No.344 パーティへの誘い その1 [pdf]
パーティ企画をもう少し、盛り上げようと思うのだが……
アイディアがちっとも湧かない。
湧いてたまるか、というわけのわからない思いもある。
まったく関係ないのだが、「おれは絶対に努力しない」という固定フレーズだけが、圧倒的なすがすがしさで、僕の中を吹き抜けるばかりだ。
僕は絶対に努力しない。
寸分たりとも努力してたまるか。
と、ここまで確信できるということは、何かに関係があるのかもしれない。
パーティ企画と、「努力しない」の組み合わせは、どう結びつくのだろうか?
解き明かしていこうとする気持ちがまるでないが、まあ何か、どこかで結びついているのだろう。
女性は、男性に口説かれるのに、男性に努力されるのがいやだ、ということがある。
キミの好みはどういう男? どういうふうになったら好きになってくれる? というような男が、女性を一番がっかりさせる。
かといって、無意味に自信たっぷりな男も、同等程度にイヤだろうけれど……
まあ、そのあたりで、万事について、一切の努力をしてはいけないと、いつの間にか心に誓っているのだ。
努力してフラれるよりは、努力せずにフラれるほうが、フる女性の側としても気分がいいだろう。
慣れないフレンチをおごられて、ネックレスを贈られて、花束を持ってこられて、「好きです」と言われたら、フるにしても女性は罪悪感や後味の悪さを覚えるだろう。
それよりは、スーパーカップのバニラ味を二つもおごってやるからオレと付き合え、と口説かれるほうがいくらかマシだろう。フレンチなんか一人で食うわ、とか言って……
女性だって、人生に一度は、堂々と「死ねよ」と言って、笑って男性をフるというようなことがしてみたいはずだ。
そうでもないのかな?
まあそれはいいや。
努力は一切しない、が、ヘトヘトになることは、必須だと思う。
ヘトヘトにならなかった日は、あまり生きていて意味がなかった、という日になるだろう。
努力しなくても、日々ヘトヘトになっていたら、人間は伸びるし、逆に努力しているつもりでも、毎日ヘトヘトになっていないなら、何も伸びない。
伸びない努力なら、努力して疲れるだけ損だ。
だから、そんなことをするよりは、土曜日は朝まで飲みましょう、ヘトヘトになるまで遊ぼうね、ということなのだが……
まあそんなことでヘラヘラ笑っているのは僕だけかもしれない。
パーティの現場は、録画してお見せすることのできない、おどろきの穏やかさで進行する。
そこに際限のない僕のバカ話がえんえん続くだけだ。
こんなことに、何の意味もないのだが、こんな何の意味もないことを、朝まで確かに休みなくブチ抜ける阿呆も、なかなか実物としては見ることがないだろうので、まあ、そういう一種の見世物という趣きもある。
途中で三十分ほど眠ることもあるが、そのときは誰か女の子が膝を貸してくれる。
別に愛されているわけではなくて、もはや、僕が何をするかについて、誰もがほったらかしなのだ。
もうちょっと何かあるだろオイ、と思うのだが、すでにそれが実情なのでしょうがない。
こんなことなら、いっそ、この全員でどこかで一緒に住めば? といつも思う。
もし、仮にそういう共同生活がスタートしたら、何の盛り上がりもなく淡々と、その生活が受け入れられていきそうで、それはそれで逆に怖い気がする。
あ、ついでに、いつも来てくれる人の、九割が女の子だ。女性。
あとはどんな特徴があるだろう?
そうだな、結果的に、なぜか知らんが高学歴の人間が多い。
高学歴? なんて、今はもう言わないのだろうか。
まあいい、誰も学歴のことなんか気にしていないが、結果的にそうだ。
東大卒とか、一橋とか、慶応とか、御茶ノ水とか、関西学院とか、どこかの医科大とかだ。
僕だってまともな大学を出たはずなのに、パーティの中では低学歴の部類に入ってしまう感じがして、やるせない。
もちろん、短大卒のコもいるし、高卒のコもいるし、その他、英語ネイティブのバイリンガルだったり、元テレビウーマンだったりとか、看護師だったりとか、エステティシャンだったりとか、デザイナーだったりとか、ここで言うべきでない職業の方だったりとか、いろいろだ。
いろいろなのだが、その誰もが、あまり出自を主張しないので、そういった個性の部分はなぜか全員が忘れ去っている。
本当の特徴は、全員がアホ、ということなのかもしれない。
全員が、どこか漠然と、自分の知ってきた「九折さん」を持っていて、それだけで寄り集まっているという感じだ。
そして、肝心なところの、現物の九折さんは、現場で割とほったらかしなのである。
なぜだよ!!
つじつまが合わんだろ!!
まあ、なんとなく、わからないでもないし、もういいか、と思っているのではあるが……
あとは何を話せばいい? 何を言えばわかりやすいだろうか。
合気道の現役を、僕が習ってもいない合気道の技でいつもねじ伏せている、というようなことだろうか。
これは、もう全員が知っている、ひとつの名物みたいなものなのだが、もうこんなことをしても誰も驚いてくれないのである。
もう、ちょっと、何かさあ……
じゃあもう、いったい何をしてみせたら、驚いてくれるんだよ……
いったん「九折さん」が何かをし始めると、ワザがあって当たり前であり、「九折さん」が何かを話し始めると、話が面白いに決まっている、と、信じ込んでいる、悪〜い空気があり、もはやそこで僕が何を知らしめてみせても、誰も何も驚かないのだ。
だからみんな来てね!!!
こんな説得力のない勧誘も他にあったものじゃないな。
ちなみに、僕はガキのころから運動音痴なので。運動神経はミイラなみにダメである。
キャッチボールとかは全然だめだ。
徒競走をしたらみんなの中で一番遅いのではなかろうか。
努力もしないし、頭もいいのか悪いのかよくわからないし、何よりガッツが皆無だ。
そうした人間でも、やれることはある、という、どうでもいい希望を体験するために、パーティを開催している。
うーん、こんなひどいウソはこれまで聞いたことがないな。
まあ、だいたいこんな感じなのだ。
別にパーティに限らず、僕がやってきたことのすべては、何であれ人に話すと、「何それ」と意味不明になるのだ。
僕だって話していると意味不明だなあと思うのだからしょうがない。
みんな来てね!!
どう思う? こんなのが、十年間も文学を研究してきた人間の筆致だろうか?
自分で言うのも馬鹿げているが、ダメなのだ。阿呆はどれだけ工夫しても阿呆のままだ。
もうこうなったらしょうがない、何かの間違いで、誰も彼もが何かを誤解して。気の迷いで僕のことを愛し続けてくれるのを祈るしかないのだ。
そうして、間違いの霧の中を、生涯駆け抜けていけたら、本懐だ。
逃げ切った、というやつだ。
誤解でも何でも、逃げ切ってしまえば勝利だからな。
この重篤なアホチンに、説教してやらねばならないと、義侠心を厚くする男性諸君と女性諸君、まあ、遊びに来てね。
このマジメな世の中、マジメな宇宙の中で、別におれぐらいインチキで生きてもいいよね。
あ、ちなみに、年齢層は、二十代半ばの方が多いです。
十八や十九の女の子もいますが、いわゆるアラサーの女性もいる。
男性は何歳なのかよう知らん。見ていないし聞いていない。たぶん似たような年齢層だろう。
楽しくなってきたわけだが、僕などは年がら年中楽しいわけなので、何をどう言えばうまく伝わるのかよくわからない。誰も彼も楽しく過ごせばいいと思うがどうなんだろうね。
(ここに参加エントリーフォームを置いておくので、ついうっかりエントリーするように)
***
さすがにもうちょっとマジメに宣伝しておきたい。
たくさんの人に遊びに来てほしいというのはウソではないのだから。
まず、パーティなんてものを企画すると、その段取りをせねばならないのであって、そういった段取りのことが僕は大変苦手である。
苦手すぎて、それだけで猛然とやる気を失っていく。
つまり、僕は、パーティをやる気がない……のだが、これは矛盾しているようで、いや、やっぱり矛盾しているのか。
矛盾しているのは自分でもわかるが、あえて、さらに矛盾を重ねて言うと、こんなものにやる気を出している人間がいたらそっちのほうがヘンなのである。
ただ、やる気があろうがなかろうが、こういったものは「必要」だ、と僕は感じている。
必要だ、と感じているのだが、見渡しても、周囲でそういった仕組みが実現されているようには見えないので、しょうがない、やるか、ということで、やむを得ず僕自身でやっている。
要は、別に、こういったものがすでにあるなら、僕がやらなくていいのだ。
誰か、代わってくれ、と切実に思っている。
こういったものが、世の中にどんどん出てきて、世の中に珍しくなくなったら、僕はさっさと手を引いてしまうだろう。
元々僕がこういったことに向いているわけではない。
街コンとか婚活パーティとかを開催しろということではまったくない。
人間にとって、誰か新しく人間と出会うことは、重要だし、不可欠だが、それは決して、出会いを「求める」ことが正しいということにはつながらない。
出会いに、憧れる心はあってよいだろうが、それはあくまでアホの憧憬であるべきで、それを求めて得られると思い込むド厚かましさの発想は、人間の持つ発想の種類として醜悪である。
出会いは、虹みたいなもので、出会えればラッキーだし、雨天にも見上げていないと出会えないが、かといって、虹を求めて出歩くような奴がいたら、そいつは救いがたい暇人だ。
そういうことではなくて……
たとえばだ。
逆に考えて、あなたは、ここ二年間を振り返って、
・同級生でもない、同窓生でもない
・同僚でもない、同業者でもない
・同じ趣味や、同じサークルや、同じ習い事でもない
・親戚でもない、近所でもない
・とにかく、気づけば親しかったんだ
というような人と、どこかへ一泊旅行に行ったりしたことがあるだろうか?
あるいは、そうした人の家に泊まりにいき、朝まで話し込んで、ケンカをしたり、悩んだり、和解したり、震えたり、したことがあるだろうか?
そういったことは、ほとんどないか、かなり少ない、と思われるのだ。
合コンなどで、出会った男性と、二週間付き合って、一週間同棲したけれど、もう別れたわ、という人はいるかもしれない。
が、それだってよくよく見ると、合コンということなら、隣には必ずあなたの友人がいたはずだし、彼の隣にも、彼の友人がいたはずなのだ。
合コンは、仕組みそのものは、古来より伝統の「お見合い」の方法をなぞっている。
まあそんなことはいいとしてだ。
とにかくだ。
事実だけを丹念に見つめた場合、我々は、この封建主義、封建文化の中に、閉じ込められているのである。
ウソじゃないし、大げさに言っているのでもない。
我々の生きているこの封建主義空間では、基本的に、個人は共同体の軛から抜けられないのだ。
脱藩は許されないのである。
江戸時代まで、通行手形なしに関所は通れなかったように、今だって、お上から手形を発行されない限り、個人は共同体を出られないのだ。
わかってもらえるだろうか?
世の中が封建主義、というのではなく、いっそ「われわれ」が、封建主義なのだ。
知らないうちにである。
たとえばあなたのところに、公安の男が四人やってきたとする。
(なんだこの話。ガマンしろ)
そして公安の男たちは云う、
「この、○○郡、○○村というところの、この店に住み込みの店員として潜入してくれ。段取りはしてある。短いスカートとキャミソールを着て、最近ここにたむろっている愚連隊の男たちから情報を聞き出してくれ。奴らはテロリストなんだ」
調査の結果、あなたがこの役にうってつけなのだ、と、男どもはあなたに頭を下げる。
つまり、女スパイになれ、とあなたに言うわけだ。
そうなるとあなたも、悪い気はしないので、女スパイ役を引き受ける。
短いスカートを穿いて、キャミソールを着て、田舎受けする派手さの格好で、住み込みの店で、男どもにこっそり流し目などしてみるだろう。
女スパイということになるとそうなる。
が、これを、自分でする、ということではダメなのだ。
そういうのがステキと思うなら、自分でそうすればいいのだが、日本の場合はダメだ。
「お上」から命じられなくてはダメなのである。
日本では個人が個人を自己決定することなどできない。
お上に自分を決定してもらうしかないのだ。
(なんだそりゃ、とめまいがしたが、頑張って続けよう)
どんな格好をして、どんなしゃべり方をするか、そしてどういう勉強をし、どういう遊び方をするか、そしてどういう男と寝るかまで、お上と共同体が決めており、あなたはその決められた範囲の中で選択の余地を与えられるに過ぎない。
そのことが、人々を抑圧している……のではなくて、この封建主義の仕組みが、人々にベストマッチしているのだ。
わたしという個人のことを、お上が決定してください、と、自ら望んでいるのが、日本人の特徴といえる。
これは何もウソではないし、誇張ではない。
お上が与えた人間関係のことを、われわれは「付き合い」と呼んでいる。
おじさんはよく、「仕事なんだから、付き合いがあるんだよ」といって、ゴルフに行ったり、キャバクラに行ったりしているはずだ。
「付き合い」という文言は、妻や家族に対しても強い説得力を持っている。
封建主義の中、われわれは人間関係を持っている気がするし、事実、人間関係を持っているのだが、それはよくよく見ると、お上から安堵された「付き合い」という土台の上にあるのだ。
これは、気づいてしまうと、かなり阿呆くさいところがある。
昔、東京行の新幹線に乗っていたところ、こんなことがあった。隣にまだ若い、ロックンロールのような女の子が座ったのだが、彼女は座るなり、手に持っていた雑誌を僕に突きつけ、
「漫画、読む? あ、読みます?」
と言った。やんちゃだが、静かな声だった。
僕は、おっ、と思い、「ええやんけ」と受け取った。
途中で車内販売のコーヒーをオゴった。
重ねてアイスクリームも売りにきたので、そのとき二人の間には微妙な空気が流れ、僕としてはやむを得ず、
「はいはい、アイスもね、オゴるオゴる」
「えーめっちゃ、悪いっすよ。すいません」
と笑いあうようなことになった。
これは別に何の付き合いでもない。
そうして車中を過ごしたことは僕と彼女しか知らないだろう。
彼女は、絵の勉強をしていて、留学したい、と言っていた。東京に何しにいくの、というと、おばあちゃんちの、法事か何かだと言っていた。
血がにじんで、耳たぶがちぎれそうな大きなイヤリングをしていた。金色だがメッキだろう。
かっこよかったな……
やんちゃだが静かな声を持つ彼女が、絵を描きたい、留学したい、と望むのは、よくわかるし、当然だし、理に適っていると思った。彼女のような個性なら、留学しても無駄にはならないだろう。
もちろん知らず識らずだろうが、封建主義に閉じ込められてしまう前に、突破口を自ら拓こうとしていた。
それはきっと、彼女が、生まれながらの彼女自身でありつづけようと、真摯に求めているからに違いない。
彼女には、僕の知らない友人がたくさんいて、家族の誰も知らない友人がいて、友人の誰も知らない恋人などが、たくさんいたりするんだろうな……
何の話をしていたのだっけ?
パーティの宣伝をしているのだった。
このとおり、僕は、パーティの宣伝とか、段取りとか、そういったことをまるで得意としないのだった。
そもそも、宣伝といえば、パーティの前に、まずウェブサイトとかブログとかの宣伝をしたらどうかね……
と、わかっているのだが、わかっているまま、十年が過ぎてしまった。
宣伝とか段取りとかは、できたら誰か、そういうことに長けた人間が、バリバリこなしてくれたらいいなと、心の底から思っている。
そういうことだって、相当に優秀な人間でないとできないのだろうけれどね。
パーティがどうこうと言って、そんなことに「やる気」があるわけではない。やる気なんかあったらおかしいだろう。
そういうことではないのだ。
やる気がないならやめたら、という言い方も、一見すると理に適っているようで、何かこう、まったく美味しい感じがしない。
そうではなく、こんなものは無意味でいいのだ。
無意味といえば、僕がこうして書き話していることも無意味であって、これ自体別に「やる気」があるわけではない。
血がにじむほど、大きいイヤリングをしていたロックの彼女は、もうずっと昔のことだけれど、別に「やる気」を持っていたわけではない。
僕にはやる気がないし、彼女にもやる気はなかったが、もしあのとき彼女が祖母宅の法事を無視して、そのまま僕と遊びに行ったなら、そのまま一泊旅行になったとしても、何もおかしくないだろう。
そうしたことは本来、特殊なことではなく、単に、非封建主義的な出来事だね、ということにすぎない。
僕は、物事を為すのに、あるがままで為したいのであり、「やる気」に依存して為そうとするのがいやなのだ。
今、多くの人が、学校や職場などで、仲良くしながら、心のどこかで、「嫌われないように」と、制御を掛けているところがあるだろう。もう、その制御にも、自分自身慣れっこかもしれないが。
それはそれでいいし、そういうものだと思う。
突然裏切るような話になるが、お上が与えてくれる世間の、「付き合い」といって、その「付き合い」がまともにできないのは困り者だ。「付き合い」がまともにできない人は、それだけで、無条件に、百点満点中、五十点がマイナスされる覚悟をしなくてはならない。
ただ、自分なりに、どうしてもということがあり、「わたしなりの付き合い方があって、それは譲れないし、曲げられないものだから」ということなら、それはまあしょうがないだろう。その勇敢さはわかる。損失を引き受けてでも、曲げずにいく、という勇敢さだ。それでも生きていく上では五十点引きにならざるを得ないだろうが、それはそれで、てめえは五十点満点だ、と励ますこともできよう。
どうせ、そもそも、合格点を取って生きていける人などきわめて稀なのだし。
だが、根本的に、単に人付き合いができないだけの引きこもり、みたいなものはまるでダメだ。それはただの、百点満点中の0点である。そんな人間とは誰も関わるつもりはないので、そういう人はパーティに来てもらっても困る。そんなやつが来ても僕が無慈悲に追い出すだけだ。そういったところ、僕は冷淡だし徹底している。
今まで、そういえば、結局何のトラブルもなかったし、何というか、何よりも、暴力的なムードになったことは一度もなかったな。
人それぞれ、実は隠していた個性が強いところもあり、また隠していたものだから鍛えられておらず、未熟で、ぶつかりあうばかりだったり、みたいなことがたくさんあった。幾人かは、この部分を読んで、顔を赤くして苦笑いしているだろう。二年前のあのときから比べて、成長したね。成長したね? そんなことを僕が言うわけあるか。甘く考えてはいけない。まだまだ、何も変わっていない。そんな簡単に、いい思いなんかできないよ。覚悟したまえ……
暴力的なムードになったことは一度もなかった。特筆できるのは実はそのことかもしれない。
野卑な人間は紛れ込まなかったのだ。
深夜から朝にかけての、渋谷、原宿、代官山で、誰一人として愛想笑いするわけではないが、同時に誰一人、荒っぽさを振り回すことはなく来た。
僕は野卑なものはきらいなのだ。
僕の求めているところはシンプルである。僕の求めているところは、金塊と美女がドサドサ天空から降ってくることだ。何のウソ偽りもない。
あと忘れてはいけないのは、天空から降ってくる、季節ごとの独特の風だ。結局のところ、これには何物も敵わないのだ。極楽の余り風というやつで、霊香に満ちて渦を巻き、風圧で胸元を突き飛ばしにくる。
何をやっても無意味だし、何をやっても完璧だ、と、そのときはもう、何もかもがどうしようもないのだ。
これは何の説明かというと、つまり僕の求めるところは、パーティとは何の関係もないということである。パーティの段取りをしているうちに金塊や美女が天空から降ってくるということはない。
それでも続けているのは、何かを求めているのではなくて、やっぱり「必要だ」と思っているからなのだろうな……
金塊はまた別のところで降ってくればいいし、また金塊なんて、重いだけまどろっこしい、誰も僕からお金を取らなければそれで済むことだ。金塊を持つより、支払いの一切をしなくていい人間のほうが優位である。何しろ財布を持たなくていいし、金塊なんか持ったら持ったで、管財という手間とリスクが生じるのだ。十億円の豪邸を、十億円で買うのは手間がバカバカしいもので、ただでくれるというほうが、直接十億円の値打ちがある。
美女が降ってくるぶんには、あなたが降ってくればそれでいいわけだし、あなたが美女じゃなかったら、努力しまくって美女になってから降ってきてくれればそれでいいのだから、解決している。
そうしたことを、僕は求めているし、僕は約束したとおり、求めることへの一切の努力を決してしない。
僕が「必要だ」と感じているのは、もっとしょうもないことだ。この、いつの間にかわれわれを取り巻いている、時代錯誤も甚だしい、笑えないジョークのような封建主義だ。こいつに風穴を開ける仕組みがどうしても必要になる。
よくよく考えてみて、生きる上での知り合い人が、すべてお上が用意した、枠組みの中でのことでございました、是、付き合いにて候、「これにて一件落着」「ヨーォ」などと、バカバカしくて生きていられるか。
時代として、生きている封建主義ならまだわかる。だが封建主義はとっくの昔に死んだのだ。東北新幹線が開通した時点で津軽海峡の望郷を唄う歌は時代劇の一つになってしまった。これはテクノロジーの進化においてしょうがないことだ。
時代劇が不必要だとは言っていない。
ただ、封建主義は死んでしまったので、父親が、娘であるあなたに、
「○○や、お前もこの春で二十二になったのだね。お前もこの××家の娘なのだから、これからはきちんとした和装で過ごしなさい。ほら、はしたない、足袋はいつも白く清潔にしているものだよ。お前も茶人のところへ通わせないといけないね。ぜひそうしなさい。そうしたら今度、好い人を連れてきてあげるからね」
としみじみ言う、そしてあなたがつつましく「はい」と返事する、というようなことは、もうとっくに無くなったのだ。時代は明らかにタブレットとWiFiである。
生きろ、そして恨むなら明治維新を恨め。
封建社会が悪いわけでは決してなかった。
ただ、封建社会そのものが、とっくに死んでいるものだから、いまだに残っている封建主義とその文化は、強制的にゾンビ化するのだ。
もっと早い時期に風穴を開け、出口を大きくするべきだった。
そして、さらに言えば、賢い人たちは、とっくの昔にそうしてきたのだ。
封建社会の中で、「付き合い」を誰より達者にこなしながら、賢い人間は、シンパを探し、レジスタンスを結成してきた。
「付き合い」からこぼれ出てこそ友人だと知ってきたのだ。
僕にとっても、今ある友人というのは全てそうだ。
地下抵抗組織のような友人ばかりだ。
たとえばあいつとか、アイツとか、あいつとかもそうだが、みんな、「付き合い」を堅牢にしながら、そこから離脱して物事を考えない人間には、初めから期待をしていない連中だ。
そりゃそうだよ……今どき、「付き合い」の中で果てました、御免、これにて一件落着、なんてならないよ。
どうしても、致命的にダサい、悲惨なお説教くささを、やりたくないが、どうしてもやらねばならないところがある。
誰だって、まっとうに、人並みに、「付き合い」をこなしている(こなせていない奴は論外だ)。
だが、その「付き合い」をこなしているうち、一応、色々うまくできていると思うだろ……?
ところがだ。
そうして、「付き合い」の中だけを生きていくと、いざ、「付き合い」から一歩外に出たときに、自分のすさまじい無能さに気づくハメになるのだ。
パーティでは、自己紹介を禁止している。
禁止しているのか? よくわからないが、とにかく、そういうお仕着せのムードには決してならないし、僕が断じて、そういうムードにはさせない。
そういう「付き合い」のやり方は、できなくてはいけないし、こなせなくてはいけないが、何もわざわざ土曜日の夜に僕の前まできてやるようなことではないのだ。
職場関連とか、そういうところでやればいい。
自己紹介禁止、身の上話も基本的に禁止だ。かといって政治の話なんかお寒いし、とにかく世間話の一切を誰も期待していないし、誰も待ち受けて準備していない。
そんなとき、目の前の人間に向けて、どうする? どう振る舞うか、何を話せばいいのか。
多くの人が、自分のびっくりするような無能さに直面することになる。
事実として、今までそうなってきたのだ。
その有様は、正直、「そこまでせんでも」とさえ思えるところがあり……
お前が言うな、という話だが、もうみんなすっかりそれが当たり前になってしまったので、何か知らんが、もう自然にそうなってしまうのである。
せっかく愛想よく笑顔で自己紹介しようとした青年が、その一応の自分の得意技が一切無効化されるのを体験して、
「え? あれ?」
となり、
「いやいや、さっきからさ、何を笑っているの。いやホラ、今もさ」
と、さらに突っ込まれるという、阿鼻叫喚の地獄絵図が……
パーティ企画うんぬんといって、お前は何をやっているんだと、我ながら改めて呆れかえる気がしないでもないが、まあ実際にそうなのだし、隠してごまかしてもしょうがない。
気づくのだ。
多くの人が、たちまち数秒で、自分に染みついた「クセ」、「付き合い」の中で自分に刷り込まれた「クセ」ばかりで、自分は笑い、話し、声の調子を作っている、ということに気づく。
それを取り払って、さあどうしようとなると、その途端、誰も彼もびっくりするぐらい無能なものだ。
だから、そんな悲惨な目に遭うから、パーティに来てはいけない、ということではない。
僕は逆だと思っている。
そんな悲惨なまま、先に進んではならない、と、僕は思っているのだ。
封建主義の状況に、こっそりだが、風穴を開ける。
そのとき、
<<お約束なしに人と触れ合い話すことが、どれだけ難しいことか>>
を知るだろう。
(なんだこのダセエ言い方は)
ふだん、封建主義の「付き合い」の中では、色んなことが「お約束」で固められているので、その中ではあまり人間一人一人のことは浮き彫りにならない。
が、その「お約束」を剥いでしまったら、人間一人一人の声が、もろに浮き立って響いてしまう。
自分の声がいかに硬いか、話がいかに散り散りか、どれだけ説得力がなく、表情が作りものか、ということが、響き渡るようにバレてしまうのだ。
このことは、しばしば数分間、人を混乱させる。情緒的に少し取り乱す人もある。
まあでも、どうせ、数分間で慣れるけどね。
誰だって、元々は、生まれつきお約束の中に生まれてきたわけではないから。
「お約束」を、やめてしまうと、少し何かが懐かしい感じがして、
「あれ、そうか、別にこれでよかったんだ、今まで何をしていたんだ」
という見方に変わる。
とはいえ、それで解決したわけではまるでなくて、そこから、何か話そうとか、何か笑おうとか、何か動こうとかすると、そこに起こるギコチナサに、さらに自分でびっくりするのだけれどね。
でもまあ、いいじゃないか。
それでもう、ひとつの風穴は空いたのだ。
僕のほうが、これを今読んでいるあなたより、年上だろうから、僕には経験上、わかることがある。
「付き合い」と、「お約束」の中で生きてゆき、いつの間にか、一歩外側に出たら「びっくりするぐらい無能」な自分になっている、という現象。
この現象は、どれだけごまかしても、必ずその先を生きていく中で、いつか突きつけられてくるのだ。
そこを落としたら、生きる意味がないんじゃないの? というような局面で、突きつけられてきやがるのだ。
だいたい何を言わんとするかわかるだろう。
誰かをやがて、愛さなきゃいけないし、誰かにやがて、愛されなきゃいかんのだ。
それは何も、夫婦でなくてもいいし、長く続くものでなくてもいいし、ただ一時の仲であってもいいし、旅先に刻まれるようなことであってもいい。
が、最悪のパターンは、ご存知のとおり、「付き合い」の一種のまま結婚して、婚姻仲の「お約束」として、「愛し合っています」というようなことを、四十年間もやらされる場合だ。
これは、ダメだろ。どう考えても。
四十年間、人間は耐えられる。何もなしでは耐えられないが、娯楽をふんだんに盛り込んだり、アルコール漬けにすることなどで、耐えていける。
が、だ。
そのときヒシヒシ迫ってくるのは、「耐えて何になるの?」ということなのだ。
四十年間、耐えたら、誰もおめでとうとは言ってくれず、ただ四十年ぶん加齢して、目の前に残るのは死期だけだ。
このことからは誰も逃れられない。これは僕の意見などではまったくない。
やがては誰もの意見にならざるをえない、体験される真実なのだ。
そして、見ろ、この僕の、パーティの宣伝のヘタクソさを。
宣伝というなら、もっとそれっぽくすればいいものを、一体お前は何をやっているんだ、と、これはもう本当に阿呆のすることだ。
こうなったらもう、このヘタクソさ加減を、一種の証拠だと、信じてくれる人に信じてもらうしかない。
いかがわしいことはしたくないのだ。
そして、いかがわしいことの第一は、「出会い」を求めるようなことにある。
人との出会いに、憧れを持つところは、誰だってあるのだろうけれど、だからといって、その出会いを「求める」というようないかがわしさには嫌悪がつのる。
この場合、嫌悪は憧れを凌駕するだろう。
凌駕していていい、それこそがまったく健全なことだ。
だいたい、いかがわしさというのは、「やる気」に付随してくるものだ。寂しい人間が「やる気」を振る舞うとき、それは必ずいかがわしくなる。
どうする?
状況の困難さはここ一点にある。
(文脈がメチャクチャだが、ガマンして読むように)
封建主義がゾンビのように居残る中、いかがわしくないものといえば何か。
なおも封建主義に偏るしかないのだ。
「久しぶりに、父に、酌をしに、実家へ顔を出そうと思っています」
というようなことは、まるでいかがわしくないように感じられる。
こうして封建主義の中にわれわれは閉じ込められているのだ。
わかりづらいかな?
「父が、地域振興課の付き合いで、地元の雨乞い祭りを保存しようという集まりに、顔を出すことがあったんですね。父が、お前も来いとしつこく言うものですから、わたしも付き合って、何度かお邪魔させてもらったんですよ。あくまで、まあ、地域の一人として。そしたら市長さんもいらっしゃって、懇親会のあいさつをされて。何でも、ただ伝統の雨乞い祭りを保存するだけでなく、こういった祭りの活性化が、この地域の若い人たちの交流をつなぐものであってほしいということで、市長さん自らはたらきかけられて、若い人たちもけっこう集まっていたんですよ。雨乞い祭りそのものを知らない人も、けっこういらっしゃったみたいですね。それでいいんだ、そこからなんだ、とハッパをかけられるふうでした。そこでわたしは、雨乞い祭りを代々手がけられている宮司さんの方と出会って。わたしには縁遠い方だったのですが、その宮司さんの、お父方のご祖父さんにですね、なぜかわたしは大変気に入ってもらえて。いいからウチにこい、ウチにこいと、なぜか積極的に言ってくださって……。その方が縁を取り持ってくれて、今はその、宮司さんの方をお付き合いさせていただいているんです。彼はわたしより二つ年下です。こんなことってあるんですね。忙しく働いているときには想像もしていませんでした」
こういうものが、「正統」であり、いかがわしくない、と感じられるのだ。
それは、封建主義が物事の正統性を定義づけているからに他ならない。
封建主義というのはそもそも、お上が領地を安堵して、安堵されたものはそれを代々守り抜いていく、それによって主従関係が成立する、という仕組みのことを指す。
つまり、「お上」「家柄に続く血族」「両親」「土地」、これらに貢献するもののみが正統である、という文化が形成されている。
どう思う?
僕は、封建主義と、伝統に由来する正当性を、決してバカにしないたちだ。
雨乞い祭りはきちんと保存されていくべきだと思う。
なるべくね……
ただ、雨乞い祭りが、今や人々のアイデンティティを豊かに支えるほどに、再興するとは思えない。
残念ながら、酒の肴にさえ、もはやなりにくいんじゃないか。
あくまで、歴史的に、あっさり失ってはならないものとして、保存されるべきだと思う。
でもそれは、一種の遺物として保存される向きであり、遺物というのは、残念ながらすでに死んだものを言うのだ。
人それぞれ、自分の内に巣食い、自分を閉じ込めている、封建主義の仕組みがわかるだろうか。
あなたは、ここまで、長ったらしい僕の話を聞いてくれているので、なんだかんだ、少しは僕のファンなのだと思う。
まあいいじゃないか、そういうことにしておいてくれ。
それで、だ。
あなたは、こうして今のように、僕の書き話すところを、面白がって読んでいるということを、きっと両親には話していないし、今後も、冗談にも明かすつもりはないはずだ。
なぜだかわかる?
両親どころか、学校の友人や、職場の同僚にも、話すつもりはないし、明かすつもりもないだろう、と思う。
あなたは、こっそり、きっとある種の、どうでもよい秘密として、これを読んでいるのだ。
これがもし、あなたが新幹線の中で、大きなイヤリングをしたロックンロールの少女に偶然出会い、その彼女に対してということなら、どうだろうか。
あなたはその少女に、話のついでに、
「わたし、この人の話が好きで、なんとなく読んでいるの」
と、そのことを打ち明けて話すのに、心理的抵抗がないはずだ。
そこにある差は何なのか?
あなたは、封建主義文化の中に、いつの間にか閉じ込められており、いつの間にか、「裏切り者ではないですよ」という振る舞いを保つことを、習慣にしているのだ。
そうして閉じ込められながら、あなたは、実は他人には内緒で、こっそり抜け道を探している。
雨乞い祭りの宮司と交際している女性は、その封建主義的な正当性に安堵を覚えるだろう。
が、あるとき、付き合って半年も経ってから、彼がひどく酒癖が悪い、ということを知る。
片づけなよ、もう、と軽く言ったつもりが、いきなりきつく平手打ちをされてしまった。
それだけでなく、その「家」に入り込んでいくほど、信じられないぐらい男尊女卑に扱われる、ということを体験していく。
「なにこれ」
この「家」の女性は、みんなこうなんだ、という、実情を見て驚く。
彼は彼女に、すっかり家父長の口調で言う。
「今度さあ、大ババさまのところに行くからね。そのときの、身だしなみとか立ち居振る舞いとか、よろしく頼むよ」
「えっ? なあに大ババさまって」
「言ってなかったっけ? 結婚するとか、家のことをどうするかは、基本的に、ぜんぶ母方の曾祖母、大ババさまが決めるんだよ」
「えっ? 何それ」
「大ババさまに嫌われたら、全部なし、破談になっちゃうからさ。まあ、今回はそんなことまず無いから、大丈夫だとは思うけど」
「何それ、今回、って……」
「あ、その爪、その日には絶対に切っておいてね。大ババさまの一族は、もともと豪農の一族だからさ、農作業しない女の手をすごく嫌うんだよ」
こういうことは実際にある。
実際にあるし、実は何も珍しくない。
封建主義文化に担保された正統性というのは、多く、こうした閉鎖的な男尊女卑の構造を背後に隠し持っている。
決めつけかもしれないが、封建主義なのだから当たり前だろ、とも覚悟していないといけない。
よくよく振り返ってみると、彼女は、「いい女」として彼に見初められたのではなく、「いい嫁になる」と、一族に見初められたのだった。
「あの女ゴなあ、今の旦那とも、うまくいっているみたいじゃけど、あいつ酒癖悪いけえな。もしそこで合わんようだったら、ほれ、分家のあっち、従弟のほうに嫁がせてもいいじゃが?」
「そうでえな、どっちに転んでもよいええの、仕合わせのこじゃ」
こんなことを、まったく何の疑念もなく、「正統」だと信じきって、一族は会話している。
どうだ、キモチワルイだろう。
これは何の誇張でもなく、「よくある話」だ、気をつけよう。
取り込まれてから、あなたがどれだけ反論しても、「あんたも○○の嫁じゃが? 今さらほんなこ、ぐうてえべ」「この××(地名)の水吸うて生きるかにはの、あじゃて、あじゃて」ということで、取り合ってももらえない。
絶対に近代化しないからな。
さてそれで、どうする?
さっきからずっと、どうする? と訊いているのは、このことだ。
僕は十六歳の女の子に呼び出されてデートすることがある。
縁もゆかりもない女の子だ。
それは、「正統」ではないので、秘密にしておかないと、いかがわしい、と取られる。
そういったことが、いかがわしい、というのは、社会通念上確実なことで、僕自身そういうことは、いかがわしいな、と思っている。
思っているのだが、そのいかがわしさも、これだけ積み重なってしまえば話は別だ。
女の子は、学校で楽しくやっているし、家族とも平凡にやっている。
お父さんとお母さんが、もう少し仲良くしてくれたらいいのに、よくケンカするなあ、などと思っている。
僕はたいてい、そういう女の子に、勉強して大学に行きなよ、と勧める。
誰かが勧めないと、夢も持てないからだ。
風穴を開けてやらないと、そこから先の景色を思い描くこともできない。
勉強して、国立大学に、それも東京大学とか京都大学とかに入ればいい。そのあとアメリカの大学院に留学してもいい。
せっかく手がきれいで指もきれいなんだから、爪を磨いたらいい。
香水は、つけすぎるのが重要で、ややつけすぎが似合う、という女になることが大事だ。
あなたはとてもいいコで、愛されるけれど、その先がある、ちゃんと悪いコになれるかどうかだ。
親の期待に応えるのはいいよ。でも、じゃあ、あなたの期待に応えるあなたはいなくていいの?
親でも何でも、利用したらいい。おれのことだって利用していい。感謝なんかしなくていい。感謝なんてずっと先のことでいい。あなたは結局、あなた自身に満足できなければ、誰にも感謝の心なんか持てないんだから。周りに合わせて暮らしていって、やがて行き詰ったら、あなたは必ず周りの全てを恨んで生きることになってしまう。そんなこと、親御さんも決してよろこばないんだよ。
そういうことを、いつも話している。
「いかがわしい」だろうか?
いかがわしくても、もはやかまわないだろう。
こちらがいかがわしいなら、向こうだって「ぐうてえべ」だ。
どっちも大したことはない。
(ちなみにもちろん「ぐうてえ」なんて方言は存在しないので検索しないように。テキトーに作ったそれっぽい何かというだけだ)
やる気はまるでないのに、必要だ、と感じているというのは、こういうことだ。
この霧が、なんとかして、さっさと晴れないものか、と僕は思っているのだ。
夢とか、情熱とか、勇気とか、ロマンスとか、重要なんだろ。
その、重要さとは裏腹に、土曜日の夜にも、結局は封建主義的にしか行くところがないなんて、いったいどこが夢と情熱で、勇気とロマンスなんだ。
目を覚ましてくれ。この霧よ、どっかにいってくれ。
封建主義のシステムが、日本人男性をことごとくマザコンにしているのは、誰もがよくご存じだろう。
マザコンはよく大声を出している。
マザコン的に安堵が与えられる空間では、うれしくて楽しくてしょうがなく、お酒で顔面を真っ赤にして、怒号を吠えたてるのだ。
悪口になってしまった。
許されないというわけじゃない。
ただ、他に「必要だ」と思うことがあるのだ……
この、日本人男性の、構造的マザコンは、基本的に直らない。もはや直すものでもない。
すでに、性癖になっているので、マザコン構造の中でなければ、恋愛できない、という男もすごく多い。
日本人男性ほど、女子高生の制服姿に恋をしている男性群も珍しいと思うが、それは、「お上」によって公立高校の制服を着せられているということ、そして通学させられているということに、安堵を覚えてしょうがないということなのだ。
それはもう、性癖になっていることだから致し方ない。
僕だって、女子高生の制服姿は好きだが、もうそんなものへの、性癖の慕情は薄れてしまった。
そんなことより、彼女が秘密に風穴を開け、夢を持ち、自分で外側へ出て行けるだけの有能な自分を獲得しようとする、意志の芽生えを持つほうに焦がれるようになってしまった。
このことはもう、ウソ発見器に掛けてもらっても、ウソではない、というのがわかってもらえるだろう。
自分に流れているウソとホントの電流ぐらい、いいかげん自分の感覚でわかるものだ。
誰でも、後々経験することだと思うが、僕ぐらいの年齢になると、やけに一部が同窓会の呼びかけを活発に始める。
いきがっていた魂が、今は疲れ果てて墜落し、封建主義への帰還を求めているのだ。
封建主義上の自分の「土地」へ還り、そこでつながろうとするのだった。
それはつまり、人生の終わりが見えてきて、もうダメだ、これしか残っていないんだ、という、ただの悲鳴でもある。
そんなジタバタするぐらいなら、もう寂しさを引き受けて、じっくり孤独に死ぬことへ向かったほうが、まだマシじゃないのかと思うのだが……
まあ、それは僕のことではない。
あなたは、これからの土曜日の夜、どこへ行くだろうか?
土曜日の夜、パーティ一つにも、出て行けない、ということは、すごくヘンなことだとは思わないか?
僕はヘンだと思うのだ。
別に僕のパーティに誘っている話ではない。
土曜日の夜の話をしたいのだ。
土曜日の夜は毎週やってくるのだ。
その土曜日の夜について、丹念に事実だけを見つめたときだ。
どこか一つへ出かけるのにも、「付き合いだからね」という、封建主義製の通行手形が要る、そこにしか結局出かけられないという、こんな状況はおかしいと思わないか。
今や、自治体が合コンを仕掛けることは珍しくなくなったし、「街コン」と呼ばれるものも、各地で活発に開催されている。
ただ、よくよく見ると、「街コン」といっても、別に「街」は関係ないのだ。
おかしいと思わないか?
「街」と付けられるだけで、何か「土地」とつながっているような印象を受けるので、それで封建主義的な肯定感を付与されているのだ。
これがただの「コンパ」だったら、誰も見向きもしない。
AKB48は、なぜ「秋葉原」という、「土地」の名前を、グループ名に据えたのだろう、と、疑問に思ったことはないか?
こんなのはおかしいに決まっている。
「街コン」というと、ふーん、ということになるのに、なぜなんだ。
もともと、「街」というのは、それ自体がコンパ性、カンパニー性を持つのじゃなかったのか?
街といえば、それ自体が、微弱で穏やかなコンパではなかったのか。
もともと、自分を閉鎖してかかるつもりなら、用事もなしに「街」に出るべきではない。
日本は、十年前より、さらに封建主義的になってしまった。
よくあることだが、人間は危難に際すると、「地が出る」ということがある。
経済力や、競争力や、生産力的に、日本が国際的に置き去りにされつつあるので、この危難の中、より一層「地が出る」ということが起こってしまった。
地が出ると、やはりそれは封建主義だった。
時代劇の世界に還ってしまうのである。
それが誰かを、豊かにするのならいいんだけれどね、しないよ、するわけがない。
そこには安堵感が架空にあるだけだ。
***
見ろ、この、宣伝コラムとして最低の出来栄えの何かを。
なんだこりゃ、と思いながら、もう時間切れなので、このへんでまとめてしまうしかない。
みんな来てね!!!
うーむ……
これはもう、僕の知能のどこかに、どうしようもない欠損でもあるのだろうか?
まあいいや。
あなたは土曜日の夜をどう過ごすか。
架空の安堵感のみに過ごすというのは、僕はオススメしない。
「付き合い」は大事だし、友達はなにより大事だ。
でも、その友達というのもだ。
あなたは、あなたの友人が、
「わたし、自分自身にね、もう風穴を開けたんだ。そうすることに決めたの」
「わたし、周りの期待に合わせて、それに付き合っていくことだけで、生きてはいけないって気づいたから」
と、りりしく言ってのけたとしたら、あなたはその友人について、寒い気持ちにはならないと思うのだ。
逆もしかりで、あなたの友人だって、いつかあなたがそうしてりりしく言いだすこと、希望と可能性に満ちはじめることを、心のどこかで待っているだろう。
それは、何もおかしいことじゃない。
そうか、結局、僕が「必要だ」と感じているのは……
土曜日の夜のことなのだ。
僕自身の段取りするパーティに何かを求めているわけではないのだ。
古くからある、サタデーナイトフィーバーを、必要だ、必要だ、と、ずっと感じているに過ぎない。
本来は、僕のような面倒くさがりの段取り下手が、やるようなことではないのだ。
この二年間、「あなた、だあれ?」と、一度でも笑ったことがあるだろうか?
「あなた、だあれ?」と、笑ったことがないということは、全て、お約束上の「付き合い」の中を過ごしているということだ。
しょうがない。
しょうがないし、付き合いは大事だ。
付き合いはちゃんとしろ。
友達を、決してバカにするな。友達を決して粗末にするな。
と、突然ジジイのようなことを言ってしまうが、付き合いがちゃんとできないのは、原則としてとてもダメなことだ。
どうしても、と、特別な理由を胸に抱える以外のときは、付き合いは付き合いとしてきちんとやれ。
誰よりも気分よく、あたたかい付き合いができる人間であれ。
それでもなお、友人とか、恋人とか、一個の人間としての有能さとかは、「付き合い」からこぼれ出てから、どうだ、という話になるけれどね。
土曜日の夜、遊びに来てね。
一通り、まあ、簡単な、超能力みたいなものをお見せできるだろう。
見ておいて損はない。
たとえ僕のことが好きでなくても、まあ、超能力は超能力だ。
オカルトじゃないよ。
人が笑うと、自分も笑う、という、習慣とか、お約束とかがある。
でも、これと似たような現象で、超能力もあるのだ。
こんなものは、実際に体験しないとわかりっこないが……
たとえば、僕がFooooと言ってみよう。奇声だ。これが奇声のままでは、超能力でも何でもない。ただの迷惑だ。
が、なぜかわからないが、そのFooooが、何か知らんが届いてくる、おかしくてたまらない、笑ってしまう、ということがある。
それと同時に、何か、どこか怖くて、逃げ出したくもなる、閉じてしまいたくなる、というところもある。
お約束に守られていない海に放り出されたら、そりゃ色々怖いよ。
まあでも、いいじゃないか。お互いにビビりながら、笑いながら、楽しく過ごせばいいじゃないか。
どうせ土曜日の夜のことだ。
月曜の朝まで続くことじゃない。
二十代半ばの人が一番多くて、年齢平均を取ってもだいたいそれぐらいになるだろうか。
みんな、やさしくて、いいコばかりだ。
人が真剣に何かをしようとしているとき、それを笑ってバカにするようなタイプは一人もいない。
いるとしたら僕だけだ。
僕は立場上しょうがないだろ。しょうがないから、しょうがないのだ。
いいのだそれで。しょうがないのだ……
みんな、やさしくて、いいコばかりで、それでいて、誰も当然、まだ何も解決していないみんなだ。
解決していないから、ぶつかるときもあり、やさしい気持ちの反面、人にあたたかくする、ということができないことがしょっちゅうある。
そんな中、僕なんかは、ずっとヘラヘラしているしかない。
僕なんかは、その中でずっと、Fooooと叫び続ける、ただの安全装置であればいいのだ。
パーティ企画を、復活させてから、丸二年が過ぎようとしている。
この、新しい二年間の参加者、「出席者」に、
「この二年間、どうだった?」
と訊いたとする。
そうしたら反応は、
「……」
だろう。
考えるつもりもなければ、答えるつもりもないのだ。
なぜだよ!!
何かもっとこう、熱いふうのことがあってもいいだろ!!
まあ、どういう感じになるか、前もって明らかなので、こんな野暮な問いかけはしない。
「……」という反応は、何も答えていないのだが、その気配には、ああ二年間、出席してきたのね、という実感だけが表れている。
が、もうちょっと何か、アピール的なものがあってもいいんじゃないかと、思わないでもないぞ。
まあもう、いいか、それは。
何人かの女の子が、ぐいぐい飲んで酔っ払う、ということの、熱と楽しさを学習してしまった。
女子大生同士で飲むときは、温度差が出てしまうことだろうな……
土曜日の夜は、熱、フィーバーで、楽しく過ごしましょう。
誰だって、人間関係を生きているのだから、「付き合い」を大切に。
「付き合い」はちゃんとできるべきだ、原則。
大人でなきゃいけないし、したたかでなきゃいけない。
ただ、その上で、「付き合い」のほうは、あなたのことを大切にするわけじゃないから、そのことは覚悟して。
その上で、こちらには、付き合いのあなたではない、こぼれ出たあなたを見せびらかしに来てください。
時間切れ、パーティ宣伝の、第一弾はこれにておしまい。
今、天気予報を見て、台風が接近しているのを見て、ゲッと思っている。
土曜日は台風かもな。
パーティといって、わざわざずぶ濡れで敢行するようなことではないぞ、どうしよう。
それならそれでしょうがないが……まあ大丈夫だろう。
気合で、台風ごとき、どこかへずらしてしまうことにしよう。
それでも土曜日の夜は来るのだ。土曜日の夜が、来なかった週はないからな。
九折
[パーティへの誘い その1/了]