No.338 計画
計画は善のものだ。
今、計画を立てている。
人は、計画を立てなくても、まともに生きてはゆけるが、計画なしでは、余分なものがない生になってしまう。
余分なものがない生は、少しさびしい。
もちろん、計画といって、計画を本質と見誤ると、まともに生きるということができなくなる。
計画というのは、人間がまともに生きるぶんには、余分なものにすぎない。
そして、それが余分であるという点において、計画を持つことは善だ。
今、計画を立てている。
そして計画とは、基本的に部外者には秘密だ。
ここが、まったくのミソだと思うが、計画が立てられるということは、それを実現できる、ということだ。
なぜなら、計画を立てられるのだから。
計画が立てられたら、あとはそれを遂行してゆけばいい。
そもそも、実現できないものなら、計画そのものが立てられないはずだ。
計画を立てて、なおその実現が得られないとしたら、途中で計画を忘れてしまったか、もしくは途中で死んでしまったときだけだ。
誰もがそうして計画を立てている。
計画は自由に立てられるのだから、これを自由計画と呼ぼう。
計画できない唯一のことは、過去のことだけだ。
誰もが計画を立てる。たとえば、現在から七年後に、十億円の現金資産を持とう、という計画を立てる。
それを達成して、何になるというわけでもないから、これは余分だ。
この余分に向けて計画が立てられることこそ、まったくの善だ。
余分のある生は、若干、洒落が利いている。
七年後に、それぞれみんなは、何歳だろう?
こうして夢が膨らんでいく。それが余分であるからこそ、夢は膨らみうる。
計画とはまるで、護身用でない拳銃だ。護身用は、実用的で、あまりに切実なものだから……
護身の用事もないのに拳銃をぶらさげている。これを、余分と言いたいのだ。
拳銃をぶらさげていて何が悪い? 趣味でも何でもなくぶらさげている。
さてそうして、七年後に十億円の現金資産を掴みたい、という人にとっては、計画が重要になってくる。
現段階では、さしあたり、現金輸送車を襲撃する、ということを考えてもいい。
七年間もかけて計画を練りこめば、頭のよい人ならきっと成功するだろう。
こういう言い方をすると、「そんなバカな考え」と言われてしまうかもしれない。
でもそれが計画だ。
ここでもし、現金輸送車を襲撃するとか、犯罪者になるとか、指名手配されるとか逮捕されるとかの、違法性のリスクを背負いたくないという場合は、まずそのことを計画に入れておかなくてはならない。
つまり、
「違法性のある手段によることなく、七年後に十億円の現金資産を掴んでいること」
という計画にしておかなくてはならない。
そうでなければ、ただの計画の不備だ。
僕は今、計画を立てている……
幸い僕には、アウトローへの願望はないので、ことさら違法性をよろこぶような計画を立ててはいない。
どうせ部外者には秘密なので、何も話せることはないけれど、少なくとも、これは余分なことに向けての計画。
余分なことに向けなければ、夢はしぼむ。
人間には確かに必要なことがある。
でも、人間にとって、必要なことがあるということは、悲惨なことなのだ。
たとえば、最低限の生活とか、健康とか、平和や治安などは、どうしたって必要だ。
それを無しには生きていけないというのが、人間の悲惨さだ。
悲惨さに対抗する、必要性の蓄積も、やはりそれ自体必要だ。けれども、それに向けての計画は、いつだって夢をしぼませる。
さらに悲惨なことには、夢をしぼませる計画に、人は自分自身で絶望するのだ。絶望のあまり、やけくそでしか動けなくなる。
そちらのほうはさしずめ、必要計画と呼ぶことにしよう。
余分なことへ向けての自由計画と、必要なことへの必要計画とを、取り違えたとき、人は計画において、夢をしぼませる。
見栄や自尊心の慰撫に必要な何かを、計画に練りこんだ必要計画は、何も自由ではなく、人を自己的に絶望させ、夢をしぼませるだろう。
もし、七年後に、十億円を掴んでいることが「必要」だった場合、その必要計画は悲惨だ。まともに生きるのに、十億円も必要とするようでは、そんな人間は悲惨に決まっている。
違法手段によらず十億円を得るためには、たとえば百円の利益が出るものを、一千万個売らねばならない。
ここで、まず、累計一千万個売れるものとはどういうものか、ということについて考えなくてはならなくなる。
こうして人は、ようやくまともに、物事を考えるということを始める。
余分なことには違いないけれど。しかし余分なことというのは、不覚にも楽しいものだ。
一千万個は一日では売れまい。だから累計ということになる。
一億人の客層があったとき、十人に一人がそれを買う。そう考えたとき、「十人に一人も買わないだろう」という気がする。
だから、「一個買った人は、二十個買ってしまう」というような商品を考えればいい。商品のバリエーションのことも含めて。あるいは、「せっかくだから全種類買ってしまおう、集めてしまおう」と思わせるところがあればいい。
そうして、一人あたり二十個買う商品になれば、一億人の客層のうち、二百人に一人がそれを買う、ということになればいい。二百人に一人というぐらいなら、そう不自然な感じはしなくなる。
一個あたり百円の利益だから、二十個で二千円の利益。購買客一人あたり二千円の利益で、購買客が五十万人いればいい。
四百円で作ったものを、五百円で売るということは、さして難しくないだろう。問題は、それをどのようにして、一億人の客層へ届かせるか。手元に、せめて情報だけでも届かなければ、客は購買しようがない。また、その商品の実物をどのように配送するか。あるいは分配するか。
加えて、その百円の利益を出す商品を、二十種類、生産するだけの能力、生産性が要求されてくる。一つの商品を作るのに一年間かかっていては、二十種類を作るのに二十年かかってしまう。それでは計画が破たんする。
最低のペースでも、一年間に三種類は、その商品をリリースしていかなくてはならない。その生産性は、努力や、知恵や、才能や、蓄積によって生じるだろう。この生産性を自分の手元に用意することが、最も手近な大前提となる。
また、累計で一千万個売れなくてはいけないのだから、その一千万個を生産する、設備やシステムも必要だ。
あるいはこうも考えられる。年収一千万円のサラリーマンが十五人いたとする。年間の給与は計一億五千万だ。彼らの七年分の給与は十億円を超える。
だから、自分一人で、年収一千万のサラリーマンが生み出す生産性の、十五人分を賄えれば、七年間で十億円の獲得に到達しうる。時間の限定と、自分に有利な分野を選べるという前提の上ではあるが、その七年間は、一人対十五人で、自分が同等かもしくは勝利せねばならない。生産性において。
彼らが週に四十時間働くのならば、自分は週に六百時間分の仕事をこなせねばならない。残業もするものだろうから、すなわち、
「彼の一日の仕事量は、普通の人間の百時間分に相当するね」
「彼は、普通の人が十五分かかるところを、一分でこなしていってしまう」
「普通の人が、二つの仕事を同時進行させるとしたら、彼は三十個ぐらいの仕事を同時進行しているよ」
「彼は、一日休むだけで、まるで半月もバカンスに行ってきたかのようにすっきりしている」
「ぼくには十五年来の友人がいるが、彼はたった一年で、ぼくよりもその友人と信頼しあう仲になってしまった」
「彼は7%の情報からでも、即座にその人間全体の本質を見極めてしまう」
「彼は一日で計画を立て、一日でそれを潜在意識にまで落とし込んでしまった。一か月の講習予定は無駄になってしまった」
という状態でなくてはならない。
となれば、アイディア一つでどうこうというような、甘いイメージのことではなくなるだろう、という予感が得られる。物事をこなしていく速度も、キリキリして急いだところで間に合わない、ということがわかる。まるでワープするかのように進んでいかなければ成り立たないことだ。
その分の覚悟も計画に練りこまれてゆく。
このようにして計画は立てられていく。
計画は、常に鮮やかなものだ。
乾ききったスケジュールなんか立てても、人は自分を苦しめるだけで、何にもならない。
計画が鮮やかだからこそ、人もそれに合わせて、鮮やかな何かになりうる。
これらはすべて余分なことだ。余分なことへ向けての、自由計画。
だからいくらでも鮮やかにしたらよい。
こういったことを、自分に「必要」なものだとして、シャカリキになってゆけば、人は損耗して破綻してしまうだろう。
人は、自由なことをさせてもらえるぶんには、際限のない能力を発揮するが、強迫されて物事をさせられるときには、ごく限られたみじめな能力しか出さないものだ。
人間の能力の99%は、余分なことのためにしか用意されていない。
例えるならば、旅客機のファーストクラスだ。ニューヨークまで、格安航空券なら十万円。ファーストクラスなら百万円だ。ニューヨークに行くためには、飛行機に乗る"必要"がある。運賃そのものは十万円だ。ファーストクラスの場合、それに余分な九十万円分がついてくる。
人間の能力はそれよりもっと偏っているのだ。必要に向けてでも、十万ポイントぐらいの仕事はする。しかし自由に向けてなら一千万ポイントぐらいの仕事をするものだ。遊んでいるような奴のほうがめきめき物事に達者になるということを誰もが目撃してきている。遊んでいる奴は疲れない。遊んでいる奴は、それが遊びであるため、えんえん、しつこく、飽きもせず、夢中になって繰り返している。
計画が、余分に向けてなら善だということは、人間にとって遊びが善であることと同じ。すなわち人は、「計画を持つ」という遊びをすることができる。
絵画にせよ彫刻にせよ、人間がこと遊びとなったら、どれだけ綿密にそれを創り上げて遊ぶものか。計画は練り上げられ、磨きこまれ、それ自体が一つの作品となる。部外者には秘密で、秘密というところが気が利いている。この秘密を共有しえた有資格者が、自然と「仲間」と呼ばれるのだろう。
僕は今、計画を立てている。
[計画/了]
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