No.345 パーティへの誘い その2
今度こそ、これが宣伝のためのコラムであることを忘れない。
みんな来てね!
パーティやるからね!
こういうのってどうPRすればいいんだろうね。
遊びに来てね。
と、そう言うぐらいしか方法がない。
遊びに来てね、は、別に何もおかしくないか。
みんな、土曜日の夜は何をしているのだろう。
フラフラ、遊び回っているには違いない、と思っている。
おれも結局そうだからな……
遊ぶためなのだ。
人間は、生まれてきて、何をするべきかというと、遊ぶぐらいしかすることがない。
人間が、遊ぶために生まれてきたということ、これは、過去の偉大な詩人たちが揃って到達している結論なので、これに抗することは凡人には無理難題である。
あなたも、無益に抗することなく、遊ぶために生まれてきたということを、素直に引き受けて、まっとうするべきだ。
僕は、あなたよりも頭がパーだし、人間的に不誠実であり、あなたのような美貌も持ってはいないが、きっと遊ぶことについては、年の功において、あなたより長けているだろう。
生まれてこの方、学校で出された宿題の、一つとしてまともにやったことがない、そういう人間の蓄積してきたノウハウがある。
筋金入りというやつだ。
この筋金を、どこかで抜かないと、やがて大変なことになり、同時にやがて大変なハッピーにもなる。
遊びに来てね!
突然話は変わるが、インターネットは何も悪くないのだ。
メールとか、チャットとか、LINEとか、スカイプとか、ツイッター、インスタグラム、mixi、フェイスブック、全て何も悪くない。
素晴らしいものばかりだ。
どれだけ楽しいかを考えてみよう。
右から左から、友人の遊びふざけたメッセージが飛び込んでくるのだ。
こんな楽しいものは、僕がガキのころはなかった。
現代はその点、大変うらやましい時代だ。
これはあながちウソでもない。ぐっと、本当のことだ。
もし本当に、それが楽しくないものなら、ここまで端末は普及していないし発展もしていない。
楽しいことなのだ、全て。
ただ、そうして二十四時間、遊び続けられてしまうということは、大変なのだ。
エネルギー的に、ついていけない、ということが起こる。
手元に端末があるわけだから、もう遊ぶことをサボれないのだ。
それで、遊ぶとなると、どいつもこいつも、「たいしたことないな」ということが、最近バレてきてしまった。
そんなことではいけない。
手紙が、メールシステムになり、チャットシステムになり、百倍便利になったなら、自分の発信量も、百倍にしないといけない。それでないと、追いつかない。
それで、百倍遊べと言われると、ギブアップする人が続出したのだ。
まったくだらしない限りである。
まあ、これを読んでいるあなたは、決してそんな人ではあるまい。
もし、「どこでもドア」ができたとしたら、それは通勤通学が楽になるのではない。
海外旅行に無限に行けてしまうということだ。
今なら、三か国語もあれば十分だが、そのときには、三十か国語ぐらいは身につけていないと、遊び切れないぞ、ということになる。
そういったことは、本懐として、引き受けていかないと、だらしないだろう。
実際、手元に、インターネットの端末が来て、メッセージ文だけは「どこでもドア」を手に入れたのだ。
楽しいったらないねえ。
人間は遊ぶことが本分だ。
この本分から逃げてはならない。
どれだけ、エネルギー的にキツくても、本分から逃げてはいけない。
どれだけエネルギー的にキツくても、「有意義」というようなことに、逃げてはいけない。
ズバリ言おう。
夜の七時から朝の七時まで、遊び続けるより、夜の七時から朝の七時まで、世界平和について考えることのほうが、エネルギー的に楽なのだ。
これは、今、すさまじい真実、すばらしい本質の、ど真ん中をブチ抜いて話しているところなので、耳の穴をかっぽじって聞くように。
損はしないぞ。
有意義なことは、エネルギー的に楽なのだ。
だから、有意義なことをしている人は、実は有意義なことをしたくてしているのではなく、エネルギー的にサボりたいから、有意義なことに逃げているのである。
わかるか。
ぜひ、わかってしまえ。
たとえば、就職のことを考えなくてはならない学生が、そういう就職関連の本を読んだり、またOBやOGさんに話を聞いたりする。どの業界が今伸びているか、どの業界が斜陽か、給料体系がどうか、求められる人材がどうか、など。
こんなことは、すでに定まっていることを、記憶から話すから楽なのだ。
こう考えればわかる。
二時間、就職に関連して話をするのと、同じ二時間、ぶっとおしで漫才をするのと、どちらがエネルギーが要るか。
漫才といっても、前もって台本を決めてあるわけではないのだ。
その場のアドリブで、その場限りで、また漫才をする相方も、そのときのその場限りの誰かなのだ。
二時間だぞ。
これが、どれぐらいエネルギーの要るものか、実際にやってみればわかる。
二時間どころか、実は、二分間続けるだけでも、けっこうエネルギーを使うものだ。
努力なんかではどうにもならない。
直接エネルギーを燃やすしかないのだ。
人がどうやったら笑うかとか、何がそのとき「面白い」のかなんてことは、何も前もって定まっていない。
定まっていないから、そのときそのときで、発明しなくてはならない。
これは、エネルギー的に実にキツい。
人間は、そうしたキツいことをするべしと、本分に定められてあるのだ。
まったく、世の中は甘くないのである。
元気を出していこう。
遊びに来てね! というのは、同時に、本分を果たせ、という、厳しいメッセージでもあるのだ。
いやあ、こうして、ぬけぬけとウソを言い立てるときに、じんわり掻く汗の感触がたまらなく好きだな……
何も難しく考えることはない。
相変わらず、遊びに来てね、と、パーティの宣伝をするが、そのパーティうんぬんは、やはりどこまでも本質ではない。
土曜日の夜は、すべからく遊ばねばならない。
"遊ばねばならない"のだ。
この崇高さ、荘厳さと、尊厳が、わかるだろうか?
「遊ばねばならないんだ」と、このことを覚悟したとき、あなたにとって、土曜日の意味は変わるだろう。
あなたは土曜日を手に入れるのだ。
このことに覚醒しないなら、もうあなたのカレンダーからは、土曜日など没収である。
あなたのカレンダーは月月火水木金金だ。
昔、そういう歌があったの知ってる? まあそれはいいけど……
人間は、遊ばねばならなくて、遊ぶにはエネルギーが要って、大変だ。
覚悟するしかない。
たとえば学校の先生のことを思い出してほしい。
あなたが大好きだった先生は、魅力的な授業をしたはずだが、その授業は、まるで先生がいきいきと遊んでいるかのごとくであったはずだ。
それに比べれば、淡々と、有意義な教科書の内容を述べ続けるだけの、そういう先生は、あなたにとって退屈で、それ以上に寂しいものだったはずだ。
今こうして、僕自身も、有意義な話をせずに、遊ぶ、ということをしている。
有意義な話をしていいなら文章なんて簡単だ。
ウィキペディアをコピーして貼り付ければいいだけだ。
そうではなく、遊び続けないといけない。
明らかに、有意義でない、このふざけたニオイがプンプンする文章を、まさかあなたはマジメな顔で読んでいないはずだ。
どこか、顔をニヤニヤさせて、「何コイツ」と、半笑いで読んでいるはずだ。
そうしてもらうために、僕は書き話しているのだ。
本分を果たしているのである。
いやあ、オレって偉いな。
かつて岡本太郎氏が、芸術というのは、キャンバスに絵具を塗っていればいいってものじゃない、芸術とはもっと人間の生きる全的なことなのだ、と覚醒されたように、僕にとっても、遊びというのは、何も紙に書き話すことをつらつら続けていればいいというものではない。
あくまで、僕という人間が、全的に遊び続けること、その中で、特に僕は書き話すことを好んだ、遊びの一つだった、という程度でしかない。
遊ぶことはサボってはならないのである。
それはもう、人間の尊厳の問題だ。
自分がもし、崖の上の一軒家に住んでいたとする。
周りに人家はない。
家にはバイオリンとピアノがあった。
その中で、もし、楽器に一度も触れずに十年間を過ごしたならば、それはもうその人間の罪だ。犯罪行為だ。本来果たすべき人間の責務をまっとうしなかった。
それはわかるだろう。
ちょっとマジメに考えてみても、遊ぶということ、および遊べるということは、とても大事なことだ。
それはどういうことか、こう考えてみればわかる。
クラスメートの中で、アンケートを取ってみた。
「一緒に遊びたい人ランキング、トップ3」
すると、誰のアンケートにも、あなたの名前はなかった。
こんなのはつらすぎる。
一人ぐらい、いてくれよ、オイ、と、ヤケ酒も進むところだ。
友達、といって、友達は大事だけれど、「友達は大事」という、イメージやスローガンにこだわってはいけない。
友達といって、「一緒に遊びたい人」に具体的に入っていなければ、それは何の友達なのか、事実無根なのだ。
あるいはこう考えてみてもいい。
何かの飲み会があったとする。飲み会の終わり、二次会に行く人と、二次会に行かない人とに分かれるだろう。
あなたはその日は、二次会にはいかず、帰ることにした。
あなたが駅に向かって歩いていく途中、後ろから、トントンと肩を叩かれる。
そこには、友達、というほどは親しくないが、最近割とよく話す、知人が立っていた。
あなたは、
「あれ、○○ちゃん。二次会行かなかったの」
と言う。
「うん。今日はわたし、××と遊びたくて来たんだもん。これから二人で飲みに行こうよ」
そうして臆面もなく言われたとき、あなたはきっと、そう言われることをよろこぶはずだ。
どうだ!!
遊ぶことは大事だし、遊べるということは大事だろう。
これは今、実のところ、非常に重要な、人文的問題の中枢を突いているのである。
遊ぶということは、シンプルに見えて、奥が深い。
遊ぶということは、安易にあることに見えて、実は根っこが中心まで届いているのだ。
どういうことかを、説明したいが、それは次の段に区切って話そう。
なぜ段を区切る必要があるか?
言わなくてはならないことがあるからだ。
むろんこれだ。
遊びに来てね!
これはパーティの宣伝と、誘いかけのコラムなのだ、それを忘れてダラダラ読まないように。おれもダラダラ書かないように。
遊ぶことは大事だ。
僕は今、毎日遊ぶことに加え、月一回、「誰かと遊ぶ」ということを拡大するシステムとして、パーティの企画をやっている。
何をしているかといえば、ただそれだけだ。
割と重要なことじゃないか。
その重要さが、見えないようでは、まだまだ人間の本分に、覚悟が足りていないと言わざるを得ないな。海水を飲み干して反省したまえ。
↓ほれ
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遊ぶ、ということと、「好き」ということは、つながっている。
普通のことに聞こえるだろう?
だがそうではないんだ、こうだ。
遊ぶ、ということは、「好き」につながっているが、「好き」ということは、実はあまり「好き」につながっていないのだ。
ここにエーと驚くといい。
何のこっちゃわからんと思うが……
こうやって調べてみたらわかる。
あなたにも、「わたしこの人、わりと好き」みたいな人がたくさんいるはずだ。
テレビとか、インターネットの動画とかでいい。
もちろんミュージシャンとかでもいいし、学校の先生とか、近所の誰かとかでもいい。
たぶん、若い女の子なんかは特に、ジャニーズタレントの数多くから、
「わたし、この人がわりと好きだな」
という人を、いつの間にか見つくろっているはずだ。
あなたにとっての、「好きな人」というのは、そういうことで、形成されているように思える。
今、好きな人は? と訊かれて、ジャニーズタレントの名前を挙げることは、特に思春期の女の子において珍しくない。
けれどもだ。
その「好き」は、実は、本当には「好き」に、つながってはいないのである。
ここがミソだ。
「好き」というのも、実は「遠い意味での好き」というようなことがあるのだ。
説明しよう。
ここに、遊ぶ、ということを持ってくると、よくわかることがある。
テレビを見ながら、あなたは、
「わたし割と、このイヤミを言うタレントの芸風、好きだな」
と笑っている。
でもそこで、
「この人と遊びたい?」
と訊かれると、あなたはなぜか、
「……いいえ、それはあんまり」
と答える。
なぜなのか?
一度、ぼんやりとでいいから、この考え方で、自分の中を点検してみるといい。
自分の中で、「好き」と思われているもの。
いくらでも出てくると思う。
ところが、その「好き」と思われているものの、実は多くが、「一緒に遊びたい」というのとは、違うものなのだ。
なぜだろう?
僕は今、あなたに、しれっとしながら、実は極めて重要な、人生の特大ヒントを投げつけているのであった。
わかってもらえるだろうか。
これはあなた自身のことでもあるのだ。
あなた自身も、誰かから、「割と好き」と思ってもらえることがある。
そういったことはよくあるだろう。
特にあなたは、人に対して好印象であろうと、しっかり振る舞っているだろうから。
多くの人は、あなたのきちんとした、愛想のよい振る舞い方を見て、あなたのことを、「割と好きだな」と思ってくれている。
思ってくれているのだが、同時に、
「あのコと遊びたい?」
「……いいや、それはあんまり」
と思われてしまう。
そういうことがあるのだ。
「好きだな」と思える人と、「遊びたい」と思える人は、実はまったく別なのだ。
そして、本当の意味での「好き」というと、それは「好きだな」よりも、「遊びたい」と思える人のほうが、近いのである。
これは、とても重要なことだから、ぐいぐい強調して覚えておいていい。
あなたの幸福は、あなたが「好きだな」と思ってもらうことの先にはないのだ。
あなたが、「遊びたい」と思ってもらえること、その先にこそ、あなたの幸福があるのである。
このことは、きっと多くの人にとって盲点だ。
人に好かれたい、という人は多いけれど、「遊びたい」と思われたい、とは誰も考えないからだ。
人に好かれよう、とする人は多いけれど、遊ぼう、と単純にする人は少ないものだ。
今までに何度か、こういう聞き込み方をしたけれど、ほとんどの人は、そういう発想をしたことがなかった。
それでいて、やはりほとんどの人は、当然ながら、遊びたい、と感じる人と遊びたいのである。
「好きだな」と思える人と、遊びたいかというと、「いいえ、それはあんまり」と言うものなのだ。
さあ、それでだ。
「遊びたい」と思われる人になるためには、どうすればいいだろうか?
答えはそう難しいことではない。
「遊びたい」と感じさせるためには、遊びのニオイがプンプンしていることが重要だ。
あなた自身、想像してみればいい。
たとえばあなたの目線の先に、誰かが座っているとしよう。
彼の目の前にはすごろくが拡げられている。
人生ゲームみたいなものでいいだろう。
そこで彼は、サイコロをくるくる、指先で回しながら、あなたに「おいでおいで」と手招きをする。
するとどうだ。
「遊ぶ」ということのニオイが、プンプンするだろう。
あなたは彼の前に座り、座るなり、
「わたし先攻で」
と言う。
彼は、
「まあ、いいだろう、ふふん」
といってサイコロを手渡す。
さあこれで始まるわけだ。
そして彼は人生ゲームであなたをズタボロに負かし、その実績をもって、あなたに「人生とは何か」を滔々と垂れるだろう。
彼は甘いカフェオレを飲み、あなたは負けたので苦ーいブラックコーヒーだ。
遊ぶというのはそういうことだ。
(なんだこの話)
遊ぶというのはそういうことだし、さっきから言っている、「遊びに来てね」というのも、しょせんはそういうことだ。
ただの「おいでおいで」の手招きにすぎない。
ただ、遊ぶといっても、どこの誰ともわからない、完全な赤の他人のところに、ノコノコ遊びにはいけないものなので……
もう、気づけば長いこと読んでいるな、という、この文章群のところに、「遊びに行くか」ということは、あってもいいと思うし、そうして遊ぶことが拡大していくシステムが、必要だ、と僕は思っているのだった。
そういうシステムが、新しくできていかないと、このままだと色々破綻するな、と思っているし、何しろそうして実際に遊んでいかないと、「遊びたい」と思ってもらえる人には、もうなれるチャンスがなくなってしまう。
遊ぶ、ということのニオイがプンプンするためには、もうさんざん遊ぶしかないのだ。
そんなことは、あまり年老いてからするものではない。
遊ぶことには、独特の、人に向けるやわらかさが要るから。
人間の本分である、遊ぶということを、ちゃんとやっていかないと、やがてはそうして行き詰まるのだ。
誰もに好かれているようでありながら、結局は、誰にも「遊びたい」とは思ってもらえていない、気づけばひどい寂しさを生きていかなくてはならなくなる。
本分を怠ると自業自得があるわけだ。
「有意義」なんかにいつまでも逃げていてはいけない。
最近は、遊びに来てね、なんて、単純なものは流行っていない。
その代わりに、やれリスペクトとか、インスパイアとか、メンターとか、難しいものが流行っている。
「やる気」のある人は、そのリスペクトとかインスパイアとかメンターとかに、馴染みを深くしているだろう。
人と出会うというと、それが「有意義」であるべきだと思っている。
「有意義」に向けてなら、「やる気」が出るわ、という仕組みだ。
それは何も間違っていないし、そういった側面も必要だとは思う。
が、それはやはり、どこまでいっても、人間の本分ではないわけだ。
有意義を求め、やる気に燃え、リスペクトとインスパイアとメンターに包囲されている誰かをみたら、「すごいな」とは思えても、「遊びたい」とは思えないだろう。
遊ぶということのニオイが、プンプンどころか、皆無だからだ。
いやあ、遊びたいねえ。
みんなは遊びたくないのだろうか?
そんなことはないだろう。
僕はずっと遊びたいのだ。
難しいことはしたくない。
みんなして、遊びたくない、なんてことは、本当はないのだと思う。
ただ、遊び相手がいなかったんじゃないか、と思えるようなケースは割とある。
「おいでおいで」と、手招きをする、遊びのニオイばかりがプンプンするというような、純血種は、もうだいぶ少なくなってしまったからな。
そんなわけだから、遊びに来てね。
別に僕のことはどうでもいいが、僕のことがどうこうではなく、ただこの「遊びに来てね」という文言だけは、あなたはバカにしないほうがいい。
この文言をバカにすると、やがて、あなたのところに誰も遊びに来なくなってしまうから。
そんなのはイヤだろ?
もうじき、小学生なんかは夏休みだけど、小学生が、学校では威張り、夏休みはずーっと一人ぼっちなんて、想像するだけで可哀想じゃないか。
誰も遊びに来てくれないというのはそういうことなのだから。
あなたは、「遊びに来てね」という文言を、大切にすべきだ。
最後の最後までね。それが人間の本分だから。
「遊ぶ」ということは、「好き」ということに、つながっている、と話した。
このことも大事だな……
遊ぶというとき、何をして遊ぶか、ということは、あまり重要じゃない。
単純に、好きな人がいるかどうか、のほうが大事だ。
好きな人とでなければ、人生ゲームなんかしたって楽しいわけがない。
ここだよなあ、という感じがあまりにもする。
どこまでいっても、単純にここなのだ。
遊び好きな僕が、オンラインゲームの一切をやらない理由がここにある。
僕は、遊ぶのは好きだが、趣味にマニアックではないのだ。
どういうことかというと……
遊ぶというのは、好きな人と遊べれば何でもいいのだ。
それこそ、すごろく遊びをしてもいいし、ドライブに行ってもいい。
もちろん、趣味とか、嗜好とかの兼ね合いもあるのだけれどね。
でもそれも正確に言うとこうだ。
(ちょっと深入りするけどいい?)
僕が、「あいつとツーリング行きたいなあ」と思うとき、僕は趣味としてツーリングに行きたいのではなくて、ツーリングに行ったときの「あいつ」が、とてもいいねえ、ということなのだ。
ツーリングという遊び方が、「あいつ」の一番いいところを、一番よく引き出すから、「あいつとツーリングに行きたいなあ」ということになるのだ。
それが、別の「アイツ」だった場合、これは例えば、「アイツと飲みに行きたいなあ」になる。
「アイツ」の場合、酒を飲んでこそ「アイツ」、酔っ払っていてこそ本当の「アイツ」だもんなあ、ということがあるから、「アイツと飲みに行きたいなあ」になるのだ。
たとえば僕が、あなたを、「動物園に行こうぜ」と誘ったとしよう。
遊びに行こう、遊びに来てくれよ、という誘いだが、これはもちろん、僕が動物園を趣味にしているのではないし、僕が動物のマニアだということもまったくないのだ。
なんだかんだ、「おー、トラだ」「ライオンだ」「象って本当に大きいよね」と、動物などを見ると素直に熱中するあなたがあるから、それをもって僕は、「あいつと動物園行きたいな」となるのだ。
しょせんは人が好きなだけだ。誰だってそうであるに違いない。
それで、その人の、好きなところが、何をしているときに一番よく出てくるか、ということの、兼ね合いで、何をして遊ぼうか、ということが決まってくる。
ただそれだけのことだ。
言ってしまえば、男女がエッチをするのも同じようなことだ。
彼があなたにエッチを求めるとき、まあ、男の子の事情もあるだろうけれど、本来は、抱かれているときのあなたが、あなたの一番いいところを出してしまうから、彼はあなたを抱きたくなるのだ。
だから、エッチなお店でお金を払って済ませばいい、ということにはならない。
彼にとっては、「あいつと」、したいなあ、ということなのだ。
本来はそういうものだ。
僕は遊ぶのが好きだが、趣味とか、趣味へのマニアとかは、好きではない。
オンラインゲームを一切やる気がしないのもそのためだ。
オンラインゲームでは、その通信の向こうで、どんな人の、どんなところが出ているものやら、まったくわからないからだ。
もし、オンラインゲームが「趣味」となって、その趣味にマニアが起こるなら、そういったことは何も問題にならないのだろう。
マニアにとって大事なのは、そのオンラインゲームそのものなのだから。
あなただって、もし人生ゲームのマニアがいたら、そんな人とは、人生ゲームなんかしたくないはずだ。
してもいいけれど、それは好奇心に過ぎず、誰かと遊んだ、ということの営みにはならない。
難しい話になってしまった。ゆるめよう。
僕は、遊ぶということの話をしている。とても単純なことだ。
そして、遊ぶことが人間の本分だ。
あなたのところに、「あなたと遊びたいもん」といって、誰かが来てくれることは、あなたにとって本当に大切なことだ。
他の何よりも大切に決まっている。
だから、どのような形であっても、「遊びに来てね」という文言は、バカにしないほうがいい。
本当は、あなた自身も、全身から、「遊びに来てね」というニオイがプンプン出ていないといけないのだから、バカにしていい筋合いじゃないな。
遊ぶということは、しょせん、好きな人のことを、「好きだな」と味わいたいという、ただそれだけのことに過ぎない。
その、「好き」というのは、「わたしこの人、割と好きかも」と、普段思っているそれとは、割とズレているんだよ、という話だった。
本来の、「好き」というのはアレだな……
だいたい、目の前に置いた瞬間から、もうわかっているものだ。
自分にとって、「好き」な人は、初めからわかりやすく、「好き」という感触があるものだ。
いやあ、楽しくなってきたねえ。
初めて会って、目の前に来た瞬間から、もう、遊んでしまうのである。
目線が、表情が、呼吸が、もう「遊ぶ」ということを始めてしまう。
それがあったら、もうそのとき、人間と人間は出会ったのだ。
好印象とか、そういうことの話じゃない。
もう、二人して、遊んだんだ。
遊んだのだから、もう赤の他人じゃない。
お互いにとって、もう遊んだことのある「あいつ」だ。
「好き」というのはそんなものだ。
だいたい、初めから、二秒も掛からない。
二秒もあれば、もうだいたいの、初めの遊びは済んでしまっている。
一遊び終えたところだ。
二秒もあれば、もう、お互いの目線は、
「遊びに来てよ」
「ねえ、また、遊びに来てくれるよね?」
と言い合っている。
そんなことは、いくらでもあったし……いやあ、つくづく。
遊ぶということは、まったく人間の本分だ。
パーティやるからね、来てね。
面談に来るんじゃないよ。
勉強に来るのでもないし、有意義なことなんて何もないよ。
勉強なんかしに来たって、人間は何も伸びやしないんだから……
遊びに来てね。
あなたが遊びに来てくれたら、次は誰かが、あなたのところに遊びに来てくれるからね。
九折
[パーティへの誘い その2/了]