No.295 祝第二十八回Quali's Party盛会追想
「悔いのない日々を」
まったくそう思う。
毎日というわけにはいかないかもしれないが……
とりあえず僕は毎日楽しいのだ。
毎日が楽しいと、逆に、何か「取り返しがつかない」というような恐怖が走る。
失ってしまった日々が、もう取り戻せないように、得てしまった日々は、もう失いようがないのだ。どちらもすでに過去だから。
それが、わけもわからず、恐怖を走らせる。
桑田佳祐の「海」という歌に、こういう歌詞がある。
――Sha la la 夢のように暮らしたものさ
生きている時間は、有限なのだから、どこかでそうして、夢のように暮らさないといけない。
「夢のように暮らしたものさ」というのは、まったく核心を突いていて、その点ついては僕自身は、すでに人には色々と、もう話せないようなことに、正直なることができた。いつまで続くのかは知らん。
夢のように暮らせるかどうかは、運がほとんどだと思うが、もうひとつには、その夢のような時間が目の前に転がっているのを、みすみす見逃す人だって、少なくないということだ。
が、そんな話は、お説教くさくなるのでやめよう。
「悔いのない日々を」というのは、つまり、自分と自分の未来のために、日々を大切に使っていったら、後々は悔いだらけになるね、ということだ。
あまり説明はしたくない。
少なくとも、世間一般の声としての、「このように生きなさい」という声は、あなたに悔いを残さないことについて、一切の責任を持とうとしていない。
つまり、その声の言うとおりにしていたら、確実に悔いだらけになるということだ。当たり前である。
世間一般の声を無視して、自分の声と自分の意志で選択してきた、その結果、悔いだらけさ、なんて人は見たこともないし、演繹上も想像しえない。
悪趣味だが、「ああこの人は己の生涯を悔いている、悔いているうちに取り返しのつかないそれに発狂したんだ」と見える人を観察すれば、その人が長い間、世間一般の声に従順にしたがってきたということがわかるはず。
世間一般の声とは、つまるところ、「制度に従い、制度に貢献してから死ね」としか言っていない。
かといってもちろん、制度範囲内での自由を認めないほど、世間だって冷酷ではないし、悪意には満ちていない。
ただ、責任を負ってはいない、ということなのだ。世間一般の声は、あなたに対して、あなたが本当に悔いを残さずにあれるかどうかについて、責任を負ってはいない。
このことには、誰だってどこかで、自分で気がつくしかない、し、気がついたあとも、それは秘密として自分一人で保持していかなくてはいけない。
それが大人になるということだし、その秘密を共有するということが、大人として友人を持つということだ。
真面目な話になってしまった、やめよう。
あなたも、「シャララ、夢のように暮らしたものさ」と、自分のこととして、いつだって言えるように……
***
今回、Partyの後半では、僕の、合気道への、天才的な才能が発見され、開花した……
と、割と本当のことなのだが、本当のことを本当のまま説明するのはとても難しい。
なんだそりゃハハハ、と、何より僕自身が笑う話で、むしろそうして笑えるので、ここに話すネタに今使っている。
僕は、格闘技ごっこは好きだが、どこかの道場に入ったことはないし、むろん合気道なんか習ったこともない。
が、手首を掴まれたとき、どうする? となって、それをどうすればよいかは、感覚的にわかるのだ。
(それがわかるのだということがわかったのだ、今回)
こう、手首は相手に与えてしまって(がっちり掴まれているのだからしょうがないだろ)、代わりに指先でもこそっとと動かせば、ぶつかっていた力の焦点がズレるから、ずれたところを、相手の身体に沿わせていって、相手の身体の構造に合わせて「折りたたんで」いけば、相手はオットットと崩れてしまう。丁寧にやれば転倒させることもできるだろう。
いや、転倒するかどうかは、こちらの采配ではなくて、相手次第ではないのかな。相手の力加減や動き加減の問題で。
それに、「折りたたむ」に限定することもないか。
ただし、途中で動きを止めてしまうと、「掴みなおされて」しまうから、止まってはだめだよ、ということで……
まあ何しろ、僕はそんなもの習ったことがないのでわからないのだ。
でも、この合気道の基本(らしい、知らない)ものが、何年かけてもよくわからない、身につかない、という人もあるらしく、そのことこそ、僕にはよくわからないのであった。
どういう感覚なの、と訊かれたので、正直に、「当たり前、としか思わないんだが」と答えた。
正直に、感覚として「当たり前」と感じるだけで、それ以上の何かはない。
満員電車を、「あ、降りまーす」と言って降りるときに、わざわざ人の身体を正面から押して出る奴はいないだろう。どうしたって、人と人との間をなるべく縫って出ようとするはずだ。
それと同じ感覚で、「当たり前だろ」としか思わない。思わないし感じない。
他に満員電車からの降り方ってあるのか?
そんなものに、○○道、なんて、たいそうな流派は要らないはずである。誰だってやっているし、誰だってできるじゃないか当然に……
そんなわけで、つまり、参加者の中に合気道を長年やってらっしゃる方がいて、なんとなく組んでもらったのだが、教わるまでもなく、それぞれの組み方に、それぞれの抜け方・崩し方を、その場で発明したのであった。
すっかり、彼女に対して、むしろ僕の側が先生となり、「ウム」という具合になったけれども、それで僕が合気道を本格的に習いに行くなどということは、結局無いのであった。
どうせ僕なんかに厳しい道場の道場生なんかやれるはずがない。尻尾を巻いて逃げ出すに決まっている。
ただ、こういうことをネタに、何が言いたいかというと、気づいてもらいたいのである。
つまり、何も習っていない僕が、いきなりそんなことが「できる」のは、おかしいでしょ? ということなのだ。
何も習っていない、習う気もない、努力の気配もなければ、意欲や熱心さの気配もない僕が、なぜそんなことがいきなりできて、一方でそれを六年間も習っている人が「できない」のは、おかしいでしょ? と言いたいのだ。
単純な話、ある種のことは、習ったってできないのである。熱心に、意欲を向けて、努力を積み重ねても、その種のことは「できない」のだ。
習いに行くというのはむしろ、自分について、「ああそうか、自分にはこんなことが"できない"んだ、考えもしなかったな」というのを、発見しに行く、そのことを教えてもらいに行く、ということではないのかな、本質的には。
つまり、穴を教えてもらえるだけで、埋めてもらえるわけではないのだ。
埋めるのはどうすればいいかというと、自分で必死にやるしかないのである、何をやるかといって、習い事をではなく、生身で突っ込んで生きて、胴体と脳を実力派に鍛え上げるというようなことをだな。
揉みくちゃにされないと胴体も脳も鍛えられない。
ところが、自分を鍛えようというときに、その揉みくちゃの満員電車から降りて、満員電車を観察するばっかりになる人が少なくないが、それは満員電車に詳しくなるだけで、胴体と脳を実力派に鍛え上げることにはならない。それで満員電車に乗れば、やっぱりキューッとやられるだけである。
また真面目な話になってしまったのでやめよう。
声も言葉も、話も眼差しも、表情さえも、正しくは胴体から出るもので、頭でイメージして作るものではない。
というような話を、確か前のコラムでしたような。
「一年半、コラムもブログも、"毎日"、チェックしています、毎日です」
という人が、今回いてくれて、またそうはっきり言ってくれて、正直うれしかった。お目目がキラキラの女性である。そして頭が弱くない。
内容を全て把握されていて、僕はもう、何をどう考えるか前もってバレているので、これは口説きようがないなと、痛感して笑ったのであった。
毎日、読むと、気持ちがスッと軽くなる、軽やかになる、というふうに言われて、まあそう言われてしまうと本懐なので、すごくうれしい。
僕は人の、そういうところを愛しているのだ。
人が人の心を、毎朝、上等なチャーハンの具材のように、軽くできてしまう、そのことを与えられてしまう、ということが、僕はどうしようもなく好きなのだ。
だから逆に、「心を軽くしようの会」みたいな、心の重くなる会合の気質がきらいである。
次の交差点を、右折しても左折しても、どうせ大したことにはならない、何しろ土台がしょうもない自分の人生でしかない。右折したら、「右折した!」という心地が残り、左折すれば「左折したぜベイベー」というアクセルの踏みしか残らないだろう。
そこでもし、悔いが残るとしたら、「こっちに曲がれ」という、横槍にシブシブ言いなりになってしまったときだけだろう。「それって誰がドライブしていることになるの?」という、その屈辱が、人に悔いを残すことになるのだ。
そして、過去はもう取り戻せないからね……だから、「悔いのない日々を」。
***
誕生日をガッツリ祝われてしまった。いわゆるサプライズというやつでだ。
会場CLIMBのオーナーコバヤシ兄貴までが、ニヤニヤしてケーキを運び入れてきやがった。
まったくもう、恥ずかしいものだな。顔は赤くなるし、挙動不審になるし、変な汗を掻いてしまった。
バースデーソングが流れ、ロウソクを息で吹き消して……
まあ、そりゃ、気分は悪くないし、そうして祝われてしまうと、うれしくなってしまうが、もうなんというか、やめろよなキミタチ。
今思い出しても変な汗が出るぞ。
ところで苺が敷き詰められたタルトケーキはおいしかった。真夜中にたっぷりの苺と生クリームは、非常に退廃的でいいものだ。
「悔いのない日々」のためには、「やめとけ」と言われるものを、それでも自分でやる必要がある。
それで生クリームを食うわけだ。
そんな退廃ばかりやっていたら、何もできなくなってしまう……かというと、そうではなくて、逆に、習ってもいないのにいきなりできてしまう、そんなこともあるんだよと、先の段に話した。
パーティは、そのように、とても楽しくて、とても楽しかったのである。
今回は特に、穏やかで和やかで、ただただ安んじていられる、楽しい、ということが続いた。
ただの「中休み」かもしれない、という気もするが、あるいは企画上、不安定な双葉の時期を過ぎて、幹が育ち始めた、のかもしれない。
楽しい楽しいと言っても、僕はもちろん、現在多くに流通しているタイプの楽しさを、求めているわけではない。
求めていないだけでなく、認めてもいないかもしれない。
じゃあどういうタイプの楽しさかというと、顔面の力が抜けていく楽しさだ、と言えるが、そう言ったってよくわからないし、誤解される場合は誤解されるので、まあ初めからあまり上手く言うつもりがない。
カッコツケとかわざとらしさとかは要らないのだ。
おっと悪口になるのでここまでにしよう。
僕が何を考えているかというと、次のようなことだし、あなたが何を考えるべきかというのも、きっと次のようなことだ。
Partyが、楽しかったとする。
では、その「楽しさ」は、いったい何によって構成されているか? ということなのだ。
そこには"公然の秘密"があるのである……
言わずもがな、そこにいる人間がゼロ人では、楽しいもヘッタクレもない。
だから、何人かいるのだが、じゃあそのうちの、誰を引っこ抜いたら、空間は変質してしまい、楽しくなくなってしまうか、面白くなくなってしまうか。
そのことが問題なのだ。
で、その、「この人を引っこ抜いたら変質してしまう」というとき、じゃあその人は、どんな能力を持っていて、どういう活躍を、実はしているのだろう、というような、話なのだ。
僕がずっと追求してきたのは、そのようなことだし、あなたがずっとどこかで引っかかっているのも、つまりはそのことなのだ。
最もわかりやすい例で言うと、たとえば、立川志の輔は落語の名人である。古典落語でも創作落語でも、先進的な名人だ。
落語というのは、舞台上に、その噺家一人しか、プレイヤーとして出現しない。
で、当然だが、その舞台上の志の輔を、別の誰かに入れ替えたら、楽しさや面白さはどこかへ消失してしまうのである。
他の人がやってもダメ。
古典落語なんて、内容はすでに決まりきっているのにも関わらずである。
当たり前のことなのだが、このことを、人はグリグリ見つめる必要があるのだ。
仮に、あなたが古典落語を丸暗記し、必死で練習したとして、確実に志の輔の落語より面白くはならないのだが、
「なぜわたしがやると、志の輔さんのように面白くはならないのだろう? 内容は同じなのに?」
ということの問題だ。
別に面白くなくてもいいもんね、と、開き直れば話は別だが、それでは何のための落語なのか意味がわからない。
このことがどう広がっていくかというと、大丈夫かなこの話つまらなくないか、まあつまらないかもしれないが聞いてくれ、どこにどう広がっていくかというと、
・わたしが同じ落語をしてもまるで面白くならない
・わたしが同じ歌を唄ってもまるで感動にならない
・わたしが同じ振付で踊ってもまるでグルーヴィにならない
・わたしが同じ文章を書いてもまるで面白くならない
・わたしが同じ演目をやってもまるで面白くならない
ということになるのだ。
ひいては、
・わたしが同じ仕事をやってもまるで面白くならない
・わたしが同じ旅先に行ってもまるで面白くならない
・わたしが同じPartyをやってもまるで面白くならない
・わたしが同じ「恋愛」をしてもまるで面白くならない
・わたしが同じ愛撫をしてもまるでsha la la 夢のようにならない
ということに、なるわけだ。
人はこのことに、絶望と希望を見るのである。
絶望とは、言わずもがな、
・わたしがやったら、どんなことでも、まるで面白くならない
ということだし、希望というのも、言わずもがな。
・どんなことでも、やる人によっては、まるで面白くなってしまう
ということだ。
そして、希望の最前線はきっと、
「どんなことでも、わたしがやったら、まるで面白くなるわよ」
と、信じうること、そしてそのことに向けて、自分を鍛えていくという、確信と意志があることだろう。
落語で言えば、現存する名人が死滅してしまったら、落語そのものはまるでゴミになる。ただのわざとらしい長話でしかなくなる。
恋愛だって同じで、男女としてお互いをときめかせる、名人か才能のプレイヤーが死滅すれば、恋愛なんてゴミになるのである。
僕は先日、こういう言い方をして、我ながら適切だと思ったので、ここに剽窃する。
つまり、努力よし、意欲よし、熱心さよし、といって、
「アンタ本当に、何か○○することの名人になる気があるのか?」
ということ。
合気道の道場に、何年通ったって、「力の衝突を○○する名人」になるつもりがなければ、肝心の能力なんか身に付きっこないのである。
「毎日、読むと、気持ちがスッと軽くなる」と言ってもらえて、素直にうれしかったのは、僕が他でもない、そのことの名人になりたいからだ。
思い込みを打ち砕いて、痛快な気分にさせ、希望を剥き出しにする、そのことの名人に僕はなりたいので、そのように楽しんでもらえているということは、何よりうれしいのだ。
ちなみに、志の輔さんはきっと、落語の名人である以上に、物語の世界に「男前」を描き出し、人を忘れていたものにハッとさせる名人である。
そこに出現する男前の男前ぶりは、近年のハリウッド映画などをはるかに凌ぐのであった。
最近は、恋愛とか男女とかは、すっかり下火だけれども、その中でも、見落としてはいけない。あなたが「女として○○する名人」になるチャンスを、本当にまるごと捨ててかかっていいのかどうか、あなたはまだ真剣に審査していないはずだ。
また、あなた自身、「男として○○する名人」に、触れてもらったことがないかもしれない、そのことだって、捨ててしまってよいのかどうか。
「悔いのない日々」のために、よくよく考えないといけない。まるでゴミのように思っていることがあったとしても、そうじゃない、それは単に、あなたが名人でないのが悪いだけかもしれないのだから。
***
まるでPartyの話をしていない。これでどこが追想なんだと言われそうだが、追想である。少なくとも僕は追想している。そんな言い訳は通じないか。
とにかく、楽しかったのだ。それはまるで、おれの毎夜のように、楽しかったのである……
宣伝気味に言うと、まず費用的にお安く(大事だ)、お店・会場の気分がとても良く(一番大事だ)、場所柄も地霊の棲むように良く、お酒も食事もウマい、もちろん全部大事なことだが、その上で、朝までわりと軽薄でない話をしている、かといって重くない、しんどくならないし、かといってダレないし眠くもならない、朝まで疲れない、顔面の余計な力が抜けていく……というのは、それだけで良質で貴重なはずだ(それ以上のことをやるつもりはない、不可能だ)。
特に、お酒と食事なのだが、味は居酒屋のようにケバくないし、かといってオーガニックを押し付けるような野蛮なわざとらしさもない。普通にウマい。ガッつくようにウマいのではなく、残ったら冷蔵庫に取っておきたいようなウマさだ。そしてご存知のとおり、都心でそのような普通のウマさというのは、それだけでけっこう貴重である。これはきっと、料理が上手という以上に、中にいる方々が「いいヤツ」なのである。何か失礼な言い方だが、まったくそう思う。いいヤツが当たり前につくった「おいしいでしょ」というものの味わいがする。おふくろの味でない、言うなれば「友人の味」。
そして、このことこそ僕は熱弁したいのだが、こちらがどれだけ精神文化的に気取って何かをガンバろうとしても、食事として胴体にマズいものやケバいものをブチ込まれると、もうダメなのである。そこにある営みはもう「貧しい」と胴体が確信してしまうのだ。文化といえば、どんな環境でどんなメシを食っているかが一番の文化であって、そこがケバかったらもうケバいのである。甘えてはいけない。
逆に言えば、ケバい大騒ぎがしたいときには、そういうケバいメシを食いにいくのがいい。それだって楽しいものだ。用途によってそれぞれだろう。
過去、長らくパーティ企画を休止していたのは、とにかく会場が見つからなかったからで、今の場所は苦労して結果偶然で見つけてきたので、いろいろ賞賛するように。ケバくない企画およびわざとらしくない企画をしたい方には、このときぐらいは上から目線でアドバイスを申し上げると、要点はこうだ、そこにいるスタッフが、まるでそこに「住んで」いるように感じられること、また、客としても、そこに「住んで」もかまわないとさえ感じられることだ。アットホームをウリにしているようなところでも、そこに住みたいかというと全然住みたくない場合は往々にしてある。会場というより、拠点の感じ、アジトの感じである。
そしてそんなものは、いいヤツにしか作れないので、素晴らしいことなのであった。名人芸、名人芸……
もはやPartyの宣伝なのか店の宣伝なのかわけがわからないが、まあ楽しかったし、何よりもう済んだことをあれこれ自慢してもな……と言うと、追想そのものが破綻するか。まあいい、次回なのだが、次回は年末ということもあり、第三土曜日がブッキングできなかった。7日か14日か、調整中、いやたぶん12月7日(土)になるだろう。
冷え込むだろうから、もう慣れた連中は、待ち合わせ場所でなく、先に会場に入っていてもいいよ。連絡だけちょうだいね。あ、ただしチーフは(誰のことかわかるだろ、お前だ)、居ないと困るからこっちに来るように。このあたりも、いろいろ、やりようがありそうだね……
僕のことについて、「書き手、兼、Partyの仕掛け人なのですか」と感じる人がもしあったら、それについては、「そんなつもりないし」と答えておこう。何のつもりでやっているかというと、僕には何の「つもり」とかいう、そのツモリ現象は万事につけ一切が無いのである。誤解のないように。
自分と、世界を、どうする「つもり」だとか、そんなスケベなことを考えるなよ。イヤがられるぞ。というわけで、来月またよろしく、そのときまで、お互いに、悔いのない日々を、内緒で。
おやすみなさい。来てくれた人、ありがとうね。
[祝第二十八回Quali's Party盛会追想/了]