No.225 ナナメに座って煙草を吸え
人に言われることがそんなに大事か。人に言われることをいちいち気にしてゆかないと、本当に生きていけないか。そんなことはあるまい、人間はメシさえ食っていれば生きてゆける。人に悪く言われたからメシがまずくなるということはなく、少なくとも僕は毎日旨いメシしか食っていない。
人に言われることがそんなに大事か。わからんなあ、と僕は首をかしげる。ためしに、というのも馬鹿馬鹿しいが、僕は目を閉じたままでもあなたを美人だとか不細工だとか言える。霊感があるからと言って、あなたには悪い相が出ていますと言ってやろうか。あなたの表情には問題がある。あなたは人に嫌われるところあるよ。そんなんじゃ本当には人に愛されないよとか、正直なところ誰に向けてでも好きなように言える。
人に悪く言われると、世界の終わりのように青褪める人がいる。人にどう思われているか、すごく気になってしまうんです、とか、言われたことに傷ついてしまうタイプなんです、とかいう。子どもが親に対してのそれなら話はわかる。けれども大人になってなおそれではおかしい。じゃあためしに、と、これもやはり馬鹿馬鹿しいが、僕が世界を悪く言うと、何か世界は隕石でも落ちてきてオシマイになるのか。株価が暴落して世界中で暴動が起こるのか。僕が世界を良いようにいうと、神様が光る翼で舞い降りてきて世界を救済してくれるのか。そんなことはない。
僕が何をどう言ったって変わらない。物理的に変わらない。僕は手品を特技に持っているのでよくわかるが、僕が何かを言うことで、薄いガラスの一枚を割ることさえできやしない。僕が何かを悪く言っても、良く言っても、別に何も変わらない。そして極めつけは、黙っていても変わらないのだ。
人にどう思われているかとか、どう言われたからとかで、気になってしまうというのは、全てやはり「気のせい」だ。例外はせいぜい医者の診断ぐらいだろう。風邪ですと言われたら風邪だ、それぐらいは真に受けていい。
僕の話なんか聞き流せよ。不埒な僕が、実は生まれてこの方ずっとそうしてきているみたいに。ナナメに座って煙草を吸って、ずっと僕の話は聞き流せ。それで、もし、聞き流しているのに、何か響いてくるものがあれば、それは響いたんだ。それは素敵なことである。それで、もし響いてくるものがなかったら、そりゃ響かなかったんだ。それは残念なことだがしょうがない。僕の無力かあなたの不徳か、互いに縁がなかったのか、わからないけれども、響かないものはしょうがない。響かないものに耳を傾けても無駄である。
僕からあなたに向けて発しているメッセージなんてない。世界中の名画や名曲が、メッセージなんて持っていないみたいに。メッセージがあるならピカソはメッセージをそのまま書いただろう。何も絵を描いたり映画仕立てにしたりせずとも、手短に電報にして送れば十分である。
メッセージなんて無いのだ。失礼な言い種(ぐさ)になるが、メッセージなんてものは、頭の弱いタイプのほうで、ネチネチやってくれていればいい。僕にはウソをつくこともできるが、正直に言うと本当にはそう思っているのだからしょうがない。メッセージなんて無いのだ。少なくとも、僕があなたに向けて語る話には何らのメッセージも含まれていない。発信者がそう言っているのだから確かなことだ。冷静に考えてもらえればわかるが、僕のような奴と「メッセージ」という語の、相性の悪さ、そのありえないほどの滑稽さを見よ。僕がメッセージなどと言い出したら末代までの恥である。
それでも、もし、僕の話を聞き流して、気に入ってくれている、面白いと感じてくれている、何か発見をしたというようなことがあったら、それはあなたが勝手に何かを発見したのだ。あなたが自分の内に、何か面白いことを発見し、鮮やかな体験をされたのである。その喜ばしい体験について威張ってよいのはあなたであって僕ではない。あなたは僕に礼を言う必要は無い。言ってくれてもいいけれど、僕はやはり聞き流しているだろう。
人の話はよく聞いたらいい。別にそんなルールはないが、とりあえず僕はそうしている。人の話をよく聞くのは僕の勝手なので、勝手にそうしている。話をよく聞いたら、よく理解すればいい。人の話はよく聞いて、よく聞いたら理解して、それで終了なのだ。完結である。だからどうしたというものでもない、ただこれだけのことでも面白い。人の話を理解するのは面白い。それだけでいいじゃないか。
一瞬だけ、頭の精度を上げてもらって、このことがあなたに理解されれば嬉しい。人の話を聞く、理解する、というところまではいい。しかし、それについて、何かを「思う」ということ、これは僕の習慣の中には入っていない。人の話を聞いて理解すれば、自然と何かを思うような気がするが、それは気のせいで、頭のぼんやりしたキメツケだ。人の話を聞く、そして理解するということと、自分が何かを「思う」かというのはまったく別のことだ。僕が女にフラれたとする。「あなたなんかと誰が寝るのよ、ふざけないで」と言われたとする。僕は彼女の話を、よく聞くし、理解する。それは僕の習慣であり、義務だ。ただ、彼女の話を理解したとして、それに何か「思う」かというと、そのことは僕の義務にも習慣にも入っていない。別に僕が何も思わなくてもいいじゃないか。彼女のほうだって、自分の話が理解されればそれで満足のはずである。
僕はまた、人の話を聞いて理解して、その先に何か「意見」を言うとか、「意見」を持つとか、そういう義務も持っていない。意見は別に持たなくてもいいし、もし意見が発生してもそれを伝える義務はない。黙っていてもかまわないし、むしろたいていの場合は、黙っていたほうが喜ばれるものだ、意見なんてものは。
僕の義務めいた習慣は、人の話をよく聞いて理解する、というだけで、そこでプツンと切れている。
自分の話を人に理解させる義務は持っていない。
僕はその他にも色んな義務めいた習慣を持っている。ドライブ中に展望台の表示があったら向かうし、漁業の盛んな町ではみやげ物屋ではなくスーパーマーケットに行く。清流があったら手を浸すし、店構えに気骨を感じるパティスリーがあったら、立ち食いでもいいからその場で買って喰らってみる。ただしそれらの全てについて、何かを「思う」という義務は持っていない。ケーキを手づかみで食うなら食うだけだ。とてもおいしいと思いました、とつぶやきをウェブツールに投稿する義務は持っていない。
このようなやり方は、僕の冷血と不感症の表れか。わからないが、もしそう指摘されても僕は聞き流すだけだろう。話は聞くし理解はするが、何を思えと言われても困る。ただ、僕のそれが冷血と不感症の表れだったとしても、実際のこととして僕にこっそりと重要な話をしてくれる人はあるわけだ。そしてそういう人は、僕が話を聞いて理解する、そのことしかしないということを、うっすら知って話しているようなところもある。
「彼氏がひどくて、かくかくしかじかで。どう思います?」
「うん、そうか。まあ、どう思うと言われても、どうとも思わないけれども……」
そう言うと、興が醒めて話は途切れそうなものなのに、むしろ安心してより重要な本質について語りだされることはよくある。そのこと自体についても、僕はどう思うというわけではないのだが、もし僕の話をあなたが聞いてくれるとするならば、僕は辻褄を合わせたい。僕の話は聞き流してくれ。聞いて理解してくれたら十分だ。あなたが何かを思う必要はない。
何かを思わされるとか、意見を言わされるとかは、しんどいじゃないか。人間的な、血肉の伴うしんどさというならよいが、そうでない、このしんどさは前もって不毛の予感がくっきりとある。自分の中にめらめらと意見が湧いたとき、それを誰かに言いたくなるのはわかる。それを言うことに直接熱心な人もいるけれども、僕はそうして言いたくなることまで含めて不毛にしんどいと思う。意見なんてもともと何かしらの公的な立場から放たれるべきものだ。何の立場もない、自分という個人としているときに、意見なんか言わされたらかったるくてしょうがない。
聞き流してもなお、響いてくるということはあるだろう。それは当然のことで、それは言葉でなくてもギターのサウンドでもある。ストリートで黒人がドラムをブッ叩いているのだって、単なる音でない、何かしらのソウルが響いてくることはある。そういうのは素敵なことだ。何しろ聴こうとして聴いたのではない、聞き流すどころか、聴くつもりさえなかったのに、ぐいと心を惹きつけられたのだ。僕はそれを聴いて、いいなあと思う、わけではない。僕は聴いたものについて何かを思う義務を持たない。いいものを聴いた、と人に報告したりしないし、その良さがどうだったかを人に話して伝える義務を負ったりしない。ただ、響いてきたものによって、愉快になって交差点を渡るだけだ。愉快さというのはたぶん肉体的に愉快な状態である。この愉快さは娯楽的な愉快さではない。歓喜に属する愉快さだ。
人に言われることがそんなに大事か。気にしていないと生きていけないか。そんなことはないだろうと、僕は思ってきたから、生まれてこの方、全てを聞き流してきた。よく聞いてよく理解してきたが、それでオワリだ、何も思わずにきた。
その中に、響いてくるものもあった。それは僕を愉快にしてきた。不貞も極まる話だが、僕がウソをつくのでない以上は、本当のことを話さねばならない。僕は歓喜しか受け付けずにきたのだ。選んできたわけではない、聞き流していたら勝手にそうなっていた。
僕が全てを聞き流すと知っていて、それでも愛の告白や、愛の振る舞いを、与えてくれた人はいた。そこにある僕の喜びは、僕についての喜びではなかった。響きについての喜びであった。「こんな響きのものがあるのか」。響きから伝わってくるものはこうであった。僕に愛を与えた女は、誰にだって愛を与えてしまう女だったということ。僕はたまたま、流れ星程度にその彼女と交錯したに過ぎなかった。こんな響きのものがあるのか。ただちに具体の歓喜である。
この話はちゃんと聞き流してもらえただろうか。ナナメになって、煙草でも吸いながら。
[了]