No.248 ストレス
<<もちろん>>、コンヴィニエンス・ストアーなどに入れば、それは人間のストレスとなる。なぜなら情報量が多いから。情報は人に干渉してくる。特に広告が本性めいた商品群においては。そして干渉されることをよろこぶ人はいない。安売りの商品を堆(うずたか)く積んで密林のようにする、そして客を酩酊させて買わせるのはうまい手だ。たのしいし誰からも苦情は出ない。一旦其処に入り込んだら、それを楽しんでそこそこ買って出ないではますます不健康になる。おもえばテレヴィモニタやパチンコ遊戯もいつの間にか、情報をジャンジャカ詰めて与えるといううまい手を覚えてそれに掛かりっきりだ。街中に広告をあふれさせ、手元には端末があって、そこから笑いへの情報や不安への情報がつぎつぎ送り込まれてくる。どんな情報でもこちらに干渉してくるのだから刺激にはなるものだ。いまやこれらのものがどれだけ我々の寂しい夜を救ってくれているか、我々は感謝しなくてはいけない。
「夜」は、寂しいものだ。この当たり前のことは重大な真理であって、なぜ寂しいかといえば情報が少ないからだ。町の活動は沈静し、何より風景が闇に閉ざされてしまう。どんな街でも昼より耀(あかる)いということはない。夜は昼に比べて、視覚的な情報量が少ないのだ。
いっぽう人人は、夜の寂しさ、それもひときわ喧騒から遠ざかった場所――たとえば礫浜の波打ち際――で、重要な話し合いをもつ。睦みごとをするのも大体夜だ。なぜわざわざその寂しい夜にそれをするかというと、ストレスが無いからだ。情報量が少ないということは、寂しいと同時にストレスが無いということでもあるのだ。ストレスが無いから、人は少しでも、人のことを真剣に考えたり、人の話を真剣に聞いたりする。少なくとも、そういう余裕が生まれる。何しろ、ある夜には、時計の秒針が時を刻む音まで生々しく聞こえる。昼日中にはまずそんなことは無いのだ。
よく、ストレス解消といって、ストレスに娯楽をぶっつける遣りかたがあるけれど、ああいうのはもちろん、本当にはストレスからの逃走にはならない。あれは例えば、スパイスの効きすぎに舌を焼かれたから、アイスミルクを舐めて沈静しようという遣りかた。じっさい有効だ。けれども、その味蕾を専門的な職業にしている人ら、たとえばマスターソムリエやディスティラリのブレンダーなどはそうはいかない。彼らはそもそも、世界中の半分の食品を生涯食べることができない。舌に刺激物を与えてはならない、生涯、口腹が寂しい人たち……でも彼らについて、口腔の幸福と官能についてよく識らない人たちだとはとても云えない。
すべての、刺激たる情報を自ら断って――天然にあるものは引き受けるにして――、夜道を歩いてみるか、部屋に一人で佇(たたず)んでいたりすると、途端に、世界が化物みたいになって、圧し潰しにやってくる。じっさい、音の出るものや光の出るもの、それらの装置を消してゆくたび、空間の気配はガクンガクンと凍みてゆくのだ。その中に独りでいる自分も、孤独でちっぽけでやはり正体の判らぬ化物のようであって、寂しく恐ろしい気持ちになる。それで、その寂しさ自体、愛する人はいるわけなのだ。天然にあるものだけは引き受けるにして、その天然のものだけを……ああ自分と世界はこのようなものだと、恐ろしいことを識ってよろこぶ。
その中で誰かについて、互いを目の前にしたり語ったりすると、まさに天然自然にある人間らとして、生まで触れ合うことが起こる。昨日も無く明日も無い、何者も干渉を仕掛けてこない(天国!)、ストレスのまったく極小化された中で、人人は重要な接触をする。それは何も賢いものでも愚かなことでもないけれど、確かに本当のものに触れたということで、生涯を通してずっと憶えている。
ストレス/[了]