駄目だ、「オレら」のノートである以上、そこには「オレら」の言葉を書いてゆくべきだ。そのとき改めて見ればわかるが、ノートはまだまっさらの白紙である。二人でノートを覗き込んで、何を書こう、と相談する。けっこう悩む。
このとき、覗き込む二人が、子どもだったり美少女だったり、僕だったり老人だったりして、その誰がいったい「偉い」んだ。
僕はそんな当たり前のことをずっと話している。
二人で覗き込んだノートに、「○月○日、××駅、今日は雷雨」と書いたとする。それのどこに、いったい批判の余地があるのだ。全的な肯定において、「オレら」自身に受け止められるしかない。その「オレら」のノートが書き進められて埋まっていけば、きっとそこに書かれたことは全て「意味」がない。そりゃそうだ、これは授業や訓話をメモしたノートではないのだから。一見していかにも意味のないことがずっと書かれていくだろう。でもそのノートを捨てられるのか。意味がないからといって期限の過ぎたクーポン券のようにゴミ箱に捨てられるのか。
やっぱりそれは思い出になるから捨てられない。このときこの人と二人でこのノートを覗き込んだんだ、ということをずっと覚えている。そしてノートが埋め尽くされて進む中、もともとの発端はどこにあったのかというと、やはり物語の起点は、「○月○日、××駅、今日は雷雨」だ。これが「オレらの言葉」である。何も難しいことじゃない。
僕がこだわっているのはまさにここなのだ。そのノートに何が書かれるかじゃない。そこに何が書かれるかは、そのときの「オレら」の構成による。何かをもって、こう書かれたものが良いものとか、悪いものとか、普通のものとかは言えない。それは意味を持っているものではないから。そうではなく、そのノートを覗き込む瞬間なのだ。「オレら」のノートを覗き込んだとき、互いに言葉をむしろ封じられてしまう。今まで豊かにしていたはずの、「自分」の言葉、「自分」の言いたいこと、意見、考え、そういったものが全て封じられてしまう。「自分」はもう踏み潰されてしまったのだ。これまで、それぞれの「自分」があったはずが、ここに「オレら」となって、新しい自由を得る。
これまでの「自分」が真面目チャンだったとしたら、「オレら」のノートにはこう書いていい。
「やってられるか、くそったれめ!」
二人してやさぐれていたら、こう書いていい。
「おれたちはやるぞ!」
それが「オレら」にふさわしいと認め合ったのだからそう書いていい。「自分」がどれだけ屑でも「オレら」のノートにはその愚痴を書いていい権利はない。だから、僕は自分を屑だと思っているが、そのことが自分を苦しめはしない。俺は屑でも「オレら」は屑ではなかった。「オレら」は容赦なく僕の「自分」を踏み潰していってくれたものだ。
社交やダベりといったものも悪くない。そこで有益な価値観との接触はありえるし、疲れたものを癒すこともある。ただそれはcommunicationではないし物語でもない。いくら恋人になったって結婚して夫婦になったって駄目だ。「オレら」というのはそういう現象じゃない。
お互いに「自分」を持っていて、「自分」のノートはすでにメモ書きだらけだ。その中で、よくまとまった部分を遠慮がちに見せ合う、というやりとりはある。それは品の良い社交だ。あるいは互いのノートを見せ付けあって、お互いに覗き込みもする、ということもある。それは意見の言い合いだったり、互いの「自分」を理解しあうことだったりする。これはこれで普通にあることだ。ただし、自分のノートばかりで相手のノートを見る気を持たない、ただの喧々囂々というのはもっと初歩の次元において値打ちがないけれど。それにしても、それらの全ては「オレら」の現象とは違う。
「オレら」の現象は白紙から始まるから。白紙だから何を書いてもいい。何を書いてもいいのに、我儘勝手には書けない。それは「オレら」のものだからだ。
その白紙に描かれていく物語は、外部には秘密だ。その「オレら」の物語を生きた者にしかその物語が何であったかはついにわからない。いくら「観察」しても、それを自分で体験することはできない。涙を流したとしてもそれは他人事に向ける涙だ。他人事に向ける涙が腐っているというわけではない。ただ別物だ。
卒業写真に、クラブ活動の集合写真が載っている、その中に「あれ、この一枚だけ、背景がおかしいし、なんで一人はパジャマなんだ?」ということは、外部の者にはわからない。その物語を生きた当人らだけが知っていて、「まあいろいろあってね」と答える。彼はその物語を説明はできるが、そこに「イイ話」があったとしても、その観察はその人に物語を生きることを与えるわけではない。
もしあなたと僕とがいて、あなたが「物語がほしいですね」と言ったとする。僕はそれに、「そうですね」と社交的に答えることもできるが、もうひとつには、本当はこう答えないといけない。
「そんなわがままを言うな」
物語がほしいですねということの、何がわがままなのか? それは、それを「言う」ということがわがままだ。自分の考え、自分の思い、自分の言葉を言うことがわがまま。それはあなたの「自分」の言葉で、僕は僕の「自分」において、それに同意することもできる。
けれどもそれに同意しているうちはあくまで社交だ。「オレら」の現象じゃない。
「オレら」の現象にもし進もうとするなら、別にあなたと僕に限ったことではなく、誰でもこういう道筋をたどるしかない。
「物語がほしいですね」
「そんなわがままを言うな」
それがなぜわがままなのかということを、僕は説明してはならない。説明したら落ち着いてしまう。そういうことか、と理解して、ふぅ、と一息ついても駄目なんだ。物事の理解を増やせばあなたの「自分」はリッチになるのかもしれない。でもそれはどこまでも「オレら」の現象ではない。
「わがままを言うな」
ただそれだけを厳しく言い放って、視線がズバッとあなたを貫かないといけない。そして、なぜそれがわがままなのかという「理解」を得ないまま、でも何かが通じる、何かがわかる、ということが起こらないといけない。それがcommunicationという状態だから。
何かが通じて、何かがわかる。理解を飛び越えたまま。でも、それを「わがまま」と言われてしまうと、あなたは言葉を封じられてしまう。自分の言葉を言うこと自体が「わがまま」だと言われてしまったら。
この、言葉を封じられたとき、人は選択肢を迫られている。飛び込んで新しい「オレら」となるか、敵前逃亡のように引き返して、強引に「自分」に戻ってお茶を濁すかだ。そこで引き返しているうちは、communicationとか、自分が生きる実感とか、物語を生きることとかは、決して手に入らない。過去、常識、現実、いろいろなこだわり……すでに膨らみきって読み返す気も起こらないほどの「自分」のメモ書きを、さらに書き込んでしんどくしてゆくしかなくなる。
***
「わたしたちで旅行をしましょうか」と、ふつうに言っても、これは「オレら」の営みには入らない。ふつう、旅行は素敵で楽しいものだと、それぞれ「自分」のメモ書きにすでに書いてある。それをなぞることは新しい物語の書き出しではない。
何か有意義で楽しいことを積み重ねなくては、と思っていたらそうなる。無意識のうちにだが、「自分」のメモ書きの中から、有意義で楽しいことをササッと検索してしまっているのだ。その「自分」のメモ書きというのは、おおよそその有意義なことや楽しいことの欄で埋め尽くされている。あくまでそれに「自分」同士で合意して、旅行にいくことは何も悪いことではないけれども。
有意義なことや、楽しいこと、というのはやっかいだ。実はこれが、今のところ最大の敵でもある。
実は最近、世の中が楽しくなりすぎた。何か面白いことがなくなった気がしているが、それはひとつの錯覚だ。むしろ楽しいことが増えすぎてしまったために、人人の物語を生み出す能力をスポイルしてしまったのだ。
これは論理的に説明がつく。
子どもにミニカーや戦闘機のミニチュアを与える。いわゆる「おもちゃ」だ。子どもはこれで何時間も遊ぶことができる。大人はそうはいかない、大人が遊ぶには、実物の機能をもった自動車でなくてはいけない。大人が遊ぶのはimaginaire(イマジネール)ではなく具体的な刺激などであるから。
子どもはイマジネールで遊んでいる。「おもちゃ」はあくまでその媒介でしかない。男の子ならミニカーや戦闘機がそれで、女の子の場合はお人形やおままごとだ。彼らの遊んでいるのは、見た目にはおもちゃだけれども、本当には彼らが作り出す架空の物語においてなのだ。彼らは物語を作り出すことで遊んでいる。だから彼らの遊びというのはどこかふざけていなくて大真面目だ。おもちゃを取り上げでもしたら泣き出してしまう。
その物語がどのようなものであるかは、周りで見ている大人たちからは決してわからない。わかるのは一緒に遊んでいる友だちだけだ。戦闘機のミニチュアを与えれば彼らは戦争ごっこをする。大人のやるサバイバルゲームのような、戦争の模擬としてのごっこ遊びではなく、架空の物語を作り出すごっこ遊びとして。なんなら友だちといわずとも、知り合ったとも言えないほどの、初めて公園で出合った誰かとでもそのように物語を共有して遊ぶ。「オレら」の関係で、「オレら」の物語を作り出して遊んでいる。
重要なことは、それらの「おもちゃ」が、それ単体では何も「面白くない」ということだ。ただのミニチュアで、大した仕掛けも入っていない。それ自体に何のゲーム性があるわけでもない。子どもだってそうで、おもちゃそのものに彼らは興奮しているわけではない。だから大人のようにミニチュアをコレクションして磨いてかわいがったりはしない。それを使わないときはおもちゃ箱に放り込んでほったらかしだ。
それ自体では面白くないからこそ、人間のもつイマジネールの機能がはたらき始めるのだ。何もそれをして遊ぼうと強い意志をもって取り組むのではない。ただうずうずしてたまらず自然にその遊びを始めるだけだ。遊びといっても彼らは真剣で、彼らはその中で生きる実感を愉しんでいる。彼らはまさに物語を生きているのだ。彼らが戦闘機のミニチュアを手にしたとき、その戦闘機の織り成す物語はまさに白紙で、新しい一ページ目から自由に書き出される。彼らはただ、それを他人から観察可能な形に仕上げて提出はしないだけだ。
人は元来そのようにして遊ぶものなのに、最近はいろんなものが面白くなりすぎた。おもちゃのひとつひとつも、何かと気が利いている。大人でもそこそこ遊べるほどのものだ。大人でも遊べるということは、そこにイマジネールは必要ないということである。
特に最近はヴィデオゲームの発達はすさまじいものだ。これこそ僕自身の体験から断言してよいことだが、むかしヴィデオゲームがまだ「ファミコン」だった時代、ゲームというのはさして面白くなかった。面白くなかったのだ。だから大人たちはそれをピコピコ遊びと呼んで子どものものだとしていた。
僕ははっきり覚えているし、今でも体感として確認することができる。大昔の「ドラゴンクエスト」、そのグラフィックや音響は今に比べてたいへん粗末だ。それをピコピコ操作していても実のところつまらない。つまらないから何をしているか。イマジネールを立ち上げているのだ。そう意図しなくても、子どもだから自然にそうなってしまうのである。あれは実は「おもちゃ」のひとつだったのだ。画面上で操作して遊べるおもちゃ、ミニチュアだった。ファミコンのドラクエで竜王を倒すことに臨場感などありはしない。だから大人が観ていても何が面白いのやら、何が少年を熱中させるのやら、わからなかったのだが、それは結局ミニカーや戦闘機のミニチュアでごっこ遊びをすることの延長だったのだ。僕はいまでもこの現象を自分の体感で確認することができる。古い時代のファミコンを引っ張り出して遊んでいると、粗末なグラフィックでとてもつまらない。ところがあるところで、ふと、自分が想像力で遊び始めていることに気がつく。主人公がどのような人物であるかは作中に描写されない。が、自分の想像力はそれを次第に作り上げていく。実はユーモラスで、自分のやっていることに正義を覚えているわけではない。どこかトボケた「勇者」の姿がそこには浮かび上がってくる。あくまで僕の作り出す物語の体験として。
今のそれは、かつてのヴィデオゲームとはまるで違う。それは、大迫力の画像と音響を伴った、ヴァーチャル体験のシミュレーターだ。それはそれで面白いし、大人でも熱中できるほど面白いのだが、そのぶんイマジネールを引き出す作用は持っていない。むかし大人たちはファミコンをピコピコ遊びと呼んで馬鹿にしたものだが、本当のところで馬鹿にされるべきは逆だったのだ。大人たちこそが、それをピコピコ遊びにしか見えない貧しき者で、「ドラゴンクエスト」を体験する能力と資格を持ち合わせていない者だった。
そしてそれは残念なことに、今の子どもたちについても当てはまることかもしれない。今の子どもたちはきっと、もうファミコンのドラゴンクエストで遊ぶことはできないだろう。特に、画像と音響の立派な最新機器で遊んでしまったらもう駄目だ。子どもたちはイマジネールが立ち上がってくる遊び、物語を体験するということの楽しみを知らないまま育つことになる。それはどれぐらい哀しいことなのかちょっと想像もつかない。できれば、このようなことは杞憂であって、子どもらのイマジネールの本能はそのような事情など突破して健全にはたらく程のものであると信じたいところだ。
誰でもこのようなことを想像したことはないだろうか。見知らぬ者同士、年齢も出身もばらばらの者たちが、海難事故で無人島に漂着する。自分を含めて、彼らはそこでしばらく生き延びねばならない。そうなったとき、どのようなことがあるだろうか、ということを、何か憧れをこめて想像したことが。
それは、そのようなところにこそ、物語というものが体験されうると、本能がこっそり見抜いていることによる。見知らぬ者同士が「オレら」とならざるをえない状況。そして、愉快なものや楽しいもの、有意義なものなどまるでない状況。このような中でこそ、本当のcommunicationが起こり、物語の体験があり、本当の友人を得ることがあるのではないか、とどこかで気づいているのだ。その無人島や、ファミコンのピコピコ時代、家庭に一台のテレヴィと黒電話しかなかった時代に比べたら、楽しいことは激増してしまった。このことは今さら逆流するものではないし、この中で自分が物語を生きるというのは容易なことではない。イマジネールは活躍の場を失い、いよいよ絶滅危惧種のように追い詰められてきた。
***
驚いたことに、もっと<<つまらないもの>>にしなくてはいけない。「オレら」という現象を立ち上がらせるためには。そこに本当のcommunicationを起こし、本当に物語を生きていくためには。
つまらないほうへ向かっていくということは、一見、勇気が要る。はちゃめちゃと輝いて自分を慰めてくれているものを一旦でも取り外すことには。
でも、「楽しくない」ということはそんなに恐怖か? 恐怖するというのは馬鹿らしいじゃないか。別にそこまで重大な損失があるわけじゃない。
逆に、ああ楽しくなくていいんだ、そっちへ行っていいんだ、ということのほうが自分に自由と勇気が湧く。ひょっとしたら、今まで自分が「楽しくなくては」と思い込みに駆り立てられていたことに気がつくかもしれない。それは実際、たいしたことではないのだ。楽しいといったって、本当に顔面が熱に焼けるほど楽しいときは、何もそれを手放さなくてもいいと思うが、どうせいつもいつもがそんなに楽しいわけじゃないだろう。
付き合いたての当初、楽しさに浮かれているカップルこそが、すぐにでも不毛なこじれに陥って、貧しい別れ方をするのをあなたは見てきたはずだ。そういうカップルの浮かれ具合には、誰でも苦笑するが、その時点で何か破局の予兆がすでに感じられてあるはず。本能はちゃんとそのことを見抜いている。
それよりは、「楽しい、っていうわけじゃないけど」と穏やかに笑う、ああなんだか幸せそうだ、と見える二人をして、ああこの二人の関係は本物だ、何か物語に踏み入っている、と荘厳なものを感じさせられることがあるはず。
楽しいというのは実はたいしたことじゃない。自分が生きることの実感、物語を生きることの実感を抱きしめることの悦びに比べれば。
堂々と、まずつまらないほうへ進んでいっていい。つまらないといっても勿論、それぞれが我儘勝手にソッポを向いてつまらないというのでは論外だ。そうではなく、二人が二人以外の何物をも持たなくなる。二人は二人きりで広大な沃野に立つのだ。それで、これからどうしようか、となる。楽しいことなんてそこからいくらでも継ぎ足せる。
楽しいことを剥ぎ取ってゆけば、そこにはついに二人しかなくなっていく。何も無人島にいかなくても、その状況へ接近することはいくらでも出来る。
僕は以前から、デートといえば映画が定番という発想があって、でもデートで映画というのは下策だ、と言ってきた。それは、映画が楽しいものであるから。楽しいものを媒介させて仲良しになったって、それはただの共通の趣味人でしかない。それよりは、映画を見に行くはずが、公園で話し込んでしまい、夜更けになって警備員に追い出された、というほうがはるかに豊かだ。彼らは映画の物語を観察するような必要はなかった。彼らは観察される側としてふさわしい者らになりえたのだ。
「お二人を、邪魔しては悪いから」という言い方がある。映画に限らず、万事の楽しいものというのは、この「邪魔」に過ぎないものだ。いくら愉快な友人がいたって、恋人の二人が語っているとき目の前にいたら邪魔でしかない。勿論そういう状況はあるし、そういうときは彼のことを無視しろといっているのではない。そういうときは、彼も含めて「オレら」を新しく形成するほうへ向かうしかないということだ。広大な沃野に三人がいて、うち二人が恋人というのでもいい。「オレら」という状態は、そのように、楽しいものが何もないはずが、果てしなく豊かだ。
楽しいものが邪魔だからって、何も二人して荒野に逃げ込む必要はない。それでは生活が不便でしょうがない。祭りの道中で大道芸人を見かけたら、二人で座り込んで見物していったらよい。でもそこに「オレら」が形成されていたら、その大道芸人のパフォーマンスも、「オレら」を彩る花火のようにしか受け取られないはず。邪魔にはならない。それは二人のそれぞれが大道芸人を見物して楽しんでいるのではないからだ。「オレら」がそれを見ている。「オレら」の営みにそのシーンが加わっただけだ。
お互いに、「自分」というものがあって、実生活を生きていくには、この「自分」を豊かにしていくことも求められる。けれどもそれを「オレら」に持ち込むのは筋違いだ。そこに「自分」を持ち込んだら、二人は接近しようとしている二体の「自分」でしかない。それは互いの「自分」を豊かにするところもあるけれども、近づきすぎればストレスになるし、それを繰り返しても物語にはならない。
「自分」をぶらさげてくる奴は来客だ。初めから適当なタイミングで退散する前提のお客様に過ぎない。それはそれで結構だし、それをもてなさないのは失礼にあたる。けれど、たとえば僕が、「いやあ最近は文章を書くのにこういう発見があってね」なんて話をあなたに持ち込んだってしょうがないだろう。「素敵ですね」ともてなしてはくれるかもしれない。でも僕はそのイベントに心底から悦びを覚えられるわけじゃない。
だからどうか、俺の話を聞かないでくれ。出合ったときにはどうか、ささやかな時間でいいから、何もない空っぽのほう、無限の沃野のほうへ。少し照れくさいけれども、なんでもない「オレらの言葉」が成り立つのを待ってくれ。それが本当に人と出会うということであるから。
[了]