No.289 自分と恋あいを根こそぎ変える一点の方法
女の子はつくづく純粋だと思う。よくよく見ると涙ぐましいほどだ。一所懸命だし、いつでも「自分はどうしたらよいか」というのを探している。探しているなら与えられるべきなのだが、これがまともなものが与えられない。女の子は、みんな人を愛そうとしている。その方法を、早く与えてやればいいのに、誰もまともな方法を与えてやらないのだ。もちろんすでにくたびれきった世間的なやり方でなんか女の子は満足しない。女の子は一所懸命だといった。そうして真剣な人間は、ニセモノとわかっているもので自分をごまかしたりできない。
先日のことだが、話をさえぎられて、「あなたはフェミニストよ?」と言われた。訂正するように言われた。えっと驚いて、僕はいつも性差別発言が過激だったので、そんなことないだろうと質したのだけれど、「だってあなたは女性を軽蔑していないじゃない。むしろ尊敬しているんでしょう」と言われた。彼女は英語圏の人間なので彼女の言うことのほうが正しいのかもしれない。もしそうだとしたら僕はフェミニズムを長い間誤解していたことになる。僕は、フェミニズムの活動をする団体から、フェミニズムとはこういうものなんだろうというイメージを持っていたのでしかなかったから。
今からする話がフェミニズムに当たるのかどうかは、やはり僕にはわからないけれど……今特に若い女の子は、厳しい言葉をかけられるのを待っている。彼女らはやはり真剣なのだ。そうとうなきつい言葉でも受け止めてみせようとする気概を隠し持っている。やはり自分の生を虚しくするのはいやなのだ、そういったことには今女性のほうがはるかに真剣だ。
あなたは「ジョークとユーモア」を持たねばならない。その「能力」を持たねばならない。これまでは、そんなものは男だけ持っていればよさそうなものだったが、時代はすでにそういうことではなくなっている。むしろ女性の側が、そうした退嬰的な女性像を受け入れるつもりがすでにないのだ。それで、ということになると、話はやはり急に厳しくなる。「ジョークとユーモアを持ちなさい」。これで急に話が厳しくなって、「二十歳を超えてそれを身につけていないなんて、あなた一体今まで何をしてきたの」ということになる。
僕はまず、人と会ったら、ジョークとユーモアでご挨拶するようにしている。当然だ。人に和やかさと笑いのウイットを投げかける、そのために自分のエネルギーを燃焼させるのが、人間としてのマナーであり、尊厳であり、目の前にいる人に対する礼儀だからだ。
「はじめまして、やあ美しい人だ、おれもヒゲを剃ってきてよかった、危なかった、どうも九折です、よろしく」
と、そういうふうにする。
どういうジョークとユーモアが最適か、そんなものはその場所に行って、その人に会ってみないとわからない。別にそこに上等とか最適とかがあるわけではないけれど、ただ、前もって用意しておいた自分の「定番ネタ」なんて、失礼きわまるからやめることだ。僕はこれまで、男性には、「おいおい、甘ったれたことを言うなよ」と言ってきた。でもこれからは女性にも言う。二十歳を過ぎて、そうしてジョークとユーモアで挨拶もできない人間は、これまで何をやってきたのか、ひどい落第生だ。実際には、そうしたジョークとユーモアを、気配だけでも出せない人が多いけれど、そこは甘ったれてはいけない、自分で自分を「最低だ」と思わなくちゃいけない。だって最低限のことでしょうが、それは。ジョークとユーモアでご挨拶するというのは。初めてお会いできて、異性だったら、叶うなら握手を求めて、叶えてもらって、その感触がすばらしいものだったら、ただちに「ああ、はじめまして、次のデートはいつにしましょうか」と言う。そういうことのために頭を使う、そのために人は頭をバカにしないように勉強を重ねてきたはずだ。そこで脳みそが止まってしまうような人間は、原則として許されていいものではない。少なくともそんな自分を自分で許していてはいけない。
実はそれだけではなくて、そうしてジョークとユーモアでご挨拶したら、ただちにアイ・ラヴ・ユーの態度、わたしは喜んであなたとの出会いを迎え入れます、ということを身体の態度で示さねばならない。そこで固くなっているのは人に伝わるものだ。それが伝わるのは最大の失礼である。そんなことだって原則許されることではない。
そしてその先は、男女それぞれの特権的なやり方に分かれる。男性の側は、「いやあ、今日は楽しみましょう」とよろこんで、その日の楽しみ方を男の側で決定して、女性をお連れできるということだ。このことのよろこびと態度を女性に示せるのが男性の特権。特権であり、同時に、そうすることが最低限のマナーでもある。
そのとき女性の側は、おしゃれをしてきているという特権がある。そして、スカートと髪と笑顔をひらひらさせて、微笑んで、ひらりと、「どうぞ、わたしにときめいてくださって結構よ」と、自分のかわいらしさを認める許可を男性に示すことができる。そうできるのが女性の特権であり、またそうすることがやはり女性としてのマナーだ。
互いにそうすることが、男女としての最低限、それどころか人間としての最低限の礼儀でありマナーであり、全ての入口なのに、この入口さえまともにできていない人は多い。「今まで一体何をやっていたんだ」と、全力で呆れられて当然だ。もちろんそういったことが苦手だという人がいるのもわかる。わかるけれど、それは「苦手で」なんて一言で済ませていいようなことじゃない。何がなんでも、自分を厳しく鍛えて、できるようにならなくちゃいけないことだ。この世界で、人間らしく、不潔でなく生きていくために。
それを、何を勘違いしたのか、初めからビクビクと、自分の殻に引きこもって、「あ、あ」と、口ごもっているような人がいる。たくさんいる。呆れた話で、論外だ。そういったことが苦手な人もいるだろうし、初対面というのはそれなりに誰だって緊張するだろう。でも、そんなとき、そうして緊張してモゴモゴしていい権利なんて誰も持っていないんだよ。あのな、演奏会の舞台にバイオリニストが立って、急に「苦手なんです」という雰囲気になって、演奏を「やっぱりできません」なんて、そこに座り込んで携帯電話をいじりだすような人間が、人間として認められると思うか。許されると思うか。そんなものまで許したら、もうむちゃくちゃなのだ。
挙句、そうしてモゴモゴする人に限って、自分がどれだけみっともないことをしているかの自覚がなくて、何なら、「自分はまじめでイイ子のタイプ」と、内心でこっそり思っていたりする。それで自分は許されるし、この先もずっとこれでやっていける、このままでいい、誰にも迷惑かけてないし、なんてことを思っているのだ。厚かましいったらありゃしない。
そんなひどいテイタラクを自分に許してはいけない。今それができていないのだったら、三ヶ月、ひたすらそのことだけを自分の最優先にして、必死に努力してなんとかしろ。はっきり言うが、そんなあなたは友人たちにも軽蔑されているんだ。友人がそれについてあなたに何も言わないのは、友人が全てを見失って携帯電話をいじっているか、もしくは、あなたについてすっかり諦めきっているからだ。あなたのことについて、あなたはまともな人になんかなりっこないって、見捨てているんだよ。そんなことの中で、ノンキでヘッチャラみたいな顔をしていていいと思うか。あなたのことを大切で重要で魅力的な人だなんて誰も思わないよ。最低限のこともできていない、救いようのない人としか思われなくなる。
ある意味、いろんなことがもうむちゃくちゃになっているから、こうして話す僕のことが、何か口うるさい奴というふうに見えるかもしれないけれど、そんなのはもうあべこべなんだ。僕なんかはむしろ、そういったことに最大限ルーズな奴なんだ。その最大限にルーズな奴でも、「さすがにそれぐらいはできないと話にならない」という、常識ぐらいは持っているんだ。あなたは海外旅行に行くかもしれないし、そのために外国語を習ったりもしているかもしれないけれど、そんなことしたって、母国語でさえ「あ、あ」と口ごもるようだったら、あなたは外国に行って外国語をぶらさげて、いったい何をしに行くの。軽蔑されに行くようなものじゃないか。海外に行って見聞を広めるのも結構だけれど、そんなのは人間にとって応用的な、さらなる先を目指すためのものであって、根本的な最低限ができていない人間が、そんなところに色気を出して手を伸ばしたって、まず意味がないじゃないか。あなたに必要なのは英会話ではなくてジョークとユーモアだ。それも、習ってどうこうというのじゃない、自分からそれでご挨拶できるという、その能力を燃焼させる力が自身のものとして必要だ。
このことを、結局できないからといって、そのままで、表面上だけ取りつくろう人も多い。華やかで元気でこなれているふうに、はじめましてと挨拶するのだけれど、何かわからない、ツンツンした空気や、逆に媚びてねっとりした接近があるだけで、じゃあ肝心なものがあるのかというと無い。「ジョークとユーモア」がない。心を開いてアイ・ラヴ・ユーを示す身体のオープンな態度なんてどこにもない。オシャレをしてきたって、自分の中で気に入って、気取ってそれをぶら下げてきているだけだ。みっともない人と見られたくないという見栄だけ強いのかもしれない。そうして自分の見栄については必死なのに、自分がしょっぱなから人に向けているとんでもない失礼については無頓着なんだ。表情がこわばっていたり、声が弱かったり、目も声もどこかソッポを向いていたり、身体全体が結局固かったりって、すぐ人に伝わるものだし、誰だって見落としようのないもので、人は人にそんなことをしていい権利なんか持っていないのだ。いくら苦手でも、そうして気取ったごまかしをするのは最低のことだし、モゴモゴしているのも言い訳の余地はない、そうしたテイタラクでいていい権利なんか無いんだと、さっさと理解して、あとは死に物狂いでまずそれを身につけるしかない。最低限のことといったって、われわれは優秀でないから、その最低限を身につけるのでさえ必死になるしかないんだ。
話をまず、ジョークとユーモアというところに限定しようか。それで、気取ってこなれたふうに取りつくろってもいいし、ねっとり媚びた接近でひどく甘えてかかってもいいし、あるいは恥知らずにも「あ、あ」と口ごもっても構わない。気取っている人は見栄の中にいて、自分は何か出来ている都会的な存在だと思っているし、ねっとり媚びた人は、自分は博愛精神なのとひどいウソを自分についているだろう。口ごもる人は、自分は真面目すぎて不器用なタイプと必死に自分に言い訳をしているかもしれない。そのどれだっていいが、明らかなことが一つある。「あなた、人にジョークとユーモアを向けていないじゃない」ということだ。どう工夫して逃げ回ってもいいけれど、じゃあ「ジョークとユーモアはどれだ?」と探してみて、それは結局無いじゃないか。それがあるなら何でもいいし、無いなら、やっぱり何をどうしたってダメだよ。ごまかしようがない。
色んな人がいると思うし、色んな考え方があると思う。でもそんなことはどうでもいいよ。あなたはなぜ、ジョークとユーモアが、必要ないと勝手に思い込んで生きてきたの。なぜ自分だけはそんなことをする必要がなく、他人がそれをやるのを、気が向いたときだけ受け取って、あとはイイ子ぶっていればいいと、とんでもないことを思い込んだの。そんなもの「最低」じゃないか。しどろもどろでもいい、自分はなんとかして、ジョークとユーモアを人に向けて、それを挨拶としなくちゃいけないんだって、なぜそのことを全ての入口にしてこなかった? そんな入口の入口から完全に逃げを決め込んで、それでも自信が欲しいんですとか、わけのわからないことを言っていてはいけない。そんな悩みはあなたにとって高尚過ぎる。そんな悩みを持っていい権利さえ、あなたはまだ手にしていない。
あれこれ理屈をつけて、必死に言い訳するけれど、とにもかくにも、「出来ない」んでしょう。ひょっとしたらあなたは、「そうよ、出来ませんよ」と、居直って怒り出すかもしれないな。でもそんなときこそ、あなたは自分で自分のことを、どれだけ醜いトンチンカンかということをさすがに自覚しているはず。そんなトンチンカンを、それでも通過するしかないなら、通過したらいい。通過して、さっさとその最低限をできるようになればいい。あなた自身、さっさとそれが出来るようにならないと、あなたがあなたの人生の時間をひたすら無駄にしてしまうのだから。
あなたがそれだけ必死で言い訳をし、理屈をこねて、「出来ない」と言うのを避け、でも結局「出来ませんよ」と居直って怒るぐらいなのだから、そのことはやはり簡単ではないのだ。それはわかっているし、僕だってかつてそのことは簡単ではなかった。僕だって必死になって練習した。何度もしどろもどろになり、みっともないところを人に見せてきた。恥を掻きまくってきたよ。でもそれがどうした、恥ずかしい奴なんだから恥を掻くのはしょうがないじゃないか。しどろもどろになるのは恥ずかしいけれど、そこをごまかして逃げようとする醜さの救いのなさと比べたら、それはもう比較にならないぐらいマシだ。そしてありがたいことには、そうして正面から、しどろもどろでも、自分は最低限のことをしようとするとき、人はそう冷たいものじゃない。しどろもどろでも、そういったところはあまり見ないように、やさしく見守ってくれるものだ。なんなら上手に合いの手を入れて、フォローして助けてくれる人もいる。そういったときは、なさけなくて、でもありがたい。このことは簡単なことじゃないけれど、何ヶ月も必死にやって、まるで身につかないというものでもない。ジョークとユーモアの出来栄えが問題じゃないんだ。人に会ったとき、人に向けるものとして、そうした能力の燃焼をするという、そのことがマナーと礼儀となって、目の前の人に伝わるんだ。かといってもちろん、そうした燃焼をしている「つもり」なんて、卑怯な逃げを作り出してはいけないよ。初めのうちはともかく、ジョークとユーモアに全てを限定すればいい。自分からジョークとユーモアを提出すること。それまでは、オシャレだとか笑顔だとか、将来の夢とかやりたいこととか、そんなご立派な話は要らない。はっきり言う、そんな話はまだあなたには「分不相応」だ。最低限のこともできていないんだからね。
あなたはこのことからは、決して退いてはいけない。一歩も引き下がってはいけない。前方へ転倒するのは、痛いかもしれないが、せいぜい痛いだけだ。でも一歩引き下がったら、ここはもう後が無いんだ。この一歩後ろはもう崖なんだ。引き下がったらただちに転落する。これに転落したら、戻ってくるのにものすごい時間と労力を奪われてしまう。そのことの恐ろしさに比べたら、前方にコケることぐらい何だ。またそうしてあなたは、前方にコケることをしないと、思いがけない人がやさしく手を差し伸べてくれるということを体験できない。人のやさしさって何なのかさえわからないままになるんだよ。
あなたは、そうして誰かが前方にコケるところを見たら、「かっこ悪い」と、内心でバカにするかもしれない。そのときは確かにいい気分になれるかもしれないな。でもそんなのはごく短い期間だ。一ヵ月後、すでに置いていかれているのはあなたのほうだ。もう一度彼を笑って自分を慰めようとしても、彼はとっくにそんな場所にはいない。もうコケないだけの能力を身につけて、さっさと先に進んでしまった。じゃあ、あなたが一ヶ月前に笑っていたのは、何に対して笑っていたのだろうな。
ジョークとユーモアだ。まずこの入口に、徹底的にシビアになる。まさかあなたは、この期におよんで、突然「わたしは女だから」とか、とんでもない逃げを打つんじゃあるまいね。今さらだめだよ、あなたはそこに男性の特別な尊厳を認めるわけじゃないんだから、そこで「女だから」と引き下がることは許されない。男女の区別なんて、そこにはもう無いんだ、かつてはナイスガイだけそういったことが出来ていたらよかったのだけれど、今ではナイスガイの問題ではなくあなたの問題だ。
ジョークとユーモアが必要とされない世界がひとつだけある。それは「田舎者」の世界だ。住んでいるところの問題じゃない。ただ精神性だけが「田舎者」を決定する。「田舎者」は、心がムスッとしており、あれこれルールじみたことを口にするけど、つまりは長年居ついた自分の場所への利権を、既得権として守るだけだ。それはもう、身もふたもないというようなやり方で、徹底してそれをする。田舎者からジョークとユーモアが示されることはないし、アイ・ラヴ・ユーの態度なんて示されるわけがない。そんな能力の燃焼なんて、もう気力からして残っていなくて、何が出るかというと「ともかくな」と、人を威圧して従わせようとすることしかしない。それは確かに、人間のひとつの側面ではあるのだろう。
でもそんな人間に誰がなりたい。前もってそれを目指した人なんていないはずなんだ。引き下がってはいけないところから引き下がって、「転落」して、そうなってしまったというだけだ。もうこれだけで十分だろう、つまりジョークとユーモアの入口さえ、必死ででも通過できれば、あなたはそんな田舎者にはならなくて済む。そうしたらあなたにはあなたの人生が与えられるんだ。土着でない、自分のものとしての生が与えられる。
家を出るときには、あなたは靴を履いて出るだろう。「あ、しまった」と、靴を履かずに外に出てしまったなんてことはまずありえない。それと同じように、「あ」ということさえなくなる。人と会えばただちに、ジョークとユーモアを履くのが当たり前になる。いちいち意識なんかしなくなるよ。その当たり前ができなければ、あなたなんて、ただ意気消沈している野蛮人でしかない。靴を履いて出かけるということがわからないのは野蛮人だろう。それで意気消沈しているから人に迷惑を掛けないとか、そんなことは何の言い訳にもならない。そんなつまらないところで哲学的になってもアホくさいの一言に尽きるよ。
「人の自由」ということは確かにある。あるけれど、あなたはそのこともひどい誤解をしている。自由について考えるということは、人間として最高峰のテーマなんだ。最低限のことができて、それだけでない、色んなことが一通りできるようになってから、「でも自由であるべきじゃないか?」と、ようやく最高峰のことを考えはじめる。「人の自由」というのは、最低限のこともできない自分のための、都合のいい逃げ口じゃないんだよ。人には憧れる順序というものがあって、いきなり自由に憧れたりしない。まずジョークとユーモアに憧れるものだ。だからその獲得が、人格と能力としての最低限の土台になる。この最低限の土台さえ獲得できずに、いきなり自由に憧れているふりをしたって、そんなのはつまるところ見苦しいウソでしかないんだ。そういうウソにしがみついたって、必ずそういう人は晩年に気が狂ってしまう。そのときのつらさは、もう当人にしかわからないけれど、それはきっと、ひたすら耐えがたいばかりの猛烈なつらさだろう。
もっともひどい人の場合を考えようか。もっともひどい人は、人に会っているというのに、ご挨拶からツンツンしていたり、モゴモゴしていたりする。それで内心では、自分は何か正しいと必死で言い訳をしている。愛や芸術について何か難しいふうに語り、自己実現とかやる気とか、思想とか表現とか、自分は広範囲にやっていて充実している、みたいなことを言いふらす。でも身体も声も表情もカチンコチンで、とにかく自分の殻バリアを張っており、声も言葉も眼差しも、まったく目の前の人に向かっていない。当人としては、何か自分の中に、重大で荘厳な事情やテーマがあると思い込んでいる。その口が、「高みを目指している」みたいなことを言うんだよ。でも当人は、何かがおかしいとは薄々知っているけれど、本当に薄々で、何がおかしいかというのは、もうおかしさが土台から巨大すぎてわからなくなっているんだ。そして「高みを目指している」というそのご立派な口は、ずっとご立派なのだけど、もう何年とか何十年とかいう単位で、ジョークやユーモアを言ったことがないんだ。そんな人間があっていいと思う? 「高み」って、そんなままでどの国のどんな山に登ってみても、結局は無駄だ、結局は帰ってきてまず靴を履くというところまで戻ってやりなおすしかない。それでは時間も労力もひどい無駄になってしまう。
もっともひどい人は、まあ人から離れて立つし、人を無視してスタスタ歩く、それで口は愛と高みを語り続けて、もうめちゃくちゃだ。その口はまったく人の名前を呼ばず、まったく人に呼びかけない。人の名前を呼べない人は、単に愛が無いからなのだが、それを認めると高みを目指すウンタラが崩壊するから、そういう人は決して自分の愛のなさを認めない。
「花子さんのバカ、花子さんのアホ、花子さんのバカタレめ」
たとえばこうしてみれば、ここには花子さんへの愛があるのがわかる。
これを、
「あの人はマジ、リスペクトだわ。あと、あっちの人は、ある種の天才なんだと思う。また別のあの人もね、本当にすごいと思う。マジ見習わなくちゃって思う。目指すべきものがあるわ」
こんなふうに言ってみれば、なんだこいつ、冷たい人間だな、ということが直感でわかる。声は今さら誰のことを言っているのか、ソッポを向いているし、ひどいときには、そんな冷たい人間の証拠みたいなものを、自分でツイートとしてアップロードしていたりする。でっかいサングラスまでして、自分の弱さを隠そうとして、自分の弱さが見抜かれないように、必死にオシャレで身を固めている。それではせっかくのオシャレな洋服がかわいそうだ。「花子さんのアホ」というのは、愛があるし、見ようによってはユーモアもあるが、リスペクトだの天才だのマジ見習うだの言っているほうには、どこにも愛がないし、何よりジョークとユーモアがない。
そういった、もっともひどい人たちは、そうした人たち同士で群れるようになる。弱いからだ。弱いから、オシャレで固めて寄り集まって、自分たちはさも「イケてる」んだと、集合的なバリアを作ろうとする。彼らはひどい内輪話だけを延々と続ける。彼らは内輪同士で甘えきって、その中でよく笑うようだけれども、その内部はやはりジョークとユーモアに溢れてなんかいない。甘えと惰性で笑っているだけだ。本当には何も面白くない。面白くなくても、今さらそこから出るに出られないというだけだ。彼らの誰を引っこ抜いて、他の人たちの中に混ぜ込んでもいいけれど、どうせツンツンしている。身を守っている。そんなものもう見なくてもわかる。本当に、死ぬまでそうしたウソを守り抜くつもりになっているから、そうした無力なツンツンと、ジョークもユーモアもないといったような自分について、それが自分の「スタイル」なんだと強弁する。どこまで果てしなくウソをついていくつもりなのか、いっそ見ていて感心するぐらいだ。
最後まで厳しくいこう。ジョークとユーモアなんて、最低限の能力なのに、その能力さえ持たない、燃焼させられない、そんな人間のみじめさはどうだ。そんな人間は「みじめ」なんだ、これはもうごまかしようがない。「これから、ジョークとユーモアの能力を持たない、しかしそのまま大人になった人を、ご紹介します」といって、紹介されたとしたら、そのときのみじめさと言ったらどんなものだ。もちろん、そんな屈辱に苦しむことはない。そう紹介されたらただちにジョークとユーモアで切り返せばいいんだ。「どうも、ジョークとユーモアの能力を持たない者です。特技は冷や汗です」とでも堂々と言えばいい。それだけで、自分はそんな屈辱的な存在ではないと証明できるだろう。でもそれができないからみじめなんだ。ツンツンするかモゴモゴするか。見栄で押し切るか甘えに媚びるか。それは上手い解決法に、当人には見えるのだけれど、それはみじめさが醜さに変わっただけで、傍目にはさらにあわれみが増す。
どうしたらいい、といって、こんなもの自分で解決するしかない。必死で勉強して、必死でトライして、何ヶ月も恥を掻いて、自分の脳みそが逆転するまでそれをするしかない。脳みそを逆転させるしかないのだから、ちまちまやっていたってだめなんだ。ちまちまやっていたら、ますます脳みそがその状態で固まるばかりになる。固まれば固まるほど、逆転は起こりづらくなってしまう。
ジョークやユーモアを、学ぶのはよいのだけれど、記憶したってしょうがないんだよ。むしろ暗記してきたジョークを人前で暗唱するなんて、もっともジョークの精神から遠い。ユーモアの欠片も無い。必要なのは、ジョークとユーモアを「創造できる能力」であって、ジョークとユーモアは常に脳みその逆転から生まれるものだ。だからできるならもう、脳みそなんかずっと裏返しにしておいたらいい。そのジョークとユーモアを「創造できる能力」が無いのに、暗記だけしてきたらますますみじめだ。加えて、その「創造できる能力」を、人と対するのに向けて、燃焼させるというエネルギーが必要だ。このエネルギーのことを愛という。いくらでも燃焼させるよその程度、とおおらかな人のことを、愛のある人というんだ。だからあなただってそういう人が好きで、あなたにそういった能力の燃焼を向けてくれて、あなたを微笑ませてくれる人のことが、あなたは好きなはずだ。あなたがそういう人を好きで、そういう人をこそ認められるのだから、あなただってそういう人にならなくていいわけがないんだよ。
近くに立つこと、人の眼を見ること、人の名前を呼ぶこと、表情も声も身体も柔らかくして。そして、あなたは必ず覚えておくこと、ただ人の眼を見たって意味が無い。そんなものはプログラム入力すればロボットでもやるし、名前を呼ぶのだって読み上げソフトでもやるだろう。身体をやわらかくするのは体操選手なら誰だってできてしまう。そういうことをするのじゃない、そういうのはアホのすることだって、あなたは説明なしにでも知っているはずだ。
人の眼を見るというのは、アイ・ラヴ・ユーの代弁だということ。やわらかくして近くに立つのも、名前を呼ぶのも、笑みがこぼれるのも、アイ・ラヴ・ユーの身体的態度として示されるものだ。アイ・ラヴ・ユーという、あなたの自分からの意志として、それが示されるのであって、その意志なしにブログラムだけ実行されても意味がない。まあそれでも、身体的態度から、心のほうがついてくるということもあるから、身体的態度の強制だけでも、自分に課しておくのは悪いことではないけれども。
でもとにかく、あなたは覚えておかなくてはならない。わたしが人の眼を見るのは、アイ・ラヴ・ユーなのだと。その声が聞こえないような眼差しなら、あなたの眼なんてただの「肉眼」でしかない。眼差しを向けられるのはうれしくても、肉眼を向けられてよろこぶ人間はいない。
アイ・ラヴ・ユーについて、ニセモノを自分に仕込んでいる人はとても多い。アイ・ラヴ・ユーの「つもり」という。なぜその「つもり」を自分に仕込むかというと、アイ・ラヴ・ユーを持っていない自分だと認めるのは都合が悪いからだ。自分は素敵な人間だと信じたいがため、必死で自分にそのニセモノを仕込んでしまう。
たとえそういうことがあったとしても、僕はそれを人間として最低だとは思わない。それは人間としてしょうがないことだと思う。むしろ、自分にはアイ・ラヴ・ユーなんて無いんだ、ふうんと、あっさり納得している人間のほうが、僕には理解不能でややこしく感じる。そこは、ニセモノかもしれないけど、必要だったの、というほうが、心ある人間らしくてあたたかいと思う。ニセモノを仕込んでもがいたり、ニセモノと気づいて苦しんでいたり、でも苦しみを外に出さないように努めていたりと、多くの人はあたたかくて真剣だ。女の子は本当に純粋だ、と、冒頭に言ったとおり、僕は誇張でなく感じている。
アイ・ラヴ・ユーがニセモノであった場合には、さしあたりそれをいじくり回すのではなくて、やはり再び、ジョークとユーモアに眼を向けるべきだと思う。というのは、ずばり言うと、もしジョークとユーモアの能力が鍛えられて、抜群で、さらにそれを人に向けてしっかり燃やそうとしているならば、それだけでもう人に対する愛があるからだ。アイ・ラヴ・ユーを概念なんかで考えるより、ひたすらジョークとユーモアについて、その能力の鍛錬と、能力の燃焼を、実地でやっていくほうがはるかに本当のアイ・ラヴ・ユーに接近できるだろう。
逆に、意地悪だけど有効な言い方をすれば、アイ・ラヴ・ユーがニセモノになってしまうのは、その手前にあるジョークとユーモアの能力が、しょせん貧弱だからに過ぎないのだ。自分の能力で、人を笑わせることができる、和ませることができる、となったとき、人はそのことにいつの間にか、無私になって燃焼してしまうものだし、そうして人が自分によって笑ってくれるなら、理屈をこねなくても人は人を自然に愛してしまうものだ。つまり、「ジョークとユーモアで笑わせる能力が無い」というシンプルなお粗末さが、実のところ全ての原因に過ぎないのだ。人を気持ちよく笑わせることのできる人間が、ニセモノのアイ・ラヴ・ユーを仕込むというような、ややこしく面倒なことをするわけがないのだから。ここはやっぱり、その能力が無いということが「みじめ」だという、そのことに結局尽きるんだよ。
まして、だ。ジョークとユーモアの能力にすぐれているわけでもないのに、「アイ・ラヴ・ユーとは何か」というような、分不相応なことを考えるなよ。面接に受かる見込みのないみじめな人間が、労役の大問題について考えたってしょうがないだろう。分不相応だ。人を気持ちよく笑わせてから言え。アイ・ラヴ・ユーを概念化して考える資格のある人は、すでにジョークとユーモアの名人になった人からだ。
ジョークとユーモアの能力を獲得するのは、難しいよ。それだけで実際、とても難しい。必死にならないと獲得できない。これまでの自分にどれだけ自負があったって、そんなもの役に立たず、まず心臓のレベルでそのトライアルに耐えられないということが続出するだろう。それでもそこに突っ込むしかないというのは、いっそ恐怖さえあると思う。でも本当に、突っ込むしかないんだ。何ヶ月という、ひたすら恥を掻くという時間を突破していくしかない。そりゃね、それぐらいのことをしないでは、人間に身につくものなんて何一つないんだよ。
ただその分、そのジョークとユーモアの能力が、いくらかでも獲得されればだ。入口に入れたのだ。そこからは、あなたの生きる世界はまったく変わるのだ。ちゃんと、あなたが生きるということが始まり、あなたが人と触れ合うということが始まる。きっとそのときあなたは、これまでのことは全部ウソだったと感じ、「危ないところだった!」と誰にもわからない胸のなでおろしをするだろう。そのときのあなたは、人にジョークとユーモアの能力が要らないとは決して言わない。「最低限のことなのに」と、途端に、僕の言うところの立場に加勢してくれるに違いない。毎朝、一日が始まるのが楽しくなるからね、当然だ。
この一点だけを突破し、この一点だけを獲得すれば、「決定的」なんだ、と、そういったことはなかなかあるものじゃない。突破し獲得すべき一点がわかりやすくあるなら、そこに力を向けやすいし、やってやろうかという気にもなるじゃないか。どうせ代償といっても数ヶ月の恥しかないのだから、よくよく見ればどうってことはない、恐怖するにはあたらない。
ジョークとユーモアがまず入口にあって、視線や声や名前がアイ・ラヴ・ユーのオープンな態度として響きわたる。ここまでが、ただ人と人としての関係。男女として分かたれるのはその先だ。まあ、どこから男女で分かたれるべきかは、人それぞれの考え方があるかもしれないけれど。
男は男として、憧れるべき花を、自分であちらこちらへ、楽しまれるようご案内できるというよろこびがある。女性は女性として、「どうぞ、わたしにときめいてくださってね」と、美しい身と華やかなオシャレをひらひらと振る舞って見せることができる。
という、僕の発想は、なんだ割と古めかしいなと、少し恥ずかしいけれども、あまりこういったところに、無理やりな斬新さは必要ないように僕は思う。そんなことより、まずその男女が分かたれて彩りを持つところまで、到達できるかどうかだよ。そこに到達せず、特にジョークもユーモアという入口さえも通過できず、単にセックスだけをしたら、もう何が何やら、わけがわからなくなる。それは野蛮人のセックスじゃないか。もちろん野蛮人でもセックスはできるけれど、そんな、やりたくもないことを知らず識らずにやっているようなことになってはいけない。
その野蛮人のセックスに巻き込まれて、セックスとは一体何なのかとか、恋あいって何なのかとか、わけがわからなくなって苦しんでいる人は、今とても多い。その中で、自分が女であるということそのものが、もうイヤだとなっている人はとても多いのだ。そういう人にも、今回の話は有益になると思う。これまでの恋愛やセックスを思い出してみればいい。あなたはセックスが嫌いなわけではなく、野蛮人のセックスが嫌いで、自分が野蛮人になるのが嫌いなだけだ。思い出してみれば一目瞭然のこと、あなたが嫌ったセックスの周辺には、人と人との、まずジョークとユーモアさえなかったはず。アイ・ラヴ・ユーの視線も声もなければ、やわらかい身体と近しい距離もなく、男女が分かたれて彩りが添えられるとか、「どうぞときめいてくださってね」とか、そういうことがまるでなかっただろう。ツンツンとかモゴモゴとか、そういったごまかしの状態のままセックスをしたはず。それが結果的に野蛮人のセックスになって、あなたに不快と混乱を与えたのだ。
いちいちの、個々のケースはともかくとして、あなた自身のこととして捉えるなら、あなたはジョークとユーモアの能力を、やはり獲得しないといけない。ジョークとユーモアの能力を持っていないなんて、何をして生きてきたのか、みじめな話じゃないか。それで野蛮人のセックスしかできなくて、恋愛って何なのだろうとか、哲学ぶるのはまるでバカだよ。野蛮人が哲学ぶっているんだから。野蛮人がオシャレとか高みを目指すとかそういうのも全て分不相応のバカでしかない。
女の子はつくづく純粋だ。だから、本当のことを、今は容赦なく言ってみた。話はわかってもらえたはずで、わかったからには逃げてはいけない。
ジョークとユーモアのやれない人はものすごく多い。ひどく多いよ。でもそれは、原則許されることではない。よくよく冷静に、ど真ん中を考えてね。「ジョークとユーモアができません」なんて、そんな人間が根本的に許されていいわけがないでしょ。何をして生きてるのそんなの。
わたしの「スタイル」とかいってツンツンとか、不器用なのでとか慣れていないのでとかいってモゴモゴとか、そんなことをしていい権利は、人間にはない。それも当たり前でしょ。今さら何を言っているの。いいかげん、ただ自分が無能ですというだけの話を引き伸ばすな。
あなたは数ヶ月のうち、この話を、何度か読み返してもいいかもな。最後に素敵なことを言っておくと、ジョークとユーモアでご挨拶し、アイ・ラヴ・ユーをオープンな身体で示すということは、あなたがイメージしているよりも、もっとはるかに、とんでもない威力を持っている。恋あいもセックスも、生きることの何もかもが、根こそぎ変わるよ。
がんばってね。
[自分と恋あいを根こそぎ変える一点の方法/了]