No.349 才能が必要なあなたへ
タイトルから即座にクリックしたあなたは勇敢だ。少なくとも、そうでない者よりは幸福な人生を歩むだろう。ただしそういった幸福な人生は、油断するごとにトラブルが多くなる。才能の開花を求めるときにもっとも必要な心構えは、万事をノー・トラブルでしのぎきってみせようという、したたかな自負である。危険やリスクに挑むことは誰にだって必要なことだが、リスクに挑むということは、同時に誰よりもトラブルのわずらわしさに警戒高いということである。ひいては、「ノー・トラブル」は才能を指向する人間の合言葉だ。
才能の開花を求める人に、才能の開花への談義を、協力し合って順々にすると、たいていの場合その当人こそが、途中で「やめて!」と悲鳴を上げるものだ。それは恐怖とおののきの悲鳴である。なぜそのような顛末になるか? その説明には長ったらしいストーリーが必要になる。才能の開花には、当然、抑圧の地盤からの切断分離が必要になるが、何しろそれは当人の「地盤」であるので……「やめて!」と見当違いの悲鳴が上がるわけだ。
才能の開花と埋没は、才能の対極にある、抑圧の地盤によって決定づけられている。人は往々にして、才能の開花よりも、地盤への埋没のほうへ積極的であり、自ら能動的であるものだ。結果的には、才能の埋没をみずから促進していることがあるのである。大半の場合がそれだと言って差し支えない。なぜ自らそんなことをするか? そうせねばならない仕組みがあるからに違いない。
このことを、確実に説き明かせる準備がすでに整ってあるが、いかに準備しても、それをそのままここで申し上げるわけにはいかない。いついかなるときも、このことについて好き放題に言える時間は、この先もおそらくこないであろう。だからあいまいに言うよりない。「トラブル」を引き込まないためにはそうするよりないのだ。それは、才能を開花させたいと望む勢力より、埋没の地盤を強化しようとする勢力のほうが強く大きいからである。そしてほとんどの場合、才能を開花させたいと望んでいるつもりの当人こそ、それに対極する埋没推進勢の一員ということがあるのだ。彼は、才能を開花させたいと言ってやって来ておきながら、いざその施工が始まると、途端に手のひらを返して改革工事への妨害を始める。
これはアイデンティティの問題なのだ。才能を開花させたいという思いは万人に共通でありながら、それがアイデンティティへの攻撃と破壊を伴うということなら、途端に手のひらを返しての戦争を始める。戦争が始まるときはいつもそうだ。戦争とはトラブルの最大物だから……それを避けるために、話はあいまいにならざるを得ない。キナくさいにおいがする、という、その程度のところにとどめておかざるを得ないものだ。あなたがいつかきっと必要な友人を得たとき、あなたは地下組織の誰かのようにその友人と本当のことを語り合えるだろう。もしくは、地下組織での話が始まった途端、あなたは手のひらを返して気を許した友人を裏切り刺し殺すだろう。「やめて!」の悲鳴の行き過ぎるあまりに起こることだ。
日本は歴史的に長い封建時代を過ごしてきた。それにより、現代の我々も、封建主義的な発想を自らの精神機構に色濃く残している。そのことは良し悪しで語れるものではないが、少なくとも言いうるのは、どうしようもないというような次元で、我々は自己のアイデンティティを封建主義のシステムに依拠させているということだ。封建主義とは何のことを指すのだろうか。社会学的な精密さはさておき、必要最低限に言うと、「お上」のようなものがあって、我々はそのお上に与えられた「場所」を領土として、代々守っていくというということになる。それによってお上と主従関係が結ばれるというのが封建主義のシステムだ。そのシステムの中で、我々は自己のアイデンティティを、「○○という場所を与えられ、守っている××です」ということで定義づけられている。このことは何も珍しくなく散見されよう。今でも郊外の、特に根深く土地と共に暮らす人々のもとに行くと、通りすがりの誰かに対して、「山川の部落の、○○さんところの娘さんやない?」という言い方がされる。念のために申し上げておきたいが、この場合の「部落」というのはいわゆる差別・被差別の社会問題を含むものではない。ただ一定の地区・地域・集団を指すときに、地方で使い慣れた語として「部落」という言い方がされるだけだ。また本稿も、本来の用語としてそれを用いるのみで、内容として部落差別問題に一厘の関わりをも持つものではないと、念を押して申し上げておきたい。
一方で我々は――ここではこうして、話をすっ飛ばすように云うしかないのだが――たとえばマイケルジャクソンを、「インディアナ州ゲーリーの、ジャクソンさんところの息子さんやね」という見方で捉えない。せいぜい、「ムーンウォークの人」「ビリー・ジーンの人」「スリラーの人」という見方で捉える。所属していたレーベルを見て「エピック・レコードの人」という捉え方もしない。マイケルジャクソンは、そうして傍目にも、所属部落(出身地や契約会社のこと)によってではなく、才能によってアイデンティティを定義づけられている。
話が飛び飛びになることを、重ね重ね、背後の事情からのやむを得ぬことだと、お詫びしてお許しを請いたい。我々にはアイデンティティの問題が常にあり、アイデンティティに関しては、常にそれを何に依拠して定義づけるかの問題が付きまとっている。
もしあなたが、真に才能の開花を求める人間であったなら、あなたは自己の才能によって自己のアイデンティティが定められることを求める者でなくてはならない。
そのことは、何よりも、あなたに封建主義システムによるアイデンティティの定義づけを、放棄するよう迫ってくるだろう。
シリアスな問題はこの一点にある。未だ封建主義システムを発想に残しているあなたであれば、あなたは自らのアイデンティティ形成機構を、自ら求めるところによってまるで自殺的に攻撃し、破壊し、喪失せねばならない。このことが受容できないとき――理屈はどうでも、心理的なこととして、その恐怖とおののきに耐えがたいとき――あなたは一転して、今この話をしている僕のことを攻撃せざるを得ない態勢に切り替わる。その態勢が決定的なものになりきらぬよう、僕は安全装置として、ここではあいまいに話すことに努めねばならないのだった。また、アイデンティティの破壊と喪失は、その当人を精神的に極めて不安定にするため、そのショックの緩和措置としても、やはりあいまいに話し続けるよりない。
あなたには「出自」がある。○○家の第一子として生まれ、××という場所に育ち、○○高校の××部に所属し、○○大学の××学部に進学した。○○サークルに××期生として所属し、○○という大会で××という実績を得た。その後は○○大学の大学院で××教授の研究室に所属し、やがて○○社という企業に就職した。その後、○○さんという方と入籍して、現在の自分がある。これがあなたの「出自」である。
そしてほとんどの場合、あなたはこの「出自」によって、「自分は何者であるか」ということを自分自身に説明している。また他者へ自分を説明するときにもほとんどこの出自の説明を用いる。そのことを一般にアイデンティティという。圧縮して言うと、封建主義におけるアイデンティティとは、出自イコール私です、という定義を示していると言える。
もしこれを、一切の禁止にして、「あなたに出自はない」としたら、そのときに起こるアイデンティティの破壊は甚大なものになる。あなたは、「あなたが何者か」ということを説明する一切の方策を失う。そしてそれ以上に、「自分は何者か」ということを定義づける、一切の確認を失う。
そのときに起こる、精神的な孤独、不安、またそれによる失調は、決定的なものだ。致命的、と言いたくなるほどの感触がある。動揺は激烈である。そのため、このアイデンティティへの攻撃はしばしば強固な戦争の態勢を生み出す。
では、さらにわかりやすくすることを求めて、この「出自」について、完全なフィクションを創作しよう。たとえばこうなる。
――あなたは斎藤家の長女として生まれた。斎藤家はこの岡山倉敷の水路整備に貢献した一族であり、治水史にその名を刻んでいる。またその後も少なからずあなたの一族はこの地に政治家を輩出してきた。あなたはその倉敷の、派手ではないが風通しのよい屋敷に育ち、雅山高校に進学して、科学部に所属し、科学部としてはオニダルマエイの産卵について重要な知識を学会にレポートした。あなたはその後東京大学の理想教育学部に進学した。学内の部活動である、現代能楽部に五十七期生として所属し、第三十五回京都前衛舞踏コンクールで準優勝の実績を残した。あなた自身も優秀演者三人の内の一人に選ばれた。その後はソルボンヌ大学の大学院でアドラー教授の研究室に所属し、臨床心理学の修士号を取得し、帰国してから倉敷育英高校の教師に就職した。二年後、オリンピック選手を輩出したことで有名な籔島家の次男と婚姻し、現在は倉敷市教育委員会の参考理事を務めている。
それがあなたの「出自」だったとする。
けれどもこれらの「出自」が、あなたの笑顔に、あなたの声に、あなたの振る舞いに、あなたの身のこなしに、何の関係があるだろう?
誰かがあなたに、「あなたはどういう方でいらっしゃるでしょうか」と尋ねた。
そのときあなたは、せいぜい名前だけを名乗り、やわらかい笑顔で、握手だけを差し出した。
それを受け取って、質問の主は、
「なんてすばらしい笑顔の、なんてうつくしい人だ」
と、あなたのことを、そのすべての感触から、確かめて知った。
才能とはかくのごとく、無慈悲なほど、出自に関係のないものだ。
積み重なる経験から、いやがおうにも判らざるを得ない、思い知らされることがある。出自は才能に無関係のみならず、アイデンティティを出自に――封建主義的に――依拠する場合、その封建主義の精神機構は、そのまま才能の開花を完全に封じ込めるキャップになる。
なぜそのようなことになるか。それは、封建主義の仕組みの上に、才能の開花が必要ないからだ。お上から安堵された封土を守り慈しんでいくことを、世襲に重ねてゆき、それを誇りにするということ、またそのリレーションを担う一基になるというシステムの中で、そこに自己のアイデンティティを定義するなら、アイデンティティを確保するのに才能の開花を必要としない仕組みとなる。そのとき、ほとんど潜在意識のレベルで、人間の脳は、自己に真に才能の開花は「必要でない」とみなしている。才能の開花がなくても、自分はすでに自分であれるということを知っているからだ。それを知ってしまっている上では、人間の未発現の能力は覚醒しない。覚醒する用事のない代物を人間の脳は解発しないものだ。そうして「キャップ」が為されたままでは、いかなる努力も意気込みも空転する。そのとき才能は、開花しないというより、そもそも開花に向かう気配さえ持たない。
我々日本人は、歴史上の由来から、特に封建主義の発想を、アイデンティティ形成の根幹に据えている。それで、今こそ強調されて言われるべきことがあるとすれば、それは今になって日本人の封建主義指向は、なお濃厚になり、むしろ今こそ極大値を迎えようとしているということだ。それは日本が国家として経済的にも威信的にも文化的にも窮地を迎えていることによる。人間は窮地に際しては「地が出る」ということがある。経済的に強く、ものづくりと心あるサービスに抜群のところがあるといった、近年まで続いた日本国民のアイデンティティは瓦解し、加えてオタク文化の世界的発信は我々を誇り高くはさせていない。そこで改めて地盤のあるアイデンティティに帰ろうと急いだ先、やはりあるのは一昔前の封建主義だった。
封建主義依拠で形成されるアイデンティティは、実感的には次のようになる。お上から「場所」が与えられるという仕組みがあり、我々はその与えられた場所を「自分の居場所」と感じる。斎藤家の武家づくりの屋敷は自分の居場所のような実感がする。雅山高校の科学部同窓会は、既に体型の丸まった年齢が集う苦笑の場だとしても、ひとつの部落として自分の居場所に感じられる。理想教育学部の同級生たちは、今も社会的に有為な活躍をしており、それをオンライン上で結んでいるSNSのトップページは自分の居場所の一つに感じられる。その他、自分の出自形成に関わったすべての部落は、自分の「居場所」と感じられ、「自分は何者か」ということの定義は、その「居場所」の確認によって与えられる形になる。
この「居場所」の全てを否定するほど、残酷なことがこの世にあるだろうか? けれどもそれは、居場所やそこにまつわる思い出のことを、踏みにじって侮辱しようとするものではない。ただ、そこに居場所があったにせよ、思い出があるにせよ、それをもって「自分は何者である」ということへの、結び付けをしなければよい。
そうして自己のアイデンティティの依拠先を、封建的でない別のところへ完全に転換するやり方もあるのである。
自分が何者であるかの定義づけは、今もこの全身にある。
あなたがこれまでにどれほどの豊かな居場所を誇っていようとも、またそれらの全ての部落に今もなお有為な連絡を保っていようとも、それがあなたの全身にとって何になるだろう? あなたが今、知らない街の石畳に足を置き、その足をどう運ぶか、どのような声で、どのような歌を唄うか、どのような距離で知らない人と接し、何についてをどのようなタイミングで話すか、手に持った道具で何を為すか……そういったことの全ては、あなたのこれまでの居場所や部落に関係がない。
あなたにある種の才能があり、その才能が開花すれば、あなたはどこであれ、その全身をもって、たとえば歩くだけで、「歩き方の美しい人」になりうる。話の愉快な人、声の温かい人、人懐こい人、どうしても触れていて明るい気持ちにさせられてしまう人、それでいて見事な細工を作る人……あなたはそのとき、あなた自身のアイデンティティの定義づけについて、全身をもって、「このとおりよ」と見せつけることができている。
そのアイデンティティが見せつけられたとき、賢明な心ある人は、あなたについて今さら出自を細かく問うようなことはしなくなるだろう。あなたは歩き方の美しい人であり、話の愉快な人、声が温かく、人懐こくて、見かけるだけで明るい気持ちにさせられてしまう人、それでいて人を感嘆させる細工物を作りだす人だ。「かけがえのない人だよ」と皆口を揃えて言うだろう。そのあなたが、どのような出自であるかなどは、心ある人にとっては知る必要もないことだ。
ただしそのような才能依拠型アイデンティティの実現者は、しばしば対立する封建主義依拠型アイデンティティの徒から、潜在的に足を引っ張る攻勢を仕掛けられるものだ。封建主義において、出自によってしかアイデンティティは成り立ってはならないと信じる人々は、彼らなりの切実な事情によって、才能と無関係の「裏側」や「素顔」を見たがる。彼らは才能の裏側に非才能者とまったく変わらない「素顔」なるものがあると信じている。彼らはそう信じ切ることで、自分たちのアイデンティティ形成の仕組みそのものが揺さぶられる危機を償おうとするのだ。
才能が必要なあなたへ。あなたが真に才能の開花を求める者であったならば、あなたは、それがいかに恐怖に満ちておののくべきものかであるかを知りながら、なお、その封建主義的な、出自や居場所によって定義される自己のアイデンティティの仕組みを捨てねばならない。それが残っているうちは、それが永遠のキャップになり続けるからだ。「才能が開花せずとも、自己のアイデンティティは得られるさ」と、心のどこかで知って安心しているうちは、脳は用事のない才能とやらを発掘なり覚醒なりするような手間を決してやってくれない。
知らない街に足を置き、知らない誰かにはっきりと向けて、自分は「このとおりよ」と全身をもって見せつける。それによってしかわたしのアイデンティティは成り立たないと覚悟する者にのみ、才能はしぶしぶ開花するのだ。
才能が必要なあなたは、居場所の拡大と充実に自己の拡大と充実を覚えてはならない。安堵された封土の拡大と充実は、あなたの見せつけるべき全身の拡大と充実ではないからだ。あなたは自分の居場所を説明することで、他者に自分を説明してはならない。あなたが何者かを教える最大の道具は、疑いなく常にあなたと共にあるのだから。
自分の居場所にいるときに、少々、顔がほころぶ程度に、安らぐのはしょうがないにしても……
本当は、自分の説明にはならない場所こそ、あなたを咲かせる本当の場所だ。
あなたはなるべく、自分の本当の場所にいるべきだ。自分の説明にならない愛する場所こそ、お上に安堵されたものとは違う、あなたしか知らないあなたの場所だ。
そしてあなたは、いつまでも自分についての説明は、全身をもって「このとおりよ」と、見せつけ続ける者であるべきだ。
[才能が必要なあなたへ/了]