No.222 「いらっしゃいませ」
僕は店に行くのが好きだ。飲食にしても物品やサービスの販売にしても。通信販売というのは好きになれない。便利だから、つい使うけれど、きっと一生、好きにはならないだろう。
店には店員さんがいて、いらっしゃいませ、と言う。このこと自体が、僕は好きだ。無くても生きられるが、無くては困る、という思いが強くある。なぜ、ということは答えにくい。それは夜空から星が消えては困る、というぐあいに困る。
僕がこれまで生きてくるのに、「いらっしゃいませ」の言葉に、救われてきた、というのは大げさだ。でも、救われてはいない、というのも外れている。その言葉と、まつわる営みは、ごく小さな点在だが、僕の生きることの中に重なってある。なんとなくいい、とは言えないし、重大にいい、ともまた言えない。
僕が言いうるのは、彼らが、「いらっしゃいませ」の言葉に、つながってある、ということだ。一流の、という言い方は良くないが、一流の人たちは、その「いらっしゃいませ」につながって生きて、誠実を極めてこられた。
僕はそれに触れて、その感動に浴して生きてきた。感動、という言葉は大げさな気もする。けれども、感動ということはまったく嘘ではない。
僕は何年か通ったバーが、充電期間で閉店になるというとき、そこのマスターが本当に尽くしていた誠実さ、その「いらっしゃいませ」の結実にようやく気づいた。最終日、混雑するだろうからということで、初めて若いヘルプが入った。もちろん優秀なスタッフだ。
けれども、彼がカウンターでグラスを洗い出した瞬間から、僕はおちおち酒を呑んでいられないほどざわついた。そこで、あっ、と気づいた。今までマスターが、その作業をどれほど洗練された動作でやっていたのかということに。もちろんその若いスタッフの人も優秀だから、手際はものすごく良いのだ。けれども、彼がそうして洗い物をするだけで、僕の通っていたバーは破壊されてしまうものだったのだ。
そのときになって、ようやく僕は、初めて自分が浴してきたものの素晴らしさに気づかされたのだった。いくつものシーンが音を立てて結合していく。なぜ僕はこの店を出るときだけ、見ず知らずのお客さんたちを、見ず知らずとは思わずに、「お先に失礼します」と頭を下げて出ていたのか。なぜこの店には幅を利かせる常連というものがいないのか。なぜ僕はこの店でだと、臨席の紳士に酒をおごってもらえたり、女性の夜道を送り届けることになったりしたのか。バーは大人の社交場という、古めかしい言い方がある。でも本当にはそんなもの世の中に転がっていたりしない。
全ては、そのマスターが、いつもカウンターの奥にいて、誠実を尽くしていたからだ。マスターの静かな「いらっしゃいませ」が、誠実を極めていたから、それが客たちにも伝染していた。もちろん僕にもだ。僕も、新しくドアを引いて入ってくる人に、なんとなくいらっしゃいませと思っていて、わずかに会釈をしていたりした。マスターは、場が騒がしくなるまえに音楽をクラシックに変え、静まりすぎたらこっそりジャズに戻したりしていた。
全て、そのマスターの誠実さ、「いらっしゃいませ」とつながって生きた数十年の洗練があって、初めて成立していたことだったのだ。そしてそれは、若い熱心さの手際の良いグラス洗滌だけで破壊されてしまうような、絶妙なバランスの上にのみ成り立つものだった。
店を出てマスターと握手したとき、「僕はこの店で大人になりましたから」とこぼれた。まったく不意にこぼれた。それは僕の思念から出た言葉ではなかった。「また、会えるよ」とマスターは言ってくれた。
どんな取材が来ても、店内写真を撮るときに、映りこもうとはしなかったマスターバーテンダー。「バーというのは、お酒とお客さんが主役だから」といって、本当に、そこにバーテンが映りこむことがよくわからない、というふうでいらっしゃった。あの人は本当にそうして数十年を生きてこられたのだ。
「いらっしゃいませ」につながって生きる人がいる。それは、単なる知能の高さや、業務の遂行に対する熱心さとは関係のないものだ。本当に「いらっしゃいませ」を極めたとき、そこにあるのはもう人であって店員などではない。
単なる知能の問題ではないし、キャリアの長さでもない。これは業務ではなくて、人の問題だから。店員でなくても「いらっしゃいませ」は言っていいし、マニュアルから発するのでなければ、それらは全て人の言葉だ。
よくあるカラオケ店などで、「終了5分まえですが」というコールを受け取る。ご延長はどうなさいますかと問われる。どうしようかな、と一瞬悩む。
「あ、雨が降っていますよ」
若い女性の、まだ研修中のアルバイトというふうの人に、そう一言つけたしをもらったことがある。それなら、ということで延長した。そんなやりかたはマニュアルに書いていないだろう。彼女もまた、「いらっしゃいませ」とつながってある人だった。僕は軽薄だから、そういうとき、その人のことをいっぺんに好きになる。
どんなコスチュームを着ていたって、僕は店員さんなんか好きにならない。僕が好きになるのは人だ。
レストランなどにいって、店員同士の仲が良いと、なにやら不愉快な気分にさせられる。仕事中なのに、という気がして見える。彼らは楽しくしゃべっているから、こちらが呼びかけるにしても、それを割って入るような、オーイ! と怒鳴り声をあげないといけない。それではどちらが仕事をしているのかわからない。
これが不愉快なのは、モラルだとか、そんな生っちょろいことが原因ではない。彼らが嘘つきだからだ。彼らは「いらっしゃいませ」と言った。それを言わなければ嘘つきではなかった。でも彼らは、その言葉につながっていないのに「いらっしゃいませ」と言った。
それは何か、許せないことなのだ。きっと、思っているよりはるかに重い行為なのだ。重いからこそ、それを表明しておきながら裏切ることは許されないし、それを本当に実現している人、さらには数十年をかけて誠実と洗練を極められた人に、人は感動する。
「いらっしゃいませ」なんて、慣習のあいさつ、そういうものでしょうと、これから何億人に言われたとしても、きっと僕は永遠に信じないだろう。そうでないものの感動に、僕はもう十分に浴してきた。
[了]